物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

3月30日(日)

2008-03-31 10:43:02 | 日記・エッセイ・コラム

庭のまゆみの木の黄色が深くなってきた。いよいよ春が来たという感を深める。その傍で椿がくたびれた顔で咲いている。椿の季節は終ったのだ。

ちょっと前まで実をつけていた、くろがねもちも実はなくなったようだ。今日はあいにくの雨であるが、それほどひどくは降っていない。

日曜以外は土曜でも基本的には仕事場に行くので、日曜は骨休めになる。日曜は冬の間中だいたいはこたつに入って日中うつらうつらしている。

数年前に高知から松山に引っ越して来た友人のNさんのことが気にかかるが、どうも日曜以外はのんびりはしていないのでNさんには不義理してしまう。


eの導入2

2008-03-29 10:49:18 | 数学

f'(x)=f(x)を微分方程式と思えば,これからf(x)=Ce^{x}が求まる。それでf(0)=1とすれば、C=1となり、これでx=1とおけば、それからf(x)=eと決まる。

しかし、これはすでにf(x)=Ce^{x}ですでにeを定義していなくてはならない。どうも堂々巡りである。というのが昨日の話の趣旨である。これを回避する方法があれば、この話は生きてくる。

志賀先生のやり方の一つはG(x)=f(x)/e^[x}を微分してf'(x)=f(x)をつかえば、G'(x)=0すなわちf(x)=Ce^{x}が出てくるというものである。これもはじめにe^{x}を仮定しているのではないか。

こう書いてちょっと手を動かして計算したら、なんとか仮定なしにeの導入をできそうである。


eの導入1

2008-03-28 12:23:56 | 数学

べーレントの「5分でたのしむ数学50話」(岩波書店)の第2話に自然対数の底eのことが出ている。

そこでeの新たな定義が出ていると思って「eの導入(補遺)」にとりいれようとしたのだが、どうもこれが話がきちんと論理的にできているのかどうか疑わしくなった。

この点については友人の数学者N先生に聞いてみたい。

私の理解ではどうも仮定=新しいeの定義みたいに思えてならない。そこで少し自分で修正をしようと思って志賀先生の高校数学のテキスト(岩波書店)に書かれていることをを引用して述べてみようとしたのだが、これだとべーレントの言っていることと離れてくる。

ある関数がその導関数と等しいときに、それは自然対数の底eの指数関数であることが一義的にきまる。(その他にも条件があるが、微分可能性とかはすべて仮定している)。そしてf(0)=1とすれば、x=1のときの値f(1)=1=eと定義できるというのである。

べーレントはf(x)=e^{x}をどこかから出してきていて、それでx=1とおいてf(1)=eとしているのだが、このf(x)=e^{x}をどこから出してきたのかがはっきりしない。eの定義なしにf(x)=e^{x}を出してくることは可能なのだろうか。

志賀先生のテキストからは微分とは関係なしに指数関数であることは出てくる。悩ましい所である。


平方根の近似値1

2008-03-27 11:26:04 | 数学

このところ平方根の近似値の求め方にどのようなものがあるかに関心がある。有名なのはNewton法を用いて2次方程式を解く方法だが、他にもいろいろありそうだ。相加平均は相乗平均より小さくないという不等式を基礎にする方法もある。

その他、求め方はいろいろである。インターネットで検索したら、いくつかの方法が見つかった。もっともその説明は詳しいものもあれば、求め方しか書いていなくて、それで求められる理由をはっきりと書いていないものもある。しかし、平方根は中学校で教えるためか練習問題を書いたホームページもあって多種多彩である。

これらを概観したサマリーをつくろうかと思っている。こんなことは時間がかかるだけが、自分が関心をもったらやらずにはおけない性格である。さてどうなるだろうか。


なぜ数学と物理を学ぶか

2008-03-26 13:56:32 | 学問

若い学生ならこれらを学ぶのは当然と言えるかもしれない。

だが私はすでに人生の大部分をすぎている。ではなぜこれらの学問を学ぶのだろうか。これに対する明確な答えは私にはない。

キリスト教を信仰している人たちは神々のつくり賜った自然の神秘を真摯に理解したいと終生、学問に励む人が多いと聞いている。

しかし、私はクリスチャンではない。神を素朴に信仰するというような信念はもっていない。

ではなぜこれらの学問を学ぶことを止めないのだろう。それは自分の知らないこと、わからないことを知りたいと一途に思うからである。

これは若い人だったら、ひょっとしてあるかもしれない立身出世や名誉といった願望のためではない。単に自分の自己満足のためである。

亡くなった池田峰夫先生(京都大学元教授)が「少なくとも学問を学ぶのに自己満足くらいは残らないとね」と言われていたことを思い出す。

私は池田先生の狭い意味の門下生とは言えないが,そういったことを聞く機会が何回かあった。だから池田先生の薫陶を受けた一人とは言えるかもしれない。

また、池田先生からは大学で指導を受けた自分の先生からのはやめの独立の必要性を教わった。

人間というのはある意味で業の深いものである。年をとって日々をおもしろおかしく暮らすのも人生ならば、いつまでも尽きぬ旅路を行くといった人生もある。

定年を過ぎて学問など捨てたという友がいる一方で、それに執着する自分がいる。若いときの学び方が足らなかったせいだろうか。


5分で楽しむ数学

2008-03-26 12:35:54 | 数学

「5分で楽しむ数学50話」(岩波)を購入した。

ちらっと流し読みしたのだが、本になった段階で書き足されたのかもしれないが、これは一つの話を5分で楽しむことなどできる本ではない。

読むのに5分なんてものではなくて時間がかかるだろう。それでも面白い本であることにはちがいがなさそうだが、誇大広告であろう。

もちろん本は売れなくてはならない。それがいけないとまでは思わないが、少なくとも読むのに時間がかかることを承知の上で本を買う方がいい。

数学者は数の性質に関心があるのだろう。素数の分布がどうのとかいうようなことがかなりたくさん載っている。私はそういうことにはあまり関心がない。

でもいくつかのことは私の数学エッセイと共通の話題もある。自然対数の底eの話題は私もすでに「研究と実践」(愛数協の機関誌)に投稿済みだ。これはもともと遠山さんの「数学入門」に出ていた話題を京都大学の北野先生からもらった「自然現象と数学」に誘発されて書いたものだった。

ただこの標題の書からはeの導入の仕方についてはもう一つのやり方を学んだ。


心で感じる英文法と野原三郎先生

2008-03-25 11:34:56 | 学問

昨日はNHK教育テレビの大西先生の文の形の放送があった。いわゆるSVOOの文型には 「誰かに何かをしてあげる」という感じがあるのだという。

それで思い出したのは先日書いた野原三郎先生の英文法である。彼の主張がそういう風であった。

SVCの文型には「何かが何かになる」という感じがあるのだとか動詞自身の意味を越えた普遍的な意味を説明されていたと思う。そういう意味 ではもう何十年も昔から英語の感覚をちゃんとつかんでいる人はいたのだ。

ただそれが主流派にはなっていなかったということだろうか。それとも 何でもよくできる人にはそういうことがわかっているのだが、それを私 たちが教わっていないだけなのだろうか。


結晶学とテンソル

2008-03-24 11:29:26 | 物理学

結晶学に関するベクトルとテンソルを書いた本がないといつか述べたが、実はそういう本を書いている人がいる。

Sands "Vectors and Tensors in Crystallography" (Dover)  である。この本を買ったのは以前のことでいつ買ったか忘れてしまっていた。

他の本を探していたら、本棚の奥の方から見つかった。それですこしづつ読もうとしている。結晶では主たる座標系は直交座標ではない。

一般相対性理論に出てくるテンソル解析と同時進行で読み進めたいと思っている。


バナナ

2008-03-22 13:20:35 | 日記・エッセイ・コラム

バナナに関する思い出は幼児にさかのぼる。当時私は朝鮮(いまの韓国)の鎮海(ハングルではチネという発音らしい)という小さな町に住んでいた。1940年から1945年のはじめことである。伯父が台湾に出張してお土産にバナナを私の家に買ってきてくれた。そのときに生まれてはじめてバナナを食べた。

戦後はバナナは高価な果物でなかなか食べられるようにはならなかったが、小学校の頃だったか母の使いで八百屋をしている家へ何かを持っていった。そのときにそこのおばさんが店先にあったバナナを一束下さった。それからそこへお使いで行ったときにいつもバナナをもらうようになった。とてもうれしかったことを覚えている。

1976年に1年間ドイツへ留学したが、そのときに果物屋の店先にAnanasと書いてあるのをみて、ドイツ語ではバナナのことをAnanasというのかと思った。もちろん, そのすぐ後でこの-e Ananasはパイナップルのことで、バナナは-e Bananeであることを知った。私は字だけを見て実物を見ていなかったことがわかる。


仕事の悩み

2008-03-21 13:45:10 | 日記・エッセイ・コラム

latexの原稿のエラーがなくならない。どうも意味がわからないエラーメッセージが出る。時間をかけているのだが、本当にどこかにエラーがあるのだろうか。このwinshellシステムはちゃんとエラーの行数が出るのだが、そこを見ても訳がわからないエラーである。また行数の特定できないエラーもある。

書き換えたら、またエラーが多くなったが、やっと20個くらいに落ち着いて来た。それだのにDVIのファイルが見れるのが不思議だ。索引の語の指定を先にする必要がある。


e^{i¥pi}+1=0 について話す

2008-03-20 13:16:09 | 数学

先週の土曜日の午前中にこのことについて小学校の先生数人の前で話した。式を最低限にしぼって図的な説明に終始した。難しいとの感想はでなかったが、どれくらいわかっただろうか。

自然対数の底eも幾何学的に定義し、円周率も定義し、虚数単位も定義し、ラディアンも説明して、15分位かかったろうか。10分で説明するつもりだったが、自然対数の底を定義したので5分くらい時間が超過しただろうか。

その後、虚数の必要性も補足したし,-1かける-1が+1となることも説明した。少しエクサイティングな経験をしてもらった。


武谷の業績リスト(第2版)

2008-03-18 10:29:04 | 物理学

武谷の論文リストも著作目録と合わせてほぼ出来上がっているのだが,問題は間違いがないようにできるかである。

前回のときにも十分に注意して間違いのないようにしたつもりだったが、つまらないミスがいくつかあった。論文のページ数を間違えたり。副題がついているのにそれを落としていたりという風に。

だから、完成してからしばらく置いておいて見直したりしてはいるのだが、やはり時間が経ってみるとミスがみつかる。

人間のやることだといっても何回も訂正版を出すのは経費もかかる。それに第一かっこうがよくない。どうしたものだろう。


武谷の著作目録第2版

2008-03-17 12:07:55 | 物理学

この著作目録第2版では総ページ数を入れることにしたので、現物の書を見て確認するのに手間がかかった。2点だけ確認ができなかったのがあったが、それを愛媛大学の付属図書館を通じて貸し出してもらって確認した。これでようやく完成である。

全体で213冊にも及ぶものとなった。もちろんこれは増刷によるページ数の増加を別の1冊と数えたりしているからである。できるだけ完全なものにしたいと思うが、やはり人間にやることである。完全ということはありえない。

どうやってこれらを探したかというとインターネットの「日本の古本屋」や全国の大学図書館や公共図書館のOPAC等を通じて探した。私の関心がある遠山啓の寄稿があった本の中からも偶然に武谷の寄稿を見つけたりもした。

世の中には奇特な人がいてHeisenbergの著作は論文も著作もそれらの翻訳(日本語への翻訳)もすべて収録した目録を作っている人がいる。それらを多分大学で集めているのだと思う。それに比べるとやはり個人のやることはあまり徹底的にはやれない。財力に限りがあるからである。それと私の死後収集した武谷の著作等をどこへ寄託するかそれも大問題である。


個性

2008-03-15 14:41:29 | 日記・エッセイ・コラム

人の個性はいろいろである。二男は人に難しいことをやさしく教えるのを得意としている。以前彼がある団体に属していたときにパソコンの手ほどきをかなり多くの人にしたらしい。インターネットである人と付き合いができたときに二男にパソコンについて習ったということがわかった。

そしてその人が「教え方が上手だね」とほめたらしい。そしたら、「自分の父は学校の先生なんだよ」と答えたとその人から聞いた。しかし、これは二男の謙遜で私は人にものを教えるのが下手である。だから教えるのが上手なのは彼の母からの遺伝かまたは彼の自身の工夫の才によるものであって、私のせいではない。

小さいときから器用で、長男が不器用なのと対照的であった。また、パソコンのマニュアルを読んだりしてそれを理解するのに長じている。こういうことは私のまったく不得意するところである。ところがこういうことを彼はまったく苦にしない。もっとも小説を読んだり、長いテキストを読んだりする根気には恵まれていないかもしれない。

長男はもっとも不器用は不器用なりにそれはそれで個性で長男には他のまねができない個性がある。長男の方は長い本をじっくりと読んでそれを短い話に要約して話すことができた。理解力が優れているのだろう。こういうことも私の不得意とするところである。彼は中学の頃から経済学の本や何かを2,3冊平行して読み、一つの本を読むのに飽きたら、別の本を読むという習慣を身につけていた。わたしが一時に一つのことしかできないのと対照的である。

彼らが小さいときに町内でバスを仕立てて、年に1回スケートアリーナにスケートに行くのが年中行事の一つだった。私は大学の頃に授業をさぼってスケートに何回か行ったことがあったのでいつも彼らの引率をした。

二男は身が軽く敏捷で見よう見真似でバランスをとってスケートをすべることがすぐできるようになった。一方、長男はうまくバランスがとれないので、転げてばかりですべることができない。それで私が歩き方から教えた。はじめは歩くこともできなかったが、基本を教えたので歩くことだけではなくオーソドックスにすべることができるようになった。一方、二男はすべるのは普通の子どものようにできるが、正統的とはいいがたかった。

これはどちらがよくてどちらが悪いという話ではないが、もちろん正統的には右足と左足に交互に体の重心を完全に乗せることができなければ、スケートにはならない。

だから、二男だって正式に歩き方から習って、片足ずつに重心をおきながら、すべることを覚えなければならない。でもそれは正式にということであり、子どもが遊びで年に数回アリーナに行ってすべるくらいなら、どちらでもいいのだ。要はスケートですべって楽しむことだから。


野原三郎先生

2008-03-13 13:21:31 | 受験・学校

野原三郎(札幌の出身だったと思う)という名を聞いて懐かしいと思う人は相当のお年に違いない。旺文社のラジオ大学受験講座の英文法で有名な講師の先生であった。

特にその単語を口調で教えるというところがまさに独特であった。

私も一つだけまだ覚えている。businessという語だが, その意味を(商売、義務、事務、a 事件、a 店)というのである。不定冠詞aがbusinessにつくと事件とか店という意味になるという。

高校生の頃にはそういう語をかなりたくさん知っていたのだが、今ではもう覚えていない。

野原先生がデビューしたのは「考え方」で有名だった日土講習会での(英語)単語塾だったらしいがその辺はよく知らない。

中学校の頃に英語が得意だった私を友人のO君が野原先生の書いている英語の言い回しを覚えてきて、私に尋ねて「私が知らない」といって得意になっていた。そのころの旺文社発行の雑誌の野原先生の講座はまったく面白いものだった。

野原先生の口癖は「花より単語」であり、これはもちろん「花より団子」をもじったものである。

先生には「英文法の要領」という著書があり、長いこと持っていたのだが、甥に貸したら帰ってこなかった。昨日インターネットで調べたら、2300円の値段がついていた。甥がまだもっているか聞いてみようかしら。

「親ばかちゃんりん、蕎麦屋の風鈴」は英語ではIt is a wise father that knows his son(これはもちろん反語である。「自分の息子のことをよく知っている父親は賢い父親だ」とは本当は「そういう父親はほとんどいない」ということだ)にあたるという。それでこの英語のことわざを覚えた。

野原四郎という現代中国の専門家の方が居られたが、彼は三郎先生の弟さんではないかと思いながらそれを確かめたことはない。

なんでこの野原先生を思い出したかというと「私も親ばか」だからである。二男のことを自慢したいと思ったことが野原先生を思い出した理由である。