物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

本の出版ができない

2010-09-30 13:36:20 | 本と雑誌

ある出版社から2005年に自費出版で「数学散歩」を出した。

いくつかのミスプリントとか、文章の出来が悪かったところを直して第2刷を出そうかと思って、出版社に問い合わせたが、印刷費とか用紙代の価格が上がったとかで結構費用がかかることがわかって断念するしかないことがわかった。

1,500円で1,000部出したときに、それが全部売れたとしても著者の取り分が定価の35%とすると、私の投資した額を回収できない。別に利益を得ようと思っているわけではなく、収支がつりあえば、いいと思っていたが、こういう考えはあまいことを知らされた。

いまの計算では全冊がもし売れたとしても、入るお金は525,000円であるが、見積もりでは印刷と用紙にかかる、費用は70万円を越すという。初刷のときは定価が2,500円(税込み2,650円)であったが、これは出版社がつけた価格であり、私は関与していない。相談があったのかもしれないが、覚えてはいない。

現在ではインターネットの時代だから、出版社の書籍を絶版にして、自分のホームページにpdfで出して、無料で閲覧できるようにしたらいいかとも思うが、まず自分のホームページをもっていない。

まだ将来にわたっては自分のホームページをもつことを諦めてはいないが、本当にもつことができるかは疑問である。(註:「数学散歩」はgoogleのサービスで全部ではないが、その一部はいつでも見ることができる。またある期間後には別の箇所が出されているから、長期間そのサイトを覗いていると全貌がわかる仕組みになっている)

電子書籍化して安価に流通させることも考えているが、出版社が乗り気かどうかはわからない。少なくとも300円とか500円のオーダーで流通できるのではないかと思うのであるが、それも版権をもつ出版社が多額の権利金を請求するのかどうか、すんなり認めるかどうかわからない。

すべて、出版社の働いている人々の生活を支えるためであろう。どうしようもない。


殺人の件数

2010-09-29 13:07:39 | 日記・エッセイ・コラム

マスコミで報道される殺人の件数が私の住んでいる松山で多いような気がする。自分が住んでいての感覚では災害は少ないし、気候は温暖で冬は暖かく住み心地は悪くないと思う。

最近男女関係のもつれとかで殺人が続けて起こった。これは偶然なのだろうが、ちょっと物騒になっているとも感じられる。男女の愛では別れたくないという男性に対して、女性がもう別れたいという構図が多いようだが、殺人をするくらいならさっさと別れた方がいいというのが、私の意見である。

これはしかし当事者にとっては私の思うようには感じられていないのであろう。だが、殺人はいけない。殺人を犯すにいたるようなら、その前に男女は別れた方がいいと思う。男女の愛だって別れたからといって、別のところで新しい発展がないとはいえないだろう。だから、お先真っ暗ではないはずである。

もちろん、中年以上では新しい発展とかはなかなかないのだろうが、それはそれで仕方がないと諦めるしかないのではないか。これは若い人とは違うところである。この年がいくらぐらいが分かれ道かというと、それはある人には50歳であるかもしれないし、ある人には60歳であるかもしれない。

私のように70歳を越せば、新しい発展とかはほとんどないのだろうが、そういう年齢でも高齢者の施設に入って新しい関係を互いに発展させることもあると新聞とかでときどき見かける。

私のドイツ語のクラスメイトのTさんは数年前に奥様を病気で亡くされたが、その後再婚されて毎年6月頃に夫妻でヨーロッパ旅行に楽しく出かけられている。いまの奥様もご主人を亡くされた方らしい。そういう例も知っているので、お互いが憎み合いをするくらいなら、別れて新しい出発をする方がいいと思われる。


武富士の倒産

2010-09-28 12:11:31 | 社会・経済

高い金利で営業をしていたという、武富士が倒産した。過剰利息を手に入れていたはずなのにこれを返却しなければならなくったら、支払いができなくて倒産したと新聞等でいっている。

これは高利をとることを法律で禁止されたためらしいが、禁止されたといっても利息の上限を20%までに抑えられたということらしい。

それはともかくとしてこれは20%以上の高利をとらないと利潤が上がらないということなのだろうか。そうだとするとやはり会社としておかしいのではないか。もっとも貸し倒れが多かったのかもしれないが、誰かがやはり利潤を得ていたと考えるのが妥当であろう。

そして、過剰利息の返却をしなくてはいけないようになったら、それをほうかむりしてしまったにちがいない。これは単に推測としていっているので、確かな証拠があるわけではない。

お金を借りた人には厳しい返却を迫るような金融機関が実際に自分が金の返却を迫ままれると分割払いをしたり、また倒産してしまうという図はどう考えてもおかしいのではないかと思わざるをえないが、全然会社の中で内部留保がされていないとすると消費者金融の経営の危うさが浮かび上がってくる。

高利で貸す以外に生き残れない消費者金融というのはやはり社会としてどこかおかしいのではなかろうか。


続、広重の三段階論批判

2010-09-27 13:16:10 | 学問

どうも今年は昨年から書き始めている、広重の三段階論批判の原稿の続きを書く気が起きないので一日伸ばしにしていたが、もう締め切りまでに1週間をきったので、日曜日に10枚ほど書いてみた。

もっともこれをパソコンに入力してそれから推敲に入るのだが、時間があるだろうか。数学エッセイ「視力の単位」の原稿に書き足しておきたいことができたが、しばらく我慢して三段階論批判の原稿に集中したいと思う。

なぜ、あまり批判があからさまでないところで、書きあぐねているのだろうか。なかなかこれは自分でもよくわからない。広重の独白みたいなところもある。どうも広重が自分の勝手につくりあげた三段階論の批判みたいのところもあるが、それだけではない。

科学の歴史に関しては広重が言う方が正しいと思われるところもある。一般の人が陥るのと同じような誤解を武谷がしていたとの明白な指摘はない。しかし、一般人の誤解と同じ誤解に武谷が陥っていたのではないかとの印象を与えるような書き方のところもあり、もしそこを誰かに逆に鋭くつかれたときにはそういうことを意図としていないと、いい抜けることもできるようでもある。

いずれにしても残り日時は数日のことであるので、しばらく頑張ってみたい。


「思考の整理学」読了

2010-09-25 13:58:19 | 本と雑誌

今朝ようやく「思考の整理学」を読了した。この本はなかなか興味あることを書いた本なので、ベストセラーになったのも肯ける。それに薄い本なので、重たくは感じないですむ。だが、私は読み終えるのに数日かかった。

得ることはあったと思うが、本を読んだ順に忘れてしまうのでどうもしようがない。一つだけ覚えているのは、朝飯前というか午前中が頭が冴えたいい時間帯だということであった。

私のように朝が苦手なものには耳が痛いが、私の友人には朝に強い人がいる。彼のうちでは奥様も5時ごろに起きて掃除をされるとか聞いた。だから彼と彼の家族は夜の10時には就寝されると聞く。それだと確かに5時の起床で7時間の睡眠ということになるから、それで十分なはずである。そして朝の時間が長くていろいろ仕事ができるという風に聞いている。

「思考の整理学」はするすると読める本であるが、そこに述べられている方法を全部ではなくともいくぶんかでも取り入れるだけでも大いに役立つだろう。もっともこの本を読んだ人は少なくとも数万人はいるだろうが、それらの人々がこの本をどれくらい役立てているかはわからない。

いつでも、方法は誰にでもできそうで難しくはないが、それを実行してみる人は少ないものである。


生き方いろいろ

2010-09-24 13:14:09 | 日記・エッセイ・コラム

「数学教室」(国土社)10月号に数学者の瀬山士郎(群馬大学)さんが「2011年3月に定年になったら、数学・数学教育からきっぱりと手を切って、残り少ない人生をめいっぱいやりたいことをしたい」と書かれている。それはそれで一つの生き方だと思うので、別に反対ではない。

瀬山さんには一度だけ会ったことがある。もう20年以上昔のことだが、高知県で行われた数学教育協議会の全国大会のホテルの一室であった。現在はどうか知らないが、ひげを生やされた重厚な感じの方であった。

その後、瀬山さんは人気のある、数学書の著作者となり、わかりやすい数学の本をたくさん書かれている。そのうちの数冊は私ももっている。だから、ご自分ではやるべきことはすでにやったと思われているのであろう。また彼はミステリとかSFのファンで、お酒も好きならしい。

彼が自分の思った通りに定年後を過ごすことができるかどうかはわからないが、私ならそんなにきっぱりは割り切れないだろうなと思う。これはどちらがいいとかいっているのではない。いろいろな生き方があるのだと思う。

有名な数学者の森毅さんも定年後は数学教育からは手を切ったようだし、もっとよく知られた例では地球物理学者の竹内均さんは地球物理学のもっていた蔵書とかを研究者仲間等に譲って研究とは縁を切ったというのは有名である。彼は百科事典とかの辞典の類だけを手元に残して後は始末したらしい。これは生き方が潔いともいえるが、なかなか私には真似ができそうにない。

これは伝聞にしか過ぎないので、実際はわからないが、化学者のポーリングは晩年までビタミンCがガンの予防に役立つことを証明しようとして研究を続けたという。彼は化学でノーベル賞をとったが、その後ノーベル平和賞を受賞した人でもある。また、ワトソンとクリックがDNAの二重らせん構造でノーベル賞をとったときも、彼らの仮想したライヴァルはポーリングであった。

私の大学在職中の終わり頃に医学部の学生のための自然科学概論だかの講義を担当したときに授業時間の1/3くらいをビデオを見せることにした。そのときに化学大企業のデュポンがつくったビデオを見せたが、そのときにビデオで見たポーリング邸は海岸に近い崖の上の大きな邸宅で、彼は晩年もそこで研究していたのだと思う。


思考の整理学

2010-09-23 13:14:16 | 学問

昨夜、外山さんの「思考の整理学」を読み始めた。

ある種の知的な仕事術の本であるが、はじめのところは読みたくなかったので、途中の「カード・ノート」のところからはじめて1/3くらいは読んだだろうか。

これは近くのブックオフで300円で手に入れたものである。これは一時ベストセラーになったから、すでに読んだ人も多いだろう。

この手の本としてはもっとも有名なのはやはり梅棹忠夫の「知的生産の技術」であろう。これはいまでもでているはずなので、読んだことのない人は購入して一度読んで見られるといいと思う。文章の書き方とかをこれで学んだと思う。

「知的生産の技術」はノートの代わりにカードを使うことを薦めている本であった。これにならって一時カードを使うことを試みたがこれは成功しなかった。

それでも朝永の「量子力学 I 」の講義ノートはカードでとった。この本は物理学科の学生なら、学生の頃に大抵読むはずの本であって、私も大学時代に同級生と週に一回私の下宿に集まって読んだので、ノートをとってはいたが、講義ノートの量は学生のときの量と比べれば格段に多くなった。

竹内均さんの「私の知的鍛錬法」も役立った。なんでも文章の断片を書いておいてそれを暇ができたときに見直すという風にして仕事を進めるという方法は私も採用をしている。

ただ、竹内さんは徹底していて短時間でも時間があれば、テープに口述録音をしておき、その録音のテープ起こしをする秘書さんを雇っているという。

それだけの収入がある仕事をしているということでもある。これは私たち普通の人間のできることではない。

今年の夏は暑かったので、仕事が進まなかったが、それでも竹内のやり方にしたがって、以前に書き始めていたエッセイの「二項定理1、2」をまとめ、またその後「最大公約数の求め方」、「視力の単位」を完成し、「平方根の近似値1」の完成に一歩近づいている。

「思考の整理学」に帰るとまだ1/3くらいしか読んでいないので、全体を読み終えたら、その感想を書く、機会があるだろう。


Kein Meister vom Himmel gefallen

2010-09-22 12:55:43 | 外国語

Kein Meister vom Himmel gefallen(カタカナでつたなく読みをつけると、カイン マイスター フォン ヒンメル ゲファッレン)とは直訳すれば、「天から落ちてきた名人、達人はいない」ということである。なんにも練習しないで名人、達人になった人はいない。

イチローの年間200本安打が秒読み段階に入っているが、彼の場合もそうなのであろう。優れた素質をもった人にしてもそうである。ましてや我々凡人においておやである。

それもイチローの場合は長い大リーグの歴史を書き換えるぐらいの記録である。サード前にセーフティ・バントをしてヒットを増やしたりするという点で批判はあるかもしれないが、だがそれをヒットにできるというのは彼の才能であろう。やはりすばらしいという点では変わりない。

まだ、今シーズン200本安打を達成したというニュースは届いていないが、多分今シーズンも大記録を達成してくれることだろう。それに反して彼の所属するチームのシアトル・マリナーズの成績は芳しくないものらしいが、それにしてもイチローを見に行くだけでも価値があるだろう。

今はない、テレビ朝日のニュース・スーテションのキャスターだった、久米宏さんがぜひイチローの出るゲームを球場に出かけて直接見てくださいと絶賛していたが、日本にいる間にイチローを見に行くことはかなわず、ましてやアメリカまでイチローを見に行くことなどは考えも及ばない。

(2012. 11.11 付記)

いま、インターネットで検索をしたら、Kein Meister vom Himmel gefallenは全体はEs ist noch kein Meister vom Himmel gefallen. というのが全文らしい。

noch という語が入っていることがどうもドイツ語らしいが私にはこのnochの語感がつかめない。「まだ」というような語感かもしれないがよくはわからない。

この場合とは違うが、このnochという語を形容詞とか副詞の比較級と同時によく使うことがある。

Sprechen Sie bitte langsam !  (ゆっくり話して下さい)などというと Noch langsamer ? (もっとゆっくりですか)とか聞き返されたりする。

この場合には自分はゆっくり話しているつもりなのに、「さらにゆっくりと話すの?」というようなある種のあきれ返ったとかいう風なニューアンスがあるかもしれない。


私のフランス語修業12

2010-09-21 12:02:58 | 外国語

一昨日の書店訪問で、「ぶらりミクロ散歩」(岩波新書)を立ち読みしていたら、著者の娘さんがフランス人と結婚して、その娘さんが孫娘を連れて帰郷したときの話が出ていた。立ち読みなので間違っているかもしれないが、書いてみよう。

孫は日本語はわかるが、話すことは出来ない。一日孫に振り回されていたが、おじいさんである著者は夜風呂に入ったときには「やれやれ」孫から解放されたとゆったりとした気持ちになっていた。

ところが孫がきて、biseビーズ(夜寝る前のキス)といったと言う。「みず」と言った思ったので、「婆にもらえ」といったら、孫は話が通じないと思ったのか、au revoirオウ ボワール(さよなら)といったらしい。ところが「みず」がほしいと思っているので、爺はa boireア ボワール(飲みもの?)といったと解した。

結局、爺の裸の手が風呂の中からぬっと出てきたので、孫はわっとびっくりして寝室に泣いていったとか。

これは多分に話を面白おかしくするために脚色をしているのだと思うが、なかなかほほえましい。後でフランス人のパパに電話で、孫は爺と「フランス語で話すのはいや」といった言うのが話の落ちであった。

biseが通じないとわかったとき、幼児でもau revoirは夜寝る前のあいさつとして通じるだろうと思ったのはなかなか「あっぱれ」である。こういう機転はなかなか外国語として学んでいる私たちには思いつかない。

もっともau revoirはカタカナで表記するとオウ ルヴォアールとなるが、私にはルヴォアールのルはほとんど聞き取れない。オウ ボアアールと聞こえる。それでa boireと聞こえたのはなかなかの聞き取り力だと言える。ほめてあげてもよくて、文句をつける筋合いはない。

いまa boireの例がないかと思って仏和辞典を引いてみたら、chansons a boire(酒の歌)というのが出ていた。

もし本当に水がほしいなら、de l'eau, s'il te paitとかje voudrais (veux) de l'eauとかいうだろう。小さな幼児だからde l'eauだけでも十分かもしれない。水はeauだが、部分冠詞de l'をつけてde l'eau(ドゥ ロオー) という。

昔、数学者の岡潔氏か誰かがフランスに留学したときに水を部分冠詞をつけて言わねばならないのに、eau, eauといってもなかなか通じなくて困ったとかいうのを書いていた。

話はまったく別だが、何十年も昔に岩田一男先生の「英語に強くなる本」というのがベストセラーで売れたことがあったが、その中で赤はレッドではなく、横浜のリキシャの車夫英語では「ウレ」という風に発音されていたという。

rは英語では知らないが、ヨーロッパ語では舌が口の後ろに引かれた形でのどの奥の方から音がでてウのような音に聞こえるのだと思う。

だからか、私の友人のY君などはフランス語では「さよなら」は「オウバース」というと学生の頃いっていた。それはテレビのフランス語会話等の、最後のところを聞いていのだと思う。書いた字にこだわるのも滑稽だが、音だけでも外国語を習うのもまたなかなか難しい。

(2013.4.3注) biseをbizと書いていたので、いま辞書を調べてbise(ビ-ズ)と直した。se faire la biseがキスをするという意味である。もっともキスをするといってもほっぺたにチュッとする。bisという語もあるが、こちらはビスと発音する。日本語のコンサートでのアンコールであることは最近知った。


思い出袋

2010-09-20 13:17:58 | 日記・エッセイ・コラム

「思い出袋」は鶴見俊輔さんが数ヶ月前に出した岩波新書である。もとは岩波書店のPR誌「図書」に7年にわたって掲載されたものである。あまり新しいことはないのだろうと思って直ぐには購入しないでいたが、昨日書店に久しぶりに行って購入した。

家に帰って夜NHKの「龍馬伝」の放送の後に深夜2時くらいまで読んだが、まだ最後の1章を残してしまった。連載のときから幾分か書き加えたらしく、読んだ覚えのないところもあった。また、「学校を卒業する」ことへの懐疑とか「定義からはみだす」(新しい学問や思想は定義からはみ出すところにある)ことが必要なのにそれをほとんどの人ができないで、優等生であることへの違和感も明確に述べられており、鶴見さんの考えが出ているように感じられた。

鶴見さんのお先棒を担ぐ必要はないのだが、一読に値するのではないかと思う。さらに、昨日書店で見た、同じ岩波新書の最近刊「ぶらりミクロ散歩」だったかは電子顕微鏡でいろいろなものを見て研究している人のエッセイであった。まだ、購入していないが、エッセイとして優れたものだと思った。精神病理学者だった島崎敏樹さんの再来のような感じがするエッセイであった。


e-Learningの公開

2010-09-18 13:13:35 | 数学

数学と物理のe-Learningの愛媛大学内での公開がようやく秒読み段階に入った。なんでも時間がかかるものである。

e-Learningのコンテンツをつくろうと考えてからでもおよそ5年の歳月が流れている。

このコンテンツの物理部分の一部はすでに十年以上前に大学の中で授業の一環として使われたものであるが、それを今回生かすことができた。

数学の内容はまだ高校数学のそれも代数の初歩の段階に留まっており、それ以上ではないが、それでもようやくそれが公開されようとしていることに感慨を覚える。

もちろん、高校の初歩の代数とはいうが、その雑談部分や演習の一部には少し踏み込んだ内容も入っており、理工系の学生向きのup to dateなもののつもりである。

また、社会人の数学再入門にも役立つだろう。現在のところでは一般社会には公開がされないのが不満であるが、これは次第に緩和されるであろう。

だが、まだ基本的な三角関数とか微分積分のコンテンツは準備中であり、できあがっていない。ましてや線形代数はその構想すらもできていない。だが、誰かがやらねば始まらないのである。

一人でのコンテンツの作成ではあったが、別に孤独感を感じてはいない。だれもこういうものをつくろうとは思わないところに本当はこういうe-Learningのコンテンツの必要性があるのだろう。

その上、たとえつくってもほとんど褒めてもらえたりはしない。むしろ内容を見て「これもない、あれもない」と注文がつくことだろう。いや注文さえもつかないだろう。そういうものである。

だが、いくつかのe-Learningのコンテンツを見て現在なら、もう少しいいものができて当然だという確信をもっている。それが他人から評価されるせよ、または、評価されないにせよ。


picture環境

2010-09-17 12:31:31 | デジタル・インターネット

いままでに草稿をつくっていた、数学エッセイのいくつかにここ数日の作業で図を入れた。これはlatexのpicture環境で長方形を描いて、そこに数字や簡単な式を入れたのである。しかし、図を入れるのがいつもエッセイの原稿の完成の障害になっている。picture環境でも簡単なものは描ける。emathの方がバリエーションがあっていいのだが、まだemathで図を描くことには成功していない。

原稿の文章もいろいろ変えたりしていると、図を描くことにまで集中できない。だが、どこかで図を描くことに成功すると作業がぐっと進むことは確かである。

友人のNさんが新しいパソコンにtexのソフトを入れようとしているので、その手助けのために「latex美文書作成」の第5版の付録を少し読んだが、そこには図を描くためのasympoteteというソフトの説明が入っている。たが、これは前の版ではmetapostとして説明がされていたものらしい。もっともこのmetapostを積極的に使えるようにとの説明は第4版までにはなかったような気がする。

mathematicaとかで、グラフを描くことはできるのだが、その図に字とか式を入れることが難しいように思っているが、本当のところはどうなんだろうか。

最近では本をつくるための原稿をpdfで入稿するということが普通になっているというが、そのためにはlatexでの原稿を書くことが必要であろう。そのときに自分独自のマクロなどを使わない方がよいとの説明を「latex美文書作成」の第5版の付録で読んだ。この5版はNさんに借りて見たので、自分でも入手しなければならない。


宗教と物理学

2010-09-16 12:36:51 | 物理学

宗教と物理学の接点がどこになるのかはわからないが、私の友人と知人で仏教に造詣の深い人が二人いる。二人とも物理学を学んだ人であるが、その一人のE君は私の2年または3年後輩であるが、私からのメールに答えてときどき返事をくれる。

今朝もメールをもらった。彼は山本空外という人の空外記念館の理事長に昨年の秋になったと知らせてきた。また、この空外上人の墓地はあの湯川博士と背中合わせだという。

いつもこのブログにコメントを下さるN. N.博士は湯川博士の研究室の出身の俊秀であることは物理学者の間では周知のことだが、そのN博士の寄稿のある、数学・物理通信第4号を送ったところが、このE君の今回のメールであった。

なんらかの縁を感じている。そのメールの添付書類には山陰中央新報という新聞にE君が書いた空外上人と湯川博士の上記のいきさつが書かれた記事がついていた。

仏教はあまり宗教らしさがなくて、普通の人間の人生訓の延長のようなところがあるので、仏教と物理学はそれほど違和感はないのかもしれない。私の若いときからの友人でクリスチャンである人もある。

私自身はあまり宗教的とは言えないが、こういう人と絶交もすることなく、つきあってきたところを見ると結構宗教との間の間合いの取り方を心得ていることになるのだろうか。


最大公約数再論

2010-09-15 12:02:21 | 数学

「最大公約数の求め方」という数学エッセイを書いて妻に見せたら、ほめられるかと思ったら、反対でいろいろと意見をもらってしまった。それで、折角できあがったと思っていたが、改めて原稿の書き直しとなった。一昨日、昨日とpicture環境で図を描き、満足していたのに。

これは「自己満足ではいけない」ということを示している。このエッセイの意図は素因数分解が難しい(面倒な)ときにもユークリッドの互除法を用いて必ず最大公約数を求められる(もちろんそれが存在するときには)といいたかったのだ。以前は互除法を高校までに教えないのは怪しからんと強く思っていたのだが、その気持ちが年を取って薄くなった。そのために、その気持ちの表明が十分にできなかったのであろう。

図を使ったユークリッドの互除法の概念の説明も大切だが、実際にその最大公約数を求める計算法も大切であり、それを示せるかも問題として残っている。これは筆算での計算だが、遠山さんの「数のふしぎ」(ほるぷ)にはその筆算の計算の仕方も載っているが、latexで表すことができるのだろうか。

それにユークリッドの互除法は整式にも使えるが、それについての詳しいことは別のところに書くべきだろう。だが、そういう広がりがあるということだけは示唆しておきたい。そういうことを考えていくとなかなか原稿は出来上がらない。


読書

2010-09-14 12:00:15 | 日記・エッセイ・コラム

読書はあまり得意ではない。大抵何を書いてあるか、わからないからである。小説とかの文学作品をほとんど読まないので、こういうことになる。だから、数学エッセイを書くときの引用でも最小限のところしか読んでいない。

これでは私の教養が大いに欠けたことになるのだが、仕方がない。実際に本を読まなかったわけではないだろうが、知的ジャイアントといわれる、梅棹忠夫氏も自分が読書家ではないという風にどこかで書いている。もっとも彼の場合にはテレもあるようで、別のところでは「私はほとんど本を読まないように思われたらしいが、それでも結構本を読んでいる」というようなことを書いているのを読んだ。

だが、梅棹さんのようなテレではなく、私の場合は事実だから仕方がない。昨夜NHKのテレビを見ていたら、1ヶ月に20冊という多量の本を読む人がいる一方で、月刊読書数が0冊の人もいた。これは番組が「読書の勧め」が主題であったから、わざとこういう極端な番組参加者を選んだのであろう。

東京千代田区の区立図書館とかいい施設ができているらしい。

ヴィクトル・ユーゴーの「レ・ミゼラブル」などでも長い小説であるので、最後まで読んだ人がどれくらいあるのだろうか。私はNHKのフランス語講座で、その抜粋を読んだことがあるきりである。

いつだったか羽仁五郎の書いたものを読んでいたら、最後にはジャベル警視は自分が法を遵守することにしか関心がなかったことを恥じて最後にセーヌ河に投身自殺をすることまで知っている人は少ないというようなことを書いていた。これは羽仁五郎が戦争中に捕まって彼を告発しようとした特高検事とのやりとりの一つのエピソードとしてこのことを書いていたと思う。

数年前にテレビの映画でこの最後の場面を見た覚えがあるので、ジャベル警視の最後を知っている人が現在では多いのだろうが、このときにジャベル警視は自分の手を紐で縛ってセーヌに投身自殺を図っていた。

どうもつまらないことだけ私は覚えているものである。