「豆大福と珈琲」という片岡義男さんの新聞小説が朝日新聞で数日前にはじまった。
片岡義男さんの小説は読んだことがないが、岩波のPR誌『図書』で片岡さんのエッセイの連載を読んでいたことがあった。
片岡さんは英語に堪能な人らしく、中学生の頃とか高校生のころから英語のペーパーバックスを買って読んでいたと書いていた。その蔵書の数は相当なものらしい。
その人が表題の連載小説を書き始めたのだ。今まで読んだところでは主人公の僕は37歳で、お父さんとお母さんは二人とも物理学者で1987年にいわゆる頭脳流出してアメリカに住んでいる。
両親がアメリカに行くときにぼくに一緒にアメリカに来るかと聞かれたが、ぼくは行かないと答えて祖父母と一緒に生活していた。
高校生のいま祖父母の家から出て、友人の家の離れに住むという話が今日までの話である。
乾いたというべきかどうかどう評していいのかわからないが、一文が短くて歯切れのいい文章である。
これから話がどういう風に展開していくのか楽しみである。
片岡さんの小説に関心のもつ個人的な理由はいくつかある。一つは私も片岡さんの小説出てくる両親のような物理学者だったし、それに作家片岡さんが大体私とほぼ同じような年齢であるからである。
片岡さんの小説の主人公の僕はだから片岡さんの息子さんくらいの年令であろう。ということは私の子どもたちの年令ともそんなに違わない。そこら辺が関心をもっている理由である。
3月15日の朝日新聞のbe欄にブック・コーディネ―ターの内沼晋太郎さんの紹介がフロントランナーとして紹介されていた。
世田谷の下北沢に書店というべきかどうかは知らないが、B&Bという店を開店しているという。
そこではビールが飲めたり、本を買ったりできるという。本そのもののおもしろさを伝えたいという。
この記事の中にいくつかの問いがあった。それはすべて本とは何か、本屋とは何かと関係をしているらしい。たとえば、つぎのような問いにあなたならどう答えるか。
「写本は本と呼ばれるのに誰かが詩を書いたノートが本と呼ばれないはなぜか」
「電子書籍が本ならウエブサイトやブログは本ではないのか」
「本の読み聞かせをしている人やブログで書評を書く人と書店員の何が違うのか」
上の3つの問いについて私にも簡単には答えができないが、「それなりに完結したということが本には必要なのではないか」という気がした。
いわゆる何かまだオープンというか開いているときにはまだ本とはなっていないのではないか。そういう気がする。
内沼さんも「ウェブであっても、書かれて編集されるものはすべて本になる可能性がある」と言っている。私の思ったことと同一ではないが、似通っている。
私の考えなどよりも内沼さんの考えることの方が広い観点から考えているとは思うが、久しぶりに考えさせられた。
この内沼さんがビールのコップをもって写っている写真の前の机に先日このブログでちょっと触れたデレク・ベイリーの伝記が数冊の本の一番下に見える。
新聞広告に毎朝書籍の広告が載っている。
その多くはもちろん文科系のテーマの書であるが、たくさんの書が出版されている。これはそういうことを自慢しているととられるのは心外であるが、やはり日本の文化の高さを示している。
それらの本の中には翻訳のものもあり、翻訳しても誰が読むのだろうとこちらが心配になるような書もあるが、それが営業的にpayするかどうかは別にしてやはり日本の文化の高さを示しているといってよい。
もちろん、global化した世界に打って出る必要もあるし、私など英語でなんでも意思表示ができるほど外国語ができないとかいう問題はある。だが、一度その文化の高さを素直に評価してもいいのではないだろうか。
確かに理学書書籍目録に眼を通したら、たとえばの話だが、大学のテキストとしての線形代数の書は数十冊はあるだろう。
真面目にその数を数えたことはないので、それぐらいの印象しか言えないが、過当競争ともいえるぐらいの数である。
そんな国が世界にたくさんあるだろうか。いや英語でなら、それくらいのテキストがあっても不思議ではないが、日本はたかが1億2千万かそこらの人口の国である。英語を解する10億人を対象とするわけではない。
線形代数のテキストを例に挙げたが、これは微積分でも初等的な大学の「物理学」のテキストでもほとんど同じようなことがある。
いやそれどころか結構難しいという評判の量子力学のテキストだって20冊よりは多いだろう。テキストを書くのがいけないというつもりはまったくない。そういう国はあまり世界中にもないのではないかと言いたいだけである。
相対論の本の中でも難しいとと言われる一般相対論に触れたものでも専門家の書いたもの、非専門家の書いたものまで含めると多分10冊を越えるであろう。
そういう文化が日本にあるということを認めた方がいい。個々の書がレベルが低いとか間違いがあるということもあろうが、その点を日本のある意味での特徴ととらえた方がいいのではないかと最近考えている。
絵を描く人は初歩の段階ではデッサンをする。いまではそうそうたる美術家になっている、妻の高校の同級生の I 君などはデッサンが下手だったらしい。
妻の父が実は高校1年のときにこの I 君を指導したらしい。そのときのことを義父は覚えていてときどきこぼしていたらしい。だが、それでも I 君はひとかどの美術家になった。
いまでは韓国や中国またポルトガルとかのヨーロッパを股にかけて活躍している。その辺が義父にはなかなか理解が難しかったらしい。
この I 君はアジア人であろうと、ヨーロッパ人であろうと別に分け隔てなく、付き合っているから大したものである。もっとも彼は東京芸大を出た後でフランスの美術大学に留学しているから、フランス語を話せるはずだ。
それとは全く違うが、私の大学院生のころ京都の美術館にゴッホの絵の展覧会があった。このときに彼の有名な糸杉とかひまわりの絵も見たと思うのだが、よくは覚えていない。
それよりも実に多くの彼のデッサンを見た記憶がある。そして驚いたことにきわめて細かいところまでゴッホがデッサンしていることに圧倒された。
これはどうしてだったろうか。糸杉とかひまわりから受ける私の印象ではゴッホは大雑把な人であるという先入観があったからである。
それは私が勝手な先入観ではあるが、 そこのところが全く予想をいい意味で裏切られたところが意外だった。それでその印象だけが強く残った。
昨日の午後、妻と二人で「柳瀬正夢作品を語る集い」という集まりに県の美術館に出かけた。これは妻に聞いてみると年金者組合で一緒になった人から、いくつかの集会への参加を要請されたので、そのうちの一つの一番文化的と思われる集まりに来ることにしたという。
それでずっと以前だが、世話人に夫婦で参加するとメールをしてくれと妻に頼まれでメールをした。
柳瀬正夢は無産運動に関係していたらしく、愛媛県の美術館にその作品の大部分が収蔵されるまでになかなか紆余曲折があったとか聞いたが、世話人からもその辺はあえて詳しくは触れられなかった。だが、愛媛県のような保守的な県ではなかなかその遺作を購入するということも予算の計上段階でお偉方の認可がなかなか下りなかったのであろう。
芸術派その人がどういう政治思想であるかとは無関係のことのように思うが、それが県レベルの政治では大いに影響を与えていることは十分にあり得ることである。
柳瀬の母方の実家の白石家は今治市の波止浜だというので、今治市出身の私はなんだか縁ができたようにも感じた。講演をした甲斐さんの声がよく聞こえなかったのだが、お父さんももともと今治の出身であるように聞いた。松山に出てきてそれでもうまくいかずに正夢が中学生のなる前に北九州市(昔の門司)に移ったらしい。
それで、正夢は門司の出身ということになるが、松山は幼少時を過ごしたところということらしい。演劇人で、松山出身の丸山正夫との接点もあるとか聞いたが、定かではない。
北九州で柳瀬の展覧会が開かれるらしい。
今日の15時から愛媛大学法文学部の本館2階の中会議室で表題の講演会がある。
一つは今治看護専門学校で哲学を教えておられる、高安伸子さんが子どもさんをシュタイナー学校に入れた経験を「ハイデルベルクのシュタイナー学校」という演題で話される。
日本でもシュタイナー教育は子安美知子(?)さんの著書{ミュンヘンの小学生」(中公新書)等で知られるようになって久しいが、具体的にどういうものかは私もよくは知っていない。
もう一つは法文学部教授の赤間道夫さんが「新MEGA編集と日本人研究者」という題で話をされる。MEGAとはMarx / Engels Gesamtsusgabeの略でマルクス・エンゲルス全集の編集に関係することらしい。
マルクスとエンゲルスの全集は全体で114巻と予定されているというから、とても大部なものである。この新MEGA編集は現在ドイツを中心にして行われているらしい。もちろん日本でもこれに関係している研究者がかなりいるということであろう。
一時旧ソ連の崩壊とともに社会主義の敗北と資本主義の勝利などといわれたが、やはりそういう単純なことではなく、資本主義のほころびは現在では多くの人から指摘されている。
そのせいかどうかマルクスやエンゲルスの思想も見直されているということもあろう。しかし、そういうコンテクストでなくても思想としては研究する人がいるのは当然であろう。
このところ、安孫子さんという科学史家の方のある論文を検討しているのだが、その中に「スターリン言語学」への言及がある。
それで、思いついて田中克彦氏の「『スターリン言語学』精読」を肝心のスターリン言語学の論文の翻訳の部分を除いて読んだ。それによるとこの論文は旧ソ連の民族の自主性とその民族の言語の重要性を認めた論文であるとのことだ。
それで、この論文はスターリンの独裁等の弊害がもちろんスターリンに関しては後世言われているが、民族の独立性とその言語の重要性を認めたという点で正統的なマルクス主義の言語政策とは異なっているという。
そういうことも踏まえると岩波書店の「『スターリン言語学』精読」の発行は貴重なものである。
NHKのEテレで放送しているJ文学をあまり文学に関係のない私は楽しんでいる。
昨夜とその前日の放送で時代を感じたのはベッドのことを堀辰雄は寝台と言っていることであった。
現代の私たちは寝台と言う言葉も使うかもしれないが、それはお年の方であって、普通の方はベッドというのではないか。
1930年代か40年代も前半のことであろうから、寝台という語もうなずけるが、私には古い言葉を聞いたような気がした。
堀辰雄の小説は1冊も読んだことはないが、私が中学生のころに堀辰雄がなくなった。中学校の国語のO先生がそれで、はじめて堀辰雄の小説を読んでみたと国語の授業で話をされていた。
「風立ちぬ」という題はなかなか瀟洒な感じがしたものであったが、それはフランス語のLe vent se leveという表現から来たものだとはフランス語をラジオで学んでいたときに知った。se leverはJe me leve tot ce matin. というと「今朝早く起きました」という意味である。
そのse leverが使われたのが、Le vent se leveであり、leveのどこかにアクサン・グラーブ(accent grave) か何かを入れなければならないのだが、ブログの制約上で失礼をする。
「風立ちぬ」は若い婚約者の女性が結核にかかっており、余命いくばくもないのを知りながら長野県がどこかのサナトリウムで私が一緒に過ごすという話らしい。堀辰雄自身が結核で亡くなったと思うので、あるいは自身の実体験の部分もあるのかもしれない。
ベッドから、またまた話がずれていくが、bedと英語では書く。いま読んでいる田中克彦著『「スターリン言語学」精読』(岩波現代文庫)にドイツ語での t が英語では d に変っていると言及されており、例がいくつあげられていた。
それで私の気がついた例は上の bed が Bett であり、また garden が garten であることだった。だから確かにドイツ語の t は英語では d となっている。「精読」にはもっとびっくりするようなことが書いてあって、deer (鹿)はTier (動物)から来ているというようなことが出ていた。英語の drink, dry はドイツ語の trinken, trocken であると言われればなるほどと思う。
trocken はもちろん「乾いた」という意味だが、これはもちろんワイン等が「辛口」であることをも意味する。いま、ワインと書こうとして「ぶどう酒」と一旦入力したので、私も老人の一人だということがわかった。
いい加減の話だが、英語では動物は animal であり、このごろ流行のアニメの animation とか とも関係がありそうである。
専門用語では、ニュートリノという中性の粒子がある。これは質量があるが、とても小さいので「中性微子」という訳があるが、私はニュートリノという言い方を好んでいる。
標題から、何を言いたいかということがわかるようならば、あなたの宮沢賢治好きはかなり念が入ったものであろう。
今朝、朝日新聞を見ていたら、宮沢賢治の「アメニモマケズ」の詩が出ていた。それはこの度の地震と津波の災害の被災者たちをこの宮沢賢治の詩が元気つけることができるという話が出ていた。
この詩はとても有名なものであるから、暗唱できなくともそれを読んだことがないなどという日本人はいないと思う。それでここに再録することは控える。
その詩を読んでいたら、終わりの方に
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
とあった。今日の今日まで
ヒ「デ」リノトキハナミダヲナガシ (「 」の強調はブロッガー自身による)
と思っていたからである。あわてて、角川の新明解国語辞典や岩波の広辞苑にヒドリが載っているかを調べた。が、ヒドリは載ってなかった。東北弁でヒデリはヒドリというのかとも思うが、まさか新聞のミスプリントでもあるまいから、私は小さいときから自分で勝手に
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
だと思っていたのであろう。
もしかしたら、教科書の編者がヒドリをヒデリに変えていたという可能性もあるが。どなたか東北弁のことをよくご存知の方ご教示下さい。
(注1) 中西先生からのコメントで教えていただいて、該当のサイトを読みました。これが東北弁ではないのならば、ここは素直に「ヒデリ」と読みたいと思います。それにしても朝日新聞は意外なところで原文に忠実だったなんておかしいですね。いや、怪しからんというつもりはまったくありません。ヒデリかヒドリかなんて、論争があったなんてまったく知りませんでした。
(注2)(2113.5.6付記) 昨夜、NHKで音楽家の富田勲さんがつくった宮沢賢治の合唱付きの交響楽を聞いていたら、「ひでり」ではなくてやはり「ひどり」と歌われていた。
しかし、個人的には「ひでり」でいいような気がする。「ひどり」でそれがなんであるかを理解できる人は日本人でもほとんどいないのではなかろうか。原作者の宮沢賢治にもう問い合わせるすべがないので、教え子とか近親者の意見を尊重したということらしいが。
昨夜、岩波のPR誌「図書」の6月号を読んでいたら、中国人の日本思想研究家の孫歌さんが中国人の契約意識について書いていた。それで思い出したのだが、日本での出版業界の契約意識について吉田武氏(ベストセラー「オイラーの贈物」の著者)が最近の新版「オイラーの贈物」のあとがきで書いていた。それによると日本の出版業界は契約の意識がまったくないとのことである。私はその当否をいまここで議論しない。
著者と出版社の間にはどうしても意見の食違いが起こるからである。それは著者の側に立てば、出版社はやらずぶったくりだというだろうし、出版社の立場に立てば、収益のあがらない出版をやっているのだから、著者はもっと出版社の困難な立場に理解をというに違いがない。
本を書くという契約をしてしまうとそれに著者は縛られてしまう。ところが出版社と違って著者には社会における仕事があり、どうしても出版社の思うようには本を書くということに専念できない事情があったりする。そうすると出版社としても契約をしてみたところでそれが果たされることは少ない。だとすれば、契約なんぞという面倒なことをしても役に立たないと思ってしまう。これが実際に出版業界で契約がきちんと行われない理由であろう。
自分の関係したことでも、ある標準的な古典力学の書の翻訳を3人で引き受けておきながら、その下巻の出版は遅れに遅れてしまった。これはきちんと契約したのがいつの時点だったか、多分かなり目途がついてきてからではなかったかと思う。それでも出版社に迷惑をかけたことは間違いがない。ところが、昔の大学の教授は悠々として忙しくなかった方も居られたのだろうが、現在ではあまり有能でもない私のようなものでも結構忙しかった。それで、約束を守りたいが物理的に守れなかったというのが実状であった。
訳者3人のうちの2人までが退職した後でやっとこの翻訳作業が進んだのであった。現職のもう一人の訳者は時間がついに十分には取れなかった。これは別にこの方を非難しているのではなくて現状からは仕方がないということをいっているだけである。
しかし、契約をしっかりしないという文化はときどき困ったことを引き起こす。これはごく最近のことだが、10日間の期限つきで引き受けた翻訳の仕事が翻訳するべき対象をはっきりしていなかったために一緒にやってくれた人には迷惑をかけた。これはちょっと疑って言えば、依頼者が引き受け手にその点をわざとあいまいにしてうまく引き受けさせたという気味がないではなかった。
もっとも依頼者は一応それに対する口実をもっていたが、だがこれは依頼者の側の論理であり、実は仕事の量がはじめからはっきりしていたなら、実際には引き受けることをしなかったと思うからである。このことについては当事者としての私には実に深い不信感があった。それがどこだったかは明確に言うことができるが、別に起こってしまったことはしかたがない。
それだけでなく仕事自身は期限を切られて大変だったが、この支払いが分割払いでそれも仕事の終了後の2ヵ月後にやっと全額を受け取れるという翻訳者にとっては不利なことがあり、翻訳者の世話人としては他の方に心配をかけてしまった。他の方々は最悪の場合にはただ働きになってしまう可能性もあるのではないかと私のために心配をしてくれたのであった。
知人からなかなか品揃えはいいとは聞いてはいたが、それでも行く機会がなかった。ところが、妻が折り紙の本を買いたいというので、一緒に出かけた。
行って見ると確かに本がぎっしりと詰まっているという感じである。それで紀伊国屋のときと違っていたのは各階ごとにカウンターがないということだった。ということは各階ごとに購入したいと思った本があったときに、一度一階まで購入する本をもって降りていってそこで支払いをしなければならない。
店を出てから、本の万引きが増えるのではないかと妻が要らぬ心配をしている。たぶん、至るところに監視カメラがついているのだろうというのが、私の考えである。それにカウンターが一箇所だと人減らしもできる。そうだとすれば、人件費を減らすことができるから、ときどき本の万引きがあったとしても、その損失と人件費のどちらが大きいかということになろう。私は多分人件費の方が圧倒的に大きいと判断する。それが一階にだけカウンターをつくった理由であろう。なかなか合理的な考えである。