■華頂山は法然上人の吉水禅房
東山の美しい古刹と伽藍の中にかつて吉水禅房と呼ばれた法然上人所縁の大伽藍が広がります。
知恩院。青椛の季節は騒がしい桜花々の季節よりも活力に満ちた感慨がありまして、芽吹く木々は桜花と違いまさに百木繚乱という故でしょう。ふと独り散策へ。ここは華頂山知恩教院大谷寺、京都市東山区新橋通大和大路東入三丁目林下町に広がる浄土宗大本山です。
東山は八坂神社界隈を慎重に歩み進め上りますと確たる威容、この知恩院三門が石段上に凛として力強く鎮座する。この壮大三門は徳川二代将軍秀忠が寄進したもので高さ実に24m、これは我が国寺院山門にあって最大の二階二重門であり国宝に列せられているもの。
浄土宗。ここ知恩院は金戒光明寺にも程近く、かの黒谷山からはここ知恩院も望見でき、そしてかつては対立しました比叡山の頂きも感じる事が出来る立地には晩春が初夏へ移ろう香りが近江は琵琶湖の冷涼な風とともに運び、少々小高い石段の上の御堂へといざなう。
勢至堂、美しい御堂は室町時代享禄3年こと西暦1530年の建築で室町後期の風情を湛えています。建立当初は本堂に位置付けられていまして、阿弥陀堂造営と共に本堂の座を譲りました。勢至堂、印象に受ける通り大きなものではなく、しかし知恩院で最も古い建物だ。
法然。承安5年こと西暦1175年、浄土宗宗祖法然房源空が専修念仏に思想開眼した際、最初に営んだ東山吉水草庵がこの壮大寺院の始りといい、ここは知恩院勢至堂付近にあったという。法然は43歳から80歳の晩年までここ知恩院を浄土宗の中心に位置づけました。
嘉禄の法難こと嘉禄年間西暦1227年に一時は延暦寺衆徒の攻撃を受け破壊されましたが、後に四条天皇より華頂山知恩教院大谷寺の寺号を賜わり、復興となります。宗教は心の平安であるべきものですが、現代世界の凝縮図はこの通りであったようで、そして続いて。
応仁の乱、宗教対立の後には政争に巻き込まれる事となり、知恩院二十二世周誉珠琳は総覧の煙がうず高く迫る前に早々と近江国伊香立、山を隔てた大津市伊香立は金蓮寺に御本尊はじめ多くを移し、新知恩院を建立しますが、その頃に再度にして此処は灰燼に帰した。
寺院は城塞と似た立地や伽藍の造形を結ぶのは、やはりこの歴史に由来するものではないかと考えるものですが、戦国時代は天正年間の西暦1575年に正親町天皇による浄土宗本寺としての承認を受け、織田信長や豊臣秀吉の時代には営々と再建を進める目処が就きます。
徳川家康の時代、浄土宗徒であった徳川家康は慶長13年の西暦1608年より知恩院の寺地を拡大し、山城国愛宕郡と山城国葛野郡そして山城国紀伊郡の一部を寺領としました。実はこの頃まで、知恩院は今の様な大伽藍というものではなく、創建当時の庵の気風が続く。
三門と修理なった本堂こと御影堂など壮大伽藍が造営されましたのは江戸時代に入っての事でして、しかし浄土宗総本山としての門徒と檀家による寄進というものではなく、徳川幕府による手厚い保護という背景があったようです。これは一種の調和を目指したもの。
京都御所を見下ろす知恩院は二条城とともに京都における徳川家拠点と位置付けられ、この背景には幾多と天皇の保護を受けた寺院との関係を幕府が強く持つ事で、天皇を奉護し、しかし立地からは朝廷を眼下に収め牽制するという、政治文化の曖昧な協調を示しました。
歴史と共に、しかし今は八坂神社から銀閣寺や平安神宮へと続く東山の情景の一つとなっていまして、この長い御寺の歴史は一つ、なるようになるさ的な悟りをも感じるようです。昨今情勢は中々に緊迫の度合い保ち且つ緊張を帯びていますが、散策は心の清涼剤ですね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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東山の美しい古刹と伽藍の中にかつて吉水禅房と呼ばれた法然上人所縁の大伽藍が広がります。
知恩院。青椛の季節は騒がしい桜花々の季節よりも活力に満ちた感慨がありまして、芽吹く木々は桜花と違いまさに百木繚乱という故でしょう。ふと独り散策へ。ここは華頂山知恩教院大谷寺、京都市東山区新橋通大和大路東入三丁目林下町に広がる浄土宗大本山です。
東山は八坂神社界隈を慎重に歩み進め上りますと確たる威容、この知恩院三門が石段上に凛として力強く鎮座する。この壮大三門は徳川二代将軍秀忠が寄進したもので高さ実に24m、これは我が国寺院山門にあって最大の二階二重門であり国宝に列せられているもの。
浄土宗。ここ知恩院は金戒光明寺にも程近く、かの黒谷山からはここ知恩院も望見でき、そしてかつては対立しました比叡山の頂きも感じる事が出来る立地には晩春が初夏へ移ろう香りが近江は琵琶湖の冷涼な風とともに運び、少々小高い石段の上の御堂へといざなう。
勢至堂、美しい御堂は室町時代享禄3年こと西暦1530年の建築で室町後期の風情を湛えています。建立当初は本堂に位置付けられていまして、阿弥陀堂造営と共に本堂の座を譲りました。勢至堂、印象に受ける通り大きなものではなく、しかし知恩院で最も古い建物だ。
法然。承安5年こと西暦1175年、浄土宗宗祖法然房源空が専修念仏に思想開眼した際、最初に営んだ東山吉水草庵がこの壮大寺院の始りといい、ここは知恩院勢至堂付近にあったという。法然は43歳から80歳の晩年までここ知恩院を浄土宗の中心に位置づけました。
嘉禄の法難こと嘉禄年間西暦1227年に一時は延暦寺衆徒の攻撃を受け破壊されましたが、後に四条天皇より華頂山知恩教院大谷寺の寺号を賜わり、復興となります。宗教は心の平安であるべきものですが、現代世界の凝縮図はこの通りであったようで、そして続いて。
応仁の乱、宗教対立の後には政争に巻き込まれる事となり、知恩院二十二世周誉珠琳は総覧の煙がうず高く迫る前に早々と近江国伊香立、山を隔てた大津市伊香立は金蓮寺に御本尊はじめ多くを移し、新知恩院を建立しますが、その頃に再度にして此処は灰燼に帰した。
寺院は城塞と似た立地や伽藍の造形を結ぶのは、やはりこの歴史に由来するものではないかと考えるものですが、戦国時代は天正年間の西暦1575年に正親町天皇による浄土宗本寺としての承認を受け、織田信長や豊臣秀吉の時代には営々と再建を進める目処が就きます。
徳川家康の時代、浄土宗徒であった徳川家康は慶長13年の西暦1608年より知恩院の寺地を拡大し、山城国愛宕郡と山城国葛野郡そして山城国紀伊郡の一部を寺領としました。実はこの頃まで、知恩院は今の様な大伽藍というものではなく、創建当時の庵の気風が続く。
三門と修理なった本堂こと御影堂など壮大伽藍が造営されましたのは江戸時代に入っての事でして、しかし浄土宗総本山としての門徒と檀家による寄進というものではなく、徳川幕府による手厚い保護という背景があったようです。これは一種の調和を目指したもの。
京都御所を見下ろす知恩院は二条城とともに京都における徳川家拠点と位置付けられ、この背景には幾多と天皇の保護を受けた寺院との関係を幕府が強く持つ事で、天皇を奉護し、しかし立地からは朝廷を眼下に収め牽制するという、政治文化の曖昧な協調を示しました。
歴史と共に、しかし今は八坂神社から銀閣寺や平安神宮へと続く東山の情景の一つとなっていまして、この長い御寺の歴史は一つ、なるようになるさ的な悟りをも感じるようです。昨今情勢は中々に緊迫の度合い保ち且つ緊張を帯びていますが、散策は心の清涼剤ですね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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