夏吉は古墳の宝庫ではあるが前方後円墳を見ない。このことが何を物語るのか。田川歴史資料館にでも遊びに行くかな。
横からはみ出している棚で頭を打った。奥壁の鏡石は2mあるか。この時代になると古墳専門の築造集団がいてもおかしくないだろう。何故この様なことを言うのか。今回は参加していない川崎町の戸山原古墳石室がプロ集団の手によるものだと判明しているからである。金剛組のような集団が存在したのだから、まんざら絵空事ではなかろう。
そう言えば今気が着いた。天井にカマドウマがへばりついているな。母が気が着かなかったからよかったな。
勝山神社横参重連の真ん中に位置する古墳である。「参重連」伯備線の蒸気機関車に用いられた言葉である。それ以降遣うことはなかったが、古墳で遣うとは思わなかった。入口に近い(墓道或いは羨道)部分の石材が散らばっている。
参重連の古墳の規模は全くと言っていいほどに等しい。
なにも古墳を削ってまで神社を造らなくてもよかったろうにな。明治時代なら土地は潤沢にあったろう。なにもわざわざ古墳を削るなんて暴挙だぜ。しかも下関で最大級の前方後円墳だ。副葬品もすごいじゃないか。
歴史は繰り返すというがこの地は昭和44年にもこのような暴挙がなされているのだ。三度目を繰り返してはいけない。
石室の石材だろうが、これみよがしのように置いてあるのがなさけない。副葬品が散逸してないだけましか。
荒神森古墳は海岸線近くに築造されたが、上ん山も茶毘志山も少し平野部に入ったところで築造されている。
何も無いところに突然ランドマークの様な大きな古墳が目の前に現れれば驚くこと必至である。それがまた巨大であればいかがなものか。やはり古墳は平野部に築造するべきだろう。山腹はきついぜ。
マウンドのように盛り上がっているのがお判りだろうか。陪冢があるのだ。上ん山はこの地方の盟主クラスの人間が埋葬されているに違いないということだ。
あちこちに墳丘があるのがよく判る。折り重なっているようにも見えるが表土が流れているようだし、枯葉も積もっている。
小振りの石室もあるぞ。古墳の存在を確認している時は「なんでこげなところにあるとや」なんて思わないのだが、移動を始めると「なんでこげなところに造らないけんとや」