物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

比とは何か

2006-07-31 16:11:55 | 数学

遠山啓、矢野健太郎編の「数学ティータイム」をインターネットで購入して読んだ。

その中の和達清夫さんのエッセイに中学校の先生、宮本久太郎先生の話が出ている。

宮本先生は「比とは割ることと同じです」と教えられた。また比とは比の値のことをいうので、ことさらに比の値とはいわないと教えられたという。小さい事柄かもしれないが、卓見であろう。

a:bという記号はヨーロッパでは日本での分数のb分のa、すなわち、a/bの意味で使われているというから、この宮本先生のいうところは正しいと思える。

だが、日本の小学校ではa:b:cというように連比で使われたりするので、これはどう考えたらいいのだろうか。

a:b:c=d:e:fという比例式なら、これは a/d=b/e=c/f という風に書き換えることが出来て、私自身はこの表現を好む。これは高校で化学を学んだときに知った表現である。

また、a:b=d:eという比例式のとき、その外項の積は内項の積に等しいというのはなぜだか理由が分からないが、これをa/b=d/eまたはa/d=b/eと表現すれば、この比例式のルールは等式の性質から来ていることがわかる。

個人的な思い出で申し訳ないが、亡くなった長兄、Y.T.は長らく中学校の理科の教師であった。

彼も比例式における「外項の積は内項の積に等しい」というルールは理由が分からないから、比例式を分数式で表したほうがよいという意見であった。この意見には私もいつも賛同していたものだ。


小川岩雄さんと力の分類

2006-07-29 14:59:56 | 物理学

先日、朝日新聞に去る6月に亡くなった小川岩雄さんの追悼記事が出ていた。彼は湯川さんの甥でパグウッシュ会議に尽力した人である。

いつだったか広島大学で彼の講演を聞いたことがある。しかし、私の思い出はそのことではない。高校を卒業して大学に入ったときに、物理学の参考書だったか、演習書だったかで彼とあと一人か二人の人が書いたものを購入した。もっともその本は友人に貸して2度と私の手元には帰ってこなかったが。

その中に「力は接触力と遠隔力に分けられる」とあった。そういう記述は他のテキストで見たことがない。大分後になって材料工学で表面力と物体力とに力が分けられると出ていることを知ったが、それが接触力と遠隔力に対応している。。

もちろん、ことは力をその二つに分類することでは終わらないが、そういう認識がはっきりとあった方が絶対にいいと思う。

たくさんの物理のテキストを見てきたはずだが、そういうことがはっきりと書かれているものにはまだお目にかかっていない。なぜ、そういう簡単なことをきちんと明言する人が少ないのだろうか。 

数学教育でも物理の教育でも、教育は研究と違って多くの人に関係することである。だから、できるだけわかりやすいように工夫を常にする必要がある。


Levi-Civitaの記号でベクトル解析を

2006-07-21 19:32:07 | 数学

標題のようなテーマでエッセイを書き終わったのだが、まだ悩んでいる。それもちょっぴり体調まで悪くしながらです。

A4で約9ページの文章を書き上げてやれやれと思って、I 先生に閲読をお願いしようかと思った矢先のことです。

このエッセイを書き始める前に導出法がわからなかった公式があったのだが、それには触れないつもりで文章を書き上げていた。しかし、今朝やはりその公式が気になったので、見直しをしてやっと午後にはなんとか証明できた。

ところがその後に新しく、意味が私には不明の公式を高橋康先生の公式集(講談社)に見つけたというわけです。

やはり徹底して考えなさいということだろうか。エッセイが一応完成し、満足していい気になっていたので、そんなことではまだ不徹底だよと神様に言われたような気がする。

(2010年11月20日付記)

「Levi-Civitaの記号でベクトル解析の初歩を I」を「数学・物理通信」1巻2号(2010年3月)に発表している。これは以前のエッセイよりもわかり易く書いてあるので、インターネットで「数学・物理通信」で検索してみてください。

「数学・物理通信」は名古屋大学の谷村氏のご好意によって谷村氏のサイトにリンクして載せられたものである。このエッセイの続きはまだ書いていない。

(2018.1.12付記)

「Levi-Civita記号でベクトル解析を」は内容にまちがいはないし、その有用性はちゃんとあるが、ベクトル代数にかぎるとLevi-Civita記号を使わなくてもいい。これは「数学・物理通信」4巻1号(2014年3月)の「べクトル代数再考」に詳しく書いた。関心のある読者はインターネットで「数学・物理通信」で検索してみてください。

このことをマルゲナウとマーフィの「物理学と化学のための数学」(共立全書)を読んで知った。こういうことをベクトル解析の本の著者はきちんと書くべきであろう。基本は2つのベクトルの3重積である。すなわち、ベクトルのスカラー3重積とベクトル3重積である。

(2020.4.20付記) 
「Levi-Civitaの記号でベクトル解析の初歩を I」は「Levi-Civitaの記号でベクトル解析」というタイトルで「数学・物理通信」9巻9号19-32に改訂版を掲載している。

「数学・物理通信」のバックナンバーはいつもいうように名古屋大学の谷村先生のサイトですべてのバックナンバーを見ることができる。谷村先生ありがとうございます。

湿疹

2006-07-14 18:11:38 | 健康・病気

いつもこの時期になると湿度高いので、体がかゆくなる。特に手首に汗をかくのか、かゆくなる。薬はもらっているのだが、かゆくてたまらなくなることがある。湿疹かあせもかどうかはわからないが、空気が乾燥してくる秋口にはひどくなくなるので、年中行事のようである。昔、学生の頃は腕時計をしていてかぶれたがそれ以来の病気である。

昨年はことにひどかった。今年は陽性の梅雨のせいかそれほどはひどくなっていない。今日の空をみれば、どうも梅雨が明けたような感じの雲が出ている。郵便局へ行ったら、局員さんが梅雨明けですかねと言っていた。鶴見さんが講演に来たとき7月7,8日はそれほど暑くなかったのでよかった。

もし梅雨が明けたのだとすれば、少し早い梅雨明けではあるが、湿度は少しづつ下がっていくだろう。それでさっきシャワーを浴びたら、「風と共に去りぬ」を見に行く、気がなくなった。

Levi-Civitaの記号でベクトル解析の公式を導く原稿を書いている。もうちょっとで完成である。


風とともにさりぬ

2006-07-13 14:21:38 | 映画

マネキネマが「風と共に去りぬ」を上映している。見に行きたいのだが、少なくとも明日ぐらいしか時間が取れそうにない。上映時間が長いので有名である。女房はすでに友人と見ている。

はじめの1週間は昼の上映で、あとの1週間は夜の上映である。4時間近くの上映時間である。6時すぎにはじまって10時30分頃の終了である。長い。でも出来たら明日は見に行こうかな。


鶴見俊輔氏の講演

2006-07-11 12:39:21 | 国際・政治

「憲法9条をまもる愛媛県民の会」が松山大学820番教室で講演を鶴見俊輔氏にお願いして、その講演が7月8日にあった。特に憲法九条を守ることに特化した話ではなかった。

もっと一般的な話であって、面白かったとは思うが、九条をいかに守るかという観点からは不満足な講演ではなかったかと思う。でも鶴見さんの博識や見識とか深さ、権力を嫌う姿勢はみなさんに十分と分かっていただけたのではないかと思った。

かく申す私が鶴見さんに講演を依頼した張本人であって、ある方々からはけしからんやつの第一にあげられるかもしれない。しかし、鶴見さんは戦争の時代を知っている数少ない同時代人の知識人である。

彼は共産党員ではまったくないし、ましてやマルキストでもない。その彼がアメリカに反対するようなことをやっていたりするわけだが、彼はアメリカの市民に感謝の念がない訳ではない。

むしろそこで教えられた、あるべき民主主義を追い求めている求道の人である。これは小田実などにもあてはまる。アメリカを知っている人がアメリカに反対している。そこのところを一般の人に知ってもらいたい。


試験と単位

2006-07-05 11:52:35 | 受験・学校

高等学校もそうかもしれないけれど、大学では単位をそろえてその数が卒業用件の数を超えれば卒業できるのが普通である。

そのせいかと思うのだが、試験にどんな問題が出るのですかという質問がとても多い。やさしい問題で説明問題を3問中2問出すとは言ってあるのだが、それくらいでは問題の傾向とか性質を知りたいとの要求がおさまらない。

基本的なことを聞く問題を出しているはずなのだが、試験範囲はどこかとか聞かれている。これは授業が分かっていないことに理由があるのだと思う。やさしく、やさしくとかゆっくりとかいわれるが、ゆっくりやってもわからない人には同じことだろう。

「物理は物理学者には難しすぎる」といったのは数学者のヒルベルトで、「数学を勉強した後に物理を勉強する方がやさしい」といった人も居るとか。物理学は数学ではないが、数学なしの物理学はお話にしか過ぎない、というのは物理の研究者の間では常識であろう。

でも数学的素養のない人にも物理を教えなくてはならない。それで数学の要点をうまく要約して教えているが、これは適当なテキストなしで教えるので、そのときは分かったつもりでも後に残らない。でも、それをプリントにして配れという要求は私には荷が重過ぎる。

その内容が用意できないということではなくて、単にプリントにするためにパソコンに入力する時間がないということである。これは本当は数学の先生の課題であろうが、数学の先生は物理に必要なことを分かりやすく教えてはくれていない。確かに数学は物理学のために存在するわけではないから。

いや分かりやすく教えているのかもしれないが、それが学生の頭に定着するようにはなっていないということであろう。

日本の心ある大学の先生はだれでも知っている。理工系の大学で先生方が一生懸命に教えた事柄が、一つも学生に定着していない、理解されてはいないということを。昔の学生なら授業でわからなかったことを自分である程度勉強したものだ。そういう人がまったくいなくなったとは思わないが、そういうことをする人は少なくなっている。

授業で聞いたら、すぐに分からなくてはいけないと思っている。分かるように教えないのは教え方が下手なのだというように。結果だけを教えるということもある事柄では例外的にしたが、それを知りたがる。知りたがることはいい。しかし、結果しか教えなかったことの理由をわかっていないのではないか。簡単に教えられるものなら教えてくれたはずだから、多分難しいのだろうといった推測もできないのではないか。

またなんでも教えてもらうという姿勢である。これではどうしようもない。またたまたまテキストに比較的忠実に講義を敷衍して授業をしたら、テキストと同じことをするなら授業はいらないという学生もいる。

いつでも筋はテキストにしたがっていても、違った材料を提供しているし、自分なりの構想を立てて話をしているつもりである。そうでないと一般物理の授業はできない。そういうところが専門基礎の物理学や専門の物理の分科とは違うところだ。

書き始めたときはこんなことを書くつもりはまったくなかったが、書いているうちに毎時間とっている授業アンケートに書かれた学生からの注文に異常に反応してしまっている自分がいるということに気づかされる。わかりやすく授業をしているとの私の自負心が強すぎるのだろうか。