物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

オッシロスコープ

2009-12-30 13:29:33 | 物理学

オッシロスコープで電圧波形を見ることができると、認識したのは竹内均先生の理科Iか物理のNHKのテレビ番組だった。

もう大学院を出て大学に勤めていたと思うが、その番組で電池の端子からオッシロの端子に入力すると電圧が時間的に一定であること、交流電源につなぐときれいな正弦波形が観測できることや整流回路で半波整流や全波整流の電圧波形を見た。

それまでにオッシロでこのような電圧波形を見たことがなかったわけではない。

4年生だったか大学院に入ってすぐだったか忘れたが、友人のY君から発振回路のきれいな矩形波の波をみせてもらったことがあった。それに大学に入る前の高校3年の時に物理の先生がデモ実験でオッシロで電圧波形を見せてくれたことがあったと思う。

Y君は回路にコンデンサーを入れて、電流をさらに平滑化することを実験室で遊びと実用を兼ねてやっていた。しかし、そのときにはオッシロで電圧波形を見ることができるという認識をしてなかった。だから、竹内均さんの物理の番組は衝撃だった。

大学に勤めるようになって間がない頃に同僚のKさんが学生の物理実験を改変しようと言い出し、その手伝いをすることになったときに、三極真空管や二極真空管の作用をオッシロの電圧波形で見るといった実験を提案したのはこのNHKの番組が契機となっている。

学生実験はつぎのようであった。

二極真空管は整流回路に使われ、交流を整流する。

これを半波整流からはじめて、全波整流の整流回路を作成させる。そしてその電圧波形をオッシロで観測させる。

さらにコンデンサーをつかって、できるだけ電圧を平滑化した回路を半田ごてで製作させ、その電圧波形もまた観測させる。そのつぎの週の実験で二極真空管の特性曲線を測定させる。

さらに三極真空管では電圧の増幅作用をまず実感させる。そのためにつぎのような実験をさせる。

増幅回路を三極真空管を用いて作成させ、その電圧が増幅回路を通じないでオッシロに入力したときと比べて増幅回路を経た出力電圧をオッシロに入力したときには間違いなく電圧が増幅されていることをオッシロの画面で観測する。

普通には増幅回路を通した電圧波形は入力電圧よりも大きく増幅されてもとのオッシロの画面に入りきらなくなるので電圧の測定するレーンジを切り替えてオッシロの画面で見ることにする。

そういう実験をした次の週に三極真空管の特性曲線を測定させる。

これらの一連の電気回路の実験の最後は発振回路の作成とそのオッシロによる観測だった。

このような構想で学生実験をつくった。また、この学生実験のために簡易なシンクロスコープを数台購入した。

学生時代に私のとった基礎物理実験には確かに三極真空管の特性曲線を測定する実験はあったが、何のために三極真空管の特性曲線の測定があるのか、当時はよくわからなかった。増幅率を実験で測定した特性曲線から求めたと思うけれども。

学生のときに自分がわからなかった実験の意図をはっきりさせようとして、体験的に実感する二極真空管、三極真空管の実験を考案したのだが、当時の工学部の学生にこの配慮がわかってもらえただろうか。

これらの装置を実際に作ってくれたのは宇宙線の実験家だった、Hさんであったが、しかし学生実験の案を立てたということで実験のテキストを暑い夏休みを使って書いた。

こうして数年は真空管での実験が行われたが、そのうちにいまさら真空管でもないだろうということで、二極真空管と三極真空管はダイオードとトランジスターにそれぞれ置き換えられた。このときにも案を立てて、実験指導書をやはりつくった。

ダイオードがどういうもので、トランジスターがどういうものかもはじめは私にはよく分かっていなかったが、このときも夏休みに勉強して実験の指導書をつくった。装置そのものは前と同様にHさんがつくってくれた。

実験の指導書をつくるのは勉強にはなったが、結局はつけ刃で、そのときはわかっていたと思うが、内容はすぐに忘れてしまった。これでは物理を専攻したとは、あまり大手を振って言えない。

でも、はじめに実験の改善をしようと声をかけてくれたKさんよりはまだ私の方が少しはましであったろうか。彼は電気関係はあまり得意ではないということではじめからタッチされなかった。

Hさんに教えられて、そのころフリップ・フロップ(双安定回路)の回路を自作するくらいのことはしてみたが、それももう遠い昔のことでいまではまた、まったくわからない。


ブログの文体

2009-12-29 18:03:56 | 日記・エッセイ・コラム

このブログが読みやすいといってくださる方がいる。しかし、古いブログを見ているとおかしな文体だとか言葉足らずのところを見つけたりしてその都度修正をしている。だが、全部のブログを一度に読み直しすることなどできないので、古いブログの中には書き損じもあるようである。

それで、暇があれば、それらを見直してきちんとしたものにすべきなのだが、そうもできない。先日検索をしていたときにもそういうところを何箇所か見つけたので、どこかにいくつかそういった不具合があるというのはわかった。まだその箇所を修正することにはまだなっていないが。

ものを書く人のブログを見るとおかしな言い回しなどがなく、するすると流暢に流れていく。言葉には自分ではうるさい方だとと思っている私が見ても「これはちょっと表現がおかしいのでは?」などというところがない。これは文章を書くことで生活をしているのだから当然ともいえるのだろうが、なかなかできることではない。

私がときどき見るのは有田芳生さんのブログだが、彼のブログで「おかしい表現だな」などと思ったことは一度もない。さすがである。同じことを言っても適切な品のいい表現というのがある。そういうものを目指してはいるが、まだ程遠いと思う。精進あるのみであろうか。


最後のテニス

2009-12-29 17:20:18 | スポーツ

昨夜、クラブの今年最後のテニスがあった。これは借りているテニスコートが近くの自治体の運動公園にあるので、12月28日が毎年その年の最後の日なのである。それで、Sさんが最後の日の夜のコートを借りてくれた。もっとも1コートしか借りていなかったので、来た人数を見てもう1コートを借り足した。

参加者は11人だったので3コートは借りられず、借りた全体のコートは2コートであった。いつも続けてやっているとひょっと参加する人もいたりするが、大体はいつも参加している者ばかりである。

夫婦で参加しているのは私ともう一人Mさんご夫妻である。このご夫妻はなかなかの試合巧者でいつもこのご夫妻のペアに負けているが、昨日はパートナーの I さんの頑張りで逆転勝ちをした。もっとも勝ったのはこのゲームだけで後はオール負けであった。

なかなかみんな上手なので、レシーブをミスることの多い私ぐらいしかラリーの続かない人はいない。何球も何球も打ってようやく誰かがミスをして決まるというケースが多い。

来年のテニス始めは1月5日の夜である。


physicomathの認知度

2009-12-28 14:21:26 | 日記・エッセイ・コラム

先週の金曜日検索してみたところ、このphysicomathの認知度はbookmarkに入れてくださっている方が38人、購読してくださっている方が5名だった。

そして人気度は25,000番くらいとのことだった。もっともbookmarkが38人のブログがもすごくあるので人気度は何百万目ということになるだろう。

もっともブログを購読というのが何を意味するのかも私にはわからない。別に私は自分のブログを売ってはいないからである。

それにしてもそういう調査をしている機関があるというのが、不思議な感じがした。知り合いの方にもブログをやっていることをあまり連絡はしていないので、ときどき「ブログを見ています」というメールをもらったりはするが、とてもマイナーなブログであると思っている。

ブログとしては理系のテーマが多いから、普通の人にはおもしろいはずがない。日本だけには限らないが、文科系の文化と理科系の文化とはまったく交わらないというのが、残念ながら社会の実状なのである。


第二回雑談会

2009-12-28 12:52:04 | 日記・エッセイ・コラム

先週の土曜日に第二回の雑談会を行った。経済学者のNさんの簡単な先回の話の復習が30分ほどあった後に議論が行われた。また、イタリアの現代史の紹介が期せずしてNさんからされた。これはファシズム時代の話とそれに対したパルチザンの話とかイタリア共産党のいきさつとかもあった。

Nさんは専門がイタリアの経済政策であるので、イタリアの現代史にも詳しいこともあって説明は要領を得たものであった。今回始めて参加した妻もNさんのキャラクターをとても気にいったようで、しきりに感心していた。

次回は司馬遼太郎の「坂の上の雲」に関して史実と坂の上の雲の記述との対比をTさんがレポートすることになった。

Nさんも楽しそうだったとは妻の評である。だんだん、定常的な開催ができそうな感じがしてきた。私の知人のKさんにもちょっとこの雑談会のことをメールしたが、話題の提供をしてくれそうである。


高校生が数学公式を発見

2009-12-25 12:45:58 | 数学

昨日の朝日新聞で大阪の高校生が整数kについてk^{n}の和を求める一般公式をつくったという記事を見た。

n=1, n=2, n=3くらいまでならどの高校生でも知っているが、n=4となるとどういう公式になるのか私も知らない。

例を示すと  n=1のときは 1+2+3+4+・・・+nであり、n=2 のときは1^{2}+2^{2}+3^{2}+4^{2}+・・・+n^{2} 等である。これらの和の一般的な公式を何年もかけて見つけたということらしい。

n が一般のときにどうやってみつけたのか興味があるが、その記事にはもちろん書いていなかった。

これははじめはコンピュータを使って求めていたらしいが、それでも労力が大きくなったので一般公式をつくろうということだったと書いてあった。

確かに一般の n についての公式が求められたからといって、世の中がなにも変わるわけではないが、その研究の仕方は多分数学者の研究のしかたとそう違わないのだろう。

日本の和算の伝統を継いだものと高く評価されているとのことである。なんでもいろいろ考える力のある人がいるものである。

私は70歳の老人だが、その成果の詳しい報告があるのなら、読んで見たいと思っている。


コンプレックス

2009-12-24 13:02:53 | 健康・病気

病気ではないと思うが、いつもほとんど同じ内容の夢を見る。これは自分の無意識の内に潜んでいるコンプレックスが現れているのであろう。

普通にはコンプレックスというとインフェリオリティ・コンプレックス(劣等感)のことをいうが、本当はコンプレックスはもっと広い意味らしい。これは河合ハヤオ氏が有名になる前に書いた岩波新書で読んだ。この新書の題は忘れたが、「コンプレックス」だったと思う。

人間の意識の部分は氷山の一角に過ぎなくて本当は無意識のコンプレックスを解きほぐさなくてはならない。精神的な病気になる人とかはこの感情のコンプレックスの矛盾を抱えていてそれを解きほぐしていけば、病気は自然に治ってくるという。

カウンセラーにかかっていても、結局はカウンセラーにいろいろ話しているうちに自分で自分の抱えている問題に気がついて、どうしたらいいかとわかれば、その解決法も自分で悟るようになるのだという。

だから、カウンセラーとは人を何かどこかへ導く人だという理解が一般的かと思うが、そうではない。むしろ根気よくその人のいうことをひたすら聞くことに徹するという。だから、カウンセラー自身にその人の話を聞くことでいろいろな影響が起こることも当然であろう。

そういう心理的な葛藤をカウンセラーはどう処理するのかは知らないが、かなり意識的な訓練を受けないとカウンセラーにはなれないであろう。

人間というものはいろいろ複雑な側面をもっているもので、いわゆる成功をした人でもいろいろなコンプレックスを抱えていることが多い。コンプレックスを抱えることがいけないのではなくて、そのコンプレックスのためにいい仕事をする人もいる。夏目漱石などが有名な例だと聞いている。

私もなんだか大きなコンプレックス(インフェリオリティ・コンプレックス?)を抱えているらしい。なにが私の夢の原因かわからないが、ちょっとユング派の精神分析医にかかってみたい気もする。


数学・物理通信1号

2009-12-23 12:56:31 | 物理学

「数学・物理通信」の1号ができあがった。最後になって中西先生からミスのご指摘を受けたが、十分に訂正できたかどうかわからない。数日おいて何回か見直した後で発行としよう。

中西先生からPDFを送るe-mailのアドレスを頂いたが、さすがに中西先生のおつき合いのある方々は物理学会でも錚々たるメンバーで、ちょっとしり込みをしてしまいそうである。もちろん私の知り合いもいるのだが。

私のしょぼしょぼした、配布メンバーのはじめの予想とはどうもかけ離れているようだ。いやこれは中西先生の咎ではないので、私自身の問題である。このメンバーには現役の人もいるし、退職をしたと思われる方もいる。

まあ、「通信」はダイレクトメールのようなものだと思えばいいだろうか。関心があるものがあれば、読んでくれればよいし、そうでなければすぐに「くずかご」に直行でもいいのだから。


帰松

2009-12-22 15:16:18 | 日記・エッセイ・コラム

12月21日の夕方東京から松山に帰ってきた。高層建築の建物が林立する東京からあまり高い建築物のない松山に帰ってくるとなんだか別世界から帰ってきたようである。19日に出発して2泊3日の旅であったが、子どもたちや親戚の人々、友人に会ったりの大忙しの日程であった。妻の両親の墓参りもあり、ようやく年末が迎えられそうである。

二日目のホテルでの朝方に夢を見た。いつものような夢で大学の単位が足らなくて卒業できそうにないという夢である。単位の足らないのは体育と日本文学かなにかの単位でどうも授業にいつも朝寝坊して出なかったので出席日数が足りないということらしかった。

私自身には実はそのような経験はないのだが、いつも同じような夢を見るから不思議である。大学の一年のときに病気をして一年を棒に振ったからそれが影響しているのかもしれない。はじめに一年をやろうとしたときには高校を卒業してすぐだったから、張り切っていて授業をたくさん聴こうとした。

ところがもう一回一年生をやるときにはどうも明らかに嫌気がさしていてあまり熱心に授業にも出なかった。映画を見に行ったり、冬にはスケートに行ったりと特に英語の時間はサボる授業の最たるものであった。

ところがときどきは先生が出席をとるので、ときには朝の一時限の講義にでなくてはならない。英語購読ではなにか日本語訳があるテキストが使われた。それで、試験のときにはその日本語のテキストを読んで試験の答案を書いた。

数学とか物理の時間はそういうことはしなかったように思うが、どうもはっきりとは覚えていない。

社会統計学に青盛という先生がいて、その単位を前年に落していたのだが、2年目の授業に出る気がしない。それで完全に休んでしまった。ちょうどいい具合につぎの年に同じ大学に学部はちがうが妹が入学してきて、その講義に出ていた。

妹から先生が試験に出るといわれたところだけを教えてもらって答案を書き、優の評価をもらったのだが、当の妹の方はどうしてだか良だったと後で聞いた。いまでも悪いことをしたような気がしている。


明日からブログはお休み

2009-12-18 13:20:34 | ブログ

明日から数日の間ブログを休みます。これは旅行で不在にするためです。飛行機に乗るということはいつも事故を考えなくてはいけないと思っています。飛行機の事故はこのところ日本では起こっていないが、事故はいつでも起こりうる。そのときは自分が乗る時かもしれないといつも思いながら、乗っています。

だから、いつも無事に松山空港に帰りついたときには、今回もなんとか生きながらえた。この生を大事にしなければと思うのですが、そのうちにそのことは忘れてしまって安穏に暮らしてしまう。もっとも事故にあう確率が大きいのは飛行機事故ではなくて、車の事故だといわれているので、実は車の事故で死亡するのかもしれない。

昨日、ドイツ語のクラスの忘年会でクラスの方の以前のドイツ人の先生が観光のために訪れたアルゼンチンで交通事故のため10月に亡くなったということを聞きました。だから現実には車の事故の方が多いのでしょう。だが、車の事故は自分の注意で防げると思っているのです。これが本当に正しいかどうかはわかりません。

数学・物理通信は編集後記等も書き終わり、もう一人の編集者N先生に午後もっていて点検をしてもらい、今日の夕方発行の予定です。


配偶者の呼び方

2009-12-17 11:41:03 | 日記・エッセイ・コラム

自分のつれ合いをどう呼んでいるか。私は書き言葉としては妻を使っているが、話し言葉としては女房とか家内である。

これは妻が『うちの女房が「---」といえばいいじゃない』といつも言っているからである。女房自身も私を人に紹介するときに気の張る人になら主人という古風な言葉を使うが、気のおけない仲間には旦那と言っている。

知り合いの弁護士さんには自分の奥様を「かみさん」といっている人もいる。これはテレビのコロンボ刑事がいつもうちの「かみさん」がといっているのを別にまねたわけではないだろうが、それと同じ言い方である。

一回だけテレビでコロンボ刑事の代わりにその「かみさん」が主演したことがあったが、これが「かみさん」という言葉から私たちが想像するのとは違ってチャーミングな方であった。

これは上に述べた弁護士さんの奥様も同様なのである。「うちのかみさん」という語に生活に疲れた風貌を想像してしまう私の先入観がまったくいけないのであろう。

私よりも若い人はと言ってももうかなり年の人たちだが、彼らは自分の配偶者を話し言葉でも自分の夫だとか妻だとか言っているのを聞いてはじめは違和感を感じたがそのうちに慣れてきた。

フラウとドイツ語を使う人とかワイフと英語をつかう人もいる。さすがにマ・ファムとフランス語を使う人には未だ出会ったことがない。それくらいフランス語を勉強した人は少なくて、旧制の高等学校出身の人にはドイツ語の方が親しかったのであろう。

昔の男性では自分の奥さんを呼ぶときに「おい」とか言って呼んだりしたものだが、そういう言い方をする人はさすがにいなくなった。

自分の奥様を名前で呼ぶのがこの頃は普通だろうか。哲学者の鶴見俊輔さんなどは旧姓でかつフルネームで自分の奥さんをその著書などで呼んでいるので、はじめは奥様のこととはわからなかった。

鶴見さんは親しい人の奥様のことを「だれそれの細君」とか呼んでいて、どうも私などの感覚では夏目漱石の小説かなにかで見たことがあるくらいで、どうもなじめないが、これは年の差だから仕方がない。

もっともドイツ語の私の夫はmein Mannで、私の妻はmeine Frauだが、直訳すれば「私の男」とか「私の女」となる。これはフランス語のma femme(マ・ファム)も同じである。夫の方はフランス語ではmon mari(モン・マリ)だが、このmariに男の意味があるのかどうかは調べたことがないが、普通にはフランス語では男はhomme(オム)である。

ついでに付け加えれば、ドイツ語でmeine Freundinとかmein Freundと紹介されたら、大抵一緒に生活をしている相手のことでただの友だちだとは思ってはいけないという。フランス語では恋人の場合にはamiにmon petit amiとかma petite amieというようにpetitとかpetiteの形容詞をつける。

私の家の近所にある美容室は名をオムフェムと看板に書いてあるが、フランス語をより正しくカタカナで書けば、オム・ファム(homme et femme)であろう。femmeはファムと発音する。決してフェムではない。


定常と非定常のこと

2009-12-16 13:34:17 | 日記・エッセイ・コラム

毎日の自分のしていることの中で定常的な行為とその日その日で非定常な行為とがある。

私にはかなり定常的にこなすことが多い。これはもちろん顔洗って、歯を磨いてというような生活に最低限必要なことを入れていない。

たとえば、昨年の10月頃から12時のラジオ体操をするようになった。もっとも、飛び跳ねることは近所迷惑なので、飛び跳ねることだけは控えているが、ほとんど毎日日曜を除き、体操をしている。何かの都合で12時の体操ができないときは15時の体操で代えることもある。また、このブログを毎日書くというのも定常的なことに入るだろう。

そういった定常的に行わなければならないことが多い。だから、普通の人に比べれば、日常生活の中で拘束された時間というか自由でない時間が多い方であろう。

それ以外の毎日の拘束された以外の時間が自分の非定常で、自由な時間ということになるが、ときどきはある会の会報の原稿を書いたりする。これも誰かに頼まれるということもあるが、大抵頼まれるということではなく自発的なものである。

一般に自分で企画して自分の計画や予定にしたがって仕事をしているのであるが、ときどきはそれが自分以外のことから仕事の順序が決まることがある。

完全に自分で自分の都合だけで自分の行動というか作業が決まっているわけではない。その点は不思議である。だが、それが面倒だとかはあまり思ったことはない。

ただ、自分の一日の定常的に時間がとられることがかなり多いから、傍から見ると何でもっと早く仕事ができないのかと思われることもあろう。これはおおげさに言えば、偏に私の生き方に関係している。

現在は「数学・物理通信」第1号の発行に重点があるが、それがもし無事にすめば、またe-Learningのコンテンツの作成作業に帰るつもりである。これのタイムリミットが来年の一月末であるから、急がねばならない。


数学・物理通信の試作

2009-12-15 15:48:36 | 物理学

「数学・物理通信」の試作がようやくできた。まだ編集後記とかが書けないのでそれを付け加えたり、連絡先とかを付け加えたりしなければならない。だが、ようやく試作品ができた。

いやもうできないのかと一時は思った。別に悲観的にはならなかったけれどやってもやってもうまく行かず、どうなることかと思ったものだ。早くから投稿をして頂いている中西先生には義理が悪いし、あせった。

昨日も8時くらいまでやってもどうしたものかうまく表示ができなくて、仕方なく家に帰ったがmaketitleをtableofcontentsの前にもってきたら、標題が表示されてやれやれということになった。何人かの方々に試作を送って意見を聞くことにした。

まだ、発行者等を付加しなくてはいけないが、ようやく発行にこぎつけそうである。


男女平等は?

2009-12-15 12:49:43 | ニュース

これは新しいニュースではないが、男女平等が実現しているかについてちょっと考えてみたい。

購読している朝日新聞では記名記事に女性の名が多くなったので、多分新聞社の職場には女性記者が多くなっているのだろう。これは男女雇用機会均等法とかいう法律のためかもしれない。また、土曜日にBeという紙面があるが、ここで取り上げられるフロントランナーという欄にも取り上げられる女性が増えている。

もちろん、女性が単に女性だからという理由で劣っているはずもない。どこの世界にも能力のある女性もたくさんいるはずである。よく言われるのは外国語の取得に関しては女性の方が絶対的にすぐれているという。

これは女性は外国に行っても人から話しかけられるチャンスが多いということもあるが、生活に密接した買物に行ったりするからでもあるだろう。だが、このイメージも外国人に言わせれば、日本人特有のイメージだそうで、ヨーロッパの女性は日々の生活のための買物は嫌いだそうで夫が買物をしているとか。そこらへんが日本人のまだまだ遅れている点だろうか。

だが、日本では財布を握っているのは主婦だ。欧米だけはないと思うが、世界的には男性(夫)が財布を握っている。そういう点で日本は女性が世界的に遅れているなどとは簡単に言えないのである。

もっとも日本でも夫が財布を握っている家庭もあって、一概に妻が財布を握っているとばかりは言えないのだが、やはりやりくり上手な妻というか主婦というイメージは嘘ではない。またそれを主婦としての職能として誇りにしている。もっとも最近の不況とかでそうも言って居れなくなり、パートとかで働きに出ている女性は増えている。

日本の人口は1億2千万人くらいだが、将来的には8千万くらいに落ち着くであろう。そのときには女性のみならず老齢者も健康であれば、働くのが普通になってくるであろう。社会として見たときには60歳前後で社会を動かす地位から退くことはいいことだと思うが、だからといって働く場所が豊富にあるのなら、それを奪うことはない。

もっともいまのように若者や中年の人の職がないときにはいつまで老齢者が頑張っているのは問題だろうが、それは今の状況であって、将来的には変わってくるだろう。

もう一つ中央集権のいまの国家のあり方が根本的に変わらなければならないと思うが、それについては別の機会に述べよう。


数学と音楽とのアナロジーは?

2009-12-14 13:28:04 | 日記・エッセイ・コラム

「数学と音楽とのアナロジーは?」というようなことを昨夜のコンサートで音楽を聞きながら、考えるともなく考えた。

数学では数式が出てくるし、音楽では楽譜がある。その楽譜にしたがって演奏するようでも指揮者の解釈によって曲の演奏の仕方は大いに変わってくると聞く。これは私にはまだよく分からない。

では数学ではどうなのだろうか。数学でも数式で書かれた式は同じことを意味するのだろうが、それでもそれを読み取る人によってその含意は大いに変わってきそうである。こちらのほうもそうよく分かるわけではないが、ちょっと音楽よりはわかりそうな気もする。

「言葉で思考する」という哲学者もいる。

しかし、昔読んだある数学者(多分アダマールだった)の書では有名な数学者や理論物理学者にアンケートを送ったその答として、アインシュタインが言語で考えているのではなく、言語化できないイメージで考えているという答えだったが、それが私には本当でないかという気がしている。

自分がどういう思考をしているかはよくわからないが、言語化できるようなものでないことだけは確かなようである(もちろん、いつまでも言語化できなければ、他人に理解されないから研究にはならないが)。

だとすれば、作曲家がその曲をつくるのにイメージを必要とするのはわかるが、曲をよく読み込んで演奏家や指揮者がその独自の解釈で演奏し、指揮するのはほんとのところはどうなのだろう。

有名な数学者の岡潔さんが、「ある本に’なんとか’書いている」というので、友人の数学者がその本を読んで見てもそういうことはどこにも書いてなかったとか書いているのをどこかで読んだ気がする。

そうだとすると、元の論文や本の著者の意図を超えて、指揮者や演奏者がその曲を読み込んで新しい演奏をするということも皆無ではないのではないか。

それがいけないという法もあるまい。