物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

『都市の論理』はどこから?

2014-11-29 12:33:59 | 日記
昨日、『都市の論理』(勁草書房, 1968)のことを少し書いた。

羽仁五郎に精神神経学会(ひょっとしたら、その一部の研究会グル―プか)が講演を依頼したのが、『都市の論理』という本の出版のきっかけになっている。

これは精神病を診ている医者の経験では精神病を自分が診ていて、患者を精神病から治癒させることができるのだが、その元患者は社会に帰るとまた再発を繰り返すという経験を多くの精神科の医者がしている。

どうも医学的には精神病を直すことができるのだが、社会に帰ると再発を繰り返すというのは社会がやはり歪んでいるからではないのか。洞察力のある、すぐれた精神科の医師たちがそう考えたのが羽仁五郎に講演を頼んだ理由だとどこかで読んだ。

そうだすると精神科の医師は単に自分の患者とだけ向き合っているだけではだめで、社会のひずみを是正するようなことを考えないと社会にあふれている精神病の患者の根本的な治療へとは至らないのではないか。そういうアイディアが精神神経学会のリーダーたちのあいだから生まれてきたらしい。

たぶん、その考えは間違っていない。ただ、根本から私たちの住んでいる社会を変革するのは単に精神科の医師たちのグループだけの力だけでどうにかなるものではなかろう。しかし、その一歩を踏み出すことが重要だと考えたのであろう(注)。

もっともそのことを知った武谷三男とそのグループの人たちを中心とした研究会が頻繁に行われるようになり、また岩波新書の『都市』というのが羽仁五郎の著書にあるが、あれがなかなかわかりづらいということでもっと突っ込んだ解説をしてほしいと武谷が羽仁に頼んだらしい。

羽仁もそれを引き受けて研究会の講師を務めたが、その研究会は何回にも及んだ。羽仁は次回には結論を出すと言いながら、それでもなかなか結論が出ずに研究会は長期に及んだという。

そういういきさつで研究会の記録のゲラができたのだが、それをひと夏かけて武谷がウンウンいいながら、整理したのが『都市の論理』の出版された経緯だと羽仁五郎と進親子の対談書で読んだ。

『都市の論理』の中ではところどころで武谷が口を挟んではいるが、あまり本質的な指摘とかはないように思われる。しかし、そういった経緯があると知れば、なんだか落ち着くところへ落ち着いたという感じを持つのは私だけだろうか。

(注)似たような考えだと思うが、世界の医学者の先進的な人々が集まった、世界から核廃絶(この場合にはまず核爆弾だが)をしたいという考えの医学者の一団があり、世界的な規模で核廃絶運動をしておられる。この考えも核廃絶をすることが健康で市民的で幸せな生活を送るための必須の条件だという高邁な理想にもとづいている。これもまたまったく正しい。







真理はわれらを自由にする

2014-11-28 13:18:47 | 日記
国会図書館にそんなにたびたび行ったわけではないが、数回は行ったことがある。

国会図書館の入口のところに「真理はわれらを自由にする (Die Wahrheit macht uns frei) 」という大きな字の標語がかかっている(もちろんこのうしろのドイツ語はない)。これは参議院議員として国会図書館の創設に関わった羽仁五郎の提案にもとづいたものであろう。

こういう意気軒昂なところが羽仁五郎のいいところである。羽仁五郎のような高邁な理想をもった思想家はいなくなった。さびしい。

羽仁五郎『都市の論理』(勁草書房)をあまり詳しく読んだことはないが、都市を中心にして政治を行うべきだという考えを述べたもので、いわゆる左翼系の人にもあまり浸透していないが、もっとこの可能性を考えるべきであろう。

これはいま自民党が掲げる、地方創成などとまやかしの概念ではない。地方創成などというのは国家が地方を何とかしてやるという恩着せがましいものだが、そういう思想がはびこっているから、いつまでたっても国が何とかせよとかいう風になる。

国は外交と防衛しかやってはいけないというのが、私の考えであり、税金も国がとるのではなく、自治体が徴収するのである。それらの多くの自治体の格差等の是正には国も絡んで来ることはあるかもしれないが、あくまでも主体は自治体である。

国に財政的な基盤があるようでは都市の自治体連合という構想は実現しない。

もう大分前になるが、ドイツのフライブルクの市長が来て、E大学で講演をしたことがあった。ベーメさんという市長はSPDの所属であったが、国が何と言おうと自治体が環境問題を勧めるのだという強い決意をもっておられた。

エネルギーを有効利用したり、車の市内乗り入れを制限するために電車やバスの連絡(いわゆる、park and ride)を緊密にしたり、割引料金を導入したりとシュバルツバルトの森林を守ることが市民を守ることだという点でも意識がはっきりしていた。原発に依存しないという点でもしっかりしていたように思う。

その後任の市長はGr"une所属の市長が選ばれていることでもわかるように、フライブルク市民の環境に関する意識は高い。

要するに、ベーメさんは国が何と言おうと自治体がノーといえば、できないのだという主張だった。その主張は羽仁五郎の都市の論理を思わせるものだった。

S先生の死

2014-11-28 12:56:12 | 日記
私にはどうしたものか物理学の先生にSという字で始まる方が3名もいる。

その中でS1先生はかなり以前に亡くなられたが、この度S2先生が亡くなられていたことが昨日のEさんからの電話で最近分かった。どうも10月5日に亡くなられていたようで、49日も済ませたという。

S2先生は多分1926年の生まれだと思うから、今年で88歳だったのであろうか。やはりこの辺の年令での健康がそれよりも生きられるかどうかの分かれ道のように思われる。

門下生としてはそれでも放っておくわけにもいかないから今日明日くらいにEさんとも相談するつもりである。私は現在のところ、H大学の素粒子論研究室の同窓会の世話役でもあるので、メールのある方はメールでまたメールのない方は手紙で知らせるべきであろうと思っている。

もう一人のS3さんも80歳を越したが、彼は元気で日本原水協の代表理事などを務められている。S1先生も日本原水協の代表理事を務められていたから、S3先生が日本原水協の代表理事を務めていることに私はあまり違和感はない。

いつかもこのブログで書いたかもしれないが、S1先生は量子力学や相対論を教わった先生だが、あまり物理学者としての強い印象はない。むしろ平和運動家としての印象の方が強い。

S2先生とS3さんとはいろいろな面で影響を受けたが、ファインマングラフの描き方などはS2先生から学んだように思う。ご冥福をお祈りする。

直接的な研究指導はS3さんからしてもらったが、どうも私自身の能力のなさから、S3さんに到底及びもつかなかった。

イチョウの落葉

2014-11-27 12:30:38 | 日記
11月も末になってきたので、今年も早くもなのかどうかわからないが、勝山町のイチョウが黄色に色づいている。

風に吹かれてその金色の小さな葉が道路にもすこし散らばっている。与謝野晶子の短歌

  金色の小さなとりの形して銀杏散るなり夕日の丘に

を思い出す。

インターネットで上の短歌の表記を確かめたらいいのだが、面倒だからやめた。

高校の国語の教科書だったかに乗っていた短歌であるが、なぜだか今でも覚えているから、不思議である。

たぶん平和通りのイチョウも同様に黄色くなっているのだろうが、いつも通るのが夜遅いのでわからない。

柿が赤くなれば、・・・

2014-11-27 12:12:43 | 日記
今年も岐阜産の富有柿を、愛知県に住む従兄が送ってくれたが、その箱のふたに「柿が赤くなれば、医師が青くなる」と書いてある。お決まりの文句かどうかは知らないが、柿のPRの文句である。

大きな富有柿で柿の好きな私でも食後にその半分を剥いて食べるのがやっとの大きさである。カーキ色とは柿色のことだろうか。

ドイツ語でもKhakiはカーキ色のことだと辞書にはある。もっともder Kakiまたはder Khakiはスペイン産の柿だとその昔懇意にしていたドイツ人が教えたくれたとは以前にもこのブログで書いたことがある。

カキはカロチンとかビタミンが豊富で健康食品だというが、ニンジンと違ってカロチンのいやな味はしない。

大きな柿なので12個しか箱の中に入っていなかったが、両隣と特に懇意にしているお宅に3個づつと私の分に3個と等分して分けた。こちらからは早生のミカンを例年送ってあげていたのだが、さてどうしたものか。

『物理系学生のための数学入門』紹介

2014-11-26 17:05:54 | 日記
富山大学の物理学者、栗本猛さんが、立派な『物理系学生のための数学入門』というテキストをつくって公開しておられる。

本文と索引合わせて252ページにもおよぶすごい労作である。高校数学のレベルからはじめて大学中級に及ぶものであり、数学科ではない普通の理工科系の学生ならこれを学習しただけで多分用が足りてしまうのではなかろうか。

ちょっと内容を概観してみよう。

第1部 高校数学+αレベル
第2部 大学初級レベル
第3部 大学中級レベルA (複素関数とその応用)
第4部 大学中級レベルB (微分方程式)
第5部 大学中級レベルC (特殊関数)

である。

大学初級レベルは大学で学ぶ微分積分学と線形代数の範囲で、それにベクトル解析が付け加わっている。

私が関心のあった第3部の解析接続の項は割合あっさりとしたものであり、ちょっと肩透かしを食ったような気がしたが、それでもデルタ関数も触れられているし、フーリエ解析もあり、グリーン関数の説明もある。

また演習問題もあり、それにちゃんと解答例までつけられている。

これで取り扱われていないのはリー群くらいだろうか。もっとももう少しきちんと学ぼうとすれば、別の書をひも解く必要があるかもしれないが、当面はこれで十分であろう。

こういう教材を簡単にインターネットで手に入れられる時代になったいまの学生がうらやましい。

ただ、ちょっと気になったのはベクトルがゴチックで表されていない点で、やはりベクトルはゴチックで表した方がすっきりするような気がする。字の上に矢印をつけるのは止めたほうがいいのではなかろうか。

あおぞら文庫

2014-11-26 11:48:30 | 日記
妻がタブレットを購入することにしたのはスマホで「あおぞら文庫」を読んでいたのだが、画面が小さすぎるという理由であった。

そして、タブレットの購入後夏目漱石の『吾輩は猫である』を読んでそのあらすじ等を私に話してくれたりした。なにせ普段は忙しくしている彼女だから、それでも暇のときを選んで『吾輩は猫である』を読んだのは特筆に値する。

しかし、その後は何かを読んだという様子はない。しかし、なんでもすぐに検索してくれるようにはなった。

ドイツ語で「なんとかはどういうのだろう」というと「なんとか」「ドイツ語」と入れれば、大抵なんでも出てくるから便利なものである。

電子辞書などという便利なものができたと思ったら、それ以上に強力な武器を手にしたことになる。

だが、政治の世界ではいくら新聞がわめいても政治は変わらないのはもう慣れっこにはなっているけれども、絶望的な気になる。

もっとも現在の経済状態の改善策はどうも誰もわからないというのが実情らしいので、どうしようもないけれども。

オイラーの無限解析、解析幾何

2014-11-25 11:46:48 | 日記
高瀬正仁訳『オイラーの無限解析』、『オイラーの解析幾何』(海鳴社)を入手した。

入手したら、安心して、まったくこれらの本を覗いてはいない。いずれも独特のタレントをもつ、高瀬正仁さんの訳書である。高瀬さんはいくつかの著作ですでに有名な方である。

彼に会ったことはないが、なかなか現在のような社会では出にくいような才能の持ち主である。現在ではアマゾンの検索で高瀬正仁と入力すると本当にたくさんの著作が出てくる。

実は『四元数の発見』(海鳴社)の印税の一部を使ってこの2書を購入したのである。先日海鳴社を訪ねたときに購入したいと申し出ていたので、送ってくれたのである。

もっとも『無限解析』の方が定価でも5,000円を越すし、『解析幾何』は10,000円を越し、貧乏な私どもの入手しがたい高価な買物である。、『解析幾何』は下巻にあたるので、あまり売れないということで倍の定価をつけたのだと辻さんが言われていた。下巻は上巻ほどは売れないのだという。出版業界に特有な悩みであるだろう。

これらの訳書を楽しめるような時期がいつか私に来てほしいと願っているが、さてどうだろうか。

maybe next time

2014-11-24 14:45:48 | 日記
あまり英語に詳しくないので話題にするのが恐ろしいが、それでも・・・

若い男性が女性等を誘ったりしたときに、女性の方はあまりその気にならないときにmaybe next timeというとか聞いたことがある。

もし、そのときに本当はその誘いを受けたかったのだが、あいにく都合がつかなった場合にはどういうのだろうか。

I am very sorry, I have already an appointment.とか言うのだろうか。

少なくともmaybe next timeは婉曲な断りの表現と聞いているので、こういう返事をされた場合には脈がないと諦めるべきであろう。

超伝導を?

2014-11-24 11:58:25 | 物理学
先日から超伝導を量子力学のテキストで取り扱えるテーマがどうかを調べるために超伝導の解説をいくつかの書で読み始めた。

結論をいうと非相対論的な量子力学のテキストには超伝導を多分とりいれることができないであろう。ファインマン物理学の第3巻でも最後に取り扱っているが、その説明のスタイルはそれ以前の箇所と違うと述べてある。

いわゆる教科書風のテキストでは論理の飛躍はあまり許されない。だから、やはり非相対論的な量子力学のテキストで超伝導を取り扱うのはやはり難しいのではないかという感触をもっている。

量子効果がマクロに現れたのが、超伝導だというが、それだのに超伝導には場の量子論的な取りあつかいが必要とされる。それではなかなか非相対論的な量子力学のテキストで取り扱うのは難しかろう。

これはまだよく勉強していない現在の話だから、もっとよく調べれば取り入れることは可能かもしれないが、いまのところはそういう判断である。

昔かなり長い期間にわたって、高橋康著『物性研究者のための場の量子論』上、下(培風館)を読んだ時期があるが、超伝導のところは計算は追えても全くイメージがわかなかった。物性論のテキストではある程度イメージはもてるようになるが、細かなところの追求ができないというもどかしさがある。

まだ学習は初期段階なので、もう少し理解が進んだら、意見が変わるかもしれない。

ランダウの理論物理学教程

2014-11-22 17:46:14 | 物理学
詳しくはランダウ=リフシッツの『理論物理学教程』と言わなければならないが、それがPDFで無料公開されているという。

もっとも1960年代に発行されたものであり、最新の1980年代のものは公開されていないらしいが、それでも憧れの『理論物理学教程』である。

私に一番近しかったのは『弾性体論』だったが、これは大学の講義の弾性論のテキストとして使われた。結局はまったくわからずじまいであった。この科目の単位はどうやってもらったのだろうか。

その後、材料工学科に数年勤めたときに弾性体論の一部を講義することになってあわてて、それを学び直したといういきさつもあった。しかし、いずれにしてもランダウの本は私にはわからなかった。

ゆっくりじっくり読めばわかるようにはなるだろうが、それはあまりにも時間がかかりすぎるという気がする。そして、別の本で学んでその基礎がある程度わかった上で読めば、多分ランダウの本はすっきりしているのだろうと思う。

私がもっている訳本では『力学』、『場の古典論』、『統計物理学』の3つだけであるが、『弾性体論』は今でもどこか探せば英訳の青焼きのコピーが出てくるであろう。

1960年代の版ではあるが、公開されたということで感慨がある。学生のころランダウの量子力学の英訳本を友人がこれを私たちに見せびらかせて読んでいたことを思い出す。

その後、私はセミナーでシッフの英語の量子力学の本を読んだが、WKB近似のところだけはランダウの日本語訳で読んでノートをつくった覚えがあるが、そのノートもよく探さねば出ては来ないであろう。

ロシア語の『場の古典論』と『量子力学』はその後、手に入れたので、ロシア語を学ぼうと思ったが、初歩のロシア語を学んだ段階でそれきりとなってしまい、その後ロシア語には縁がない。

大学で2年後輩のO君は生物物理とか分子生物学とかに関心があって、長らく医学部に勤めていたが、ロシア語は辞書を引けば読めるようになったと言っていたから、まあものになったのであろう。

O君とはかなり長い間年賀状のやり取りをしていたが、そのうちにお互い疎遠になってしまった。大学を定年で辞めてからはどこかで物理を教えていると聞いたが、まだ生きているやらどうやらわからない。


超伝導と量子論

2014-11-21 12:14:23 | 日記
ある出版人から、ちょっとだけ私の昔の量子力学の講義ノートがどんなものだったか、関心をもってもらったらしい。

それで物性物理学の話を取り入れていた自分のノートをとり出してきた。主に物性物理学の初歩の知識を量子力学を学ぶことと直結させるというのが私のやりかたであった。

それだと超伝導とかはもっと格好の題材となるのだが、私はあまりこの超伝導についてあまりつっこんだことを知らない。それで、ファインマン物理学の訳書(岩波)なら第5巻(原著なら第3巻)をとりだして読もうとしている。

これは村上雅人さんの量子力学の本(海鳴社)でちょっとだけそんな話題が出ていたからである。



































他人と過去は・・・

2014-11-20 12:45:35 | 日記
よく言われることに「他人と過去は変えられないが、自分と未来は変えられる」というのがある。

誰がいつ言い出したのかは知らないが、なるほどと思わせる。

誰でも自分の過去を美化したいものだけれども、たとえば、自分が過去に大学受験に失敗したとかは一生ついて回る。もっともそれが不利なるとは思われなくて、逆に人生に有利に働いたりするから、人生の失敗も捨てたものではない。

しかし、この言い回し(-e Redewendungen:ドイツ語)では自分と未来に重点があると思う。過去はいくら悔やんでももう変えられないが、未来は、また自分は自分の努力次第でどうにでも変えられる。

そういうまったくポジティブな生き方を示す一語であろう。問題はそう意気込んだところですぐにでも人間は変われそうだが、なかなか自分が変われそうにないことである。

ではどうしたらよいか。

それは小さなことでもいいから少しづつ少しづつ自分を理想とする方向に自分に変えて行く努力をすることであろう。これもなかなか難しい。だが、人間やれないこともなかろう。小さな積み重ねで私はドイツ語の片言を話せるようになった。

それは一日一日のラジオを聞く15分にかかっていた。それを今では30年以上続けている。ひょっとしたら、40年を越えたかもしれない。いや計算したことはないが、40年近くになるであろう。

「それでも片言しかしゃべれないのか。だめだね」という声がする。それでも私は胸を張っていう。片言をしゃべれることがどれほど難しいのか。君は、あなたは知っているか。

いやこれは一例にしか過ぎない。別に外国語を話すことでなくてもいい。何でもいいのだ。主婦が家庭をまもって40年一日のごとく家事をしてきた。それでもいいのだ。

別に大志をもつことがいけないというのではない。大志は持つべきものだが、いつでも大志が実現できるという幻想に振り回されてはいけない。

あくまで着実に一歩、一歩なのである。確かに一歩、一歩の歩みはのろい。なにもできていないとあせるかもしれない。また仮になにもできていなかったにせよ、その努力をしたことは自分に満足感を与えてくれる。

これは亡くなった数学者の I 先生がよく私に言って下さったことである。私は狭い意味の I 先生の門下生ではなかったが、薫陶を受けたと思っている。

困難を克服するには2

2014-11-19 16:05:36 | 日記
昨年のいまごろ、ブログ「困難を克服するには」を書いた。

それで今日はその続きを書いてみたい。

昨日、NHKのEテレの「知恵泉」で得意先が去って行った方を悔やまないで、まだ残っている得意先がなぜ残ってくれているのかを考えた方が、自分たちの長所がわかるのではないかということを聞いた。

そうかもしれない。業績不振に陥った企業とかだと自分のところに注文がなくなったことをあれこれ調べてみても大抵どうにもならないことが多い。

むしろ自分のところに注文や仕事をくれる業界がどんなところかをよく調べてその近くの業界を開発したほうが得策かもしれない。

そうはいっても日本中どの企業も大手はともかく中小企業は青息吐息であるかもしれない。それぞれがそれぞれなりに工夫を重ねなくてはいけない。

出版業界は不況が続いている。電子書籍も思ったほどはまだ売れていない。それに紙の書物も売れ行きはもちろん芳しくはない。そんな状況だろうか。

かく申す、私も75歳の後期高齢者の部類に入った途端に国民年金の半分くらいを介護保険料で徴収されれて、差し引かれるようになった。

それまでも収入は多くはなかったのだが、一層の手取り収入減である。年金の額面は変わらないのだが、源泉徴収される介護保険料が増えてしまったのだ。

どうやって生きて行けばいいのだろうか。アルバイトの本の著作にしても少ししか入らない。これは出版社を恨んでいるわけでは決してない。出版社だってカツカツでやっているという状況なのだから。

さよならをいうのは

2014-11-19 14:00:46 | 日記
もう旧聞に属するかもしれないが、岩波のPR誌『図書』11月号に掲載された斎藤美奈子さんの「文庫解説を読む」4で私が知っていることわざと同じ文句が出てきた。

それはレイモンド・チャンドラー『長いお別れ』(ハヤカワ・ミステリ文庫,1976)についてである。

この小説を読んだことがないのだが、ハードボイルド小説のベストセラーだという。数々の名文句で知られているという。<さよならをいうのはわずかのあいだ死ぬことだ>だとか<ギムレットにはまだ早すぎるね>とかいう名文句があるという。

後のほうのことは知らないのだが、前の<さよならをいうのはわずかのあいだ死ぬことだ>についてはちょっと知っていて、フランス語で

A quitter, c'est un peu mourir.

ということわざがある。直訳すれば、「別れること、それはちょっとした死である」とでもなろう。昔大学にまだ勤めていたときに、卒業式の後のパーティでこの文句を披露したことがある。みんなポカーンとしていたけれども。

これを聞いたのは実はドイツ語でであり、それを言ったのは中年の化学者である。彼はAbschied ist ein bisschen tot. と言ったのだが、それを聞いた私があまりにも感心したので、実はといって種明かしにそれにあたるフランスのことわざがあるのだと教えてくれた。

一般に西欧社会に別れに対するそのような感性があるのだろうか。いつかドイツ語のクラスで聞いてみたいものだと思いながら、それについてR氏にそれについて聞いたことがない。

ちなみにレイモンド・チャンドラー『長いお別れ』は最近、村上春樹訳で『ロング・グッドバイ』(ハヤカワ文庫,2010)というタイトルで新訳が出ているという。

このことわざについてはすでにブログ人時代のphysicomathで紹介をしたことがあるが、ベストセラー小説にその文句が使われているとは知らなかった。

もっとも名文句はこのレイモンド・チャンドラーが初めて言い出したなんてことはないのでしょうかね。