高等学校もそうかもしれないけれど、大学では単位をそろえてその数が卒業用件の数を超えれば卒業できるのが普通である。
そのせいかと思うのだが、試験にどんな問題が出るのですかという質問がとても多い。やさしい問題で説明問題を3問中2問出すとは言ってあるのだが、それくらいでは問題の傾向とか性質を知りたいとの要求がおさまらない。
基本的なことを聞く問題を出しているはずなのだが、試験範囲はどこかとか聞かれている。これは授業が分かっていないことに理由があるのだと思う。やさしく、やさしくとかゆっくりとかいわれるが、ゆっくりやってもわからない人には同じことだろう。
「物理は物理学者には難しすぎる」といったのは数学者のヒルベルトで、「数学を勉強した後に物理を勉強する方がやさしい」といった人も居るとか。物理学は数学ではないが、数学なしの物理学はお話にしか過ぎない、というのは物理の研究者の間では常識であろう。
でも数学的素養のない人にも物理を教えなくてはならない。それで数学の要点をうまく要約して教えているが、これは適当なテキストなしで教えるので、そのときは分かったつもりでも後に残らない。でも、それをプリントにして配れという要求は私には荷が重過ぎる。
その内容が用意できないということではなくて、単にプリントにするためにパソコンに入力する時間がないということである。これは本当は数学の先生の課題であろうが、数学の先生は物理に必要なことを分かりやすく教えてはくれていない。確かに数学は物理学のために存在するわけではないから。
いや分かりやすく教えているのかもしれないが、それが学生の頭に定着するようにはなっていないということであろう。
日本の心ある大学の先生はだれでも知っている。理工系の大学で先生方が一生懸命に教えた事柄が、一つも学生に定着していない、理解されてはいないということを。昔の学生なら授業でわからなかったことを自分である程度勉強したものだ。そういう人がまったくいなくなったとは思わないが、そういうことをする人は少なくなっている。
授業で聞いたら、すぐに分からなくてはいけないと思っている。分かるように教えないのは教え方が下手なのだというように。結果だけを教えるということもある事柄では例外的にしたが、それを知りたがる。知りたがることはいい。しかし、結果しか教えなかったことの理由をわかっていないのではないか。簡単に教えられるものなら教えてくれたはずだから、多分難しいのだろうといった推測もできないのではないか。
またなんでも教えてもらうという姿勢である。これではどうしようもない。またたまたまテキストに比較的忠実に講義を敷衍して授業をしたら、テキストと同じことをするなら授業はいらないという学生もいる。
いつでも筋はテキストにしたがっていても、違った材料を提供しているし、自分なりの構想を立てて話をしているつもりである。そうでないと一般物理の授業はできない。そういうところが専門基礎の物理学や専門の物理の分科とは違うところだ。
書き始めたときはこんなことを書くつもりはまったくなかったが、書いているうちに毎時間とっている授業アンケートに書かれた学生からの注文に異常に反応してしまっている自分がいるということに気づかされる。わかりやすく授業をしているとの私の自負心が強すぎるのだろうか。