Gaussの定理とStokesの定理とがベクトル解析を学ぶの最後の目的であろう。ところがどうもこの二つの学習の目標がどうも納得いくようにわかっていない。そういう時期が今までずっと続いてきた。昨日だったか一昨日だったかに、このことを脱却できそうな感じがしてきた。
これは前に読んだ村上雅人さんの『なるほどベクトル解析』(海鳴社)を読んでいて初めて感じた感覚だった。実は以前にもこの本を読んだことがある。そのときにもわかりやすい本だとは思ったが、そのときはそれ以上ではなかった。
この本には実はGaussの定理のきちんとした証明はない。ところが実は問題に感じていた定理はStokesの定理の方であり、Gaussの定理ではなかった。Greenの定理からStokesの定理の一部が予想されているところがよいのだ。
実は『なるほどベクトル解析』のこの箇所の説明はマグロウヒル大学演習『ベクトル解析』(Ohmsha)が種本であるようだ(注)。実はマグロウヒル大学演習『ベクトル解析』を読んだとはいわないが、Gaussの定理とStokesの定理に関するところはすでに見ていたのに、その感覚をもつことができなかった。だからたぶんに村上さんの書き方がよいせいだと思う。
極三角形とは球面幾何学の概念であろう。ある球面三角形があり、その極三角形があれば、元の三角形はその極三角形の極三角形であると、どの球面三角形のことを書いた文献にも書いてあるが、なかなかこのことがわからなかった。
秋山武太郎の『わかる立体幾何学』(日新出版)に書いてある説明を読んでようやくわかった。図での説明はこの本でも見かけなかった。どこかに図を使った説明があるのだろうか。少なくとも新沼恒次郎『球面三角法』には載っていなかった。Todhunterの本には詳しい説明があるのだろか。
接続法第一式について学んだことがなかったわけではないが、つい最近までこのときの動詞の語尾変化が語幹にeをつけたものが基本になるとは知らなかった。知らなかったというのが言い過ぎならば、認識をしていなかったとでも言えば、ちょっときれいに聞こえるであろう。
ラジオのNHKの「まいにちドイツ語」放送などほぼ45,6年も聞いているのにである。それも接続法の第二式は知っていたが、第一式はあまり会話ではでて来ないので、知らなくてもそれで困ったということはなかった。これは私のドイツ語は主に話すドイツ語であり、書いたり読んだりするドイツ語ではないといことが基本にある。
日本でドイツ語に関係している人の多くはドイツ語を読んだり、書いたりことが多いのかもしれないが、私にとってのドイツ語は基本は話す言葉としてである。だからあまり文章を読んだりしたことはない。昔、大学院の学生のころにドイツ語の本をセミナーで1冊読んだことがあるが、これはスウェーデン人の書いたドイツ語であったので、いわゆる冠飾句(das linke Attribut)などはでて来なくて比較的簡単なドイツ語であった。
同じ物理の本でもパウリの量子力学の本などは冠飾句でいっぱいである。これはドイツ語を母語にしている人のドイツ語だから当然なのであろう。私たちの読んだ本は実はSpringer Verlagという出版社のHandbuch der Physikという叢書のパウリの量子力学の後に付いているQuantenelektrodynamikという部分であった。
もっともドイツ語よりも数式があまりよくわからなかったから、この本を読んでファインマン・グラフの計算ができるようになったわけではない。ファインマン・グラフの計算が見よう見まねでできるようになったのは別の英語の本を読んでからである。
ファインマン・グラフの計算はある種の積分であるが、それを運動量空間で計算するとこれは何次かの積分はデルタ関数で自動的にできるが、それでもまだ積分が残る場合がある。この積分を数値的にするためにガウス数値積分をコンピューターで行ったことがある。
話を元に戻そう。接続法の話であった。この接続法一式はあまり会話で使うことがないから、それを知らなくてもあまり不便に感じることはなかった。
もちろん、ドイツに根を下ろして生活するならば、電気製品を買ってそれを使うときなどにその使用説明書を読まなくてはならないだろう。そういうときには使用説明書は接続法の第一式で書かれているはずである。たとえば、man benutze・・・とか書いてあるかもしれない。
もう半世紀近く前のことになるが、大阪のゲーテ・インスティチュートでドイツ語の能力試験のためのテストを受けたことがある。このときゲーテの先生からお前はそこそこ会話はできるが、もう少し文法を学ばねばならないと言われたことがあった。どこをまだ学ばねばならないのかわからなかったが、これはそのときにでてきた間接話法でer habeとか出てきたら全部まちがいとして、er hatの方を正しいとしたからであったのだと今にして思う。しかし、そのときはそんなことを思いもしなかった。
この能力試験は資格検定のためではなく、ドイツのゲーテでのどのコースに入るのがいいのかを判定する試験であった。そのときは、まったくの初心者のコースA1ではなくA2という初歩のドイツ語を復習強化するコースに入ったが、そこでは残念ながら接続法の第一式などでて来なかったように思う。
そういうことで八十数歳になる現在まで接続法第一式の動詞の変化の基本がわかっていなかった。これはあまりに遅かったとしても、この接続法第一式を知らないで人生をおわるよりはよかったと今では思っている。
これはメービウス小伝の(2)です。(1)は4月14日のブログにありいます。
彼の研究・業績はどれをみても、できるだけ近道をとって、少数のしかも適切な手段で一つの目的に到達できるために大いに努力をしていたことがわかる。したがって彼の功績は数学的科学の内容を豊かにした多くの定理の発見をしただけではなく、その理論を発展させ、定理を証明し、定理と定理の相互のつながりを明らかにする方法を美しく簡明にしたことであった。
メービウスの研究は四つの時期に分けられるであろう。第一期は1817年からder barycentrische Calculを発表した1827年まで、第二期はそれ以後1837年までで、静力学のテクスト(die Mechanik des HImmels)にその大部分が収められている。最後の第四期は数多くの大論文が続出したときであり、およそ1846年から1856年にわたっている。
メービウスは19世紀前半の有数な大数学者の一人であり、特に近代における幾何学者として屈指の権威者だが、また球面三角法の基礎の公式を180度以下の制限をおかない、任意の大きさの角および弧からできた球面三角法に拡張した論文(1860年)は第四期の多くの論文の中でも特に優れた論文である。また球面三角法の体系となることになった重要な理論、双対の原理(principle of duality)を発見した功績もわすれてはならない。(以上は新沼恒次郎『球面三角法』より)
『家庭の算数・数学百科』(日本評論社)によれば、数学者としてのメービウスは射影幾何学と整数論の研究で業績をあげ、射影幾何学ではメービウス変換、整数論ではメービウス関数の名を残しているという。
しかし、私がこの「メービウス小伝」の冒頭に書いたようにメービウスの名を世に広めたのは単側曲面メービウス(向きつけ不能な曲面)の発見であるという(注)。裏表の区別がつかない異様な曲面は小学生でも実感できる不思議な曲面であるとのこと、またこれによってメービウスはトポロジーの先駆者としても名を残すことになったという。
(注)単側曲面メービウス(向きつけ不能な曲面)とは何か。裏と表の区別がつかない曲面である。一つの帯を紙で作り、それを一ひねりしてその両端をノリでくっつける。そうしてつくった曲面の真ん中の一点をその帯の真ん中においたままずっと帯にしたがって鉛筆とかマジックペンで線を引いていくといつの間にか元の点に帰って来て線がつながってしまう。これが単側曲面メービウス(向きつけ不能な曲面)とかメービウスの帯と言われるものである。単側とは裏表の二つの側があるのが普通の曲面だが、側が一つしかないからつけられた名のなのであろう。名前があるとは知らなかった。
メービウスMöbiusと聞いて理系の人なら、ああ裏も表もないねじれた輪を考えた人だなとすぐに思うだろうが、そんな名前など聞いたことがないというのが大体の反応だろうか。
本論に入る前にちょっと一言申し添えれば、三角法の書籍は E 大学(国立大学の一つ)のOPACで調べたところでは45冊か46冊ある。しかし、球面三角法だけが単独でタイトルの本はごくまれである。その現状はここに参考にした文献『球面三角法』の出版された1927年以来ほとんど変わっていない。球面三角法は現在でも平面三角法のお添えでしかない。
以下に記すメービウス小伝は新沼恒次郎『球面三角法』(冨山房、1927)に基本的によっている。時代がかった表現は現代風に変更している。もちろん逐語的にはしたがっていない。
「球面三角法の研究を始めたのはメネラウスMenelaus(100)であり、これに始まり、系統的に発展させたのはシュルツSchulz(1828)およびグーデルマンGudermann(1828)である」と前掲書の10ページにある。
さて、本論に入ろう。メービウスは1790年11月17日プロシャ(現ドイツ)のシュールポルタSchulpfortaに生まれ、1868年9月26日(明治元年)ライプチッヒLeipzigで亡くなった。
彼の父は舞踊の教師であったが、彼が4歳のときに亡くなり、彼の幼時は母および叔父によって育てられ、教育された。14歳から20歳までシュールポルタの学校に通い、その後ライプチッヒの大学に入学した。
入学後間もなく彼の志向は数学的科学に向かったので、数学者パッセPasse、物理学者ギルバートGilbert、特に天文学者モールヴァイデMollweide等の講義を聴講した。
1814年5月、25歳のときガウスGaussの下でさらに天文学を学ぼうとして、ゲッチンゲンGöttingenに行った。その年パッセが亡くなり、またモールヴァイデもまたそのうちに引退するので、つぎの年の4月にライプチッヒに帰った。これはライプチッヒ天文台のモールヴァイデの後継者になる希望をもっていたためである。
1814年12月11日に論文を提出しないで、ライプチッヒ大学を卒業し、1815年4月19日には数学の論文を提出して、大学講師の資格試験(Habilitation)に合格し、1816年には天文学の論文を発表し、また講演を行ってライプチッヒ大学の天文学員外教授(ausserordenlicher Professor)となり、同時に天文台の観測員となった。
彼がライプチッヒ大学の正教授(ordentlicher Professor)となったのは、1844年55歳のときであった。(以下、次週の(2)に続く)
「おしっこをする」はもちろん幼児語だが、これをドイツ語でどういうか。ちょっとドイツ語を長く勉強している人でもドイツ語の専門家でなければ、あまり知らないのではなかろうか。これはpipi machenという。
もう50年近くNHKのテレビのドイツ語とかラジオのドイツ語の講座を見たり聞いたりしているが、このpipi machenという語が出てきたことは一度しか知らない。それもブルッセルの小便小僧みたいな像か天使の子どもだったかが、逃げていくという設定場面であったと思う。
もっとも、この語を知ったのはもちろんドイツで私たちの子どもがまだほんの4,5歳のときである。私たちと入れ違いで日本に帰った科学者からそういえば、「bibi machenとかいいますね」とか聞いたのが最初であった。
何十年もある一つの外国語を学んでいてもなかなか読んで、または、聞いてわかる言葉と自分で日本語からその外国語でいうことができる単語とは数が圧倒的にちがう。このギャップはいつまでも大きい。
昨日の私の病院での待ち時間が6時間近かったということを話したら、オンラインのドイツ語のクラスの全員から私は辛抱強いとお褒めの言葉(?)をもらったのだが、その話を今朝になって妻に言ったら「辛抱強いとはドイツ語ではどういうの」と聞かれて即答できなかった。そうしたら彼女がすぐにスマホで「辛抱強い、ドイツ語」と検索して、geduldigと調べてくれた。geduldigはもちろん形容詞であり、辛抱とはGeduldという。geがつく名詞は大抵中性名詞であるが、果たしてそうであろうか。ちょっと後で調べてみたい(注)。
もちろん、語頭にgeがついても語尾が女性名詞に特有の語尾がつくとそうはならない。たとえば、GesellschaftとかGemeinschaftとかである。
(注)-e Geduldで女性名詞でした。語頭にgeがついても中性名詞ではない例があることを知った。しかし、そうは言っても語頭がgeで始まる語には中性名詞が多いのは事実である。ちなみに-eは女性名詞の定冠詞 die の省略形である。この表記は47年前のフライブルクのゲーテ・インスティチュートでのドイツ語のクラスで先生が黒板にこのように書いていたので覚えた。-sは中性名詞の定冠詞dasの略だし、-rは男性名詞の定冠詞derの省略形である。