物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

推測科学史

2006-08-28 11:24:36 | 科学・技術

「推測科学史」なんて学問分野はない。これは私の造語である。また、推測にすぎなければ、本当の意味では科学史にはならない。

そういう意味では本来用語としてというか学問としては成り立つものではない。私の考えている推測科学史の一番いい例は朝永の「量子力学」上(みすず書房)であろうか。だから、推測科学史は教育においては無用の長物ではない。

数学や物理の分野での概念や記号等について簡単なことでもrealisticに分かるためには、そういうはじめて考えた人の擬似追体験が必要なのだと考えている。

人間なんでもかんでも自分流の科学をつくることはできない。それはFeynmanくらいの天才科学者にならないと可能ではない。Feynmanはすべてのことに自分流の理解をしていた極めてまれな科学者であった。

しかし、ものごとの一部かもしれないが、そういう自分がすでに出来上がった体系にしろある種の擬似体験として納得できるものがないと真の理解には至らないだろう。優れた科学者はそういうものを大なり小なりにもっているのだろう。

いま関心をもっているのは対数とか自然対数の底とかである。このごろやっと自然対数の底について理解が深まってきた。ホグベンの「百万人の数学」、遠山啓の「数学入門」下、北野さんの「自然現象と数学」等のお陰である。


対称性

2006-08-23 18:26:40 | 物理学

対称性とはここでは群論的な意味である。素粒子物理学では対称性を流行させるもとになった論文は私の先生であった、小川修三、池田峰夫両先生に当時名古屋大学の大貫さんの3人による論文が発祥である(IOO対称性という)。素粒子の対称性の数学的な側面はいうまでもなく大貫さんと池田先生の合作によるものと聞く。

何回かその群論の表現論を勉強しようとしたのだが、いつも中途半端で身についていない。この間朝方の夢というか眠りから覚めない状態でこれを勉強してみたいとまた思うようになった。いくつかの手がかりはある。

Gasiorowiczの図的表現(これは川口さんの本にも出ていた)とか、LipkinのLie group for pedstrians とかCloseのquarkとleptonの本とかまた、Dynkinの論文とか。これらをかじったのだが、どれももう一つものにしていない。

Racahのレビューも勉強したが、これも中途半端であった。小出氏の講義ノートにも既約表現をつくるところがあった。そういうものを統一的に理解したいというのが夢である。

Dynkinダイアグラムは群のbraching ruleをある程度説明するので、それももう一度きちんと勉強してみたい。GeorgiのLie algebraの本の第2版が出ていて、とてもいいと聞く。

またそういう連続群ではないが、点群だったか化学で使うものについては米沢貞次郎さんたちの量子化学にhow toの説明があり、当該の箇所は一応最後まで読んだが、なかなか分かりやすかった。もっともこれもこの本だけではいくつかの疑問点があった。


シンクロニシティ

2006-08-21 16:31:16 | 学問

昨日だったか京都大学工学部の北野先生の名前をこのブログに書いて、お昼ごろに自宅に帰ったら、北野先生からの手紙が愛媛大学から転送されて来ていた。これこそシンクロニシティではないだろうか。

不思議なようだがこういうことはしばしばあるのですね。北野先生が手紙を出されたのが8月10日で、私はそれを知らずに8月18日から19日まで高松に行っていた。19日の夜遅く仕事場に帰ってきて泊まり、その翌朝の8月20日に双対基底のことと関係して、北野先生の名を出した。これはお互いに独立にしたことなのだが、北野先生からある種のテレパシーが届いたようにも見える。

もちろんテレパシーなどというのは信じてはいないので、これこそシンクロニシティというべきなのだろう。いまシンクロニシティと書いてこの英語のつづりを調べようと辞書を調べたら、そういう語は出ていなかった。広辞苑(第五版)にも出ていないので、あまり一般的には使われない言葉なのだろうか。

と,

ここまで書いてインターネットで検索してみたら、 Synchronicityとあった。しかし、この概念はちょっと問題のある概念のようで、私のように単に偶然的に同時期に関係することが起こるというよな意味ではないらしい。関心のある方は フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia) 』を御覧下さい。



双対基底

2006-08-20 09:52:28 | 数学

京都大学の北野さんの書いた「マクスウエル方程式」の中にあった「双対基底」がJohさんの「物理のかぎしっぽ」の解説で少しわかってきた。わかってきたというより違和感がなくなってきた。

ただ、まだ私の心の中でクリアできていないのは双対空間が元の空間と違うはずだのに同じ空間で記述されるように見えるところにまだ少し違和感が残っている。同じ空間に思えるけれども違った空間で記述をしているということなのだろうか。

これは同じベクトルを正射影で見るか、平行射影で見るかで反変ベクトル(ベクトル)か共変ベクトル(一形式)となるかが違うのだが、そこらあたりの問題をどう解決するかである。

でも、はじめに北野さんの本で双対空間の話を読んだ頃とは明らかに身近に感じるようになっている。少しは進歩をしているということだろうか。


徳島科学史研究会へ参加

2006-08-20 09:25:59 | 科学・技術

徳島科学史研究会と科学史学会四国支部の合同の年例会が8月19日に高松であった。1年ぶりで多くの人に会った。皆さん意気軒昂としている。それぞれの人の話の意図がはっきりとしていて面白かった。中にはもしそれにきちんと取り組んだら、将来すばらしい成果が現れるのではないかと期待されるものもあった。

私はLevi-Civitaの記号がどうして導入されたかの推測の話をした。このテーマはなかなか科学史とはいきかねる。「推測科学史」とでもいうべきものがあるならば、それに当たるものだが、「推測」では学問にはならないのだろう。

誰からも批判とか意見はたいしてなかった。それは単に意見が出せないということで、これでいいということではないのだろう。悩ましいところである。

でも徳島科学史雑誌への締め切りが10月1日なので、エッセイをまとめてみたいとは思っている。


数学のわからなさ

2006-08-17 12:05:09 | 数学

数学のわからなさをいつも嘆いているのは私だが、授業で数式を多く使うのでいつも数学がわからないと言われる。微分方程式を解いたり、フーリエ級数展開したりとか複素積分をしたりするのが、難しいといわれるのならそれはわからないでもない。

ところがそんな難しいことはやっていないで式をある文字について解いたり、それを別の式に代入したりしているだけである。どうして難しいのだろうか。文字が沢山出てくるという非難もあった。これは面倒な式をある文字で置き換えて計算の筋を分かりやすくするためにしているところもある。それは長年計算をやっていると自然に出てくる知恵なのだが、そういう意図がわからないとなんだが沢山文字がどんどん出てくるとしかわからないようである。

どうも中学校程度の数学が十分に出来ていないのではと思われるのだが、まさか中学校の数学が駄目ですねといっても始まらない。

微分も積分も説明をして使ったが、そのときは説明をなるほどと納得してもらったし、やさしいとも思ってくれたようである。しかし、そういう風な説明している類書がないので、結局わからないらしい。

インドや中国の若者は一生懸命、数学や物理を勉強しているのに「日本の若者のなんとひ弱なことよ」と思ってしまうが、そういう私だって若いときに数学をよく勉強したわけではない。確かに微積や物理数学の演習問題を解くことは一生懸命にやったが、それとて湯川、朝永の比ではまったくない。だからたいした学者にもなれなかったともいえる。そもそも研究者たりえたのかどうかが疑問である。

そしていままだ初歩的な数学に悩んでいる。でも思うことだが、遠山啓さんではないが、学問は本当に一部の人のことだが、教育はもっと広範な人々に関係している。そういう人々のために、分かりやすいテキストを書くというのは本当はとっても大切なことなのだ。


余裕のなさ

2006-08-14 13:21:34 | 日記・エッセイ・コラム

余裕が生活のあらゆるところから奪われている。これがいいことでないのはみんな分かっているのだろうが、どうしようも止まらない。

会社をはじめとして学校も政治も合理化と称して余裕を人々から奪っている。心がぎすぎすしてくる。また、ゆっくりものを考える余裕を奪っている。

もっともそれに流されない人もいるのだと思う。そして、そういう人からいいことや独創的なことが出てくるのだとは思う。でもそういう余裕を奪っている現在の社会を批判することもなかなかできなくなっている。

私のような年寄りがいいことをする時期かと思っている。


人間ドック

2006-08-04 00:14:11 | 健康・病気

2年ぶりに人間ドックに入ってきた。2泊3日のコースである。費用は6万5千円と安いとはいえないが、比較的ゆったりと検診をしてもらえるので、好んでいる。

しかし、このコースも危機が来ているという。昨年2泊3日のコースを募集したら、収容人員として7ー8名なのに2名しか参加者がなかったときもあったという。そのために今年は2泊3日のコースは6月と8月の2回だけに限られていた。

2年前くらいまでは何回もこの2泊3日のコースは開かれていた。その減少の原因は公立の学校の先生方の加入している共済組合が補助を出す額を減らしたためらしい。

地方交付税か何かの予算の減少の影響で、これらの共済組合が補助の予算を削減したらしい。それで、多くの学校の先生方は1泊2日のコースに変更をしたという風に聞いた。

確かに数字の上で補助を削減すれば、眼の前の予算を削減することはできるが、これは回りまわって医療保険の支出増を引き起こすのではないかと考えられる。それはそのときのことと考えるのだろうが、あまりにも近目に過ぎないのだろうか。学校の先生方が夏休みも出勤しなくてはならなくなっていることも原因かもしれない。年休を取るのが難しくなっているのかな。

しかし、ともかくもいろいろな影響がでていることを感じた今回の人間ドック入院であった。