物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

休日の一日

2009-04-30 17:37:54 | 日記・エッセイ・コラム

昨日は休日だったのでとうとうずる休みをしてしまった。実は一日コタツで居眠りをしていたのだ。常にコタツを入れているわけではないが、ときどき電源を入れたり切ったりしながら居眠りをしていた。もっとも本を抱えてではあるが。

武谷の年譜の草稿をつくったと先日に述べたが、昔読んだものをまた引っ張り出して読んでみたら、いくつかの詳しい日にちが書いてあったりして、それで役立つことがわかった。

年譜は伝記の下書きになるようなものを意図しているが、どうも何かのための意図をもって読むと本を楽しめない。これはなんでもそうであろう。読書の楽しみというのは後でそれについて書こうなどと思っては楽しみはなくなってしまう。

このごろは根気がつづかないので少しあちらをかじり、こちらをかじりしてものごとを平行してやっている。これは別に自分で自分に課した課題なので誰から頼まれた訳でもないし、だから誰からもせかされることもない。そのために自分で自分を律することはしなくてはならない。

それでも自分が自分に課した仕事でも必ずしもそれが楽しいとまではいえないことが多い。ただ、自分の中に何かが充満してくると一気に噴出してくるものがあるときもある。そのときは夢中になって仕事に没頭する。


武谷三男年譜の草稿

2009-04-28 10:54:51 | 物理学

武谷三男の年譜の草稿が出来上がった。

まだスケッチにもなっていないものだが、それでもこれから本格的に年譜を作り上げていく手がかりを与えてくれるだろう。A4で8ページである。

彼は自分では伝記を書くような偉大な科学者ではないと常々語っていた。それでも何人かの人のインタビューに答えた書物が出ているし、それに彼が比較的若いときに書いた当時の状況の回顧が残っている。

彼の論文数は再録等を省けば70編前後だろうか。もっともプログレスのsupplementの論文をどう勘定するかでもっと多くになる。これらの70編の中には日本語から英語に訳され記念論文集に再録されたものはもちろん含まれてはいない。

論文とははっきりいえないものも含めれば再録も含めて108編あるというのが「素粒子研究」に私が発表した業績リストからはわかる。

これは湯川、朝永、坂田という彼の優れた先輩たちの論文数よりは多いのだが、彼がどこで業績をあげたかということになると核力のいくつかの論文とかに限られてくるだろう。

彼の評価は難しい。これは彼自身の業績ではないが、彼が周りの人に与えた影響も大きいからである。


べき関数の微積分

2009-04-27 10:56:13 | 数学

世の中には数学と聞くととても難しいものとはじめから思いこんでいる人もいる。数学でも難しいものあれば、その考えは誰でも直観的にわかることもある。べき関数の微積分も直観的にわかることの一つではなかろうか。

いま一定の関数y=cをグラフに描いてそれを0からxまでの面積を求めれば、その面積はcxとなる。これはy=cを0からxまで積分したことである。そのcxという面積をy=cxという関数だとみて、xで微分すれば、その導関数としてy'=cが得られる。要するに元の直線の式が得られた。

もう一つの例をみてみよう。y=xという比例関数とx軸との間の面積を求めてみる。x=0からxまでの面積は底辺xで高さxの三角形の面積であるから(1/2)x^{2}となる。これはy=xを0からxまで積分したことである。また、この面積をxの関数としてy=(1/2)x^{2}とおいてxで微分すれば、y'=xが得られる。

上の二つの例は積分と微分とが逆演算となっていることを具体的に示している。

こういうことを文系の大学への進学を目指す高校生も知っておいてほしい。どうも微分積分という言葉を聞いただけでそれだけで腰が引けてほしくはないのだ。いや、高校生でなくても中学生でもこのくらいのことは知っておいてほしい。これは誰にでも直観的にわかることなのだから。

さらにいうとy=x^{n}の0からxまでの積分はx^{n+1}/(n+1)であり、それを微分すると元のy'=x^{n}にもどる。そういうことを知るとやっと微積分のすごさが、ご利益がわかるようになる。そういうことが市民のほとんどの常識となるような社会の実現は難しいのだろうか。

Newtonは1642の生まれで私よりも約300年前に生まれているが、私たち現代人の大多数はまだ300年前の彼を理解していない。残念なことである。


窓を開けよう

2009-04-25 13:06:37 | 日記・エッセイ・コラム

先日「カーテンを開ける」という題で書いたが、昨日ロマン・ロランの「ベートヴェンの生涯」を開けて見たら、有名な文章が出ていた。

これは京都大学の湯川基礎物理学研究所の会議室に元京都大学総長の平沢興が揮毫した小さな額がかかっているのを見たことがある。

「もう一度窓を開けよう。広い大気を流れこませよう。英雄たちの息吹を吸おうではないか」とあった。この額をはじめて見たときにとても新鮮な感じをもったのを覚えている。

多分、太平洋戦争中の心ある人々が心の底で元気づけられたという、羽仁五郎の岩波新書「ミケランジェロ」の冒頭の言葉に匹敵するものではないか。その文章はいまはうろ覚えなのでまたいつか紹介をしよう。

この言葉は作家の山代巴さんが戦後中井正一に聞かれて答えて言ったのに中井さんが我が意を得たとばかりに賛意を示したとは山代さんの文章にある。


方程式を解かないでわかる?

2009-04-24 12:47:43 | 物理学

「物理学の問題は方程式を解かないで答えを見通せるときにのみ本当に理解する」とDirac がいったと、Feynmanはあるインタービューで言っている。

ところが、このインタービューの前の方で「物理学を理解するために数学は絶対必要だ」ととも質問に答えていう。

これは一見矛盾した発言のようでもある。冒頭の発言は有名な『Feynman物理学』(岩波書店)の中に彼が引用をしていたと思う。

また、Feynmanは「計算をしないでモデルをつくって考える」ともいわれていた。誰かが数式で理論を展開した話をしているときに彼はそれらの理論に適合したモデルをつくり、それで考えて数式から出てきた結論がおかしいことを指摘できたともいう。そういう彼がいう言葉だけに考えさせられるものをもっている。

物理を理解するには数学が必要だとの発言は「Faradayがほとんど数学を知らないで電磁場の概念を発展させたようなことが現代物理学でも可能でしょうか」という質問に答えたものである。

身振り手振りで物理を聴衆に実感させたといわれるFeynmanにしての、これらの発言には重みがある。

だが、一方で数式に表される概念を単なる数式とはとらえないで、その背後にかならず物理現象が存在することを理解してほしい。数式はその展開によってそれ自身が私たちの代わりに考えてくれるともいう。こういった矛盾した側面が数学と物理の関係にはある。

H大学の教養部での講義で私が物理を教わった清木義徳先生は「数式なしの物理もある」と常々言われていた。

(注)清木義徳先生のお名前がまちがっているかもしれない。なにしろ半世紀以上前の教えてもらった先生の名なので。

大学を定年退職された後は、呉市のある私立高校の校長さんだったかを務められていたとか風の便りで知ったが、確かではない。

先生は長崎医科大学だかにお勤めのときに原爆を被曝した方だったと言われておられ、頭が禿げているのはそのせいだとか言われてもおられた。

M. Y.博士の研究業績リスト

2009-04-23 11:03:27 | 物理学

M. Y.博士の研究業績リストをつくっている。

昨日までにインターネットで調べた限りでは95編の論文を単独または共著で出している。

M. Y.博士は私の研究上の先生の一人であるが、その業績はあまり正当に評価されて来なかったと思う。

その業績リストもまだ不完全である。というのは私の記載したいと思う事項がいくつか欠けているところがあるからである。

一つには論文の最初のページと終わりのページをきちんと記載したいとか、論文の発行年だけではなく月も記載したいとか題名がわからないのがあるとかそういう欠陥がまだ残っている。

それと博士に近かった人が彼の影響で学位を何人も取得している。その学位取得者の論文名も調べておきたい。それらをあわせてM. Y. 博士の業績だと思う。

世間的に有名だったO教授の陰に隠れてはいるが、実際は影響力のとても大きかった研究者である。だが、ほとんど世間的には知られていないのが、残念である。

私はあまり彼との共著論文はないが、多くの先輩や後輩の中には彼と共著論文の多い人は結構いるのである。

(2012.6.3 付記) M.Y.さんの業績リストを素粒子論研究電子版に発表している。また、彼の1970年くらいまでの研究回顧のインタビューを雑誌「素粒子論研究」に発表している。

後者は録音が途中の失われた部分があり、十分なものとは言い難い。それでも若い研究者の参考になればよいがと考えている。


聞かせてよ、ファインマンさん

2009-04-22 18:59:05 | 物理学

「聞かせてよ、ファインマンさん」(岩波現代文庫)を購入して見たら、これが「ファインマンさん ベストエッセイ」を改題したものであった。

もっとも前の本を買ってもっているかは書棚を調べて見ないとわからない。それはともかくこれは“The pleasure of finding things out”という本の翻訳であり、英語の原著はもっていて読んだ覚えがあるが、どうも英語で読んだので印象が薄かった。

この本にはDysonの序文がついていてこれがなかなか泣かせる名文である。それを読むだけでもこの本を買う価値があろう。もっともこの序文を読むだけなら書店で立ち読みでもすませることもできる。

編集者はしがきには「ボーズ・アインシュタイン凝縮」の新しい現象の発見の講演を聞いた編集者の胸のときめきを書いている。その注によって私は「ボーズ・アインシュタイン凝縮」のことをはじめて知った。言葉としてのボーズ・アインシュタイン凝縮は知っていたが、内容は知らなかったのである。

ということはpion condesationとかquark condensationとかいわれるものも同種の現象だろうか。説明によればボーズ・アインシュタイン凝縮とは絶対零度の近くで冷却された多くの原子が動きを止め、一個の粒子のように振舞う現象だという。

そういえば、30年以上昔にドイツでScheckという学者からその当時pion condensationが未解決の問題だときいたが、pion condensationについて辞書的な意味でも調べて見ることもしなかった。なんという好奇心のなさなんだろう、私は。物理の世界ではすでにpion condensationについては解明されていることだろうが、そのことさえも知らない。

と書いてあわてて理化学辞典を見に行った。1998年発行の理化学辞典第5版ではまだ理論的な予測の域を出ていないとあった。星のうちで中性子だけからできた中性子星での理論的な予測であるとのことである。

中性子だけからできている星は高密度の星でこれは原子核の密度よりも大きい。昔講義で原子核の密度を計算してみたことがあるが、1ccに1億トンが詰まっているくらいの密度だったろうか。それよりも中性子星は密度が高いと考えられている。


天気予報がはずれた

2009-04-21 16:32:48 | 日記・エッセイ・コラム

今日は午前中まで雨との予報だったが、朝から曇りで雨など降っていなかった。

この頃の天気予報はよくあたるのだが、今回はあたらなかった。こういうこともあるのだ。こういう経験を経て、また天気予報の精度が少しずつ上がっていくのだろう。

もっとも雨の天気予報が外れて怒る人は多分いない。晴れるといって雨が降る場合にはかさの持ち合わせなかったということで怒る人はいるかもしれないけれども。

それに天気予報はあくまで予報なので実際と同じではない。だから、あまりそれほど真剣に考えることもないだろう。

もっとも天気予報で商売がうまく行くかどうかが決まる職業もあるらしい。それだと仕入れの量が狂ったりして業績に響いてくるようだと死活問題であろう。


困った迷信

2009-04-20 18:53:02 | 物理学

高校の物理学では微分積分を使わないで物理を教えるようになっているので微分積分の演算を使わないで大学のリメディアル物理学でもそうしてほしいとの要望が担当の教授からメールで入っていた。

これは毎年いつも担当教授と学生とからいわれる注文なのだが、どうも困った迷信である。というか授業の実際をむしろ知ってほしいと思う。微分積分の概念を使った方が却って物理学が簡単になるということを分かってもらえないもどかしさである。

そのために毎年はじめの授業で微分と積分の話をしており、また途中の講義で微分積分の考え方を説明している。これは計算技術でもないし、単なる考え方なのだが、それがなかなか分かってもらえない。

まったく説明なしで微分と積分を使うのならば、非難されても仕方がないだろう。だが、懇切な授業をしているのだ。またそのためのプリントも配布をしている。

どうも自分たちのレベルを大学に入って上げるのではなく「教授内容を低めよ」とのことである。学部の教授の指示または学生からの要求にしたがってはいるが、それは「まったくあほらしい」と思う。ものの本質を教えているのにそれをまったく聞こうとしないのだから。

基本的には中学校の数学と理科の知識で全部済ませるようにしている。もし、何か難しいことがあれば、説明をその都度する。ところが全学生の程度が違うから、ある学生の質問に答えるとそれは他の大部分の学生には余分で難しいことになる。だが、そういうところは聞き逃せばいいのだ。これは質問に答えているだけで全員に必要なことではない。

ある特定の学生の個人的な興味答えている場合と誰にでも知っていてもらいたいことがあるのだ。授業の理解には必要がないということも言ってはいるのだが、どうもそこが分かっていないらしい。これからは進んだ質問にはあえて答えないという措置も必要なのかもしれない。


疲労の蓄積

2009-04-19 16:03:40 | 健康・病気

疲労が蓄積してなんだか体の疲れが取れない。少し季節が暖かくなってきて眠りが浅くなり、それで疲れがたまっているのかもしれない。うつ病ではないが少し何かをする意欲がわきにくい。それと根気が持続しない。

それで今朝は9時半くらいまで意識的に朝寝坊したのだが、それでもあまり回復をしたという感じがしない。もちろんこの疲労の問題が起こるのは朝はやく眼が覚めてしまうことがあるからである。そうすると睡眠が十分でないので元気がでない。眼が覚めるのは多分アレルギー性鼻炎の影響であろう。そろそろこのアレルギー性鼻炎も終わり近くにはなってきているが、まだ少々影響が残っている。

昨日から今日の午前中と一泊の泊りがけでテニスに行くことを一緒にいつも夜テニスをしている仲間に誘われたのだが、残念ながら昨日の午前中は学習会の予定が入っていたのと午後はリサ森本監督の講演会があるということでそちらの誘いは断った。

さらに昨夜は町内の会合があって家に帰ったのは9時半ころだった。普通にはこんなに外に出ることはないのでそれだけでも私としてはすごい活動である。もちろん普通の人にとってはこれくらいのことは普通のことであろうが。


Tkko 特攻

2009-04-18 16:42:54 | 映画

森本リサ監督の「Tokko 特攻」というドキュメンタリー映画をいま見てきたところだ。元特攻隊員の生き残りの人からその思いを聞いてそのストリーをつくったドキュメンタリー映画であって、アメリカでもある程度受け入れられているという。

森本監督の話を映画の後に聞いたのだが、この映画は始まりにしかすぎない。その映画で語られた思いとそれから派生してくるはずのいまの戦争やこれからの戦争をどう未然に防ぐかというところのギャップは大きいものがある。

始まりは小さいものにしろどこかで誰かが始めなければならない。しかし、問題はそのギャップをどう埋めるすべをもつか、持たせるかではないのだろうか。

森本さんは50年後にイラクの自爆テロにもこのようなストーリー映画ができるかもしれないとの希望を述べられた。森本さんは日系二世の映画プロデューサーであり、監督であるらしい。

原爆の被爆者の聞き取り映画をつくる日系のアメリカ人が出てきたり、特攻の生き残りの人から話を聞くというこういう映画ができたりすると世の中まだまんざら捨てたものではないという気がする。


モノローグ

2009-04-17 12:51:44 | 日記・エッセイ・コラム

どうもダイアローグが苦手だ。だからいつもモノローグである。ただ最近はだんだん気温が上がってきて、少し暑さを感じる。窓をあければいいのだが、窓を開けると花粉症がひどくなるのでそれを考慮すると窓を開け放すことはまだできない。

いや、ダイアローグを嫌いというわけではない。むしろたくさんの人がいるところが嫌いなので、一人の相手がいるときのダイアローグはそれほど苦手なわけではない。

「人の数が何人くらいから苦手になってくるのか」そこらあたりをあまり詳しく考えたことはない。3人は大丈夫な気がする。4人もまだ大丈夫なようである。しかし、10人を越えるとどうも苦手である。

現役のときに学科会議で20人くらいが集まって会議があったが、それが苦手だと思ったことはあまりない。別に意見がなければ黙っていればいいからだ。意見が違う場合もあるが、そういうときには真っ向から反対するか、その人の発想を憎んだこともある。憎んだというときにはもちろん発言をしていない。その発想がいやらしく思えたのである。

そういう人の神経を逆なでするような発想にはそんなにたびたびは出くわさないが、それでも数年に一回はそういう発想に出会うことがあった。誰がそのような神経を逆なでするような発想をしたのかはもう覚えていない。だが、人に嫌われるような発想をする人はどこか共通の要素がある。

私自身はそういう人をわざと支えてきたという傾向があったが、そういう人はいつも多くの人に嫌われるような傾向にあるようだった。ということは私も人に嫌われるタイプかもしれない。


二項定理

2009-04-16 12:42:25 | 数学

現在、二項定理に関心をもっている。

これはもともとM大学の非常勤の物理の講義でべき関数の微分積分の話を1時間ほどしたのだが、そのときにx^{n}関数の導関数を導くのに二項定理を用いたからである。

ところが(1+x)^{n}の展開を用いたところ、この第3項の係数について質問が出たのだ。これは一番普通には組合せの_{n}C_{r}から出てくると説明するのだが、微分を知っていれば簡単に計算できる。ただ、べき関数の微分公式を導くのに微分を使うのは、はばかられるだろうが。

ただ、いろいろな方法を知っていることがいつでも必要だと思っている。以前に書いておいたメモを見ると前にも同じようなことに関心をもっていたと見えてちょっとコンテキストは違うが、やはり類似のメモが残っている。いつでも同じようなことを時間をおいて考えているらしい。

これはもう亡くなった、大学での私の先生があるときに自分の見つけたある発想をまた時間をおいてご自分はそのアイディアを忘れられたのだが、再度自分で思いついて私たちに話してくれたことがあった。そのときに「Oさん、以前にも同じことを言われていましたよ」と注意を促したことがあった。


カーテンを開ける

2009-04-15 15:13:25 | 日記・エッセイ・コラム

「窓を開けよう」とかいうのはロマン・ロランの小説の言葉だと思うが、それほど印象的な言葉のつもりではない。「カーテンを開ける」というのは冬の暖房の費用を節約するのにカーテンを閉めているといくらか節約になると聞いたのでこの冬は部屋のカーテンをずっとしていた。

その分部屋が暗くなる。それがこの頃は大分暖かくなって暖房が要らなくなった。それでカーテンを開けたというわけである。それに今日は昨日の雨空から一転して晴天である。外の空が明るくなっている。瀬戸内海地方は日本の地中海であり、気候が温和であり、冬でも寒い時期は少しである。それにこの頃の地球温暖化である。今年の冬は極めて寒いときはあまりなかった。

ヨーロッパの人で裕福な人たちは老年を地中海沿岸の都市で余生を送るが、それにあたるところが日本では瀬戸内海沿岸地方である。その上瀬戸内海は島とか多くて景色がいい。

私の出身地である 今治市の近くの来島海峡の美しさはひときわである。地中海沿岸でギリシア地方などと引けをとらないのではないかと思っている。もう一つ知っているのは瀬戸大橋のある岡山側の鷲羽山から見た瀬戸内海の景色も美しい。これは瀬戸大橋ができるずっと以前に岡山出身の大学の同級生がそういっていたのだが、それを聞いてからまもなく実際に鷲羽山を訪れてその美しさを実感した。

小学生か中学生のころにはじめて近見山に友人と登ってはじめて瀬戸内海の島や海を眺めたときの感激を忘れてはいない。まるで箱庭のように見えた。船は遠くから見るとほとんど動かないように見えて、まるでおもちゃの箱庭だった。

来島海峡での海峡とは海の狭くなっているところだということを意識したのはごく最近である。ドイツ語で海峡という語が出てきて、それはdie Meerengeというのであった。

Meerは海でいいが、engeとは狭くなった道という意味らしい。形容詞でengというと部屋が狭いというようなときにengという形容詞を使う。

外国語からうようやく日本語の海峡の意味が分かったわけのであった。ちなみに山峡という言葉もある。

Exactness is a fake

2009-04-14 12:48:15 | 学問

日曜日の夜教育テレビで鶴見俊輔さんが語る番組をやっていた。

京都の小さな出版社sureからその番組の通知をもらっていたのだが、他の番組を見ていて忘れていたが、11時前になって見た。

そのあとまだ30分以上放送はあったのだが、最後に鶴見さんがホワイトヘッドの言葉としてExactness is a fake. という言葉を紹介していた。

鶴見さんは「厳密さ(精密さ)は人のつくりものである」というふうに言っていた。ホワイトヘッドはラッセルと共著でプリンキア・マセマチカを著した数学者で哲学者である。そういう人が晩年の講演の最後に一言そういう言葉を残して演壇を降りたという。

鶴見さんにはその最後の言葉は聞き取れなかったらしく、その講演録のコピーをわざわざとり寄せて読んだらしい。ホワイトヘッドがこの文で何を表現しようとしたのかそれは分からないが、いろいろに解釈が可能であろう。

朝永振一郎はドイツのライプチッヒのハイゼンベルクのところに留学していたときに彼から「場の量子論は数学的な基礎がまだ十分ではないから厳密さにあまりこだわるな」というようなことを言われたと述べていたと思う。

70年以上前と現在とは場の量子論の数学的基礎も異なって来ているとは思うが、それでも場の量子論の基礎が完全に固まって疑問の余地がないとまではいっていないのではないか。

私はそういうことにも統計力学の数学的基礎にも詳しくないが、統計力学もそういう数学的基礎はまだはっきりとしてはいないのではないか。

くりこみ理論の基礎にもそういうことがあるのではないか。でもだからといってそれらの理論がまったく無意味ということではなかろう。そこらへんが居心地が悪いのだが、意味があるのだという直観のほうを信じたいと思っている。