「推測科学史」なんて学問分野はない。これは私の造語である。また、推測にすぎなければ、本当の意味では科学史にはならない。
そういう意味では本来用語としてというか学問としては成り立つものではない。私の考えている推測科学史の一番いい例は朝永の「量子力学」上(みすず書房)であろうか。だから、推測科学史は教育においては無用の長物ではない。
数学や物理の分野での概念や記号等について簡単なことでもrealisticに分かるためには、そういうはじめて考えた人の擬似追体験が必要なのだと考えている。
人間なんでもかんでも自分流の科学をつくることはできない。それはFeynmanくらいの天才科学者にならないと可能ではない。Feynmanはすべてのことに自分流の理解をしていた極めてまれな科学者であった。
しかし、ものごとの一部かもしれないが、そういう自分がすでに出来上がった体系にしろある種の擬似体験として納得できるものがないと真の理解には至らないだろう。優れた科学者はそういうものを大なり小なりにもっているのだろう。
いま関心をもっているのは対数とか自然対数の底とかである。このごろやっと自然対数の底について理解が深まってきた。ホグベンの「百万人の数学」、遠山啓の「数学入門」下、北野さんの「自然現象と数学」等のお陰である。