物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

授業ネタ

2007-09-28 16:35:25 | 物理学

いま直ちに授業ネタを思い出す訳ではないが、いくつかの授業ネタをもっていないと先生には授業がつとまらない。というのは予定の分の講義を終えて少しまだ時間が残ったりするからだ。

または授業の残り時間を計算して少し余談を入れたりして、学生の緊張を一時的に解いたりしなくてはならない。大抵、後で学生からの意見を聞くとあまり評判がよくなかったりするが、でもこういう余談は場合によっては必要だと思う。

そういう話の一つとして超能力の話がある。「超能力があるのかないのか」をどうしたらチェックできるか。

これは超能力があったとしてこれが生産に使えるかどうかがその真偽を決める。実際に生産の現場や現実に役立つものは始め怪しげであったとしても多分物質的な基盤を持っていると思う。

オウム真理教の教祖が空中浮揚ができるということで10年以上前に話題になった。これはもちろんまやかしであったが、若者の中にはそれを信じてオウム真理教に入った者も多かった。

空中浮揚が出来たとすればどこかに行くのに役立つが、残念ながらそれはまやかしであった。本当はこんなことができるのなら、物理学のテクストを書き換えねばならなくなるのだが。

教祖様が移動の手段として実際に使っていたのはドイツの車メルツェデス・ベンツで、空中浮揚してどこにでも出かけるのではなかった。すなわち、人の移動の手段として空中浮揚が役立つわけではなかった。そういう風に考えることができたら、噂や話の虚構がわかってしまう。

このように現実の世界に役立つかどうかに照らして考えるとその虚構は明らかだが、そういうことを若者はどこでも学んでいない。またそういうことを書いた本もほとんどない。

私の知っている、唯一このことを書いた本に武谷三男の「物理学入門」上(岩波新書)があり、もう絶版になっているが、この書はいま季節社から出版されている。しかし、こういうことを物理でも多くの人は学ばないから怪しげな言説に簡単に迷わされてしまう。


磁気モノポール

2007-09-27 15:26:49 | 物理学

授業ネタで思い出したが、磁気モノポールも授業ネタの一つであった。

私が大学院生のころだったと思うが、後藤英一さんが雑誌「自然」に磁気モノポールのことを書いた。これはこの当時の学生に強い印象を与えたのか、電気電子工学科で同僚となった I 先生も事あるごとにこのことを話題にしておられた。

大きな長い棒磁石を黒板に描く。それを二つに切った磁石を描く。それらをまた二つに切った磁石を描く。そしてその両端にN, S, N, S・・・と書いていく。

そしてどこまでいってもN極だけ、またはS極だけの磁石はないというと不思議な感じがするらしい。また、これは実験的に見つかっていないだけで、論理的な可能性としては磁気モノポールが存在しない理由はないとつけ加える。

私が高校のころはまだ遺伝学にはルイセンコの遺伝学とメンデルの遺伝学の二つの可能性があることになっていたが、いまはメンデルの遺伝学しかないのと同じように君たちが生きている間に磁気モノポールは見つかるかもしれないと締めくくる。

(2013.7.19付記) 後藤英一さんといえば、高橋秀俊先生の高弟であり、才能豊かな人であった。パラメトロンを使ったコンピュータを発明し、磁気モノポール探しをし、晩年には数式処理に関心をもたれていた。

数式処理というのはコンピューターで、数値計算ではない、代数計算をすることである。記号代数ともいう。

彼の物理学会誌に書いた数式処理の記事によって私も数式処理に一時関心をもち、それをつかってニュートリノ素粒子反応のFeynmanグラフを計算したこともある。

その後、数式処理学会の会長を務めたE大学の同僚のNさんなどもまだ数式処理に関心をもっていなかったころのことである。


Boltzmannの原理

2007-09-26 15:49:38 | 物理学

私の友人のNさんによれば、Feynmanの著書「Feynman物理学」はすばらしい本だが、唯一つだけ熱力学・統計力学の部分が弱くて特色が少ないという。そうかもしれない。

しかし、私には忘れられないことがある。E大学に勤めるようになって、この「Feynman物理学」訳本の第2巻のうちで熱力学の項目を授業で教えるために読んだ。

そのときにあるエネルギーをとる状態が実現する確率はe^{-エネルギー/kT} に比例するということを知った。大学の統計力学の授業でBoltzmannの原理を教わらないはずはないのだが、大学で学んだ統計力学の内容はちんぷんかんぷんだった。

Feynmanの主張は指数関数の肩のところにくるargumentで分母kTの上の分子のエネルギーはそれが運動エネルギーがくることもあれば、ポテンシャルエネルギーがくることも、はたまた全エネルギーがくることもあるという。これで気体分子の速度分布則が怖くなくなった。

Boltzmannの原理がどうやって導かれたかはこのときはまだ知らなかったが、大いに気を強くするような知見であった。実に感じ入ってその後は毎年授業で強調している私の授業ネタの一つとなった。

その後、積分中のパラメータで微分する方法によって積分する方法があるのを知ったので、実際に大事なことはこのBoltzmannの原理であることがわかった。

法則をきちんと書き下すときに、その前についている係数等は確率が規格化されることから、単に技術的な計算で導くことができる。すなわち、それらの係数はいつでも自分で導いてやればいいのだから怖くはない。

よく物事がわかっていないときには式の複雑さでものごとの本質の理解ができなくなる。さらに、本質が何かわかっていないために覚えることが多くてわからなる。なんだか面倒な式だなといった感じだけが残ってしまう。それは困るのだ。

だから、積分中のパラメータで微分する方法によって積分する方法(これを私はFeynmanの積分法と勝手に名づけている)などを知っていることは単なるテクニックで本質ではないだろうが、Boltzmannの原理の理解に役立つことは間違いがない。


加速度の単位ガル

2007-09-24 15:25:05 | 物理学

つい先日の中越沖地震の新聞報道を見るまで加速度の単位の呼び方があるとは知らなかった。

ガルという単位で理化学辞典を引いてみると確かにあった。重力加速度gは980ガルである。

これは昔風のcgs単位である。現在ではSI単位系の使用が普通になっているのを考えるとおかしい気がするが、多分新聞にcm/s^{2}と書き難いのでこの単位ガルが使われるのであろう(注)。

私は力学を教える専門家ではないが、それでも一生のうちで何回かは力学を教えているのにこの単位ガルを知らなかった。少なくとも大学の講義では聴いたことがない。

そういえば、大学院生のころ微細構造定数といわれてわからなかったことがある。

これは電気の素電荷の2乗を4πで割ったものe^{2}/4πであったと思う。普通には素粒子を研究している人が電磁気的な結合定数と呼んでいるものである。

またこれもちょっと専門的になるが、量子力学の散乱理論でSマトリックスと関係してKマトリックスと言われるものがある。

このSとKとの関係を早稲田大学に居られた並木美喜雄先生はケーレイCayley変換と言われていた。私はKマトリックスの方法として学んでその関係に名前があるとは知らなかった。

そういうことで言えば、自然対数の底e はネピアNapir数ともいうが、その名を知っている人は少ないのではないか。

これらのことで感じるのは数学的、または形式的に理解をしている段階と実際に即して理解している段階または人との違いがあるような気がする。本当は名前はどうでもいいはずだ。

もっとも名前を軽視してはいけない場合もあって、適切な呼び名があると印象に残るものもある。たとえば、「約分」の反対の「倍分」とか、掛け算、割り算での逆数に対して、たし算、引き算での「反数」と言った用語などである。

(注)ガルgalはガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei)に由来する単位らしい。


数学エッセイのテーマ

2007-09-19 12:34:26 | 数学

翻訳をしているのだが、ちょっとそれに疲れたので数学エッセイをまた書きたくなった。内容がうまくまとまっていないが、書きたいことは

「自然対数の底eの導入」

「内積の意味」

「指数・対数関数の微積分」

「(Levi-Civitaの記号なしの)ベクトル代数」

とかである。

「指数・対数関数の微積分」はすでに松山大学の講義で学生にプリントとして渡したが、対数関数の積分について述べていないので、部分積分の説明を補った上で対数関数の積分を扱っておきたいと思う。

「内積の意味」はJohさんの「物理のかぎしっぽ」のベクトル代数がヒントになっているが、それに加えて微分形式での新しい解釈についても触れたい。これは愛媛県数学教育協議会の委員長佐伯先生が以前に内積の意味がわからないと言われていたのでそれに答えたい。

「自然対数の底eの導入」は遠山啓さんの「数学入門」下の連続複利法をわかりやすくしたものを考えている。 このテーマのメモは前に作っていたが、まだすぐにはまとまりそうにはない。

「(Levi-Civitaの記号なしの)ベクトル代数」はLevi-Civitaの記号を使えば、ベクトル代数は簡単になるが、その導入が難しいので、結局Levi-Civitaの記号を用いなくても4個より多いベクトルの積もこの二つの3重積に帰着することを示すつもりである。重要なのはベクトルのスカラー3重積とベクトル3重積のしっかりした理解だという平凡な結論になる。

(2011.7.1付記) 「内積の意味」以外のエッセイはすでに愛媛数学教育協議会の機関誌「研究と実践」に発表した。pdfのファイルをもしお望みの方には提供できると思う。コメント欄にでもご自分のメールアドレスを入れてくださるとお送りできる。

自分のメールアドレスをコメント欄に書くことはどなたもあまり気の進むことではないだろうから、連絡さえつけば、できるだけはやくメールアドレスは消去するつもりである。


物理学は循環論的?

2007-09-18 12:26:44 | 物理学

前に書いたことがあるかもしれないが、数学と異なる物理学の性格についてである。概念がはっきりりと定義されているというよりは循環論で次第に明確になって行くといった性格を物理学はもっているようだ。

そうはいうが、これは本当は数学だってそうなのだろうが、物理学にはこの傾向が甚だしいような気がする。それで若いときには物理学がなんだか地についていないような気がしたものだった。例えば、質量とか力と言ったものでさえそう明確ではないように思えた。

そういうものだと思えるようになったのはかなり歳をとってきてからだ。しかし、こういう話はあまり人から聞いたことがない。私だけのもつ感覚なのだろうか。


ごみトンボ

2007-09-14 13:20:42 | アート・文化

今朝目を覚ましたときごみの回収車の「あかとんぼ」の曲が流れていた。私の子どもはこのあかとんぼの曲を「ごみトンボ」といつも呼んでいた。

というのはごみを収集に来る車がいつも決まって流す曲だからである。もともと「あかとんぼ」は憂愁に満ちたいい曲だと思うのだが、どうもその曲のイメージを損なうことが甚だしい。

そういえば、軍艦マーチもそうである。これは私が子どもころには勇壮な軍艦の出港のときのイメージの曲だったが、今ではパチンコ店のパチンコをどんどんと打たせるのに使われている。

私のように子どもころに戦争時代であった者にとっては想像もできない事態であるが、普通の人にとってはむしろごみ収集車やパチンコ店の方が本当であって、私のイメージの方がおかしいのだろう。


回路での変わらない物理量

2007-09-11 12:10:26 | 物理学

回路で電気抵抗やキャパシターを直列または並列につないだときに、どの物理量が同じなのかというのは大切なことである。

まず電気抵抗の直列接続ではそこを流れる電流の大きさが同じである。これは前にある抵抗を流れた電流はつながれている他の電気抵抗へと流れ込んでどこか別の分路へ流れるということがないから当然であろう。

並列接続ではその抵抗の両端の電圧がどの分路でも同じである。しかし、各抵抗を流れる電流の大きさはそれぞれの電気抵抗によって変わってくる。

つぎにキャパシターの並列接続ではまたその分路のどの両極間の電圧が同じである。もし電位が違うと高い電位の方から低い電位の方へ電流が流れるので、かならずつながっている極での電位は同じとなり、両極間の電圧は同じとなる。

直列接続ではどのキャパシターの極板に蓄えられる電荷も正負の違いはあるが、その電荷の大きさは同じである。一般にここのキャパシターの容量は異なるからそのために各キャパシターにかかる電圧は異なっている。


坂本龍馬脱藩の道を歩く

2007-09-10 14:31:03 | 日記・エッセイ・コラム

大洲市といまではなっている、旧河辺村の村おこし行事である、「坂本龍馬脱藩の道を歩く」に昨日参加した。とはいってももうあまり歩けないのでその一部を歩いたということにすぎない。一部の登りは割愛して車に乗せてもらった。

ただ、封事ヶ峠から三杯谷へは自分の足で下ったが、もうひざがいうことをきかないでやっとのことで事故を起こさずに下った。途中では一人の男性が先導をしてくれて、後ろからもう一人の男性が私を見守ってくれた。

下りで足が動かないのをみて後ろからついて来てくれた男性が「もうひざがいかれていますのね」と暖かく言ってくれ、自分のペースで行きなさいとアドバイスをしてくれたが、下りはじぶんの意志とは別に体が動いてしまうが、足がついていかない。

前日の9月8日(土)は前夜祭に参加した。講演を聴いた後で懇親会があり、したたかにビールやお酒を飲んだ。そばにいた妻が「もう飲むのをいい加減になさい」と声をかけたので飲むのをやっと止められた。

坂本龍馬についてはあまり知らないし、特にファンという訳でもないが、少し歩いてみたいし、また 自然に親しみたいということであったが、何せ黙々とあるくということしかできない。同伴してくれた方からは「自然を楽しみなさい」というアドバイスももらった。

みんなやさしくて親切だったし、同行してくれた男性はみな物知りで分別のある方たちだった。

三杯谷からはもう限界ということでバスで出発地の「河辺ふるさとの宿」にバスで帰って、風呂で汗を流した。


遠心力は見かけの力か

2007-09-07 12:03:52 | 物理学

「遠心力は見かけの力」だといわれているが、本当にそうだろうか。

たとえば、車でカーブのところでは曲がろうとする方向と反対方向に力を受ける。そういう実際に「体験できる力を見かけの力というのは間違いだ」という主張は大学のときにO先生から聞いた。

このO先生は戦争中に海軍兵学校の先生であった右翼で、右翼であることについては何の共感も感じなかったが、この遠心力云々は共感をもっていた。

もっとも、電車が止まったときに後ろから前へと押される慣性力も実際に体験できるが、これも実際の力だと彼がいっていたのかどうか。その辺はあまり聞かなかったような気がする。

もし遠心力が実際の力だというなら、慣性力も実際の力だとみなさねばならないだろう。

どうして遠心力が見かけの力だということにO先生が反対だったかについて、体験できる力だということ以外に他の強力な理由があったかどうか、その記憶はあいまいなのだが、多分どの座標系にいる人も同じく同等であるとの見解からだと聞いたような気がする。

そこには相対論的な見解が入っていたのだと思う。いつかじっくりと考えて見たいテーマの一つである。


暑さ、寒さを感じる気温

2007-09-06 12:04:07 | 物理学

人にもよるのだろうが、私の暑さを感じる限界温度は摂氏27度である。家のエアコンはだから26度に設定してある。このごろは省エネとかで学校や公共の施設等で28度に設定してあったりするが、これでは涼しくは感じられない。

もっとも気温だけの問題ではなく、湿度も関係していると思うので、涼しく感じる限界の温度はそう単純ではないのだろう。また、風が吹けば、涼しく感じることは事実なのでその温度の限界は設定しにくいかもしれない。

寒さを感じる温度も問題だが、これは22度だろうか。30数年前にドイツに滞在したときに冬には各家庭の気温が23度に設定されていると聞いた。知人のドイツ人の大学教授の家に日本人が招待されたときに「あの家は節約のために暖房温度が少し低めに設定されているから少し着込んで行け」とは日本人の友人同士で交わされていた話であった。

多分21度かそこいらに暖房温度が設定されていたのだろう。もっともそこでただでワインを飲んだり、ハムやソーセジを食べたり、サラダを食べさせてもらったのだから文句を言えた義理ではない。

日本人の住居はウサギ小屋といわれたのはそのころであったが、もう現在では普通の日本人の住居はウサギ小屋ではなくなっている。


なにもしない一日

2007-09-06 11:37:57 | 日記・エッセイ・コラム

9月5日となったが日中の暑さは結構きつい。それで仕事にならない。というのはパソコンの前が一番暑くて耐え難いから。

それで小さい部屋に行ってエアコンをつけ、朝永さんの「物理学とは何だろうか」を読もうとしたが、眠たくなりそうだったので、ベッドのある部屋に行って寝ようとしたのだが、かえって寝られない。

それでもしばらく横になって休んでいたが、洗濯物を干すのを忘れていたので洗濯物を干してまたベッドに横になるが、眠れない。

しかたがないので、起きて行ってパソコンにスイッチを入れてインタネットサーフィンをしていたら、7時を過ぎたので植物に水をやって帰宅した。何もしない一日でした。


教育のマニュアル化

2007-09-04 12:12:19 | 受験・学校

以前から大学の基礎数学のe-Learningの教材をつくると言いながら、果たせてない(注)。

昨夜NHKで会社の人事も経理も総務までもアウトソウシングで中国へ出されて日本に事務の実体がなくなってきているというドキュメンタリーを見た。

この手のことで言えば、教育もそのうちにマニュアル化されて一部は教師の仕事から他のところへ移っていくということも十分考えられる。

放送では総務というのは何でも屋でマニュアル化しにくいと総務の担当者たちは思っていたのだが、意外にそうではなかったということが出ていた。

数学や物理学は理解するのに時間がかかり、マニュアル化しにくいと思われているが、本当にそうだろうか。

e-Learningなんてことを考えるのもある種のマニュアル化なのでどうも心苦しいところだが、それはある意味で必然のことでもある。

ただ、私たちの意図は必ずしも財務的な観点でやっているわけではないので、根本的なところは違うがある種のマニュアル化を促進しようとしているところは同じかもしれない。

教育のマニュアル化もすでに教育産業において模試とか添削とかいった業務で行われていると思うが、それ以上のことが進行するだろう。

最後には先生と生徒や児童とのふれあいといったところにしか教育は残れないのだろうか。

(注: 2013.11.20付記) 大学の基礎数学のe-Learningの教材についてはどこまでつくったというべきかはわからないが、ある程度はつくって愛媛大学で運用中である。

アクセスの数が多いかどうかはわからない。もっとも他のブログでも書いたかと思うが、三角関数についての箇所が欠けている。

コンテンツは自信作なのだが、教育経験のある方からもあまりほめられたことはない。例題とか演習問題に特色があるのだが、それを評価できる方が少ないのかもしれない。

もっとも、もっと改良すべきところがあるのかとも思うが、説明部分がどうも新味を出せない。というか自分でももどかしいがなんだか陳腐だと思ってしまう。

これは取り扱う内容自身がもともとそうなのかもしれないのだが。


何が固有で、不変な量か

2007-09-03 12:28:42 | 物理学

物理だけではないが、変わる量があって、また変わらない量がある。この変わらない量が大切である。

電力 W=VI では電圧と電流で電力が決まるが、たとえばヒーターのワット数はそのヒーターの電気抵抗によって本質的に決まる。もっとも温度によって電気抵抗が変わるのが普通であるから、そういうことがない場合との注意書きが必要である。

使われる電気の電圧Vと抵抗Rによって流れる電流が決まる。ヒーターに固有なものはその電気抵抗Rだといわれる。こういうことは竹内均先生の物理の受験参考書で知ったものだ。このごろの本にはどう書いているだろう。

また、光の速度は媒質によって速さvや波長は変わるが、その振動数nは媒質が変わっても変わらない。

ただし、これはDoppler効果だと観測している人と波源の速度が動いていると観測される振動数も変わるからこのときはもう光の振動数が変わらないとはいえないが、そういうことがないときには振動数がその光に固有なものである。

これは大学受験の勉強とは関係ない話だが、特殊相対論では4次元の線素の2乗が不変である。また、力学では保存力だと力学的エネルギーが保存する。また、中心力では角運動量が保存する。

こういう風に不変な量とか固有な量とかを意識することが大切であろう。