牧二郎の追悼記念号が「素粒子論研究」に出ていたのを思い出し、その該当した号を取り出してきて、昨夜と今朝にかけて読んで見た。
特に科学論を武谷三段階論からはじめてもっと精緻にするとかと素粒子研究の段階をどう捉えていたかについて、いくらか知った。このことをシンポジウムで話をしたのは菅野さん(大阪市大名誉教授)である。
牧さんは実体論的段階の概念が曖昧だということで、もう少し武谷三段階論を精緻にするということを提案しているらしい。また、牧さんは素粒子の世界と原子核の世界とをはっきりと区別するということを主張していたらしい。
牧さんのもとの論文を読んだわけではないのでわからないが、多分広重の武谷三段階論批判については触れられていないのではないだろうか。
牧さんは哲学も好きで、また読書家でもあるので、広重の武谷三段階論批判を読まなかったとは思えないが、もしその論文にこのことについての言及がないとしたら、それは何を意味するのだろうか。
そういえば、この頃は原子核と素粒子とは違ったものと捉えている。原子核という言葉があまりふさわしくないとすれば、ハドロンの物理と素粒子の物理とは違うということだろうか。
素粒子とはレプトン、クォークやゲージ粒子これにヒッグス粒子も入るだろうか。ハドロンは素粒子には現在では入れない。
私が学生の頃に聞いた用語でいえば、当時の素粒子に対して基本粒子という語を使っていたが、その基本粒子にあたるものがいまの素粒子で、50年以前に素粒子といわれていたものはそのほとんどがハドロンというようになった。用語も変わるものである。
藤本陽一氏によれば、素粒子論はヨーロッパでは核物理Nuclear Physicsといっていたらしい。素粒子物理学Particle Physicsはアメリカ発祥の用語らしい。
アメリカの大学の物理学科の掲示板でParticle Physicsとあり、何だろうと思って近づいてよく見たら、それは素粒子論のことだったという、新聞か雑誌の中村誠太郎さんのエッセイを読んだのももう30年以上前のことになってしまった。
広重の武谷三段階論批判を読んでとりとめもなく思ったことはもっと違ったことである。
それは科学認識の段階の取り方は本当は一義的なのかもしれないが、現状をどう捉えるかということについては広い範囲を大づかみに捉えることもできるし、ある段階を狭い範囲で部分的に細かく捉えることも可能なのではないかというようなことであった。
人はいろいろだからどこをどう捉えてても、それは勝手(自由)といえば勝手(自由)である。
そうだとすれば武谷三段階論にもとづいた研究をすすめると個人的には思ってもそれぞれの研究者の捉え方はきわめて異なって捉えられるだろうということである。そこが面白いともいえる。
ましてや、すべての研究者が武谷三段階論に賛成な訳ではないから、研究の様相は色々と多岐にわたる可能性があるということである。また、そうありたいものである。