物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

アイディアの生まれ方

2014-10-31 18:16:16 | 日記
今週の水曜日のNHKのEテレのTEDの放送はアイディアの生まれ方(Where good ideas come from)という話だった。

あまりノートをとらなかったので、ここで再現ができないが、スティブン・ジョンソン氏の話の要点はAn idea is a network.という文に要約される。

彼は現在のGPS技術の源は1957年10月4日にソ連の人工衛星スプートニクがあがって、その電波を捉えてみようではないかというある会社か研究所の仲間内の話からはじまっていろいろの発見があり、現在のGPSの実用化に至っているという話だった。

彼はだからいろいろの人たちが気楽に集まってコーヒーを飲みながらの話が大切だという。

1957年の人類初の人工衛星ではソ連の研究者や技術者は人工衛星があがったということをみんなに認知してもらうために衛星から誰にでも受信しやすい電波を発していたという。ところがその電波を受けているうちにその電波がドップラー効果でその波長が揺らいでいることがわかった。

それから衛星の各時刻での位置がキチンとつかめるようになり、簡単にその軌道を決めることができたのだという。そして、人工衛星のように結構速く動いているものの位置が決められるのならば、地上での車や船の位置は簡単に決まるということに気がついて、結局いまのGPSの開発につながったのだという。

いわゆる、just ideaからGPSの発明という技術開発ができたという。もっと詳しく話はされたのだけれどもつづめて言うとそんな話である。

いつも一人でさびしく数学エッセイのアイディアを練っている私などが聞くといつも気楽に話せる仲間がいる方々の存在はとてもうらやましい話である。少人数にせよ、まわりに会社の同僚がいるような環境の方々はその環境をうまく利用するのがよいのではなかろうかと思われる。

ジョンソン氏はこのようなネットワークはあまり固定したものではなく、liquid networkがいいといわれていた。

行と列

2014-10-31 13:44:29 | 日記
行列というと普通の人はコンピュータの新しいソフトを買い入れるための行列とか日本シリーズで球場に入るための行列を想像するであろう。

しかし、行列は数学用語でもある。英語ではマトリックスmatrixという(もっとも英語風に発音するならば、メィトリックスだろうか)。元はドイツ語でMatrizeという。複数だとMatrizenである。ドイツ語でもMatrixという語もあるようだ。Matirzeは印刷用語で字母という意味もある。

行列は方形に数字を並べた集まりのことで、これには、たす、ひく、かけるといった演算ができる。そして、この方形に数字や文字を並べた横の列を行(row)とよび、縦の列を列(column)とよぶ。

英語 で行をrow, 列をcolumnとよぶことを知らない人はちょっと数学を学んだ人にはいないと思うが、さてドイツ語ではどういうのだろう。ということでいつものドイツ語のクラスで先週聞いてみた。

R氏は線形代数を学んだことがないらしく、実際に数学でどういうかは知らないがといいながら、英語のrowにあたるのはReihe, columnにあたるのはSpalteだといわれた。

昨日の午後、先週のドイツ語のクラスの要約をつくっていたときに、気になって最近自宅からもってきた藤原松三郎著『行列と行列式』(岩波全書)を開いてみたら、11ページに行はZeileとあり、列はKolonneとあった。

それでその語を採用していたが、ちょっと気になったので、高木貞治著『代数学講義』(共立出版)を見てみたら、行はZeileだったが、列はSpalteであった。

それで高木先生の権威にしたがって、ドイツ語の要約をつくった。しかし、クーラン・ヒルベルトの『数理物理学の方法』のドイツ語版をもっていることを思い出したので、それを見て確かめてみようとは思ったが、今朝はそれを探して読んで来ることを忘れて仕事場にきた。

岩波の『数学辞典』ならrowとcolumnのドイツ語訳を見つけられるかと思って昨日調べたが、どこにも出ているようではなかった。インターネットの和独辞典もひいてみたが、どうも数学用語としての行と列の用語に対応した語を見つけることができなかった。いまインターネットの英独辞典をひいてみたら、、さすがに訳が出ていたが、複数の候補があり、一つに絞ることができなかった。

訳の候補として有力なのはrowでは-e Reiheと-e Zeileである。またcolumnではKolumne(これは性が書いてない)と-e Spalteである。

(2014.11.1 付記)今朝、クーラン・ヒルベルトの「数理物理学の方法」のドイツ語版を調べたら、やはり行は-e Zeileであり、列は-e Spalteであった。

直接にはこの語を使っていないが、ZeilenindexとSpaltenindexという語を見つけたので、間違いがない。

初等幾何学の用語

2014-10-31 11:51:15 | 日記
直角三角形(right triangle)があってその底、高さ、斜辺をそれぞれ英語では何というか。

最近では底をbase, 高さをheight(altitude)というのが普通のようだが、斜辺はhypotenuseであろうか。もっとも日本語でも底の代わりに隣辺、高さの代わりに対辺ともいう。その場合でも斜辺は斜辺のままである(注)。

この用語の場合には隣辺はadjacent side, 対辺はopposite sideであろうか。英和辞典を引いてみたが、初等幾何学用語としてもでていなかった。英英辞典のWebsterも引いてみたが、あまりはっきりとは出ていないようだ。

こういう用語を全く覚える機会が日本で教育を受けるとまったくない。鋭角とか鈍角とかいう語も小学校か中学校ではすでに学んで知っていたが、それを英語でなんというか。

昨日、正弦法則の英語のwikipediaの記事でaccuteとあったから、これは鋭角だなとすぐ見当がついたが、obtuseの方はやはり辞書を引いて確かめてみるしかなかった。

こういう語は英語で初等教育を受けた人は誰でも知っているはずの語である。だが、日本では英語を知らなくても大学教育までも受けられるという「進んだ」国である。ここで「進んだ」という語を使ったのはある種の感慨を込めて使っているのだが、それでも別に皮肉な意味で使っているわけではない。

素直な気持ちで日本は「進んだ」国だと思っている。アフリカの国とかならば、自分の母語で初等数学はともかくとしてちょっと高等な数学を学ぶこともできないかもしれないが、日本では十分に高等な数学でもその気になれば学ぶことができる。

世界でもこんな国は少ないと思う。それだから日本人は英語をはじめとした外国語ができなくてもいいとは言えないが、その幸せを十分に享受した方がいいのではないか。

二つの直線が「垂直な」とか「平行な」という語はもう半世紀も以前にperpendicularとparallelだというと大学1年か2年ごろに覚えたけれども。

(注)altitudeには垂線の意味もある。こちらの方が普通のaltitudeの意味かもしれない。


Legendre変換の意味

2014-10-30 11:17:25 | 日記
「Legendre変換の意味」を詳細に論じている「FNの高校物理」には感心した。

曲線を表現する表示に点座標表示と接線座標表示とがあるという。この二つの考え方があることはもう50年以上の昔に大学の解析幾何学の講義で森永覚太郎先生の講義で聞いたことがあったが、それがこのLegendre変換に関係があることはついぞ知らなかった。

FNさんはH大学の助手をされていた方だが、その後高校の物理の先生になられた方である。なかなか徹底した理解をされる方である。この方のホームページのことを以前のブログで感嘆の声を記したことがある。

私もこのLegendre変換については自著『物理数学散歩』(国土社)で述べたことがあるが、FNさんの徹底さには頭が下がる思いである。

FNさんによれば、この曲線の取り扱い方のことについてはクーラン・ヒルベルトの『数理物理学の方法』(東京図書)に記述があるという。

内接円と外接円

2014-10-29 13:33:09 | 日記
内接円と外接円とを英語でどういうか。このことを英語で知っている人は英語の得意な人にちがいない。
または英語圏で教育を受けた人であろうか。

いま余弦定理について英語のwikipediaの記事を読んでいる。それによると内接円はinscribed circleといい、外接円はcircumcircleというらしい。

銀林浩先生親子の著した英語表現の本では外接円はcircumscribed circleとなっているが、circumcircleでいいらしい。

内接円について同じような表現があるのかどうかはまだ知らない。内接円とか外接円とかの用語は数学を学んだ人は知っているであろうが、それに対応した英語を私は知らなかった。

Khan academy

2014-10-29 12:24:20 | 日記
正弦法則の英語のサイトを調べたら、Khan academyのビデオを見ることができた。

もう数年前になるのだが、新聞のインタビューでそういう活動をKhanが始めたと知ってはいたが、そのビデオを見るのははじめてだった。

高級な話題についてKhan academyが取り扱っているかどうかは知らないが、英語がわかれば直接にビデオの説明を見ることができる。

いや、日本語の吹き替えバージョンまであるから驚きである。

もっとも知識は誰かの独占物ではないから、Khan academyのような試みは当然でもあるだろう。もっとも貧しい子どもにもそういった知識を届けるには最低インターネットにつながる環境がなくてはならないだろう。

私はKhan academyの余弦定理の証明を見ただけだが、その英語はなかなかわからなかった。もちろんおおよその話はあまり英語が聞き取れなくてもわかったが、最低でもこの英語を聞き取れるようになりたいと思った。

正弦定理の証明

2014-10-29 10:20:52 | 日記
「正弦定理の証明」(http://izumi-math.jp/K_Satou/seigen/seigen.htm)という記事を読んだ(著者は佐藤 清(長沼高校))。

正弦定理の9つの証明とそれぞれに対しての短いコメントとか、この正弦定理の教え方と数学史的な事実とかの短いエッセイがついている。

優れたレポートである。わかりやすくそれでいてなかなか含蓄が深い。余弦定理については私自身もそのいろいろな証明を自著『数学散歩』(国土社)(品切れ中)で述べたことがあるが、正弦定理にこれほど徹底した解説を見たのははじめてである。

高校の数学教育でも個人的にはこういう試みがされていることを知った。日本語のwikipediaでも正弦定理についてこれほど詳しくは説明がされていない。一方、余弦定理の方は日本語のwikipediaも余弦定理のいろいろな説明が記載されている。

前述の『数学散歩』とその後に書いたエッセイ「余弦定理の証明いろいろ再論」の記述と余弦定理のwikipediaの余弦定理の記述とどのように差異があるのかはまだ調べていない。

余弦定理と正弦定理について英語のwikpediaではどのように書いてあるのかはまだ調べていないが、一般的にいえば英語のwikipediaの方が日本語のwikipeidaよりは充実していることは四元数の記事で知っている。

私が四元数のことを調べ始めたころは日本語のwikipediaの記事は全く不十分であった。だが、英語のwikipediaはさすがにかなり充実していた。

もっともそれを私がすぐに理解できていれば、わざわざ自分で『四元数の発見』(海鳴社、2014)などという書籍を上梓することもなかったのだろうが、英語のwikipediaの内容をなかなか理解できなかった。自分でそういう本を発行した後になって、四元数の英語のwikipediaを再度見てみるとなかなか充実していた記載内容だとわかったが、自分なりの理解がない段階ではなんだか難しいことしか書いていないという印象だった。

現在では日本語の四元数のwikipediaも記述が英語のwikipediaとほぼ同じとなってきた。これは英語のwikipediaの日本語訳かとも思えるが、小さな誤訳かと思える箇所もある。

豆大福と珈琲3

2014-10-28 15:52:41 | 日記
今日の「豆大福と珈琲3」では主人公の僕は幼馴染みの西川律子(律子の子どもともども)と同居することを提案する。それは結婚の申し込みではなく、単なる同居であり、お互いが個人として独立であるという。

大人の男女であるから、恋愛関係も生じようが、それでもお互いが個人として独立であることを主張する。多分律子にこの提案は受け入れられるであろうか。

なかなか新しい考えでこういう風に話が展開するとは思っていなかった。さてはて、どういう結末を迎えるのであろうか。

和平条約の条件に写本を!

2014-10-28 15:36:23 | 日記
いまカジョリ「初等数学史」(共立出版)を拾い読みしている。

この書の176ページにアラビア人の君主であった、教王アル=マムン(813-833)は東ローマ皇帝との平和条約の条件としてギリシャの写本を多数手に入れたとある。もちろんこれを後でアラビア語に翻訳させたのである。ユークリッドの『原本』やアルキメデスの『球と円柱』が翻訳されたとある。

科学や数学がギリシャで進んでいたという事実を知っていたのであろう。

数学史は普通の私たちの興味を引く分野ではないが、それでも何ほどかの興味ある事柄がある。もっともここで挙げた例は科学の内容とは異なった関心にしかすぎないけれども。

死の恐怖

2014-10-28 10:53:39 | 日記
昨日、昔の教え子である、Sさんのホームページを見た。

彼が今度の11月2日に早朝のNHKのEテレの「こころの時代」に出るという知らせを彼の大学時代の友人から知らせてもらった。

私は朝が弱いので、11月8日(土)の再放送を見ようと思っている。かれは10歳の時に自分がいつかは死んでしまうという感情が湧いてきて、どうしようもなくなったという。

それで彼の人生の主要テーマはその感覚にどのように向き合うかであったようだ。そのこと自体は私にも同じような経験があるからよくわかる。

彼の場合に仏教にその活路を見出したということだが、私はそのような宗教的な追求はなかった。しかし、自然体で死を受け入れるという風に心がなった。

彼の場合には宗教によって心の安寧を得たということらしい。結果はいずれにしてもほぼ同じであるので彼にとってもよかったと思う。

彼は現在小児科医として沖縄で開業して日々子どもを診ている。その日々は充実しているようである。また、私には彼の奥様が彼をこころの状態においてもよく支えてこられたのではないかと感じている。

Sさんの今後の活躍を陰ながら祈りたいと思う。

「こころの時代」

2014-10-27 11:52:33 | 日記
昔の教え子の S さんがNHKのEテレ「こころの時代」に出演するという知らせが S さんと大学での同級生だったMさんから入った。

Sさんは医者をしておられる。電気工学科の出身だったが、いろいろ紆余曲折を経て、医師になった。もう数十年も彼に会ったことはない。

私が教えた学生のうちでは一番最初の学生だったのではないかと思う。学生は先生だった私よりもSさんにしてもSさんのことを知らせてくれたMさんにしても私よりもはるかに偉くなってしまった。

まあ、昔の学生が自分よりも偉くならないようだと人間の進歩がないわけだから、それは当然ではあるのだが。

それだのにあまりできのよくない昔の先生のことを思い出してくれるとすれば、教師冥利につきる。

NHKの「こころの時代」に出るにふさわしい人でもあろうか。再放送しか見ることができないだろうが、楽しみにしている。

友人の演奏会と寿美子展

2014-10-25 13:29:31 | 日記
11月2日より絵画のライネルト寿美子展が「ウエルピア伊予市民ギャラリー」ではじまる。展示の時間は10:00から17:00までだが、初日の11月2日の13時から友人の宇和川耕一さんのコンサートが協賛で行われる。

「どしたん?なんしよんっ!」(つぶやき阿漕ライブ)である。場所は本館喫茶ラウンジである。

Uさんは本職は愛媛大学のドイツ語の先生であるが、隠れたシンガーソングライターでもある。なかなか他では聞けないライブだと思うので、聞きに出かけることをお勧めしたい。

私も出かけるつもりである。ついでにというと申し訳ないが、寿美子展にも足を運んで絵画をみてあげてください。

寿美子さん、すみません。

豆大福と珈琲2

2014-10-24 16:10:51 | 日記
片岡義男さんの朝日新聞の表題の小説は短篇小説らしく、11月の初めには終わると新聞で見た。

期待した小説だったのに、何ほどの展開も見せずに終わってしまうのは残念である。もっとも小説は短篇が作家としては一番腕の見せ所があるとか聞いたことがあるので短篇だからといってつまらなくはないのだろう。

主人公の僕が翻訳家として生計を立てることができるようになったが、これからどういう人と恋愛をして結婚するのか明日からの楽しみである。多分にその端緒が昨日くらいから切り開かれているようである。

私には小説を書く技量はないから、これからのほんの数日かもしれないが、片岡さんの小説を楽しみにしている。そして、片岡さんにはこの新聞小説が終わってもこの続編をどこかで書き続けてほしいと願っている。

ノーベル賞は過去の栄光?

2014-10-24 15:32:24 | 日記
「ノーベル賞は過去の栄光?」という記事が昨日の朝日新聞に出ていたが、多分その通りになると思う。

もちろん、いまの大学や研究所の研究費の少なさでも少数ながらもいい研究をする人は出るだろうが、それでもかなり強い個性の持ち主でなければその研究をやり通せないと思う。

そうだとすると普通の状態なら、ノーベル賞をもらえるかもしれないような研究ができる研究者は現状ではぐっと少数になって来ているに違いない。

もっともそのことがわかるのは30年から40年後のことである。もちろんそのころには私はもう生きてはいないので、私の予測があっていたかどうかを確かめるすべはない。

上記の記事によると益川敏英氏も「近年受賞者が多数出ているからといって、現在の日本の科学が万々歳ということにはならない」と警鐘を発しているとあった。

豊田長康氏(鈴鹿医療科学大学長)もブログで日本の科学論文数が近年停滞しているという。これは2004年ころからだという。これはいわずとしれた国立大学の法人化が始まったころである。

その原因は研究環境の悪化だという。具体的には資金と時間と研究者が必要だが、どれもここ10年間増えてはいない。

豊田氏は研究費を出費ではなく、投資としてみなす視点への転換を訴えているという。

どういう観点をとろうが、研究費が増えて研究者が研究に専念できる環境が整えばいいが、結局は国家財政の赤字の累積が科学研究費をも圧迫している。これは多分現在の国家財政が改善されない限り、無理というものであろうか。

抜本的な方策はあるのか。困ったことである。

第一、聞くところによると外国留学に出かけるには、自分の職をなげうつ覚悟がなければ外国留学ができないという研究環境ではのびのびと研究することなどとても不可能である。

使える研究費は私が大学に勤めていたころの1/3になってしまっている。もちろん、全体の研究費は増えていないとは言っても減りもしてはいないかもしれないが、プロジェクト研究等の予算が増えており、そのプロジェクトは成果が期待されるから、結局はあまり冒険的な研究をすることができない。

そういう現状をどう打破するのか。名案はないものだろうか。

余数と補数

2014-10-24 11:17:27 | 日記
余数と補数とについて書こうかと広辞苑を調べてみたら、補数は数学的な定義が出ていたが、余数の方は余った数という説明しかなかった。

三省堂の新明解国語辞典には残念ながら余数も補数も出ていなかった。この二つの語についてこのブログでもすでに述べたかとも思うが、このごろはすぐに忘れてしまうので、覚えていない。

先日の算数の学習会でもその話を世間話風にしたが、誰も余数という語は私同様に知らなかった。余数を知ったのは武藤、三浦著「算数・数学活用辞典」(日本評論社)からである。

この書によれば「たして5になる数を余数といい、たして10になる数を補数になる」と定義されている。このことを妻に言ったら、すぐにインターネットで補数について検索をしてくれて、たして100となる数でもいいことがわかった。要するにたしたときに位が一つ上がるような数を補数というということであった。

だから998と2としてもいい。2は998の補数である。もっとも補数は広辞苑の定義では10に対してと2進数での定義しかなかった。2進数での補数の意義をまだよくわかっていないのだが、これから少し考えてみようかと考えている。

昨日調べたところではなかなか余数をたして5になる数という定義とか説明はなかった。だが、小学生を教えている先生は10の束になる前の5の塊があるとわかりやすいということを知っている。それで5-2進法という考えが一般的になっている。

そのことを考慮すると余数の上の定義はなかなかよいのではないかと思われる。