物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

Cardano変換としての平方完成

2015-03-31 11:44:47 | 日記
平方完成とは2次式の1次の項を見かけ上なくした形である。

y=ax^{2}+bx+cという2次関数があれば、これをy=a(x+p)^{2}+qのように変形することを普通には平方完成という。

3次方程式や4次方程式の解の公式を求めるときに3次方程式ならば、2次の項を消去する変換をCardano変換という。

この変換は2次式の場合には平方完成を意味すると最近読んだ「数理科学」の4月号に書いてあった。

しかし、そのことを読んだけれども確かめてみることはしなかった。もちろん、そうだろうとは思ったけれども。

朝方に目が十分に覚めていない段階でいつものように何かを考えていたらしい。1次の項はなくなり、2乗の項が出てくるのは実際に紙の上で計算して見なくてもわかったが、定数の部分が本当に一致するのかはわからなかった。

それで起きたときにすぐにこの計算をしてみたら、当然ことではあろうが、ちゃんと一致していることがわかった。

東京高校

2015-03-31 11:15:47 | 日記
旧制の東京高校の出身者としては数学者なら、矢野健太郎氏だとか物理学者なら、渡辺慧氏とかがいるだろう。

昨晩、岩波のPR誌『図書』4月号を読んでいたら、歴史家の網野善彦氏が東京高校の出身であることをを知った。

東京高校ということで言えば、物理学者の木庭二郎さんが東京高校在学中に学生運動で退学になったということを岡部さんの木庭二郎さんの思い出のエッセイで読んだ。

獄中にあって肺結核を病み、闘病生活を余儀なくされた、木庭さんはその後、山形高校を経て東京大学に進む。そして1945年に大学を卒業したころには30歳くらいになっていたらしい。

その後、朝永振一郎氏のくりこみ理論の建設に重要な一翼を担ったと聞いている。京都大学の基礎物理学研究所の教授の後、ポーランド在留をへて、デンマークのボーアの理論学物理学研究所に在職中に亡くなった。これは私が大学院だったかそれとももう大学に在職していたかはもう定かではない。

イタリアかどこかの夏の学校に出かけるための予防注射が昔の病気の肺結核を悪化させたという。

私は修士課程の頃、中間子の多重発生に関心があったので、木庭さんと高木さんが書いた多重発生のレビュー論文をその別刷をO教授からもらって読んだ覚えがある。残念ながら、私はこの中間子の多重発生の研究をすることはなかったが。

インフラ

2015-03-30 10:40:21 | 日記
日本語でもインフラとかいう言葉がよく使われている。最近の話題ではAIIB(Asia Infrastructure Investment Bank)に日本が加入するかどうかといったような話題がある。

このインフラであるが、私などはinfrared(赤外線の)という専門用語でinfraを知った。infraは前置詞で、「下に」、「下位に」や「後」、「以後」の意味もあるという(注)。

インフラストラクチャーを昔の英和辞典で引くと、下部構造とか社会資本とかとなっている。もっと新しい英和辞典を見ると、「(道路、鉄道などの)基幹施設、」、「インフラストラクチャー(経済基盤)」とかの訳語が出ている。

インターネットで調べていないので、わからないが、たぶん上下水道、電気、ガスとか電話・インターネットだとかもインフラストラクチャ―に入るのではないかと思う。

古い辞書には軍事基地といったおっかない訳語も見える。そういう意味に使われていたのであろうが、大分市民生活に必須の概念となってきたようである。

(注)赤外線がinfraredなら、紫外線はultravioletといい、infravioletではない。これはinfraのもとの意味の「下に」の意味を表している。紫外線の場合は紫の光線の周波数よりも大きいものが紫外線であるから、infraは使えないということだろうか。

第60回雑談会

2015-03-28 13:00:03 | 日記
毎月の第4土曜日にしている、雑談会は今日で59回目である。来月4月の雑談会は記念の60回目である。特に、記念すべき行事も考えてはいないけれども、参加者の中から何かしてはどうかという意見がでてくるかもしれない。

もし、毎月雑談会をしていれば、5年を経過したことになるのだが、8月は恒例休みにしている。それで5年以上は続いている。8月のお休みは私がいつも8月の第4土曜に徳島科学史研究会があって、雑談会をできないからである。

今年は4月には昨年の10月に亡くなった私たちの先生の追悼会が松山で4月25日(土)にされるので、定例の日には雑談会はすることができない。それで第3週の土曜日にでも変更をしなければならない。

経済学者の N さんと私が世話人になってこの会をやって来たのだが、もちろん雑談会の世話人の N さんは『数学・物理通信』の共同編集者の N さんではない。経済学者の N さんも事故で入院したりとご難続きであったりして、世話人の重責はほとんど私が担ってきた。これは実は『数学・物理通信』も同様である。

『数学・物理通信』の共同編集者の N さんは持病をお持ちなので、活動が心ならずも阻害されている。もっとも最近は編集後記を書く仕事はかかさずされている。サーキュラーの編集でも、雑談会の世話人でも自分でなんでもやってしまった方が能率がいいところもあるが、やはり問題が起こったときに相談する相手がいるのはいい。

ということで、私が元気な限り、雑談会も『数学・物理通信』の発行も続くであろう。

カルダノの公式

2015-03-27 11:50:59 | 日記
以下のテーマは高校で数学を学んだ人にはわかる話で、そんなに難しいことではないが、広くいえば、数学のテーマなので一般の読者の方には誠に申し訳ない。お詫び申し上げておきます。

カルダノの公式というと言わずと知れた3次方程式の解の公式である。昨日、すでに2月末に書いていたエッセイ「虚数とカルダノの公式」に補遺をつけ加えた。

そして、自宅に帰って夕食後にテレビを見ている間にちょっと計算をしてみたら、どうも私の示した解の公式の求め方と文献に与えられた式で1カ所符号が一致しないことに気がついた。

その点は未解決のまま就寝したのだが、今朝の夜明けごろに目が覚めたという意識はないのだが、その符号の違いがどこから来るのか解決した。

カルダノの公式では未知数x=y+zとおいて、1つの未知数xだったものを2つの未知数 y, z にするといわれる。これは奇想天外な発想だと小島寛之さんの本に書いてあった。

そうかもしれないが、私のエッセイではx^{3}+y^{3}+z^{3}-3xyzを因数分解をするという風に話を進める。すぐわかることは上に挙げた3次式はx+y+zという因数があることは高校生でも知っている。

そうだとすれば、x^{3}+y^{3}+z^{3}-3xyz=0という方程式を解けば、x=-(y+z)とという解があることになる。これで違いができた理由がわかった。解の予想をx=y+zではなく、x=-(y+z)とすれば、私の場合と普通の方法での解とが一致する。

わかってしまうと「なあーんだ」ということである。このエッセイは『数学・物理通信』5巻3号(6月発行予定)に載せるつもりである。乞う、ご期待。

(注1)いま普通の解法でx=y+zとおいたということは、x-(y+z)という因数があることを仮定したことになる。ところがすべての3次方程式をx^{3}+y^{3}+z^{3}-3xyz=0に帰着すると考える方法では因数としてx+y+zがある。だから、普通の解法と同じ式を得るためにははじめの解をX=-(y+z)とおけばよい。

フォンタナの奇想天外と思われたアディアは3次方程式が因数としてx-(y+z)をもつと仮定したことになる。一方、すべての3次方程式をx^{3}+y^{3}+z^{3}-3xyz=0に帰着させるという考えだとその因数としてはx+y+zがあるのだから、解としてはx=-(y+z)とおくことになる。

(注2)すべての3次方程式をx^{3}+y^{3}+z^{3}-3xyz=0に帰着させるという考えは私は遠山啓の『数学入門』上(岩波新書)から知った。

広田良吾さんの死去

2015-03-26 13:01:13 | 日記
雑誌「数学セミナー」を見ていたら、広田良吾さんが亡くなられていたことを知った。享年82歳だった。

広田さんは非線形波動とかソリトンの研究で有名な方である。特に「広田の方法」とかが有名である。私が E 大学在職中に数学の先生が広田さんを非常勤講師に呼ばれた集中講義があったので、それを聞かせてもらったことがある。

もう一度は理学部の物理の D 先生が集中講義の依頼をされたので、その講義を聴講したことがある。非常に独創的な方であり、広田さんは現代の和算を起こされたとまで高く評価された方である。

講義もご自分の経験に裏打ちされたものであり、生き生きとしたものであった。ご冥福をお祈りする。

晩年は、差分法のことをいろいろと研究されており、その著書も出されている。研究の全容が明らかになるまでは発表をしないとそのときに伺ったが、その後私のもっている差分法の書籍でも2冊はあるから、全容を解明されたのであろう。

広田先生の、数学者の佐藤幹夫さんの評価はとても高く、「僕は天才などいるとは信じていなかったけれども、佐藤さんは天才ですね」と言われていたのを覚えている。

人は人を知るであろうか。

遠心力は実在しないか

2015-03-26 11:26:31 | 物理学
昨日、天気がよかったので、数か月ぶりに理髪店に出かけた。大体あまり理髪店がすきでないというか、どうしても行かなければならなくなるまで理髪店に足が向かない。理髪店泣かせである、私は。

理髪店の後に大街道の明屋書店にちょっと立ち寄ってみた。大体、出不精の私は散歩にも年に1回でもでかければ、よく行く方である。

書店に行くことも E 大学の生協書籍部に出かけるくらいで、ほとんど行かない。それでもときどきは思い出したように来たのだ。

そこでは最近はあまり数学とか物理の専門書はないのだが、松田さんという有名な宇宙論学者本を見かけたので、ちょっと手にとってみた。

その中に遠心力は存在しないとあった。これは彼がイギリスのある研究所に滞在していたときに誰かに遠心力は存在しない。それは見かけの力であると説得されたという話であった。

私たちの年代だと遠心力は見かけの力であると高校の受験勉強だとか大学教養部時代に学んだものだが、私は教養部時代に一時期だけ教わったことのある, O 教授は実際に力を感じることを体験できるのにそれを見かけの力という考えに反対だとお考えであった。いまでは私はその考えに賛成である。O 教授は思想的には右翼の先生であり、その点は賛成できなかったが。

もっともそれが根源的な力として存在しているかと言えば、存在しているわけではない。そこらあたりが慣性力だとか遠心力の限界である。だが、それは体験できる力であるという意味で遠心力を存在しないというのはどうであろうか。

山本義隆氏の駿台予備校の講義を記した本でも彼は遠心力は見かけの力だと丁寧に説明をしてある。だが誰でも経験できるものは実在しているという風に考えることにすれば、私は遠心力は存在しているという意見に組する。根源的な力として存在しているわけではないという注釈付であるけれども。

しかし、これは物理学者の間でも意見の分かれるところかもしれない。

地球上の重力加速度は地球の場所場所で違っている。これは普通は地球から受ける万有引力と地球上の各場所でそこにいる観測者の感じる遠心力の合成である。したがって地球の回転軸から離れている赤道近くが重力加速度の測定値が小さいはずである。

第一、人工衛星を打ち上げる、打ち上げ基地が赤道にできるだけ近いところにとられているというのはそういう遠心力を利用するためと聞いている。

それに宇宙ステーションで重力が遠心力と打ち消しあって無重力になっているという説明も遠心力という概念が使われている。それはなかなか宇宙ステーションにいる人には地球上のいる人の視点に立っては現象を記述するのが難しいからであろう。

そんな宇宙ステーションまで行かなくても道路が右または左に大きくカーブしていれば、車に乗っている人は曲がる方向と反対方向に力を受けるのを感じる。車に乗っていなくて地上に静止している観測者からみれば、そんな遠心力はどこにも出てこないけれども、車に乗っている人には現実に力が働き、ある程度自由に動ける小さい物体が車中に存在していればそれは実際に運動もする。

「なんでも体験したものがすべて事実だ」などとは言わないが、この遠心力は現実に普遍的に誰でも体験できる(付記)。

(2020.9.25 付記)人間が極限状態で感じる神秘体験などがある。確かにこういう神秘体験は経験できるといういう意味では事実だが、それは「ものを生産する」とかの実践に使えるわけではない。「なんでも体験したものがすべて事実だなどとは言わない」と書いたのはそういう意味である。

にわか塾

2015-03-26 11:17:30 | 日記
10時過ぎに近所の小学校1年のこどもが二人算数と国語のドリルを持ってやってきた。私の家は急遽にわか塾に変化した。

妻が子ども好きであるので、ときどき近所の子どもがやって来る。とは言ってもたいていは妻のもっているタブレットのアニメを見たいがためである。

そのせいかどうだかはわからないが、おばちゃんの家の中で塾のドリルをやりたいと考えたのであろうか。

前に妻がつくっていた5を表すタイルとかなんかを使って数の計算をしている。2ページのドリルができたら、飴を1個食べてもよいというご褒美付である。

二人とも2ページのドリルを何回かクリアして、飴をしゃぶっていた。その後は我が家はジムに早変わりである。彼らがウォーキングマシンで遊ぶのである。やれやれ。 

不等式

2015-03-25 12:12:49 | 日記
昨日、書店に行ったら、不等式を取り扱った書を見つけたので、購入した。『不等式』(共立出版)である。

友人の数学者 N さんの論文に私のなかなか理解できなかった不等式があってその証明に苦労したいきさつを『数学・物理通信』に書いたことがある。

N さんは「数学の要諦は不等式である」というお考えの持ち主である。私にはそれがもっともなことなのかどうかの判定はできないが、彼の考えに少しは感じ入っており、それが不等式の書を見掛ければ購入したいという気持ちにさせた。

日本語で書かれた不等式の書は数冊はあるらしいが、そのどれもまだもっていない。いつだったかインターネットの古本市を検索したら、2,3冊が検索に掛かったのを覚えている。

大関清太さんという方がこの書の著者である。多分この書よりも前にも同じタイトルの不等式の書を書かれているのではなかったかと思うが、記憶は定かではない。

代数方程式を解くこととか不等式などにはついぞ関心はなかったのだが、最近少し関心がでてきている。そうはいっても友人の N さん本人は私などよりももっと不等式に関心が深い。

シンクロニシティ

2015-03-25 11:24:45 | 日記
シンクロニシティsynchronicityとは同時性とでも訳すことができようか。

これは偶然の出来事なのだが、同じようなことが起こることを指すと思っている。勝手な解釈かもしれないのだが。

実は『数学・物理通信』5巻3号に「虚数とカルダノ方程式」というタイトルのエッセイを書いてすでに編集段階(発行は6月の予定)であったのだが、昨日『数理科学』4月号を書店からもらってきて読んだら、ちょっと記述のしかたは違うが、発想の似た木村俊一さんの論文記事が見つかった。

タイトルは「代数方程式の天才たち」である。取り扱っている範囲はこの論文の方が私のエッセイよりももちろん広いが、取り扱っているテーマの隠された意図は重なるところがあった。

それでひょっとすると私の書いたエッセイに追加をした方がいいかと思っている。私の書いたエッセイの意図は虚数の意義は3次方程式の解の公式である、カルダノの公式で確立したという趣旨であった。

もっとも私が取り扱った3次方程式は遠山啓が『数学入門』上で取り扱ったたった一つであるが、さらに先のことにはなるだろうが、3次方程式のカルダノの公式を多くの日本語で書かれた数学書でどう取り扱っているかの比較研究をしたいと思っていた。

それらのいくつかの書をちらっと見たところでは解の公式を使う途中では虚数が出てくるが、実は実数の解しかない例をいくつか見かけた。

それで取り上げた例は一例に過ぎないが、かなり普遍的なことであると感じていたのだが、その辺を木村さんはもっと掘り下げているようだ。

木村さんの書かれた書もあるようだが、それを読んだことがない。木村さんの論文は4次の方程式の解を導き方も触れてあるようだし、まだ十分に読んではいないが、5次以上の方程式のことも触れてあるようだ。さすがは数学者である。


ピロリ菌の除去

2015-03-24 11:55:45 | 日記
ピロリ菌の除去のために胃カメラをのんだ。ピロリ菌の除去のために胃カメラの検査が必要だということだからである。

今朝、検査をしたのだが、慢性の胃炎があったほかは変わったことは3年前とかわりがなかった。

ということでプロり菌の薬を処方してもらった。朝晩、抗生物質の薬を5錠づつ服用することが必要である。

そして2か月ほどしてきちんとピロリ菌が除去されているかどうかの検査があるらしい。薬を飲み忘れなければ85%くらいの確率で除去できるらしい。

ピロリ菌が胃がんの原因になることが言われて数年になるが、ようやく除去の治療にかかることになる。

胡同(フートン)

2015-03-23 10:59:55 | 日記
胡同(フートン)というなんだか懐かしいような音の響きの中国語である。この語を知っていたが、その意味をよく知っていたわけではない。

この胡同(フートン)は「中国の路地」を意味するという。リービ英雄さんだったかどなただったかは忘れたが、アメリカ出身の詩人で日本在住の方が、以前に中国の胡同という語を彼のエッセイに書いていたので、その語を知っていたのである。

昨日の朝日新聞の書評欄に「老北京の胡同」という題の書の書評を隈研吾さんがされていた。
その一節を引用しておく。

(引用はじめ)時々の為政者による上からの抑圧的システムにかかわらず、中国人は胡同という装置によって自らを支え続けてきた。(中略)

中国に昔から存在していた貧富の差や地方の格差の問題の解決にも、都市の中の胡同という装置が大きく寄与していたことに驚いた。地方から出てくると、まず胡同という迷宮に入り込んで、同郷人で助け合う。住居の形式が、デザインが、社会的格差から人間を救い出していたのである。

だから、胡同が近年の不動産ブームで激減したことは、文革の時以上の、中国システムの破壊だと、僕は感じた。(引用おわり)

いうまでもなくここにある「僕」は隈さん本人である。




















冠飾句雑感

2015-03-23 10:34:34 | 日記
冠飾句などといってもわかる人はドイツ語の専門家ぐらいであろうか。

ドイツ語の構文的な特徴として

1. 文の枠構造
2. 冠飾句

だといわれる。文の枠構造の方は初歩のドイツ語で強調して教えられるが、冠飾句の方はあまり初歩のドイツ語では触れられない。これについてこのブログでも何度か触れたことがある。

それがどんなものかということは今日は話題にしない。いつだったかこのことが木曜夜のドイツ語のクラスで話題になったことがあった。

冠飾句はLinksattributと言われることもわかったが、そのときにドイツ人である R 氏から日本語の方がこの冠飾句構造が強いのではないかという指摘があった。

それに関した一例である。昨日、読書欄を朝日新聞で読んでいたら、「日本のまんが」1-3の水無田気流さんの書評があった。その内容をここでは問題するわけではない。

以下はちょっとそこの一文から私が考えたことである。

松本(零士)の陸軍パイロットだった父の話も強烈な印象を放つ (カッコ内は引用者追加)

とあった。「松本の」という語を父の直前にもってきた方がいいのではないかと一瞬思ったのだった。そう思ってこの入れ替えをしてみると

陸軍パイロットだった松本の父の話も・・・

としてみるとあたかも松本が陸軍パイロットだったかのような錯覚起こさせる文章となってしまう。それでやっぱり元の文の方がよいことがわかった。

この主語の部分を英語に訳して見れば、

Matsumoto's father who was a army pilot, ・・・

でもなろうか。そうだと英語ではあまり誤解が起きない気がする。

なにが生きがいか

2015-03-21 13:41:46 | 日記
私は大抵仕事場にこもって終日何かの文章を書いていたりする。

それは最近では初等的な数学のエッセイが多いのだが、それが生きがいというかやりがいのあることだと感じている。

普通の人から見たら、このことは奇妙に映るだろうと思っている。だが、その姿勢は変える必要を感じていない。

昔、大学院生だった頃、受験数学の神様のような感じがしていた戸田 清先生が H 大学を退官することになって、戸田先生のファンだった私はその最終講義を聞きに行ったことがある。

そのときに戸田先生は「啓蒙活動としての数学教育は十分にやった」とその最終講義で言われた。

だが、そういう意味とは全く違うけれども、私には数学教育の分野での仕事はまだまだやりつくされてはいないと考えている。いや、私が死んだ後でもやはりなかなかやりつくされないのではないか。

そういう意味では神様のつくられた世界を、いや、これは人間が関与して新たに創造していくことも含めての広い概念であるけれども、ときほぐすことをやり尽くすことはなかなかできない。そのほんの一部を私が掘り起こすという気持ちがしている。

素朴に神を信じるとかそういう気持ちにはなかなかなれない。しかし、それでもそういう広い自然というか事物というかそういうものに潜む自然の法則はあると信じている。

これも大学院生の頃に当時私たちのセミナーの指導教授だったOさんに宇宙の永遠の時間についてどう感じているか尋ねたことがあった。彼は「太陽系がなくなったあとでも自然の法則に従って宇宙は粛々と動いていくだろう」という世界観をもっていた。

それは唯物論的な思考をもった、科学者のもてる世界観の典型的なものであったろうか。いま私の世界観もそれに近づいて来ている。


鳥がV字編隊で飛ぶのは?

2015-03-21 13:23:17 | 日記
今日の朝日新聞のbeの紙面でこの問いがなされていた。

先頭の鳥の両翼の先端で渦が生じているので、その上昇気流をうまく利用してV字型編隊をして飛んでいるということである。

そのことはまあ合理的に人間は理解できるが、鳥はどうやってそんなことをわかるのだろうか。そこが不思議である。あまり知能が鳥にあるとは思えないので、そこが不思議である。

このV字型飛行によって空気抵抗を20%も減らすことができると聞けば、その鳥の賢さに感心してしまう。

ただ、これは遺伝的な情報とは思えないのでやはり生後の学習の結果なのであろう。鳥には知能がさほどあるとは思えないけれども、自分の生存がかかっているから、学習するのであろうか。

この話とは別だが、花カマキリの生態を報告したテレビを先日見た。この花カマキリは動物なのだが、花まがいの芳香までまき散らして虫、この場合には蜂のようだったが、をおびき寄せている。なんという頭のよさなのであろうか。

もっとも頭のよさなどということは本当はできないだろう。本能的にそうなっているに過ぎないのであろう。これはその形や色とかが花に似た形態をもつように進化したところの自然の妙に驚かされる。

なかなか自然界には一筋縄ではいかない神秘がまだまだ隠されていると感じるのは私だけであろうか。