竹中千春著『盗賊のインド史』(有志舎)の書評もおもしろかった。これはいま売り出し中の中島岳志氏による書評である。
まず、仙石由人前官房長官の参議院での問責の理由ともなった、自衛隊が暴力装置であるという発言とも関係があるが、「ウエーバーが定義したように近代国家とは暴力を合法的に占有する装置である。国家権力以外の暴力は非合法とされ、取締りの対象とされる」と書いてある。
政治思想を研究する人にとっては当然のことも政治の世界では問題になり、問責決議をされたというわけである。
つぎの話はもっと興味深い。インドの女盗賊プーランが獄中から釈放された後、選挙で国会議員となったという話と関係があるのだが、彼女は国会議員になるまで過酷な環境におかれていた。
「彼女のような人間にとって、暴力は時に正義実現の最終手段となる。すなわち、合法的支配のもと虐げられる人間にとって、暴力は不正義を糾す希望となることがある」。これは毛沢東の文化革命の提唱のときにいわれた文句でもある、「造反有理」をも思い起こさせる。
もっとも文化革命は大衆革命の顔をした権力闘争だったことは事実かもしれないのだが。
これはまた、最近のハーバード大学のサンデル教授のNHKで放映された「正義とは何か」の白熱講義に異議を申し立てるに十分な手がかりを与えるのではないかとさえ思われる。
それはともかく「正当な取り分を受領できず、声も上げることのできない人間にとって、強圧的に相手を脅かしてでも支払いをさせることは正義といえるのか。弱者の暴力を誘発する現実とは何か」
これはBSで現在放送されている、韓国ドラマ「イ・サン」でもしばしば出てくるテーマでもなる。ヤンバン(両班:貴族)に圧迫された奴婢はときとしてヤンバンに反抗ののろしを上げて暴動を起こす。もちろん、ヤンバンは特権の持ち主でもある。
合法的な暴力装置をもっているヤンバンにいつも奴婢たちの反抗は鎮圧されてしまうのだが、これに頭を痛めるのが王様のイ・サンという構図にドラマはなっている。これが史実を反映したものかどうかは知らない。
プーランに帰ると「暴力的な手段で国家に対抗して処罰されてきた周縁の人々が、非暴力的な手段で国家の新しい担い手に変わっていく」。ところがこの彼女は2001年自宅前で射殺され、暴力によって葬られたという。これは何を意味するのか。
虐げられた周縁の人々には絶望しかないのだろうか。
(2024.10.16付記)ガザ地区のパレスチナ人とかがイスラエルの国家の暴力としての武力に反抗してイスラエルの襲撃という暴力を行ったが、これはイスラエルの国家の暴力としての武力で攻撃されて多くの市民が亡くなっている。
こういう状況を見ると市民も立ち上がってイスラエルの国民を攻撃するしかないのではないかとニヒルになってしまっても仕方がないのではないか。
ということは今後も長い互いの抗争の歴史となってしまうので、どこかでお互いの民族が互いに和解し、領土がどこの国に属するから出て行けとか言わないで、平和共存する以外に方法がないと思えるのだが、そういう思慮に満ちた政治家はイスラエルにでて来ないのだろうか。
首相のネタニエフは国内法で罪に問われていて、政権の座を下りるとそういう罪の問われて、場合によれば、刑務所行きをまぬかれないのだともテレビの報道で見た。それで右翼のグループの政治家二人を抱き込んで政治権力の維持を図っているのだともいう。
真実のほどは知らないが、現実は多分そうなのであろう。