物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

amazonの推薦書

2017-12-28 13:26:54 | 日記

だが、山本直樹著『複素関数の基礎』(裳華房、2015 )¥2592円が私あてに勧められていた。ちょっとamazonの読者の書評だとベタ褒めである。

ちょっと食指が動くが、 自分で実際に書店等でみてみないことにはなんともいえない。これは187ページの薄い本である。「自分で複素解析をつくっていくような感じで書かれている」と書評にある。多分優れたいい本なんだろうと思う。そういう本は少ないが、だんだんそういう数学の本の著者が増えて来ているのはさすがに日本の学問や文化の厚みを与えているのだろう。

毎週の日曜日の新聞の書評等を見ても訳書が多いが、その訳者にはかなり女性の人がいる。これは女性はまだ子育て等で家庭にいることが多いが、ある分野に関心があり、学もあって、外国の書の翻訳にたずさわることが多いのだろうかと推察する。

これは別に書評にかかる本だけではなく、新聞広告に出る本などを見てもそうである。別に国粋主義に陥るわけではないが、そういう一国の文化としての奥深さとかがあるのだろうと思う。もっとも学校の教師の忙しさはもう普通の会社勤めの人と変わらないくらいになり、夜の11時ごろまで学校で処理をしないとどうにもならないくらいだと聞くとこの国はどうなっているんだと愚痴も出る。

昔、私の学生で工業高校の教師になりたがった、ある優れた学生がいたが、彼の言い分は彼の音楽の趣味を生かした演奏旅行とかに夏休み等の休暇に行けるからというのであった。しかし、それを思いとどまらせて、ある会社に勤めることを助言した。結局彼はある会社に勤めて元気にやっている。

いま彼が学校の先生方の忙しさを聞いたら、学校の教師にならなくてよかったと思うだろうか。

それにしても学校の先生方の多忙はとても困ったことである。こういう事態はいちはやく改善されねばならない。

だいたい、クラブ活動なんて学校の教師が面倒を見なくてはいけないなんて、日本では教育を軽視していすぎである。こういう義務からは早く抜け出すべきであろう。


仕事納め

2017-12-28 12:52:34 | 日記

私が大学に勤め始めた、50年くらい前にはまだ「仕事納め」という語はなくて「御用納め」と言っていたかもしれない。だが、その御用という語がおかしく感じられたのはどうも「御用」というのが、昔の捕り物とかでちょうちんに「御用」という書かれたのを時代劇のテレビとかで見たことがあるからである。

だが、さすがに現代ではお役所でも「御用納め」とは言わなくなって、仕事納めが普通になった。私のブログも今日が仕事納めである。だから今年はまだ29,30,31日が残っているが、今日が最後であるのは残念である。

これはちょっとした小旅行を年末から元旦にかけてするからである。仕事始めがいつになるかはわからないが、早ければ1月4日にブログを再開する予定である。

さすがに、正月中は私のブログにアクセスをする暇人はいないだろう。しかし、1日で100人前後の方がこのブログを見て下さっているのはやはり励みになる。

なかなか新しい観点を毎日提供することはできなくて、以前にブログに書いたことの繰り返しが多くなっているが、それでも自分が新聞とかテレビで見て関心をもったことの幾分かは反映しているつもりである。ただ、もっと考えたり、オヤッと思ったりすることは多いはずなのだが、それを全部はブログに反映するところまではいっていない。

一度考えたり、思ったりしたことで忘れていることでもなにかの折に思い出すこともあって、それで長い目でみてみたら、一度自分が考えたことも長いスパンでみれば、どこかに反映されるであろうが、それでも何か思いついたときにすぐにメモを取るなどというような勤勉なほうではないので、ここらあたりが限界である。

ちょっと違うが、「数学・物理通信」の7巻10号の発行は年内は難しくなったので、年明けをしてからの発行になりそうである。

こういうことも一度そういう年があったので私のできる範囲では7巻10号の編集はできているが、自分のコントロールできないことで発行が遅れるのをイライラとはしないようになった。歳をとって人ができたというのはいいすぎだろうが。


日本が空母をもつなんて

2017-12-27 14:14:59 | 日記

許されるはずがない。太平洋戦争で日本人だけではなく、アジアの人々の多くの人々の命を奪った。また、肉体的だけではなく、精神的な苦痛を与えたことはもう忘れてしまったのだろうか。

中国が空母をもつということにさえ私などは中国が対外的な意味でちょっと問題だと感じている。ごく最近まで中国は空母をもたなかった。このことは中国が大国ではあるのに、その大国さとは対照的に謙虚に振舞っていることの証であると思ってきた。

だが、中国は少なくとも一隻の空母をもつようになり、さらに新しい空母を建造中であるとも聞く。中国は日本などと比べても国土も広いが、大国である。それがまだごく最近まで空母をもたなかったことは中国の姿勢を示していた。

ところが、空母をもつようになった。だからというわけでもないのだろうが、日本も空母をもつことが計画されているというのは許されていいはずがない。

防衛費というモノは際限がないものだ。そして、それをいつでも当局は防衛的性格だとして、攻撃的性質をもつなどということを絶対に認めないものだ。


虚数の導入のしかた

2017-12-25 12:18:17 | 数学

のわかりやすい記述を東京に行っていたときに、読んだ数学の本で見た。それは岡本和夫『微積分読本』(朝倉書店)の冒頭部にあった。

もちろん、こういう導入のしかたは知っていたが、なかなか簡明であった。それで、そういう導入のしかたの記述を文献上で辿るというエッセイを書いておくことは意味があるのではなかろうかと思い始めた。

一応、私の知っている文献をここにあげておく。

新しい順に時間的にさかのぼる。

もっとも新しいと私が思っているのは私の『電気電子工学科ミニマム』(愛媛大学電気電子工学科、2000)第2版 9章 複素数48-49であろう。これは2001年の第3版の第9章にも再録されている(注1)。

つぎに新しいのは冒頭に与えた岡本和夫『微積分読本』(朝倉書店)1-2であろう。発行年は1997年である。

これより前には遠山啓『数学入門』上(岩波新書、1959)195-196にある。それより古い記述は私の使った高校の学習参考書である、藤森良夫『解析の基礎』続(考え方社、1954)628-629である。これはもっと古くほとんど同じ記述が藤森良夫『初等複素関数論初歩』(考え方社、1941)20-21にすでに載っている。

もっともそれよりも古い記述はE. T. Bell(田中・銀林訳)『数学をつくった人びと』上(東京図書、1997)であるが、これの出版はもっと早い段階でされている。私の持っている版が1997年ということだけでもっとかなり早いはずである。それの原書の E. T. Bell ”Men of Mathematics"(Whitefrias Press, 1937)である。

私はこれより古い日本語の本での記述は知らない。だから、数学史等に関心のある人なら、すでにBellの原著を読んでいただろう(注2)。

このBellの書では複素解析の分岐点の定義が普通の複素解析の本とはちがう定義がある。これは訳書ではE. T. Bell(田中・銀林訳)『数学をつくった人びと』下(東京図書、1997)194にある。

(注1)私のタネ本は遠山啓の『数学入門』上(岩波新書、1959)である。

(注2)年末に高知に小旅行して、立ち寄った帯屋町の書店で数学書を立ち読みしたら、ランスロット・ホグベンの『百万人の数学』(日本評論社)下(新訳)の何ぺ―ジかに虚数単位 i を90度の回転として解釈することが触れてあるのを見かけた。

 これ以外にもトビアス・ダンチヒの『数は科学の言葉』(ちくま学芸文庫)にも同じような記述があることを見つけた。

これだけいろいろな本に虚数単位 i のことが書かれてあるのに、もっと90度の回転としての説明が普及していもいいのではないかと思っている。トビアス・ダンチヒの『科学の言葉=数』は昔に岩波書店から訳書が出ていたとは思うが、もっとも私は一度もこの書を読んだことがなかった。

ホグベンの『百万人の数学』上、下は筑摩書房版をもっているが、そのことに気を留めたことがなかった。もっともこの説明が新しい訳で入ったのかどうかはまだ調べてはいない。

(注3)長沼伸一郎さんの『物理数学の直観的方法』(通商産業研究社、1987)の第2版を開いてみたら、第4章にe^{i\pi}=-1の直観的イメージというタイトルがついており、実軸の原点から1のところへの線分の180度回転がe^{i\pi}=-1 であることを書いておられる。したがって、この文献も「虚数の導入のしかた」と題するこのブログの文献に入れておかなくてはならない。他にもたくさんの文献があるが、なかなかすべてをつくすことは難しい。

もっとも「第4章 e^{i\pi}=-1の直観的イメージ」という章がいるほど深遠なことはなにもない。実軸の1の位置にある点(1,0)を原点(0,0)のまわりに\pi=180度反時計まわりに回転させれば、-1が得られるというだけである。これはオイラーの公式で\theta =\piとおいても得られるが、こういうやり方はあまり直観的ではない。

(お断り)落とされた文献の著者がみたら、お怒りになるかもしれないが、別に意図しているわけではないので、ご寛容をお願いしたい。私が気がつけば、順次つけ加えていきたい。またはコメントでご注意をいただくのも歓迎である。


今日はパーティ

2017-12-23 15:18:50 | 日記

である。

月に一回している学習会の12月分は恒例によって、忘年会を兼ねた懇親会である。とはいっても数人しか集まらないので、今朝電話をかけて一人ふたり、来るように勧めておいた。

学習会をはじめて数年になるが、今回は88回目である。今日は懇親会であるが、いつもは誰かにレポートをしてもらうという真面目な学習会である。年に11回か10回くらいは行っている会である。だからおよそ11年の歴史を

それでも全体で6人くらいかな。仕事場の掃除を時間をかけてした。妻は料理の準備で忙しかったが準備は完了である。あとはゲストを待つばかりである。

小さな集まりであり、本当に気心の知れた人しか来ない。それでも今年の十月に同僚でもあり、友人であった Y 君が亡くなったので、来年こういう会をできるのかわからないという気持ちが募ってきた。

準備は大変ではあるが、準備をしてお世話できるのは幸せなことだとも言える。


ゲリラとの内戦を終わらせる

2017-12-22 15:36:11 | 日記

コロンビア共和国ではもう50年以上も内戦が続いていた。それが最近終わった。要するに政治的な和解で決着がついたのである。

この決着をつけるのに努力をした人に広告業界の人がいた。この人が昨夜のNHKのEテレのTEDの放送で話をしていた。クリスマスは南米でも北米でもはたまたヨーロッパでも家族が集まる時期である。これは日本での新年とか年末によく似ている。

このクリスマスの時期にゲリラが潜んでいる森林にクリスマスツリーの照明をつけて、そのゲリラからの離脱を示唆するという方法等を初めは使ったという。百人のゲリラがいれば、その時期には数人の離脱者が出る。

また、テレビの放送とかなんでも君たちが私たちの社会に帰って来たら、その席を開けて待っているよというようなキャンペーンを行うとか。これを見ていて、いやこれはカルトからの離脱を促す方法と同じではないかと気がついた。

社会に受け入れられる余地のあることを悟った人はいつまでもカルトにはいたりはしない。そういうモノである。ところがうちに帰っても居心地が悪く居場所がなければ、またカルトに帰っていく。

内戦でゲリラになった人たちだって自分が帰ることのできる社会があれば、いつまでも内戦はしてはいない。すべて世の中にはヒントが隠れている。

(2017.12.28付記)  ゲリラのグループに入っていた人が辞めた例のはじめにあげられた例は男女の恋愛であった。ある若い男性が後からゲリラのグループに加わったきれいな少女に恋をした。

ところがほどなくしてこの少女がゲリラをやめて姿を消したので、その彼女を追ってゲリラを辞めた。そして一生懸命に少女を探して出会うことができたという。しかし、スピーカーの人は現在も二人が一緒にいるかどうかまでは知らないとつけ加えていた。

 

 

 


対照の妙

2017-12-22 15:25:21 | 日記

妻と息子の嫁の対照の妙。これはどちらも身内の自慢になるかもしれない。

妻はある意味で大ざっぱであるが、勘所を押さえている。嫁の方は細かなところまで調べてそれに従うというところがある。そういう意味では徹底的に調べる。クスクスの料理法を調べてくれたのは彼女である。

写真入りの料理の本をどこかのブックオフで100円で購入してくれていたのを私たちに貸してくれた。それだけではなく、スパイスとかも私たちの料理にいるだろうということから買ってあったのをくれた。もっとも使った後はお返しをしなくてはならないだろうが。

グリュワインのつくり方もすぐに検索してくれる。数日前に、押上のスカイツリーのソラマチにみんなで一緒に行ったときにも、ソラマチのお店でグリュワインを売っているところを教えてくれて、私もそこでグリュワインを買ってもう半世紀ぶりくらいに飲んだが、なかなか温かくておいしかった。

(2017.12.23追加) 昨日、松山のデパート三越に行ったら、グリューワインを売っていた。それで一瓶いくらかと聞いたら、1400円ちょっとの値段だったので、購入した。これはスパイスも何も入れなくてもそのまま温めて飲むことができる。マグカップにグリュワインを入れて、電子レンジで温めたらよいと教えてくれた。

ただし、ちょっと1400円は高いだろうか。三越の人に聞いたら、けっこう売れると言っていた。もっともそこには数十本のグリュワインがあったので、全部正月までに売れるかは定かではない。

もう一つデパート三越に買いに行ったのはクスクスであったが、こちらは意外なことに売っていなかった。売り場責任者の女性にクスクスの説明をしておいた。そのうちに売っているようになればいいのだが。


concert gala (コンセール ガラ)

2017-12-13 11:50:00 | 日記

ガラ・コンサートというコンサートに出かけたことがあった。妻がgalaとはフランス語で「祭典」のことだという。いままでこの言葉を聞いたことがなかった。

いま辞書を引いてみると、「祭典」とか「特別興行」とかの意味がある。donner un cocert gala(ドンネー アン コンセール ガラ)とは「ガラ・コンサートを催す」とある。Nous donnons un cocert gala (ヌー ドンノン アン コンセール ガラ)「私たちはガラ・コンサートを行います」とでもいうのだろう。

なかなか外国語を学ぶことにも終わりはない。そういえば、「ロマンス」というシャンソンでJe te le donne, si tu le veux(ジュ ト ル ドンヌ、 シ チュ ル ヴュ)(もしそれが欲しいのなら、君にあげるよ)という文句があった。 


明日からしばらく

2017-12-13 11:26:05 | 日記

ブログをお休みにする。ということは松山にいないということである。無事にまた松山に帰ってきたら、再開する。

別に私の好きでやっているブログで他の方が楽しみにしてくれているとまでは思わないが、時々見てくれるらしい方もおられる。それももちろん、顔見知りもいるが、大部分はメール友だちであったりするから、世の中はわからない。

 また帰って来たら、それも21日を過ぎてからであるが、今年最後の「数学・物理通信」である、7巻10号を発行するつもりである。これは通巻でいえば、65号となるはずである。

まだ、来年の年賀状は書いてないが、帰ってからの仕事になる。妻などはもう年賀状を書いたとか言っていた。


アクセスが300を越すなんて

2017-12-12 12:29:52 | 日記

昨日、カズオ・イシグロさんのことをブログに書いたら、アクセスが300を越した。それくらい文学好きの方がいるのかもしれない。

大体いつものときは150もアクセスがあれば、多い方である。それがその2倍以上のアクセスがあるなんて、信じられない。別に世間の関心におもねっているわけではないので、アクセスが増えること目指して、カズオ・イシグロさんのことを書いたわけではない。

私は鶴見俊輔さんの本を通じて、カズオ・イシグロの名を知ったのだが、それでも彼の小説を読んだことがない。鶴見さんなどは多分英語でイシグロの小説を読んだのだと思うが、私などは読むとしても翻訳で読むだろう。

これは物理の本にしても、苦労しながらではあるが、あまり辞書の御厄介にならずに英語の本を読むこともある。しかし、その翻訳があるならば、翻訳を読むことの方が多いかもしれない。そして、ひょっとしたら訳された日本語がわかり難いときにはじめて元の英語にあたるという怠け者である。

物理の研究者であった、もう亡くなった S さんは朝永振一郎著『量子力学』(みすず書房)を日本語の原著では読まずに、その英訳で読んだと聞いた。私など何でそんなご苦労なことをするのかと思ったりするのだが、英語の方がわかりやすいところもあるのかもしれない。

それに刺激されてということでもないのだが、これは大学を定年になってから購入した、この英訳書の第2巻を最近自分の書架から仕事場にもってきた。もっとも私の場合にはその日本語の原著もその傍においてある。

朝永の『量子力学』第1巻は文句なしの名著で数回私も読んだことがあるが。第2巻は難しくてどうも読み通せていない。それと記号がちょっと嫌でわかり難い。これを普通に変えた方が読みやすくていいと思うのだが、さすがにみすず書房もこの記号の変更は言い出せないらしい。

土屋秀夫さんという方の書いた『朝永振一郎の「量子力学」の研究』という大部な解説書まであるが、これは自費出版で、あまり一般の人に普及しているわけではない。私は東京大学から借り出して、そのコピーをもっている。


カズオ・イシグロを探して

2017-12-11 12:53:28 | 日記

とかなんとかいう、NHKのテレビを途中からみた。カズオ・イシグロは今年のノーベル文学賞の受賞者である。その作品の部分を朗読しながら、イシグロさんの遍歴を探るというような番組であった。

私は一つも彼の小説を読んだことはないのだが、なかなかの作家であるらしい。彼の文学的な課題が記憶ということにあるとか。

一番初めの小説は日本の記憶を記録しておきたいという気持ちから書いたという。5年に一度くらいしか作品を発表しない寡作な作家であるが、その作品は深いらしい。いつか代表作の『日の名残り』を読んで見ようか。


遍路と巡礼

2017-12-11 12:29:17 | 日記

巡礼とは世界のいたるところにある。

イスラム教でもキリスト教でもはたまた仏教でも巡礼はある。フランス語ではpelerinageとか言うし、ドイツ語でもPilgerschaftとかPilgerfahrtという。巡礼者はフランス語で、un pelerin, une pelerineとかドイツ語ではPilger, Pilgerinとかいう。

四国遍路は世界無形文化遺産に登録したいとかそういう動きがあるが、まだ登録されたとは聞いていない。最近ではヨーロッパ人が四国遍路で歩いていたりするようだが、まだ私自身はそういう人を目撃したことはない。

私の故郷の I 市の実家の前を菜の花が咲く、春になるとチリンチリンと鈴を鳴らしてお遍路さんが通ったものである。最近では歩き遍路の方は少なくなったが、それでもときどきは見かける。

私がそこに行ったことがあるわけではないが、スペインのサンチアゴ・コンポステイラは昔からの巡礼地として有名である。フランスのモン・サンミシェルとかもそういう巡礼地なのかもしれない。

妻が今朝私に話してくれたところでは、封建時代の江戸時代ですら、さすがにお参りにいくとか巡礼に出るということにはあまり反対できなかったらしい。だから、現在なら、いわゆる「気晴らし」(フランス語ならdivertissment)に出かけるために巡礼に出ることもあったらしい(注)。

それにしても1回で十分なはずだのに何回も巡礼に出かける心理はどういうものだろうか。その辺はよくわからないが、ひょとしたら、一度読んだ本を読む返すようなものなのだろうか。

(注)私はあまりよくは知らないのだが、モーツアルトの曲にDivertissment(ディヴェルティスマン)というのがあるらしい。これはひょっとしたら、フランス語ではなくて、イタリア語かも知れない。


四国遍路

2017-12-11 12:17:31 | 日記

を何回もしたことのある人は先達さんという資格を得るとか聞いた。

妻の知人の女性が毎年年末に松山の石手寺に葉牡丹の鉢を二鉢、三鉢寄贈している。この人は何度も多分車でであろうが、四国遍路をしていて、多分10回以上したためであろう。先達の資格を得ているという。

妻の別の知人がこの葉牡丹の栽培をしている。それで年末にそこに葉牡丹を買いにでかけるのであるが、その世話を妻がしている。

葉牡丹を寄贈している女性は、だから石手寺の住職の加藤俊生さんと懇意であるとか聞いた。石手寺は松山の名所の一つに挙げられているところである。

だが、普通のお寺と違って檀家がないのだという。もっともこのことの真偽のほどはわからない。しかし、何人かのボランティアの方がいて、石手寺になにか花の鉢植えを寄贈したり、掃除に行ったりしているのだという。

そういうボランティアの支えられて、松山の観光名所としての石手寺が運営されているとも聞く。もっともそういうボランティアの人は何かのことでお大師(弘法大師)さまの御利益を受けているという感謝の念をもっているのであろう。

 


計算が上手くいったり

2017-12-09 17:38:01 | 数学

いかなかったりする。ルジャンドル関数の母関数から漸近式を求めるところでつまずいている。なんて計算が下手くそなんだろう、私は。

 (注)2(L+1)-(2L+1)=1とすればいいのに、2(L+1)-(2L+1)=2L+1と間違えていた。中学生でも間違えない計算だのに。すなわち、2(L+1)を2(2L+1)と勘違いしていたのである。


母関数

2017-12-09 13:16:20 | 数学

母関数をルジャンドル関数について使おうとしている。

ところが、やはり細かな所で計算するときに疑問が出てきたりしている。現在もそうである。どういうふうに計算をしていたのか。誰かのやり方をまねるということをいつもしているのだが、その例をいまのところ見つけられていない。

自分でもこういう計算は一度とならず、したはずなのだが、その記録が残っていない。いや残しているはずなのだが、それがいま手軽に参照できるところにない。

細かな計算はやはり残しておかないといけないものだ。