物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

杏さん2

2012-03-31 16:20:28 | 芸能ネタ

昨日、杏さんについて書いたら、ブログのアクセスが普通よりも約35ほど多くなった。これはいまをときめく人気女優でモデルの杏さんについて書いたのだから、私の書くこのようなブログまで少し影響を受けたということであろう。

昨日ブログを書いた後で、ネットを調べたら、杏さんが渡辺謙さんのお嬢さんであることは今ではもちろん知られているが、それほど知られたことではなかったらしく、昨年の11月頃にこのことを知って驚いたとかいう記事があったりした。

これは一つには杏さんのお母さんは謙さんと離婚したので、杏さんとお兄さんの俳優、渡辺大さんとはお母さんと暮らしていたことにもよるらしい。

杏さんは身長が177センチもあって、背の高い人だということもわかった。それなら確かにモデルとしても最適なのであろう。フランス語と英語をほぼ苦労なく話すともあった。才女でもあるが、堀越高校を中退したので高校修了資格試験を受けて合格しているらしい。

なかなかの苦労人でもある。はじめ渡辺杏としてデビューしたらしいが、渡辺を除いて単に「杏」としたほうがよいとアドバイスをしたのはお父さんの謙さんらしい。父と母は離婚しても、子どもにとって父と母は変るわけではない。

杏さんの成功は親の七光りだという方もあるみたいだが、単なる親の七光りではこうまでも人気が出るわけではあるまい。やはり、本人のもっているものがいいのであろう。


杏さん

2012-03-30 14:21:56 | 芸能ネタ

杏さんは女優でモデルである。私はNHKの教育テレビのJ文学に出ている杏さんを見ているので、杏さんのあの顔のやさしげだが、その中の強さをかすかに感じていた。

しかし、今日朝日新聞で三谷幸喜さんが「杏さんがあの渡辺謙さんのお嬢さんだ」と書いているのを読んでびっくりした。

渡辺謙さんは三船敏郎さん亡き後の、日本を代表する男優であると思う。私には数年前に見た映画「沈まぬ太陽」の主演がことのほか印象が強い。渡辺謙さんの出た映画やドラマはたくさん見ているはずだが。

道理で杏さんの芯の強さが理解できたような気がした。杏さんが出ている他のドラマとか映画をあまり見たことがあるわけではない。いつだったかNHKでドラマに出演していたのを見たくらいである。

三谷幸喜さんは数年前には松たか子のもつ圧倒的なオーラに感激しておられたが、いまは杏さんのオーラに感じ入って、感激をされておられるようだ。犬を一緒に杏さんと散歩させたと誇らしげに三谷さんは書いておられる。

ところで杏さんと渡辺謙さんが親子であることは、私のような世情に疎いものには驚きでも、世間の一般の方々にとってはすでによくご存知のことであったろう。

杏さんのセイラさんとかロバート・キャンベルさんとのやりとりをNHKのJ文学で楽しく眺めている。


年々歳々

2012-03-29 12:30:49 | 日記・エッセイ・コラム

毎年のことであるが、この季節になると

「年々歳々花相似たり、年々歳々人同じからず」

という漢詩を思い出す。もっともこれを漢詩として本当に正しく覚えているのかどうかももうわからない。なにせ高校で漢文を2年間学んでから、もう50年以上も経つのだから。

国語の古文の先生とか、漢文の先生のもっていた感性をやはり幾分かは私も日本人として受け継いできただろうと思う。それがいいことだったかどうかはわからない。文学などにはまったく縁のない輩としてはそういう50年昔の国語の古文や漢文の時間を懐かしく思うのみである。

中学校のころはまだ人間としての感性がまだ十分ではなかったと考えられるが、高校生ともなればもう少しいろいろなことが感じ取れるようになってきていたのだろう。

高校でいい教育を受けたとは思ってもいなかったのだが、古文とか漢文等を通じて、日本の古来の思想とか古代中国の思想の片鱗を学んだということだろうか。

特に数学では私は悪い方の典型のような教育を受けたと思っている。これは学校全体が悪かったというわけではなく、たまたま私が教わった先生がよくなかったということであろう。だが、それでもそういうあまりよくない教育環境でもなんとか生き残って来れて、理系の人間としてなんとかやって来られた。

だから、教育なんてできることは多寡が知れているという感慨がまったくないわけではない。結局はその人のもった性分とか性質にそった人生を送ることになるのだろう。

とか、くだらないことを書きながら、今日も「因数分解公式を忘れたら2」のエッセイの続きを書こうとしている。


因数分解の公式を忘れたら2

2012-03-28 12:02:38 | 数学

「因数分解の公式を忘れたら1」のエッセイをほぼ書き終えたので、つぎの2にとりかかった。ところが2は1ほどうまく書けない。だが、1で終わってしまうにはテーマが多すぎる。

私のもっている本を探して見たところでは、中学校数学でも高校数学でも因数分解はあまり重要な地位を占めていない。

これは現在の観点からは当然である。因数分解はそれを難しくしてみてもそれだけであり、深さを増す訳ではない。

もちろん、これは狭い意味の因数分解の議論に入るのかどうかはわからないが、Clifford代数とかそういうところに結び付けないという範囲である。

ネットのサイトで“いくろう”さんが因数分解という題でこういう議論も取り扱っていたように思うが、そういう広がりを持たせないという了解のもとに話をしないと議論がまったく違ってしまう。

昔から、数学教育の分野では「因数分解不要論」とか「因数分解はガラクタ教材」と言われている。

もっともこれも因数分解の基本的なことがいらないという意味ではない。問題としていくらでも複雑なものをつくることができるし、それらが科学・技術の先端の問題を解くという可能性は小さい。

その辺をいつだったか誤解されて、愛媛県数学協議会のリーダーの先生に「因数分解の基本は必要ではないか」と言われたことがあるが、その先生には単に私が何でもかんでも因数分解の基本的なことまで不要だと主張していると思われたらしい。

それで、その議論の前提としての基本的なことを不要と思っているわけではないという言い訳をあわててしなければならなかった。そんなことは私としては当然だと思っていたのに。

分数を約分するときとか、積分で被積分関数を部分分数に分解するときなどに因数分解は必要となる。

だから「因数分解不要論」とか「因数分解はガラクタ教材」とかを唱える方々でも因数分解の基本は必要がないなどとは考えていない。

話を脱線させると因数分解の問題をつくるのは簡単だという。

それはいくつかの整式をもってきてその積を計算してそれを因数分解の問題として出せばいいからである。だからいくらでも難問が出せる。そして旧制高校の入試問題に因数分解が難しい問題として出された時代があったらしい。

その後、旧制高校の入試問題は応用問題(いまの言葉でいえば文章題)の難問が出された、時代を経て現在に至っている。現在は関数が出題の主題になっていると思う。

応用問題でも難問はいくらでも考えることができるから、そういうものは生産的ではないということで、いまは数学の大学入試に出す方はあまりいない。もっともこの文章題はいまでも私立の中学校の入試の主要テーマではあるかもしれない。

いつだったかこの文章題が解けたら、教えて下さいとある小学校の先生に算数の学習会で言われて、これは算数では解けなくて、代数で解いてあげたことがあった。

そのときにしかたがないから、代数的に解いた後で、それを算数的に翻訳をした解説をつけた。この経過を数学エッセイとしてまとめてはあるが、どこかに投稿する予定はない。


陽光

2012-03-27 12:01:18 | 日記・エッセイ・コラム

「寒い、寒い」が口癖だったが、今日は日の光が差しており、暖かい。けさは晴れていたが、いまちょっと薄曇である。

でも、寒いという期間はようやく脱したであろうか。さくらが咲くのもそう先のことではあるまい。日本の東北地方やはたまた北海道でさくらが咲き誇るのはまだ1ヶ月以上先のことだろうが、それでも高知でとかその他のところでさくらの開花が伝えられている。

4月5日には妻がバスを仕立てて岩国まで錦帯橋を見に行くと言って、参加者を募っている。その参加者もようやく40名近くになったというので、やれやれと胸を撫で下ろした。いつもこういう行事を自分で企画してはその人集めに苦労している。

もっともこれは松山市の医療生協病院のある支部の活動の一環にしかすぎないが、それでも4500円では本当はこういう行事はできないのだが、妻とその友人たちが日頃の成果として貯めた資金で参加者にいくらかの補助をしての行事である。

バスは45人まで乗れるそうなので、私も誘われたが、私は4月6日に京都で大学の研究室の同窓会があるので、参加をしないことにした。

ともかく妻はいつも忙しくしている。


スーパーコンピュータ

2012-03-26 14:19:04 | デジタル・インターネット

スーパーコンピュータは汎用ではない。こんなことを聞いたら、オヤッと思うかもしれないが、そうである。

というのは普通コンピュータはいろいろなことに使える。このごろは私自身もパソコンで数値計算をするということはなくなったが、もともと数値計算をするものとしてコンピュータを考えてきた。

これは若い頃にいまのパソコンよりもとてもお話にならないくらい性能の悪いコンピュータで数値計算して仕事をしてきたからである。

その後、コンピュータは通信に使うようになり、いまではワープロで文章をつくったり、(数値計算ではなく)代数計算をしたり、メールをするようになり、インターネットで情報を得るのが普通になった。数値計算をすることにコンピュータ、特にパソコンを使うことを考えなくなった。

どこかで話をするなら、パワーポイントでそのプレゼンテーションを行うので、その準備もパソコンでするのが普通となった。ほんとうにいいプレゼンテーションがパワーポイントでできるようになった。

ところが私の理解ではスーパーコンピュータはこのようなことには使えない。数値計算やその図形表示(2次元や3次元の)はできるかもしれないが、普通に私たちが日常パソコンを使っているようなことには使えない。

もっとも日常業務ではない複雑な計算をしたり、グラフィックス表示をしたりする機能はとても大事な分野が多々あるので、スーパーコンピュータがいらないとはあの「れんぽう」さんでもいいはしなかった。「2位では駄目ですか」とは彼女は言ったけれども。

最近、岩波書店の「計算科学」講座の配本が始まった。もうこの年になると「計算科学」でもないかとは思ったが、それでも購読を始めた。

これはひょっとしたら、このブログではもう何回目のリマークになるかもしれないが、物理学者の三村剛昂(よしたか)先生は理論物理学と数理物理学とを峻別されたが、その理論物理学の一つ下の数理物理学のまたその下にあるのが、「計算物理学」である。

このころは「計算物理学」の国際会議まであって、計算物理学が専門だといってもあまり肩身が狭いとは感じないようになっているが、私などはある程度の年なのでやはりある種の気恥ずかしさを自分が計算物理学者だというときにいつも感じていた。

そういう気持ちも最近の若い研究者にはもうわかってもらえないだろう。


因数分解の公式を忘れたら

2012-03-24 13:32:34 | 数学

「因数分解の公式を忘れたら」という数学エッセイをいま書いている。

一昨日だったかその前くらいだったから書き始めて、およそ出来上がったと思ったら、また今朝の夢うつつの状態でその話を敷衍した方がいいのではと考えるようになって、今日午前中に仕事場に来る前にその続きの原稿を書いた。

数学を高校レベルにしろ、天下りに上から与えられたものとしてではなく、自分でいつでも再現できるものとして考えたいという気持ちがいつも強い。

これはそういうことを最近このブログでも書いたかもしれないが、ある因数分解の公式を忘れたために問題が解けなくなったという話を聞いたので、そのときにどうするのかということを考えた。

数学のよくできる人にはなんてこともないことが、不得意の人にはえらく大変なことに感じることがあるが、そういうときでもなんとかする方法はないか。それを示したいという気持が私にはある。

これは凡人の数学という観点である。凡人でも数学の達人のごとくできたら、いいのにと思う。数学はいつでも天下りで頭のよい人の教えるところにしたがわなくてはならないと考える必要はない。もちろんそれも程度問題であって、難しいことには大抵お手上げだが、それでもそういう風な数学の教え方がされるべきだと考えている。

数学の研究中は足場もあり、手がかりもあるのだが、それが完成してしまうとそれらの足場を取り払い、それを研究した自分がいかに頭がいいかということを示すかのように理論の筋だけを記述するという傾向が数学者にある。これは大切なのは事実であって、それをどのように考えたかは問題ではないという意識が働くのであろうか。

別に意地悪な考えではなくとも、そういう論理的にすっきりとした形で数学の論文は発表されるというのが、普通であるからだろう。

(2012.3.27付記) 「因数分解の公式を忘れたら」、どうするかというと基本的には「自分でつくる」ということになる。ところが自分でつくれるような人はもしかしたら、因数分解の公式を忘れてはいない人かもしれない。

私自身を省みてみると完全に忘れてはいないものの記憶が曖昧になって来ている。だから、このタイトルは私のような普通の人にとって、そう稀な例ではないだろうと思っている。

(2024.6.10付記)
2019年3月にこの数学エッセイの改訂版を数学・物理通信に書いている。これはインターネットで誰でも見れるので関心のある方は検索して読んで下さい。同じ号に2つ掲載されている。

妻の口癖

2012-03-23 13:22:53 | 日記・エッセイ・コラム

「素敵な人の後ろには必ず素敵な人が数人いる」。これが妻の口癖である。確かに研究者でも一人優れた方が出るということもまれではないが、同級生とか一年上とか下とか近い学年にやはり優れた研究者が出るという風に私には思える。

別に、湯川、朝永とかPauli, Heisenbergのような偉大な方々でなくともその傾向はあると思う。これはそのようなお互いの協同的な雰囲気とかが存在するということであろう。

そういえば、WeinbergとGlashowもニューヨークのブロンクスの高校の同級生だったとか、これはGlashowの自伝で読んだ。

坂田、武谷は1911年の生まれだが、坂田が学年は一年上である。南部の場合には木庭二郎の影響をあまり受けなったかもしれないが、大学の入学は同年だと南部が書いている。木庭は病気のために卒業は南部の卒業年からは数年遅れた。

東京大学の1945年とか1946年あたりの物理の卒業生で優れた業績を上げた方が輩出したのは世界がガタガタして学問の権威が確立していなかったこともあるだろうが、それだけではなく相互の刺激が陰に陽にあった結果であろう。

京都大学の数学とか物理の優れた研究者が新制大学になってからの、はじめの数年間の卒業生から多く出ていることもやはり同じような現象であろう。

そういえば、利根川進さんがノーベル医学生理学賞をもらったときに彼と同級だった学年の方々の中には利根川がノーベル賞をもらうなら、俺もという気概をもった方が多くおられたと聞いた。

だから、利根川氏がノーベル賞をもらう陰にはそのような気概をもった方々がまわりにかなりおられたということを示すのだろうと思う。そういう雰囲気は簡単に醸成できることではないから、やはりすばらしいことである。


膝を痛めた

2012-03-22 13:15:25 | 日記・エッセイ・コラム

子どもとそのパートナーが14日から18日まで家に滞在したので、その間おいしい料理を食べ過ぎて、かつワインを飲みすぎて、体重が多くなり、20日のテニスで膝を痛めてしまった。

それで、昨日の21日は膝が曲がらなくなったが、今日はすこし調子がよくなってきた。でも、まだ右足に体重をかけることはできない。

もともと私は右側には体重をかけて前屈することができて、かなり深く前屈(中学生のころくらいに)ができるようにこの数年なっていたのだが、この膝の故障で膝が曲がらないので、腰に影響を与えそうである。

一度膝を折って座るとなかなか立てないことはすでに前から体験をしていることである。でも中腰に膝を折ることはまだなんてことはなかったのだが、今回はちょっとまいった。

もっとも、膝を痛めたことはこれが初めてではなく、大学在職中にも夏に愛媛特産のオレンジ・ジュース(ポム・ジュース)を飲みすぎて体重超過になり、膝を痛めたことがあり、そのときも歩行が困難になった。歩くと膝が痛いと歩くことを避けるので、ますます体重が増す。

前のときには妻が冷蔵庫からオレンジ・ジュースを追放して、ジュースを飲まなくなって、なんとか体重が落ち着いて膝が治ったが、さて今度はどうなるであろうか。

愛媛特産のオレンジ・ジュースの商標(名前)ポム・ジュースのポムはフランス語のりんごpommeから来ているといつか聞いた。なぜオレンジにりんごのpommeという名をつけたのかは知らないが、これは名前だからしかたがない。ちなみにフランス語では、ジャガイモは直訳すると「地中のりんご」を意味する、pomme de terre(ポム ド テール)という。

またフレンチ・フライと呼ばれる、ジャガイモを短冊形に切って油で揚げた食物はpommes frites(ポム・フリ)という。このポム・フリは私の好物の一つである。このポム・フリはいまではドイツ語としてもそのまま通用する。


数学・物理通信2巻1号の発行

2012-03-21 14:45:15 | 数学

前から準備していた数学・物理通信2巻1号をようやく今日発行できた。もうすでに2週間ぐらい前に今度の号を発行するつもりであったが、延びに延びてようやく今日の発行となった。やれやれ、寿命が縮むような気がした。

原稿を早くから寄せて頂いている方には発行が遅くなって申し訳がないし、長期間の仕事が片付かないことからどうも気苦労が多かった。それで、自分で自分に腹を立てたりした。10日ほどの中断で前に用意しておいたファイルがどこにあるかわからなくなっていらいらしたりした。

編集発行人がどれくらいの気苦労をするかは本人にしかわからない。もっとも妻は「どうせやるなら、ニコニコおやり」というのが口癖であるから、あまり愚痴をこぼせない。だからますますストレスが溜まる。

それにしてもようやく発行となったので、また6月までしばらくは気が休まる。内容はどれも悪くはないと思うのだが、だから気が晴れるというわけではない。まだまだ修養が足りないのか。


金(gold)はどこから来たか

2012-03-21 11:50:42 | 物理学

表題の記事が朝日新聞のGlobe(3/18)号に出ていた。「金(gold)は金鉱から来るさ」という方はちょっと表面的である。

ここでの主題は金が「宇宙の歴史でどのようにつくられるか」という話であった。小さなコラムであるが、果たしてどれくらいの人がこの新聞のコラムを読んだであろうか。

私はかつて数年、材料工学科に属していたことがあり、そのとき学科が主宰した市民講座のトップバッターとして元素がどのようにしてつくられたかという話しをした。

宇宙の中の星の進化の過程で軽い元素から次第に重い元素がつくられるのだが、その元素は鉄までで、それより重たい元素は超新星爆発でつくられると岩波講座『現代物理学の基礎』で読んだ。そしてそのよう説明を市民講座で行った。

もっとも全部がその超新星爆発ではつくられるとは期待できないということも、この岩波講座には書かれてあったのを覚えている。

ところが最新の学説では超新星爆発ではなくて、超新星爆発の後にできた中性子星の連星がお互いのまわりをまわりながら、近づいていき、最後に合体する。この過程で大量に放出される中性子をつかって金が生まれるのではないかという。

星の進化や超新星爆発の過程で重い金属等の元素がつくられることは、物理学を学んだ方は知っていることだが、そこにも新説が出ているらしい。


歯磨きは食後すぐにはしない

2012-03-20 16:43:37 | 健康・病気

私が子どもか学生のころには食事をした後にはすぐに歯磨きをした方がよいと教えられた。

ところが最近の研究では食後30分位して歯を磨いた方がよいとの結果が出ていると聞いた。これは口腔内の細菌の繁殖が30分後くらいに最高になるので、そのときに歯を磨けば歯磨きが有効ということらしい。

研究というのはいろいろなされるのものである。それで、毎食後3分以内に日に3回3分間歯を磨きなさいと教えられた(333運動とかいわれた)。その内の3分以内にということが30分ごろに変って来ているらしい。

歯ブラシの動かし方にしても私が大学に勤め始めたころにはテレビの番組で歯ブラシをローリングさせる方法だったが、いまでは振動法に変っている。歯科医院に行っても勧められる方法は歯ブラシを振動させる磨き方である。昔は振動法は歯茎を傷めるとかいわれており、ローリング法を歯磨きの方法として推奨されていたが、それでは歯垢が落ちないのかいつまにか振動法になった。

これは歯磨きではないが、生物での遺伝学として私の高校生のころはメンデルの遺伝学とルイセンコの遺伝学があり、生物の先生がどちらかが正しくはないのだが、現在はまでどちらが間違っているともいえないと授業で言われたことを覚えている。しかし、現在ではルイセンコの遺伝学が間違っているということは誰でも知っている。

こういうことは枚挙に暇がないほどであろうか。


Pauliの行列の導入

2012-03-19 13:09:01 | 数学

先週の火曜日に京都産業大学の名誉教授のSさんの講演が愛媛大学であり、彼の新しい構想の理論を聞いた。その中味の正否はすぐにはなんともいえないが、ちょっとした壮大な構想の理論であった。

その話のいとぐちとして話をされたx^{2}+y^{2}+z^{2}の因数分解からPauliの行列がごく自然に導入されることが印象的だった。

これはSさんの話の単にほんのいとぐちの話題にすぎなかったのだが、私自身はどういう風にPauliのスピン行列を導入するかにいままで関心をもったことはなかったので、新鮮な感じがした。これについてはいつか因数分解というテーマで数学エッセイを書いてみたいと思う。

このx^[2}+y^{2}+z^{2}の因数分解ほど高尚なことではないが、私の子どもが大学の理工系学科の卒業生であるのにx^{3}-1の因数分解の公式を忘れてしまっていたという話を昨日聞いた。それで、今朝起きてから、もしこの公式を忘れてしまったら、どう対応したらいいかという数学エッセイの草稿を書いた。

すぐに思いつくx^{3}-1の因数分解を求める方法は因数定理を使うことであろう。

f(x)=x^{3}-1とするときx=1をf(x)に代入するとf(1)=0であるので、x-1という因数があることはすぐにわかる。したがって、x^{3}-1をx-1で代数的に割る演算を行えば、x^{3}-1=(x-1)(x^{2}+x+1)と因数分解できることはすぐにわかる。

割る算を直接しなくても、x^{3}-1をx-1で割ればその商は2次式であるから、その2次式を仮定して未定係数法で決めてもよい。そのような内容を数学エッセイの草稿に書いた。

しかし、私の子どもはこの因数定理を忘れていたのであろう。おいおい、高校の数学も身についていなかったのか。よく大学の理工系学部に合格したものだったな。

(2012.3.21付記) 

Pauli行列 \sigma は物理を学んだ人は大抵知っている2行2列の行列である。京産大のSさんの話のPauli行列の話は結局

x^{2}+y^{2}+z^[2}=(x \sigma_{x}+y \sigma_{y}+z \sigma_{z])^{2} 

となるような \sigma_{x}, \sigma_{y}, \sigma_{z} を求めることであり、

\sigma_{x}^{2}=1, etcとか \sigma_{x}\sigma\{y}+\sigma\{y}+\sigma_{x}=0 

であるような \sigma行列を求めることであり、よく知られたPauli行列は確かにこのような関係を満たしている。かつ

 \sigma_{x}\sigma\{y}-\sigma\{y}-\sigma_{x}=2i \sigma_{z} 

のような交換関係も成り立つ。

このような代数をClifford代数という。いつだったかDirac方程式に出てくる、\gamma _{\mu}等の満たす代数がClifford代数の例であると理化学辞典を調べて書いたが、Pauliの行列もCliford代数の例であることを知った。あのときに \gamma 行列以外にClifford代数の例を知りたいと書いたが、その解答はPauli行列であった。

どうもClifford代数と聞くと難しいという印象をもつが、

x^{2}+y^{2}+z^[2}=(x \sigma_{x}+y \sigma_{y}+z \sigma_{z])^{2}

を満たすような代数だと知れば、それほど恐ろしくはなくなる。どうしてこのような数学の教え方があまりされないのであろうか。それとも私が知らないだけなのか。


幸福感

2012-03-17 15:39:51 | 日記・エッセイ・コラム

妻がいまの幸せをかみ締めている。こんな幸福感じを味わえるなどと思ってもいなかった。こういう幸せはいつまでも続かないのかもしれない。それは子どもと関係している。

私の妻は子どもに関して幸せと感じたことは、子どもが本当に小さかったとき以外にはないのだと思う。それでその幸せをかみしめているらしい。数日子どもが家に帰って来れて、ゆっくりしてもらえるなどと想像だにしていなかったのが、実現したのである。

これは普通の家庭には普通のことで、とりわけ、幸いだというほどのことではないのだが、そういうことができるなどとはつゆほども期待できなかったところに妻の不幸があった。その理由はここではいうことができないが、それほどたいしたことではない。

でもそれがクリアできなかった。それが現在完全にクリアできたわけではないが、一部クリアされたかの感じをもてたのであろう。小さな幸せというわけである。

そして、いま私の傍で子どもとそのパートナーと妻とが談笑している。

Gl"uck und Glass, wie leicht bricht das !   

(グリュック ウント グラース、ヴィー ライヒト ブリッヒト ダス) 幸福とガラスは、なんと容易に壊れることか!


めずらしい中断

2012-03-16 17:10:52 | 日記・エッセイ・コラム

ブログを数日書かないのは久しぶりである。日常の生活の中にブログを書くということがインプットされているので、とても非日常的な感じがしている。それはある意味では新鮮な感じであるが、やはり日常の生活に早く戻りたい。

ということは、修業僧のようなおもしろくもない生活が私には普通の生活だということを示している。本人はそれで満足しているのだから、他人から見たらおかしいだろうと思う。

それでもそういう平凡なのが、性にあっている。平凡はまさに非凡であり、とても大切にすべきことであろう。それはある意味で私の宝である。

少しづつ日常の平凡を取り戻せればいい。昨日は双海町の手作りピザ焼きを体験した。これは今回で2度目である。

また、明日ブログが書けるか。はたして?