物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

日曜に休まなかったら

2011-01-31 13:28:32 | 日記・エッセイ・コラム

昨日は高校の同窓会の幹事の打ち合わせ会のために仕事場に出てきた。日曜が休めなかったので、今日は出てくるのが遅くなった。やはり体のリズムが変わってくる。

土曜は休まないで仕事場に出てくるので、日曜日はできるだけ休むようにしている。だが、それがくるうと体のリズムが変わるのである。

昨日も同窓会関係の協議すべきのテーマの話し合いがほぼ終わったときに、「この仕事場でお前は何をしている?」との質問があった。「数学エッセイ」を書いていると言ったのだが、「?」という反応だったので、以前に出した本「数学散歩」を見せたが、数式が出ているのを見てこれは分からんという顔をされた。

これらのエッセイでも実は一つ一つあたって読んでもらえば分かるものも書いているつもりだが、これは世間一般の反応だから仕方がない。一昨年の高校の同窓会のときにも何を今していると聞かれたので同じ話をしたら、「?」という反応だったので、仕方なく後で本を二人に送ったが、後でもあまり芳しい反応ではなかった。

どうも威張っているとでもとられたのだろうか。そういう気持ちは私にはまったくない。しかし、理科系のトレーニングを積んだ人とそうでない人とは私の話に対する反応が自ずから違ってくる。


sin xの展開の原稿

2011-01-29 14:07:34 | 数学

sin xの展開(これはもちろんTaylor展開による方法ではない)の原稿が完成した。とはいうもののまだ読み直しが十分ではないだろう。これからしばらくファイルキャビネットに原稿を寝かせた後に読み直しをする。何週間か前にエッセイを書きはじめたというブログを書いたと思うが、それから何週間経ったことだろうか。

計算ノートは2009年9月には出来上がっていたのだが、それをエッセイにしようと思いつくまでに一年以上かかったことになる。エッセイを書き始めてからも数週間かかった。

なんでも私の仕事のやり方は積み重ね的(累積的)である。いつでも気の長い話であって、すぐに成果が現れるというような仕事の仕方ができない。

このエッセイとほぼ同時に前に書きかけていた逆格子のエッセイの再度手を入れ始めたのだが、逆格子のエッセイはまた途中で投げ出してしまった。これを再開するのか、それとも「ラメの定数」のエッセイを先に書くのか考えなければならない。

「ラメの定数」の導出法の30年以上前に計算ノートをつくってもっているが、エッセイの体にはなっていない。これは岩波講座の「物理学の基礎」シリーズに弾性体の力学の項で豊田利幸先生が書かれたものにもとづいている。この豊田さんの「ラメの定数」の導出法はすこし数学的なのだが、これをもっと物理的に導出できるのだと聞いたことがあるが、私自身はこの物理的な記述を見たことがない。


パートナー

2011-01-28 12:43:57 | 日記・エッセイ・コラム

私たちの長子が昨年に人生のパートナーをもつことができた。

今年の年賀状にそのことを書いたら、ある友人から結婚おめでとうと返事をもらった。法律的な意味での結婚ではまだないので、パートナーと書いたのだが、それを簡単のためか結婚おめでとうと書かれてちょっと複雑な心境である。

これは子どもことを心配しているというよりはまだ結婚という形態がやはりまだ社会的に一般的なのかなと思ったからである。

私はフランス語の講座やドイツ語の講座でフランスやドイツでは法律的な意味での結婚よりはもっと広い形態になっていることをいつも聞いているのに。日本でも若い人は狭い意味での結婚という形態にこだわっていないと聞く。

私の知っているゲルマニスト(ドイツ文学者・ドイツ語学者)たちも何人か法律的な結婚に至るまでに数年を一緒に二人で生活するという形態を取られていた方を存じ上げている。 

彼らは私よりは一回り若い人たちであったから、私の子どもの世代ではその傾向がもっと進んでいるとしても私はまったく驚かない。

先日もNHKのフランス語の応用編で三浦信孝さんがフランスでパーティ等の招待状にどういうふうに書くか尋ねていた。partenaireとかcompagnon, compagneとか書くとフランス人ゲストから返答があった。

だが、このcompagnonやcompagneにも文語としては夫とか妻とか言う意味もあると辞書にはある。


bingoゲーム2

2011-01-27 12:11:52 | 日記・エッセイ・コラム

ビンゴゲームが流行っている。どこでもビンゴのカードを売っているらしい。それも安く売っているらしい。だからかもしれないが、今日も妻はビンゴのカードをもって昼食会の新年会に出かけた。これは昨日の新年会に引き続いてである。

ビンゴの賞品は他愛のないもので、野菜はじゃがいも一袋とかかぼちゃ半分である。昨日は歌の指導をしてくれる、先生が賞品を提供してくれたらしい。

そういえば、先日のテニスクラブの新年会でもビンゴがあったし、京都南座の新春観劇のバス旅行でも帰りのバスの中でビンゴをした。その賞品は主として百円ショップで買ってきたものという。もちろんそれだけではなく妻が知り合いから提供してもらっていたコーヒーカップとかもあったが。

他愛のない賞品ではあるが、誰でもあたりでもらうと嬉しいものである。そこが人間のおかしなところである。

また、ビンゴでは回転したルーレットを回して出てきた数を読み上げるのが普通であるが、このルーレットがないときにはみんながもっているビンゴのカードの中で一番大きな数までを紙片に書き出し、そこに出てくる数字をランダムに読み上げていくという風にしてもよいらしい。そうするときには紙片と鉛筆があればよい。

そして、一度読み上げた数は鉛筆で消して行けば、二度と読み上げることはない。というようなことを妻は今回学んだらしい。

ビンゴもある年齢以上の人にはなじみがないらしい。さすがに私の年齢だと何回かこれを経験しているが、いま80歳を越えているような方々は知らない方も居られる。

(注)ビンゴについて書いて保存したのに、エラーが出ていたので保存ができなかったと思いもう一度書いたら、前の文がきちんと保存されていた。それでどちらかを消去すべきだが、両方ともここで参考のために残しておく。


bingoゲーム

2011-01-27 12:01:38 | 日記・エッセイ・コラム

妻が昨日に続けて昼食会の新年会に出かけた。昨日もビンゴをもって出かけたが、今日もビンゴをもって行った。それにはもちろん賞品を一緒にもって。

もっとも賞品といっても主婦たちの新年会だから賞品が野菜のじゃが芋であったり、かぼちゃ半分であったりするらしい。他愛ない賞品であるが、人間はなんでももらうと嬉しい生き物である。

昨日の新年会ではカラオケつきの新年会だったらしいし、11時半から始めたらしいのに15時半まで頑張って居残り、風呂に入るのが好きな人に貢献したらしい。風呂は16時から入れるというのであった。

もっともこれには思惑があるので、ちょっと風呂好きな方に取り入る必要があったらしい。いつでもお願いごととご利益を与えることとがバランスしているようにというのが、妻の人との付き合い方らしい。

それでかどうか知らないが、人を集めることが上手である。もっともご利益とお願い事とはある程度バランスしていないとやはりいけない。そこのところがさじ加減が難しい。

自分がいつでも労力を持ち出しするくらいで献身的でなければ、人を動かすことはできない。


ひざを痛める

2011-01-26 13:27:23 | 日記・エッセイ・コラム

現在ひざを痛めている。このひざを痛めるのももう3回目か4回目である。正月には今年はあまり食べすぎはなかったので、なんとか体重増は食い止めたと思っていたら、京都南座の観劇ツアーの役者さんとの交流会とかつぎの日の神戸の中華街での昼食とかで女性の皆さんがあまり食べないもので残りそうな食物をどうも食物のない時代に育ったせいもあってか、もったいないと思って少し食べ過ぎてしまった。

その結果がひざの痛みとなって現れてきた。すなわち、体重が増加したのであろう。そうするとひざに加重が以前よりかかるようになり、ひざを痛めるということになった。

最近はあまりひざを痛めたことがなかったので、大丈夫と思っていたのがそうでもないことがわかった。きわどいところに私の食物の量と運動量と体重の関係があることがわかる。

もっともまだ大学に勤務していた頃にひざを痛めたのは夏にジュースを飲みすぎて体重が増加したのだが、このときは歩くのもままならないくらいひざを痛めた。そのときほどではないが、やはり歩くのにはちょっぴり困難を感じたりしている。だから、もちろん昨夜のテニスでも走れないから、まったくテニスにはならない。

もっともミスをするのはいつものことではあるが、それにしてもひどい。パートナーに迷惑をかけてしまった。


盗賊のインド史

2011-01-25 12:46:08 | 本と雑誌

竹中千春著『盗賊のインド史』(有志舎)の書評もおもしろかった。これはいま売り出し中の中島岳志氏による書評である。

まず、仙石由人前官房長官の参議院での問責の理由ともなった、自衛隊が暴力装置であるという発言とも関係があるが、「ウエーバーが定義したように近代国家とは暴力を合法的に占有する装置である。国家権力以外の暴力は非合法とされ、取締りの対象とされる」と書いてある。

政治思想を研究する人にとっては当然のことも政治の世界では問題になり、問責決議をされたというわけである。

つぎの話はもっと興味深い。インドの女盗賊プーランが獄中から釈放された後、選挙で国会議員となったという話と関係があるのだが、彼女は国会議員になるまで過酷な環境におかれていた。

「彼女のような人間にとって、暴力は時に正義実現の最終手段となる。すなわち、合法的支配のもと虐げられる人間にとって、暴力は不正義を糾す希望となることがある」。これは毛沢東の文化革命の提唱のときにいわれた文句でもある、「造反有理」をも思い起こさせる。

もっとも文化革命は大衆革命の顔をした権力闘争だったことは事実かもしれないのだが。

これはまた、最近のハーバード大学のサンデル教授のNHKで放映された「正義とは何か」の白熱講義に異議を申し立てるに十分な手がかりを与えるのではないかとさえ思われる。

それはともかく「正当な取り分を受領できず、声も上げることのできない人間にとって、強圧的に相手を脅かしてでも支払いをさせることは正義といえるのか。弱者の暴力を誘発する現実とは何か」

これはBSで現在放送されている、韓国ドラマ「イ・サン」でもしばしば出てくるテーマでもなる。ヤンバン(両班:貴族)に圧迫された奴婢はときとしてヤンバンに反抗ののろしを上げて暴動を起こす。もちろん、ヤンバンは特権の持ち主でもある。

合法的な暴力装置をもっているヤンバンにいつも奴婢たちの反抗は鎮圧されてしまうのだが、これに頭を痛めるのが王様のイ・サンという構図にドラマはなっている。これが史実を反映したものかどうかは知らない。

プーランに帰ると「暴力的な手段で国家に対抗して処罰されてきた周縁の人々が、非暴力的な手段で国家の新しい担い手に変わっていく」。ところがこの彼女は2001年自宅前で射殺され、暴力によって葬られたという。これは何を意味するのか。

虐げられた周縁の人々には絶望しかないのだろうか。

(2024.10.16付記)ガザ地区のパレスチナ人とかがイスラエルの国家の暴力としての武力に反抗してイスラエルの襲撃という暴力を行ったが、これはイスラエルの国家の暴力としての武力で攻撃されて多くの市民が亡くなっている。

こういう状況を見ると市民も立ち上がってイスラエルの国民を攻撃するしかないのではないかとニヒルになってしまっても仕方がないのではないか。

ということは今後も長い互いの抗争の歴史となってしまうので、どこかでお互いの民族が互いに和解し、領土がどこの国に属するから出て行けとか言わないで、平和共存する以外に方法がないと思えるのだが、そういう思慮に満ちた政治家はイスラエルにでて来ないのだろうか。

首相のネタニエフは国内法で罪に問われていて、政権の座を下りるとそういう罪の問われて、場合によれば、刑務所行きをまぬかれないのだともテレビの報道で見た。それで右翼のグループの政治家二人を抱き込んで政治権力の維持を図っているのだともいう。

真実のほどは知らないが、現実は多分そうなのであろう。

ドストエフスキー

2011-01-24 13:14:26 | 本と雑誌

昨日(2011.1.23)の朝日新聞に出ていた書評を見て興味深く感じた。

私自身はこの書評を見て本を購入して読むことをほとんどしないから、読書家には入らない。だが、日曜日に新聞に載る書評を楽しんでいる。

本来書評は人に書籍を読むことを勧めるのが目的だろうから、この朝日新聞の書評は少なくともほとんど私には機能していない。しかし、今回2つの書評を興味深く感じた。

一つは山城むつみ著「ドストエフスキー」(講談社)の書評であった。もう一つは明日書く。

書評子はいう。「ドフトエスキーの小説は質の違いがある。その違いはどこからくるのか?」「本書で著者はバフチンの[ラズノグラーシエ](異和)なる概念をドフトエフスキーを読む解く鍵であるという」「ドフトエフスキーの小説の人物たちはたえずこの[ラズノグラーシエ]にさらされる」「小説作者のかたりですら、この異和を引き起こす」「作家が人物の内心を描くという行為そのものが、人物のありかたを揺るがせてしまう。結果、小説はどこへ向うか分からぬものになり、作家は自己の創造した人物たちとの「対話」をひたすら続けるほかなく、目指す場所へと至る奇跡を祈り願いながら言葉の秘境をさまよい歩く」

ここにかいつまんで引用した一番最後のところはちょっと私にはどうでもいいが、「作家が人物の内心を描くという行為そのものが、人物のありかたを揺るがせてしまう。結果、小説はどこへ向うか分からぬものになり」というところを読んで私は量子力学に出てくる不確定性関係を想起した。

このドフトエフスキーが生きた時代がいつのことなのか私は知らない。だから、ドフトエフスキーが不確定性関係という科学の分野で知られた思想の影響を受けているとは思わないが、そういう奇妙な性格をドフトエスキーの小説はもっているらしいということを知った。

ちなみに私はドストエフスキーの小説を1冊も読んだことがない。

それにしてもこの書評を書いた作家の奥泉光さん、または、この本の著者山城むつみさんは不確定性関係またはその概念をご存知なのだろうか。


素っ頓狂

2011-01-22 17:43:57 | 日記・エッセイ・コラム

私は素っ頓狂である。これは父親譲りであるから、元大学の同僚のうちで頭の働きの鋭いOさんなどは私をいつもからかうのを常にしていた。

もっともこのOさんはこのことを後で自分で私にこのことを告白されたので、多分私のもっている生来の性質を敏感に感じる方だなと感じたことがあった。

しかし、ご自分でちょっとあまり公正でないと反省をされていたのだろうが、もともと頭はするどく、感覚の鋭い人であるので、自然に自分の感覚が反応したのだろう。だが、このことで私はOさんを恨んだことはない。

むしろ後でだったにしろ、率直に告白されたことにこの人のある種の率直さを感じたくらいである。

私は5人兄弟の3番目だが、その素っ頓狂なのは私一人であり、他の兄弟4人はそんなことはない。小さいときからいつもそういうことを言われていた。

素っ頓狂とはどういうことかというと曰く言いがたいが、なんだか視野が狭いという感じなのである。これは物理的に視野が狭いということでもないし、比喩的に視野が狭いということでもない。だが、なんだか視野が狭いという感じなのである。

偉い先生を引き合いに出して悪いが、朝永先生の高弟のT教授が失礼ながら、私のいう素っ頓狂な方であった。これは曰く言いがたい。知識の問題でもないし、能力の問題でもない。だが、素っ頓狂な私が私の同類と定義するのはおこがましいのだが。


テニス新年会

2011-01-22 17:15:08 | インポート

昨夜テニスクラブの新年会があった。2時間半ぐらいの短いであるが、20人ぐらいの人が集まった。時間が限定されているが、その間は飲み放題である。

そういえば、一昨夜に飲み放題にあたるドイツ語ができていると聞いた。いますぐには思い出せない。もっとも飲み放題という概念はドイツにはないそうだ。カラオケ(Karaoke)とかヨーロッパでも通じる日本語である。

マンガ(manga)はフランス語になっている。Judo, Karate, Aikidoはフランスでもドイツでも通じるはずだ。

以前にテニスに参加していたが、現在来られていない方もかなり居られた。それでも心のきずなというか何かを感じて来られるのである。男女比でいうとほぼ同数くらいである。テニスのために怪我をした人も居られる。

年を重ねてくると結構ひざだとか腰だとか肩だとかが痛くなってひどい場合には動かせないという人もあった。それにしても最年長の人は72歳のMさんであったが、つぎが私の71歳である。

世話役はOさんで、うまく新年会をとりしきってくれた。


pun(駄じゃれ)

2011-01-21 13:36:26 | 日記・エッセイ・コラム

いつものことだが、今朝眼が覚めるか覚めないかののときになんだかpun(駄じゃれ)という語が頭に浮かんだ。このpunにはいろいろあるのだろうが、私の覚えているのは科学に関係したことである。

湯川中間子論が提唱されてまもなくの頃にアメリカで流行ったpunはHeadache Yukawaであったとガモフの通俗科学啓蒙書で読んだ。

これは注釈が必要ではないだろうが、Hideki Yukawaという湯川博士の名前にひっかけたpunである。もちろん、湯川の中間子論の論文が難解でそれを読むと頭が痛くなるという駄じゃれである。

また、これは日本人にしかわからない駄じゃれだが、Weylという数学者がいたが、彼の書いた本は難しいので、「ワイルには参る(まいる)」と言われたとか。こちらの駄じゃれは広島大学理論物理学研究所の教授だった、竹野兵一郎先生から聞いた。

竹野先生は相対論の数学を専門とする数学者であったから、ワイルの「空間、時間、物質」なども読みこなした方だとは思うが、そういう話は一般に流布していたらしい。

この話は今回がはじめてではなく、前にも書いたことがあるかもしれない。というのは人間は自分の書いたことでもすべて覚えていることは難しいからである。

ところで、こういうpunを思いついたのにはきっかけがある。

昨夜のドイツ語のクラスで医師の I さんがある駄じゃれのドイツ語の記憶法を話されたからである。これは I さんが旧制の高校生のときに授業で聞いた話だと思う。

ドイツ語のSeeには海という意味と湖という意味がある。ところが、このSeeの性が湖か海かで異なるのである。それで、どちらがどちらかわからなくなる。

高校のドイツ語の先生は「男はこすい(湖水)」と覚えればよいといったらしい。すなわち、男性のder Seeは湖であり、女性のdie Seeは海であるというわけである。また、海にはMeerという語もあるが、このMeerはdas Meer と中性である。

「男はこすい(ずるいの意)」は一般にいうとそうかどうかは異論のあるところであろうが、その男性の性質としての「こすい」という語を「湖水」とを結びつけた感覚はすばらしい。が、これはまったくの駄じゃれである。

私も一瞬 I さんが何を言われようとしたのかわからなかったが、考えてみるとどうもこういうことだった。

Immenseeというテォードル・ストルムの小説があるが、このImmenseeはみずうみであるから、der Immenseeであり、die Immenseeではあり得ないという I さんのおまけの解説までついていた。そして日本ではこの小説の題名の訳は「みずうみ」である。

小説を読まないと日ごろから称している私でもこの小説をラジオのドイツ語講座で一度ならず読んだことがある。これはもちろん、入門講座ではなく、応用編の講座で聞いたのである。

ドイツの北海沿岸に近いフーズムという町がストルムの生まれた町であり、E大学のドイツ文学者のMさんは何十年か前に始めてドイツに出かけたときにフーズムを訪れたはずである。

私自身はフーズムに行ったことはない。


トリリンガルへの夢

2011-01-20 12:49:03 | 外国語

1977年に1年間のドイツの留学から帰って来て外国語の重要性に目覚めて(?)NHKのラジオのフランス語講座とドイツ語講座を毎日続けて聞くようになった。もちろん都合で、聞けないときも多いのだが、そういうのは気にしないで、都合がつくかぎり毎日放送を聞くという習慣ができている。

テレビも合わせて見ているが、これはテキストははじめ購入していたが、あまり読まないので購入をやめた。

英語はあまり上手には話せないし、聞けない。ドイツ語も聞くほうはかなり聞けるようになったが、それでもドイツ人が外国人を意識しないで話しているのを聞くのは今でもかなり難しい。ましてや話すことはいつも困難を感じている。

フランス語も同様であるが、このごろラジオとかテレビの講座でのフランス語を聞いているとまるですばらしい音楽を聞いているように懐かしく感じられるようになってきた。これはよく聞けたり、話せたりするようになったということではないが、無性にそういう感じがするようになったというだけである。

それでもいつかはフランス語とドイツ語と日本語をちゃんぽんで自由に話せるようなトリリンガルという果てしない夢を夢見ている。

私の勉強法は毎日短い時間だけ、初心者向けの放送を30年以上聞くという簡単な学習法であり、それ以外にはこれらの外国語を基本的に勉強をしない。私の毎日は基本的にこういう単調な修行僧のような毎日である。

だから、ときには東京に行ったりはするが、それとて子どもたちに会いに行くだけであり、スカイツリーを見に行くわけでもないし、ディズ二ーランドに遊びに行くわけでもない。それだから、自分でもほとんど毎日ブログを書くテーマがあるということ自体が不思議である。

このブログの読者は理系の人たちが多いので、某タレントのブログのように毎日何万というようなアクセスがあるわけではない。たかが、100回もアクセスがあれば、今日はたくさんの人が見てくれたようだとの満足を感じるくらいのたわいのないものである。



Quantum Mechanics and Path Integrals

2011-01-19 12:46:03 | 物理学

もちろん, これはFeynman-Hibbsの著書でもう40年以上前の書である。実はMacGraw-Hillのこの書をもっているのだが、ミスプリント等が修正されていると知ったので、このDover版を購入したのである。

この書の一番最後に定積分の公式がついている。その公式の一部はすでに自分でも計算をして導いてみたのだが、まだ全部の公式の導出に成功しているわけではない。

他のpath integralsのSchulmanの書にはこの公式のいくつかが証明されているが、そこにも全部の定積分の公式を証明されてはいない。そして、この元の1965年版ではこの公式の中にもミスプリントがある。それを確かめたかったのと、ひょっとしてこれら定積分の公式が証明されているかと思ったのが、新しい版を購入した理由である。

残念ながら、定積分の公式の証明はなかったが、私も気のついたミスプリントは修正されていた。

日本語でもこのFeynman-Hibbsの書の解説書は米満、高野両博士がアグネ技術センターから出されている。また、今回の新しい版でコメントも追加されている。困ったことにというか、幸いにしてというか元の版に加えて定積分の公式はさらに新しく追加がされている。


名言

2011-01-18 13:02:57 | 日記・エッセイ・コラム

妻の知人の方があるとき、どこかからテレフォンセックスか何かのかなりの額の請求書を送ってきたのを見たという。多分子どもさん宛てのものだったのだろう。これはいまはやりのオレオレ詐欺の一種なのだろう。

それを見て、その方は言われたそうだ。「30歳を越えた子どものおちんおちん(セックス)の面倒までみれない」と。それを聞いた私の妻は深い感銘を受けたという。この女性というかお母さんの独立をここで見たような気がする。これはある種の名言であろう。

そういうことの後でだか、実は昔に妻の友人だった女性Oさんとこのご婦人が若いときに知り合いであったと聞いてようやくこの知人の女性を理解できたような気がしたという。

妻の友人の女性は剛毅な女性であり、体はあまり強くはないようだが、その影響を妻も少しは受けている。

ところで、名言だが、いろいろな名言がある。NHKの教育テレビの英語の番組にも「E名言」というのがあり、紺野美紗子さんとロジャーパルバースさんが担当されている。いろいろなテーマをとり上げておられて、これによって英語の学習はすすむとはあまり思えないが、人生の教訓になることばかりである。

もっとも、老齢のためか聞いた端から忘れていくので、あまりこの名言も私の役には立っていないが。


Am Brunnen vor dem Tore

2011-01-17 14:58:40 | 日記・エッセイ・コラム

Am Brunnen vor dem Tore, da steht ein Lindenbaum とはシュベールトの歌曲「冬の旅」の中の一曲の菩提樹の冒頭部分である。

カナで発音をつたなくつけておくと、アム ブルンネン フォアデム トーレ、ダー シュテート アイン リンデンバウムとなる。

この曲をよく覚えているわけではないのだが、今朝まだ寝床にいて眼が覚め切らぬときに頭に浮かんできたのだ。

Am Brunnen vor dem Tore, da steht ein Lindenbaum は「市門の前の泉のそばに菩提樹が立っている」という意味だが、日本語の歌詞では「泉に添いて茂る菩提樹」と「市門の前の」とかはないし、繁るともda steht ein Lindenbaumのなかには入っていない。

だが、その言葉のなかにはもちろん菩提樹は当然繁っているだろう。というわけで「繁る菩提樹」と訳されたのであろう。なかなかうまい訳である。忠実な訳とはいえないが、意訳としてはとてもうまい。こうでなくては訳詩などはできまい。

一昨日と昨日は京都にいた。京都は昨朝雪が降って、ときならぬ雪景色を体験した。ホテルが鴨川沿いだったので、雪の鴨川を見ることができた。

起きたときに窓外に見た、大文字山は雪をかぶっているようには見えなかったが、朝食を食べて部屋に帰ってきたら、比叡山が雪をかぶって白く輝いていた。ほんの数十分後のことである。

9時にはホテルを出て、長岡京市のサントリービールの工場でプレミアモルツのビールの製造過程の説明を受けた。サントリ-ビールはようやく日本でのいいビールとの定評得たようだが、市場の支配率はまだ大きくないためか、なかなかサービスがよかったし、説明もよかった。

その後は神戸の中華街のレストラン長江で昼食をとり、後は一路松山へと帰った。予想よりは早く7時30分には高島屋前の坊ちゃん広場に着いた。

(2011.1.18付記)

昨日帰宅して朝日新聞を読んだら、吉田秀和さんの伝記の紹介の記事があり、その中に菩提樹の歌のことが出ていた。その歌詞として私がたまたま採用した冒頭の部分が出ていた。それによると「泉に沿いて繁る菩提樹」ではなかったので、新聞どおりに上のように変更を施した。

多分、新聞社は正しいだろうという権威主義にしたがっている。昨日は私の普段の習慣とは異なり、私は新聞を朝読まなかった。たまたまブログに新聞と同じことが出てきたのはまったくの偶然である。

新聞社はどのような資料室とか資料や情報の検索をできるようなサーバーををもっているのだろうかと思っているが、現にそのような施設を見学する機会はまったく持てていない。

そういう機会とかを生きているうちに一回くらいはもちたいと思っているが、はたしてもてるだろうか。