物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

世の中にたえて・・・

2014-03-31 11:54:24 | 日記・エッセイ・コラム

『世の中にたえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし』

この短歌が思い出される桜の季節である。これは在原業平の作という。春の嵐で桜の花が散りはしないかと昔の人も気が気でなかったのであろう。

もっとも私などはあまり花などには冷淡な方ではある。だが、世の中の人が桜の花見をしたり、浮かれたりすることを批判しているわけではない。

それほど悠長な気持ちがもてないというだけである。

妻はけさ桜餅みたいな、牡丹餅を50個ほどつくっていた。年金者組合のお花見にもって行って皆に食べてもらうのだという。それも知り合いの人に来てもらって二人でつくっていたという気の入れようである。

今日は結構暖かくて、お花見には絶好の日和である。私は最後の修正を『数学・物理通信』4巻1号に施して、できたら今日の中にでも発行をしたいと思っている。

さて、今日中に発行できるかどうか。


4巻1号を近々発行

2014-03-30 18:56:19 | 数学

『数学・物理通信』4巻1号を近々発行する。

自分の書いたベクトル代数のエッセイが論理的にすっきりとしたと思って昨夕帰宅したのだが、「あれっ、きちんとした係数の導出になっているのかな」と夜中に思い出した。

それでこの原稿のプリントしたものを読み返したら、これでは証明になっていないということに気がついた。

帰宅するときにすっきりとしたと満足していたのはなんだったろうと思ったが、論理をすっきりさせたから、実は証明がインチキというか、証明すべきことを使って、係数を導いたことがわかったのだろう。

あわてて、自分の本『物理数学散歩』(国土社)をとりだして、その部分をこの書の方法にしたがって書き直した。

それで間違っている部分をエッセイから本当は削除すべきなのだが、私が何年も正しい証明だと思っていたのだから、他の方々にも同じ誤解を与えてはいけないのでそれを誤った導出として、付録として教育的配慮から残すことにした。もちろん、どこが悪いのかは書いたが。

これは頭のいい人なら絶対しないミスである、私の頭の粗雑さの見本のような話である。

しかし、これはもともと私が大学に勤めていたときの同僚だったOさんのアイディアでの証明であるから、私以外にもそういう落とし穴に陥る人がいてもおかしくはない。

そんなこんなでバタバタしている。


これが物理学だ

2014-03-29 11:26:32 | インポート

ルーウィン著「これが物理学だ」(文芸春秋社)を先日購入したが、なかなか読む暇がない。

これは昨日再放送が終わった、NHK E テレのMIT白熱教室のルーウィンさんの書いた本である。

もっともこの本は字が大部分で式とか図があまりなく(写真が中途に入っているが)、あまり読みやすい書ではない。

私のようにテレビの放送を見て興味を抱いた人には多分退屈であるだろう。

もっとも中身を読めば、結構おもしろそうではあるが、それでも放送で示されたデモ実験の迫力には到底及ばない。

だから、一般の人が買って読むことは勧められない。もっとも物理学に関心をおもちならば、購入することもいいだろう。

もし、ネットで彼の講義が見えるならば、それを見た方がいいと思う。

縦書きであまり関心がわかない話を文章だけで綴られては物理学の方が逃げて行くような気がする。

そんな悪口を言いたくもなるような本である。しかし、すこし中身を読んでわかる人ならば、結構いけると思うかもしれない。

私はまだよく読んではいないが、補遺2

の「地球の重さを求める」は式が結構あるけれどもまあいいのではないかと考えている。

昔、入学試験問題をつくる機会があったときに、そういう問題を出してみたいと思ったことがあった。実際にそれを出題したのかどうかは覚えていない。

だから、物理学者ならそういう問題が好きなのはわからないでもない。

ルーウィンさんはX線星の研究で業績を上げた方らしい。それとかれはユダヤ系の元オランダ人であり、父親がユダヤ系であったために大戦中彼の父は数年どこかに隠れていたとかいう話が冒頭に出て来て結構おもしろそうである。

しかし、こんな本を誰が読むのだろうか。もっと図とかが豊富でなければ誰も読んではくれまい。


ハンナ・アーレント2

2014-03-28 17:40:53 | 日記・エッセイ・コラム

映画「ハンナ・アーレント」を見に行ったとは昨日書いたが、今朝方夢うつつで、はて「根源的な悪」というのを映画でどう言っていたのかを聞き取れなかったことに気がついた。私のドイツ語のレベルなどそれくらいなのだ。

第一、私は悪とか善とかいうドイツ語知らないことに気がついた。悪はB"oseheitかなとそのとき思ったが、朝食後に妻にgoogle検索をしてもらったら、B"oseheitなんて言うドイツ語はないらしい。単にB"oseか。

根源的という語がまたわからない。das B"oseと中性名詞だとするとwesentliches B"oseとかwurziges B"oseなんて語があるのだろうか。googleではurs"undlichとかerbs"undlichとか書いてあるらしい。

しかし、シンティンガーの辞書の初版にはurs"undlichは載っていなかった。erbs"undlichの方は「原罪的な」との訳がある。しかし、これはちょっと違うのではないかと思った。

urspr"unglich(根源的な)という語もある。これはぜひ4月3日から始まるドイツ語のクラスでR氏に聞いてみなくてはならない。

そういえば、原始時代というときの「原始」というドイツ語を知らないことに気がついた。uraltとかいうのだろうか。

原始時代はUrzeitでいいのだろうか。はたして?

いまgoogle検索で辞書を引いてみたが、「悪」は"Ubelと出てきた。これは確かにそうかもしらないのだが。「原始時代」は即座にUrzeitが出た。「原始の」はprimitiveと出たが果たしてどうだろうか。


ハンナ・アーレント

2014-03-27 16:01:52 | 映画

今、話題の映画「ハンナ・アーレント」を先ほど見てきた。

話はイスラエルのモサドに拉致されたアイヒマンの裁判の傍聴記をニューヨーカーに書いたアーレントがアイヒマンを「凡庸なる悪」であって、根源的な悪ではないと書いたことによる周囲の反響とかを取り扱ったものである。

アイヒマンは確かに多くのユダヤ人を強制収容所に送り、結果的に多くのユダヤ人を殺害することに関与したことになる。だが、彼はすべて命令にしたがっただけだと法廷で述べているが、その罪を自覚したから南米に逃亡したのであろう。

別にアーレントはアイヒマンに罪がないとは言っていなくて、死刑でも当然であろうと考えてはいるが、彼を「根源的な悪」だとはみなさなかった。

その傍聴記のためにアーレントは長年の友人を失ったし、失望を友人たちに与えたことも確かである。

ただ、哲学者というものはそこまで突き詰めて考えるものかと思って、アーレントの徹底さをうらやむと同時に、これは私がもし彼女の友人の一人ならば、やはりなかなか友人である続けるのは辛いかもしれないと思った。

人間は論理的には理解しても感情で理解できない、または許せないことはあるものだと思う。

ハンナは夫のハインリッヒとは家庭でドイツ語で話していたし、友人たちも多くはアメリカでも家庭内ではドイツ語で話しており、その会話のすべてを聞き取れたわけではないが、久しぶりに映画でドイツ語を聴くという機会を得たのはよかった。

映画は明日3月28日までだから見たい人は松山市銀天街のはずれのシネ・ルーナティックへ急いで見に行って下さい。


今治西、再度今年も初戦敗退

2014-03-27 12:30:33 | 日記・エッセイ・コラム

昨年だったか一昨年だったか「今治西、今年も初戦敗退」と書いたが、今年の選抜もそうだった。

監督談として「初戦敗退という同じことを繰り返すとは監督の力のなさだ」とあったが、そうではあるまい。

これはしかたがあるまいが、それにしてもあまり同窓生としてはもう期待はしていない。

その中に星めぐりがよくならないとどうしようもないと思っている。だから、卒業生の皆さんもあまりがっかりされないようにしてもらいたい。

もう結構の歳となってしまった一卒業生としてそう思っている。


数学・物理通信4巻1号の編集

2014-03-26 11:00:09 | 数学

昨日から「数学・物理通信」4巻1号の編集をはじめた。この作業で思わぬ反応をlatexシステムがしたので、投稿者に相談のメールを出した。

それは投稿者とのやり取りでなんとか処理ができると思う。まだ編集の途中であるので、何とも言えないが。

1月中だったか2月にだったか、Sさんから3編の論文が同時に投稿された。そのときにそのメールで同時にある号に一挙に掲載をしないで1編づつ掲載してくださいという要望をもらった。

原稿を投稿した人にすると、投稿した原稿を一挙掲載されると折角書き溜めた論文が一挙に掲載されるとまた別の論文を書かなくてはならないという強迫観念に駆られるらしい。

私は編集者なので、投稿者の立場とは違う感覚であった。投稿された論文をできるだけ早く掲載してあげたいという義務感にとらわれてしまい、一挙掲載という措置をとりがちであった。

手元に原稿が残るというのは編集発行人としては無能であるかのような錯覚に陥る。

これはどちらが正しくてどちらが正しくないということではないが、立場が変われば、感じ方も違っているといういい例であろう。

幸いなことに数学・物理通信は定期的に刊行ができており、原稿に困るということがない。

編集人としてはとても幸せなことであり、いままで論文を投稿頂いたすべての方々に感謝している。いやこれから投稿して下さる方々にも感謝すべきであろうか。


エピジェネティックス

2014-03-25 16:27:14 | 学問

先日、エピジェネティックスの研究で日本国際賞を受けたアメリカの医学者だったかのインタビュー記事を新聞で読んだが、昨日の朝日新聞にこのエピジェネティックスと関係する、記事が出ていた。

獲得形質の遺伝はないということが1960年代初めには確立したのだが、細胞レベルでそれとは違う実験が報告されている。

昨今の報道で新聞も誤った報道をするということがわかったので、この報道も用心してかからねばならないが、どうもこれがエピジェネティックスとの関係で昔の獲得形質の遺伝が否定されたことが覆るということではないが、新しい事実が現れて来ているのかもしれない。

飯尾先生がいつだったか遺伝子が働くスイッチが入ったり、切れたりすると言われていたが、ヒストンに巻き付いていたDNAがゆるむと遺伝子のスイッチ入るのか切れるのかして、それまで遺伝しなかったものが遺伝子したりするらしい。

自然は不思議なものであり、それを人間はなかなか汲む尽くすことができない。

それで、一度否定された獲得形質の遺伝も細胞レベルでは、場合によって、ある意味ではありうるのかもしれない。昔もちろん否定されたことのそのままではないだろうが。

最近はこのことに注目をしている。


備える歴史学

2014-03-24 12:42:29 | 学問

これは朝日新聞の連載記事である、磯田道史さんの3月22日の分から、ちょっと好奇心に駆られたことを記す。

磯田さんという人は映画になった『武士の家計簿』の元となった資料を発掘して本か論文を書いたことで有名な歴史研究者である。

3年前の東日本大震災で人的被害の極めて少なかった村ではそれなりの津波の被害を最小限に食い止めようとした先人がいたという話であった。

それだけなら、あまり関心が起きないのだが、2011年に20mを越える津波に襲われたというのに、1人の行方不明者は出したが、あと死者等は出さなかったという。

その先人の名前は元村長の和村幸得さんだという。そしてその和村さんがこだわったのが堤防の高さで15.5mだったという。そしてさらに堤防の外に住宅を建てた人々のために水門を建設したという。

数字を見ただけで疑問に思ったのはもし3年前に20mの津波が村を襲ったのならば、堤防の高さが15.5mでは物的被害もやはりかなりあったであろう。その辺の事情は書かれていないのでどうだったか知りたいところである。

死者を出さなかったのはつまりハードな堤防とか水門だけで防げたではなかったのではないか。

もちろん、ヒントはこの記事に書かれてはいる。それは津波の力に逆らわぬ堤防の設計をすすめたとある。それがどのようなものであったかを知りたい。

それとそのような堤防の建設に尽力した土木技師の佐々木さんの存在である。

このような話を読むとオランダのゾイデル海の堰堤を設計した、オランダの物理学者ローレンツの話を思い出した。ローレンツの話は物理学者の朝永振一郎さんがエッセイを書いており、それはある年代の科学者や技術者にはよく知られている。

その話を磯田道史さんがご存じかどうかはわからない。

ご存じかどうかはわからないので一度こういう事例がありますよと教えてあげた方がいいのではないかと思っているが、面倒でそのままになっている。

彼の歴史学研究にローレンツの事例があるということが特に役に立つとは思わないけれど。


元素の数は?

2014-03-24 12:19:30 | 科学・技術

いま元素がいくつかまで発見されているのか知らなかった。3月22日の朝日新聞によると、118が確認されているのだと言う。

その中で4つの新元素がまだ正式の名前がないという。それに天然に存在する元素は92番のウラニウムまでで後は人工的に合成されたものだという。

そしていくつくらい元素がありそうかという予想もされているらしく、172くらいまでは存在するだろうという。

それがどういう論拠で言われているのか知らないが、なんでも理由があるから、どこかでその理由を知ることができるかもしれない。

周期表もいろいろな表現法があるらしい。私の友人のNさんなども立体的な周期表を考えたと聞いたことがある。

私が知っている例でも仮想実験授業で有名な板倉さんがそういう立体周期表をつくっておられた。あまり詳しく調べたことがないので、ちらっと見た程度であるが。

周期律表と言うのかと長い間思っていたが、最近は単に周期表と言うのが普通らしい。

この周期表をつくってみて、周期律をメンデレーフが見つけたというのが正しいので、単に周期表というのがいいのであろう。


木村真三氏の講演

2014-03-23 15:01:16 | 科学・技術

3月21日の春分の日に愛媛大学のグリ-ンホールであった、木村真三氏の講演を聞いた。題は『原発被曝後3年の現状と課題』というのであったが、印象に残った言句をここに書いておく。

木村氏は「データをとることが科学ではない」と強調されていた。そして「反証可能でないものは科学ではない」というカ―ル・ポパーの主張を述べていた。

もっともこの命題は私もだが、妻も違和感を感じたようである。普通に数学などの定理が一つでもそれにしたがわない例を挙げることができれば、その命題を否定することができるので、私にはしっくりとは来なかった。

要するにポパーがどういう意味で反証可能性を使ったかを知らないと何も言えないからである。

講演後の質問でもこの点に触れた質問はなかった。それは木村さんが別に科学論の講演をしたわけではないからである。

それでもそのことの違和感があって、妻と少し話をした。

福島の住民の人たちは一年に20mSvの被ばく量なら、帰還してもいいという国の方針に対して、木村さんは帰還すべきではないと言っているらしい。

そして20mSv以下の放射線量では、人体に影響がないということが証明されたわけではないという主張らしかった。確かにそうであろう。

放射線量の閾値があるという説とそんな閾値はないとする説とがあると聞いている。そして、人が受けていい放射線量はその人のリスクとベネフィットで決まるというのが世界全体で受け入れられている考えである(注)。

ポパーの引用「反証できないものは科学ではない」ということと上の放射線量の問題がどうもかかわっているらしいというのが妻の推測であったが、ほんとはどうなのだろうか。

(注)この放射線量の許容量はその人の受けるリスクとベネフィットで決まるという考えはいまではICRPの見解ということになっているが、もともとは日本の物理学者・武谷三男の言い出したことである。


Friction Ball Knock

2014-03-23 14:26:00 | 科学・技術

ボールペンみたいなペンで、強くこすると書いた字とか絵が消えるというペンがあるのは知っていたが、それをわざわざ自分で買うことまでは考えたことがなかった(注)。

別に自分で買ったわけではないが、NTTのポイントが貯まってそれをこの摩擦すると消えるペンをもらえるくらいだったので申請をしたら、先日届いた。

それで直ぐに新しいものを珍しがる、妻に見せてやった。タブを購入してあおぞら文庫で最近夏目漱石の『吾輩は猫である』を読んだ妻につぎの新しいものを教えておこうというつもりである。

もっとも妻はすぐに自分のもっているボールペンで字を書いて「これを消してみよ」という。「それはできないのだよ」という説明に手間取った。

確かにどのボールペンでも消すことができるようになればすばらしいが。

いつだったか、Eテレの「英語で話さないと」だかの放送で、見たことがあったのだ。そのときに値段がどれくらいなのだろうと思った。

多分結構な値段がするのであろうか。私はこのペンの値段をいまも知らない。

私は文章を書くことが多いので、これは便利である。大抵はパソコンから入力して、文章を書くことが多いのだが、それでも何度かそれをプリントして読んでチェックしないとどうもディスプレイ上だけのチェックではミスがなくならない。

パソコンが普及してペーパーレスになるという予想をした識者もいたのかもしれないが、そんなことはあり得ないという指摘を早い段階でしていたのは亡くなった技術評論家の星野芳郎である。実際にまたそうであった。

宇宙産業の社会への影響度が大きいと言っていた識者もいたのかもしれないが、宇宙産業の人類全体への経済効果はそれほど大きくないと指摘していたのも星野であった。

そういう見解を知っていたので、元同僚のある方が自分の関わっている技術が宇宙産業への広がりをもつと述べても、それをウソではないにしても誇大な広告みたいなものだと思っていた。

(注)これはpilotの製品である。


STAP細胞の行方

2014-03-20 11:37:19 | 学問

どうもSTAP細胞の存在はあやしい。

今朝、新聞にその検証の問題点が出ていた。ほんとにきちんとした細胞ができているのなら、以前の博士論文の写真を使いまわしする必要がないからである。

こうなると研究の真偽よりも倫理の問題になるが、たくさんの共著者がいたのなら、チェックができたはずだのにそのチェックができなかったことに大きな組織上の問題がありそうである。

なんでも学術的な主張をするためには、その正しさの裏づけが必要である。

一つの事実を得たのなら、他の方法でも得られるのかを検証する必要がある。それも独立なグループが検証することが必要である。

私は時間がかかっても別の方法で同じことを導けるかをいつも気にかけていた。だから、自分で他の方法で同じことを得られないかをいつも考えていた。これは自分がミスをよくする人間であるから慎重になっていたのである。

他の方法で同じことが導けるかを調べる以外にも方法はある。ある特別な条件で予想できた結果を得られるかとか。

業績を出せないことは業績を偽造するよりはましだと思う。

(注)最後の行で書いたことがちょっと誤解を招くかもしれないのでお断りをしておく。

「業績を出せないことは業績を偽造するよりはましだ」などと書いたら私が業績を偽造することを考えたことがあるようだが、そんなことを考えたことはない。

普通の研究者にとって、業績を偽造することなど考えたことがないというのが本当だろう。業績の偽造をする研究者などというのは例外的である。


筋肉痛

2014-03-19 11:53:33 | 日記・エッセイ・コラム

昨夜はテニスに行った。

今朝起きようとしたら、腰や足が痛くてなかなか歩くこともままならない。筋肉痛である。

仕事場に来てエレベーターで上がろうとしたら、たまたまエレベーターが定期点検のため停止中であった。

それで階段をよちよちと上がったが、普通ならなんてこともないところだが、結構時間がかかってしまった。

しかし、普通には一日後に足腰が痛くなるはずだのに、今朝はその翌日に痛くなった。こういうこともある。

大体、私はスポーツ音痴であるから、歩くこともあまりしない。その付けがまわって来たらしい。


雨降りを望む

2014-03-18 12:43:48 | スポーツ

毎日、火曜日の夜はT市のコートで19時から21時までテニスをしている。

それだのに矛盾した感情だが、雨降りになることをいつも望んでいる。それで雨降りでコートの予約を解約できるときには勇んで事務所に電話を掛ける。

ところが幸いなことにいうか、不幸なことにというか雨が降ることはそんなに多くない。

いつだったかは天気予報で夜は雨だと予報されていたので、今晩はテニスがなくてよいなと思っていたら、そういうときに限って夜になっても雨が降らなくてテニスコートまで出かけなくてはならなかった。

これは私がクラブのメンバーの中で一番テニスが下手だということから来ている。

もっともときどき上手なパートナーと組ませてもらって勝つこともある。これは主にパートナーの力量によっている。

いつだったか、昔読んだ朝永博士のエッセイに博士の子どもさんが小学校のころ運動会が雨で中止になるようにと祈っているとか書いてあった。

その当時の東京教育大学の「体育学部の先生なんとかいい方法を考えてください」とそのエッセイでは結ばれてあった。

その気持ちがわかるのである。

もっとも朝永博士の子どもさんとはいっても私と同様にすでに結構老人の域に達しているはずであろう。