物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

朝永振一郎

2023-01-31 13:36:44 | 物理学

これは雑誌『燧』という雑誌に「ドイツ語圏世界の科学者」というタイトルで掲載したものの(13)である。

 

(13) 朝永振一郎 (Sin-itiro  Tomonaga  1906-1978)

 朝永振一郎と見たとたんに「ええっ、どうして朝永さんがドイツ語圏世界の科学者なの」と不思議がる読者の顔が思い浮かぶ。その通り、朝永は日本の科学者であって、ドイツ語圏世界の科学者ではない。しかし、この一連の記事では表題の意味を広く解釈することにしている。その一例はオッペンハイマーであった。

朝永とドイツ語圏世界とのかかわりは1937年の彼のライプチッヒ留学に始まる。当時すでにヒトラーはドイツの政権を掌握していた。当時、理化学研究所の仁科芳雄博士のもとにいた朝永は日独学術交流事業の一環としてライプチッヒのハイゼンベルクのもとへと研究にでかける。

 ライプツィッヒの日独学生寮に住み、日本語、日本文学専攻のドイツ人学生とのつきあいながら、原子核物理学の研究を続ける。そのときの滞独日記は現在では『朝永振一郎著作集』(みすず書房)に収められているので、読まれた方も多かろう。そのトーンはその当時の政治情勢を反映してかなにか陰鬱で、センチメンタルでもある。ハイゼンベルクの下にも、ほとんど優秀な学生は残っていなかった。しかし、彼の助手で、後に空軍に入り偵察飛行に出たまま帰ってこなかった、共産主義者のハンス・オイラーは優秀な若い学者として将来を嘱望されていた。ハイゼンベルクもオイラーの才能とその早すぎた死を悼んで自伝『部分と全体』(みすず書房)でオイラーについて一章を割いている。

 朝永の滞独日記にもこのオイラーに彼の論文をほめられたとある。このころのハイゼンベルクは「白いユダヤ人」と言われ、ナチへの非協力者として当局からは白い眼でみられていたらしい。ハイル・ヒトラーと挨拶して大学での講義を始めなければならなかったので、あいまいに手を振って挨拶をするハイゼンベルクを何度も見たと朝永は述べている。

 さて、「滞独日記」は決して明るいものではないが、その陰で朝永の懸命な研究生活がつづく。ハイゼンベルクの物理的思考法やフィーリングを着実に吸収している。そしてその成果は帰朝後の1943年の超多時間理論、1947年のくりこみ理論へと結実する。敗戦直後の日本で朝永は一躍世界の研究の最前線に躍り出て、アメリカのシュウインガー、ファインマン、ダイソンといった若い天才物理学者と競い合う。そのころ、ハイゼンベルクはくりこみ理論の論文を読んで、あなたの「生きているしるし(Lebenszeichen)」を見たと朝永に書き送っている。

 朝永の著した量子力学のテクスト『量子力学I, II』(みすず書房)は不朽の名著だが、特に『量子力学I』は何度読んでも感銘を受ける。純然たるテクスト風の書籍でこんなに感銘を受けるものが他にあっただろうか。

 私には朝永の講演を何回か聞く機会があったが、もっとも印象に残っているのはなんといっても、第二回科学者京都会議の直後に広島市公会堂で行われた「平和を創造するための講演会」での彼の講演であった。このとき彼はPugwash会議の歴史と現状について話した。

 「このごろPugwashが“平和のために努力する”という意味の動詞として使われ、pugwash, pugwashed, pugwashedと規則変化します。みんなでpugwashしましょう」と朝永が話を結んだときの会場中の笑いとどよめきと深い余韻は今も私の体の中に残っている。(1989.8.30)

 

(2023.1.31付記)

朝永さんについて30年を経たいま何か書き加えておこうかということが思い浮かばない。その後にも朝永さんの講演は聞いたことはあったのに。まったく何も考えが思いつかなかったか、それともいろいろと思ったことがあったのだが、忘れてしまったのかは今ではわからない。その後、朝永さんは科学者の原罪みたいな思想を説くようになられたと思うが、その思想にはあまり賛成ではない。

(2023.2.1付記)

朝永さんの著書に関係したことでは『スピンと角運動量』(みすず書房)のPauliマトリックスの導出の箇所をフォローして「数学・物理通信」にエッセイを書いたことがある。量子力学を学んだ人でPauliマトリックスを知らない人はないが、これはあまりにも有名なのだが、その導出までは知らない人も多いかと思って書いたメモである。

『スピンと角運動量』では他の本ではあまり見ない取り扱いも一部あり、その点で長い間わからなかった点があった。頭のいい人に尋ねてみたいと思いながら、それを果たせず、結局自己流に理解して、Pauliマトリックスの導出を説明したエッセイを書いた(「数学・物理通信」9巻10号(2020.2.3)20-30)インターネットで検索すれば、見ることができる)

もとより量子力学では角運動量の一般論を学ぶので、その一般論で角運動量の大きさが1/2 \hbarであると特定して、Pauliマトリックスを導くのも一つの方法ではあるのだが。

(2024.1.12付記)
上の付記を書いてからほぼ一年後の今思うことは朝永の岩波新書『物理学とはなんだろうか』下巻のIII章(2 熱と分子、3  熱の分子運動論完成の苦しみ) を読んで私の熱力学の認識を少しでも深めたいという気持ちが少し起って来ている。そういうことが私にできるのかどうかは実際のところはわからないが、そういう気持ちがちょっぴり起っていることだけは確かである。

オッペンハイマー

2023-01-30 12:48:14 | 物理学

これは雑誌『燧』という雑誌に「ドイツ語圏世界の科学者」というタイトルで掲載したものの(6)である。

 (6)オッペンハイマ― (J. R. Oppenheimer  1904-1967)

中部ドイツを流れるライン河が北から西へと大きく折れ曲がり、マイン川と合流する地点にあるマインツから南に20kmほどのところにオッペンハイムというワインの産地として有名な小さな町がある。この地がオッペンハイマーの父祖の地であるかどうかは定かではないが、明らかに彼はドイツ系のアメリカ人であり、若くして黄金時代のゲッティンゲンに学んだ。

オッペンハイマーの名はマンハッタン計画と呼ばれた原爆開発と分かちがたく結びついており、しばしば彼は原爆の父と呼ばれる。また彼を悲劇の主人公とするのに好都合なことにマッカシーによる赤狩りによって一切の公職から追放されるという経験もしている。栄光からの転落であった。現代のガリレオ・ガリレイといわれる由縁はここにある

オッペンハイマ―の評伝はこうした彼の経歴からか、優れた才能をもった物理学者でありながら、一級の物理学の業績をあげ得なかったために、その代償として原爆開発の指導者としての世俗的な名誉の道を選んだのではないかと述べている。

 私もそれは十分にあり得ることと考えるが、このオッペンハイマーの物理学上の評価は現在では変わってきている。たとえばノーベル物理学賞受賞者である、C. N. Yangは彼の最近出版された論文選集の中で、オッペンハイマーの中性子星やブラック・ホールについての先駆的な研究は今日、偉大な物理学および天文学上の業績として認められるようになったと述べている。

人の真の評価は棺を覆った後にもなお直ちには定まらないということだろうか。(1989.1.2)

 (2023.1.30 付記)この文章を書いた後で、オッペンハイマーがブラック・ホールの観測可能性だとかの話題が出るといつもすぐにその話をそらしたとか、F. J. Dysonの書いた文章の中で見かけたような気がするが、定かではない。ちょっと込み入った感情をオッペンハイマーは自分の研究についてももっていた人かも知れない。

SchiffだとかBohmの量子力学のテクストの序文にオッペンハイマーへの謝辞が書かれているので、彼が優れた物理教師であったことがうかがえる。本文ではそれについて触れていないのは片手落ちだったかもしれない。

 

 


線形代数のテクストへの注文

2023-01-27 12:11:30 | 数学

線形代数のテクストをあまり読んだことがなかったのだが、最近『キーポイント線形代数』(岩波書店)を読んだので、つづいて『線形代数とベクトル解析』(培風館)の線形代数の箇所を読み始めた。

 

線形代数のテクストで不満に感じていたことの一つは、マトリックスの積の導入が天下りであることだった。それについては高木貞治の『代数学講義』(共立出版)を参照せよとの指示のあるテクストもあったが、『線形代数とベクトル解析』には一次変換を続けて行うと、それがマトリックスの積の演算の定義された起源であると書いてあって、この点は私の以前からの認識と一致していてよいと思った。このことを書いてあるテクストはあまりないのだから。

 

私のもう一つの不満はベクトル空間の公理についての推論を与えたものがないことである。こちらについても私なりの考えがあるが、それについてはまだ書かれたものでは見たことがない。どこかでだれかがテクストにすでに書いているのかもしれないが。

 

実はマトリックスの積の演算はベクトル空間に定義されている演算ではないことにようやく気がついた。マトリックスの積の演算は計量ベクトル空間の内積に似ているとは思うが、直接には関係ないのかもしれない。最近では行列の積の演算をむしろベクトルの内積から導入するテクストも多いと思う。


フォン・ノイマン

2023-01-27 11:52:51 | 数学

これは雑誌『燧』という雑誌に「ドイツ語圏世界の科学者」というタイトルで掲載したものの(8)である。

 

(8) フォン・ノイマン (J. von Neumann 1903-1957)

 

天才はしばしば短命である。美人がそうであるように。これは神が多分にその才能や美しさを妬んだためかもしれない。原爆製造に関係して比較的若くして亡くなった天才的科学者としてはエンリコ・フェルミとかフォン・ノイマンがいる。イタリア系のフェルミはドイツ語圏世界の科学者とはいいがたいが、ハンガリーの首都ブタペスト生まれのノイマンは明らかにドイツ語世界の科学者である。

 ノイマンは数学者であったが、大学でははじめ化学を専攻した。オッペンハイマーとかウイグナーとかいった物理学者もはじめは化学専攻であったそうだから、化学は万学への契機を与えるのであろうか。日本でも、理論物理学者には意外と電気工学出身とか化学出身の人で成功しているが多いのは世界的傾向とまったく似通っている。

 ドイツのSpringer社の黄表紙シリーズの中にある“Die Mathematsiche Grundlagen der Quantenmechanik” (『量子力学の数学的基礎』)はノイマンが29歳のときの著作という。十年ちょっと前に数学者のY先生からこの本の内容の手ほどきを受けたことがあったが、Y先生もそのエレガントさにしきりに感心されていた。しかし、この本は私のような数学オンチには簡単に読めるような代物ではない。関数解析、量子力学、ゲームの理論、プログラム内蔵型コンピュータの普及発展等々ノイマンの業績はまことにすばらしい。

ノイマンは驚くほど記憶がよいだけではなく暗算能力にも優れていたという。しかし、その彼が初期のコンピュータENIACのことを聞いてそれにすぐ夢中になったというのはおもしろい。ものすごい暗算の達人だったからこそ、人間の能力の限界をよく知っていたのだろうか。

ノイマンはロス・アラモス(スペイン語でポプラを意味する)の原爆実験場に長くいたために、ガンに侵されたのではないかといわれている。そういえば、ロス・アラモス研究所長であったオッペンハイマーや原爆製造の指導者の一人フェルミ、ごく最近ではファインマンといった人々もガンに冒されて亡くなっている。広瀬隆のノンフィクション『ジョン・ウエインはなぜ死んだか』に述べられているような事実がロス・アラモス関係者に現れるのは当然の結果かもしれない。

今世紀初期のハンガリー出身の優れた一群の科学者たちの出現、例えば、ウィグナー、ノイマン、ガボーア、テラー、シラルドも興味津々であるが、このことについては別の機会に譲ることにしよう。

「ジョニー(ノイマンのアメリカでの呼び名)は本当は悪魔なんだけれど、人間の中で暮らして人間の真似があまりにうまくなったんで、とうとう自分が悪魔であることを忘れてしまったのさ」と数学者の森毅は『異説数学者列伝』のノイマンの項を書き始めている。

(1989.4.15)


マイトナー

2023-01-26 16:49:55 | 科学・技術

 

これは『燧』という雑誌に「ドイツ語圏世界の科学者」というタイトルで掲載したものの(12)である。

 (12) マイトナー  (L. Meitner 1878-1968)

 

いままで女性科学者を一人も紹介していなかった。女性の科学者といえば、だれでもキュリー夫人を思い出す。それほどキュリー夫人は偉大だし、かつ有名である。しかし残念ながら、彼女はドイツ語圏世界の科学者というのははばかられるであろう。ではドイツ語圏世界は著名な女性の科学者を生まなかったのであろうか。そんなことはない。リーゼ・マイトナーやエミー・ネタ―といった名がすぐ思い浮かぶ。力学の「ネタ―の定理」で知られる数学者のネタ―のことは別の機会に譲ることにして、今月はマイトナーをとりあげよう。

マイトナーといえば、すぐにペアとなって第1回目に紹介したハーンを思い出す(ベルリンにハーン・マイトナー研究所という彼らの名にちなんだ研究所がある)。マイトナーは、放射線化学者であったオット・ハーンの30年にもわたる共同研究者であった。今日ではあり得ないことだが、昔のドイツでは女性の科学者が大学や研究所の実験室に出入りすることを許可しないというようなこともあったらしく、マイトナーははじめの数年は研究所の木工場の一部を借りて実験を行っていたと言う。

 ユダヤ系のオーストリア人であった彼女は、1938年のヒットラーによるオーストリアのドイツ併合と共に「人種法」による身の危険を避けるためにやむなく、ベルリンをはなれてスウェーデンへと亡命する。その直後に、シュトラースマンの意見によって動かされたハーンはイレーヌ・キュリーやフェルミらの実験を追試することになった。綿密な化学実験が何日も何日も続き、その結果ハーンは破天荒な実験結果に達する。すなわち、「天然に存在する最も重い元素ウランに中性子を当てるとできるのはウランよりも重い超ウラン元素ではなく、それよりはるかに軽い二つの元素である」。これがいわゆる「核分裂」の発見である。その意外な結果に驚いたハーンは急いで論文を1938年12月末にNaturwissenschaften誌に投稿すると共にその結果を長年の協力者であったマイトナーに直ちに知らせた。

ハーンには自分の発見が何を意味するのかは十分にはわからなかったが、そのことを深刻に受けとめたのはマイトナーであった。彼女はハーンがどれほど緻密にかつ注意深く実験するかを十分知っていたから、その実験事実は疑う余地はなかった。

では、ハーンの発見は何を意味するのだろうかと彼女は思い悩んでいた。そこへ、マイトナーの甥の物理学者のオット・フリッシュが伯母とクリスマスの休暇を過ごすためにコペンハーゲンからやってきた。マイトナーは甥の顔を見るやいなや、自分の疑問について議論をふっかける。フリッシュははじめいやいやながらであったが、そのうちに自分も熱心にハーンの発見の解釈についての考察を伯母と共同で行い、結局彼らはいわゆる「核分裂」反応が起こっているという結論に達する。ちなみに、核分裂(nuclear fission)という語はフリッシュによる命名という。

こうしてマイトナーはハーンの発見の意味を解明した世界最初の科学者となったが、またわずかな差でノーベル化学賞へのチャンスを逃した科学者ともなった。後年マイトナーはハーンに「1938年にあなたは私を亡命させるべきではなかった」と述べたとハーンの自伝に書かれている。

優れた科学者は自己の命よりも研究を優先したい願望をもっているものらしい。(1989.7.14 フランス革命200年の記念日に)

 

(2023.1.26付記)ハーンの回にも核分裂とはなにかを説明できなかったし、今回もその説明はスキップしている。ウラン元素に衝突させる中性子のエネルギーは小さなものである。高速の中性子を当てるのではない。原子炉のことを知っている人は中性子の減速材として軽水とか重水を使うことを知っているであろう。減速されてよたよたの中性子の方が高速の中性子よりも核分裂を起こさせる断面積が大きい。

高速中性子で核分裂を起こさせる原子炉もあるが、そういう元素はプルトニウムであり、核分裂を起こさない天然のウラン元素U238が中性子を吸収してプルトニウムをつくり、そのプルトニウムは高速の中性子によって核分裂を起こす核分裂断面積が大きい。そいうふうにしてプルトニウムをつくりながら、エネルギ-を取り出す原子炉を高速増殖炉という。もっともそういう炉は実用化されていない。将来的にも実用化できる見込みはあまりない。


佐藤幹夫さんと岡潔

2023-01-25 10:58:54 | 数学

佐藤幹夫さんと岡潔とが関連があるというのではない。ただ数学への取り組みの気概の問題で同じようだと思った。

 

昨日の朝日新聞で佐藤さんの口癖として「朝起きたときに今日も一日数学をやるぞと思っているようでは、とてもものにならない。数学を考えながらいつの間にか眠り、目覚めたときにはすでに数学の世界に入っていないといけない」と言われていたという。

 

それと似たことを岡潔さんが言われていたのではなかろうか。数学に本当に寄与する人とはそういう覚悟がある人なのだろうか。本当に真似ができない。


『キーポイント線形代数』3読目

2023-01-25 10:31:56 | 数学

『キーポイント線形代数』3読目を昨晩遅く終えた。もっとも最後のジョルダンの標準形のところが半分くらいフォローができていない。つまりは形式的な読みの終了を優先した形である。だからまだ実質は読み終わっていないということでもある。昼間は読みが10ページくらいしか進まず困ったなと思ったが、夜間に妻が市民劇場を見に行って不在だったので、50ページ超を一気に読み進めた。

 

3読目は1章から順に読んでいった。これはいままで順には読んでいなかったから、順に読んでいったら違った風景がみえるのかなという気がしたからである。しかし、そういうことはなかった。

 

しかし、ともかくは3読目を形式的に終えたので、これからは穴の開いている部分を重点にして穴を埋めていきたい。線形代数がよくわかったかと言われれば、まだまだであろう。これは手始めにしかすぎない。もともとこの本を読み始めた意図は小著『四元吸の発見』の第6章のベクトル空間の公理とか性質とかをどう述べるかの参考にするためであった。

 

それについては結局まだ十分な答えをもっていない。いくつかの私なりの見解はもつに至っているが、まだまだまだ回答に達していないと思っている。なんでも道は長いものだ。


クーラント

2023-01-24 17:13:38 | 数学

これは雑誌『燧』という雑誌に「ドイツ語圏世界の科学者」というタイトルで掲載したものの(6)である。

 

(6) クーラント (R. Courant  1888-1972)

 

ロベルト・ユンクの『千の太陽よりも明るく(Heller als Tausend Sonnen)』は原爆の製造へと巻き込まれていく現代の原子科学者の運命を描いた優れたノンフィクション作品であるが、この本の前半にはガウス以来の伝統ある大学都市ゲッティンゲン(Goettingen)のアカデミックで生き生きした様子が描かれている。 

 日本ではドイツの観光の目的地としてはハイデルベルク(Heidelberg)の方が有名で三木清、大内兵衛、羽仁五郎らの学んだ大学町として知られている。ハイデルベルクは戯曲『アルト・ハイデルベルク』や古城および美しいネッカー河によって旅行者をひきつけている。だが、私にはゲッティンゲンのほうがより懐かしいものに思われる。

 なんといっても量子力学はこの地ゲッティンゲンで最初に生まれたのであった。先月取り上げたボルンがハイゼンベルクやヨルダンと量子力学の論文を1925年に書き上げたとき、それを理解するのに役立つ数学のテクストがタイミングよくすでに出版されていたことは驚きと言ってよい。それがクーラントの著した『数理物理学の方法(Methoden der Mathematischen Physik)であった。この本は一般にクーランーヒルベルトという名で知られている。クーラントは1920年代から1930年代初頭にかけてのゲッティンゲンの黄金時代の立役者の一人であった。彼はそこに数学研究所を創設した。その後、彼の親友であったボルンやフランクと前後してクーラントがナチの手を逃れてゲッティンゲンを去ったとき、栄光あるゲッティンゲンの時代は終わりを告げたのであった。

しかし、クーラントは再びニュー・ヨークで新しい数学研究所をつくりあげ、多くの優れた数学者を育成したのである。数学界の不死鳥と呼ばれる由縁である。(1988.12.21)

 

(2023.1.24付記)『千の太陽よりも明るく』はその翻訳が文芸春秋社から出されていたが、いまでも平凡社文庫か何かで読めるはずである。文芸春秋社版は学生だった頃に出たので一気に読んだ覚えがある。ユンクは晩年スイスに住んだと思うので、スイス人かと思っていたが、どうもドイツ出身のジャーナリストであったようだ。


オットー・ハーン

2023-01-23 13:37:54 | 科学・技術

「ドイツ語世界の科学者」の(1)である。これは雑誌『燧』という雑誌に掲載したものの(1)である。

 

オットー・ハーン (Otto Hahn 1879-1968)

今月から、毎月一人ドイツ語世界に関係の深い科学者を紹介しよう。

 

ここ数十年の間、ドイツ語圏の科学者が脚光を浴びることは少なかったが、ごく最近になって、いくらか往年の科学界における栄光をヨーロッパ、特にドイツ語圏の世界がとりもどしつつあるように思われる。

 

ところで、ハーンと聞いても「はてな」と首をかしげる人が大部分だろう。近ごろのような「反原発」運動が盛んになっても一般の人には原子核分裂(die Atomokernspaltung)の発見者としてのハーンの名をご存じないかもしれない。この発見は1938年末にシュトラ―スマンと共になされ、1944年ハーンはノーベル化学賞を受賞する。ハーンのこの画期的な発見はほぼ60歳のころであったことは注目すべきである。

 

ハーンはそ率直で謙虚な人柄で知られていた。原子爆弾が広島・長崎に投下されたという報を聞いたときに、彼には何の責任もないにも拘らずしばらく口がきけなかったという。

 

「科学者の社会的責任」という概念に深刻に直面した科学者の一人であったろう。彼の発見は原子爆弾の開発への端緒を与えはしたが、爆弾そのものとは「春風が吹けば、桶屋が儲かると」といった体(てい)の関係しかない。(1988.9.13)

 

(2023.1.23付記) 核分裂と核融合との違いとかは物理屋しかわからないだろうが、その説明はここでは省略する。一時期だが、こういうことも大学での講義で教えていたことがある。これは私の上司のA先生が行っていた講義の一部を受け継いだためではあるが、そのうちにそういう講義はしなくてもよくなった。それでもそのときの講義ノートは今でも私の手元に残っている。


『キーポイント線形代数』2読目終了

2023-01-21 14:22:14 | 数学

昨夜、遅く『キーポイント線形代数』2読目を終えた。10章の終わりのところを読んでいて、計算をしないところがすこしだけあるが、それは今日することにした。

そしてその後に一番難しいと思っていた、7章の「線形代数の基本定理」を読んでみたら、するすると読めてこの章を読んでしまった。およそ1時間と少しだけかかった。ここは概念的に難しいと思っていたのだが、前に読んだので2度目だとそれほど難しくなかった。それでも概念的には難しいところであるのはまちがいがない。それで2読目をとにもかくにも終えることができた。もう一度読もうと思っている。

いままで1冊の本を何回も読んだことがない。大学の教養部時代に微積分のテクストは演習問題を解くことは懸命にした覚えがあるが、あまり本文をきちんと読んだことがない。特に、有理関数の積分が必ずできることの説明はごてごてしてあったと思うが、そこをきちんと読んだ記憶がない。これではきちんとと微積分を学んだことにはならないと思うが、これが私の数学学習の実状である。

私は本質的に計算が下手である。計算の上手な人を見るとうらやましいが、それでも自分に持っていない性質はうらやんでみてもしかたがない。それでも普通の人から見たら、計算が上手に見えるかもしれない。これはある種の経験によるところが大きい。

最近考えることは、ReduceとかMacsymaだとかMathematicaだとかいった数式処理(計算代数)系で計算がなんでもできるようになってしまえば、人間は何をすればいいのだろうかということである。しかし、当分私のすることがなくなりはしないと楽観している。

 

私のような多くの退職した元研究者は研究ができなくなって、暇を持て余している人も多いようだ。自分の一生を有効に使う方法を考えてほしいと切に願っている。


アインシュタイン

2023-01-20 16:39:39 | 物理学

これは私が以前に『燧』という雑誌に掲載した「ドイツ語圏世界の科学者」という記事の(7)である。

 

アルバート・アインシュタイン (7)

最近出版された笹本駿二の『スイスを愛した人々』(岩波新書)の第2章はアインシュタインを取り上げている。アインシュタインは1879年3月に南ドイツのウルムで生まれた。しかし、笹本によれば、アインシュタインとウルムの縁はかなり薄いようだ。そのせいかどうかは知らないが、私が昔参加したフンボルト財団招待のドイツ国内旅行にもウルムは入っていなかった。

また、ミュンヘン近くの強制収容所跡ダッハウの見学も入っていなかったので、同行の日本人の同僚の間から不満の声が出たのを覚えている。「ドイツ人は過去のことを隠したがっているのではないか」と。しかし、このことは残念ながら私たち日本人には自分たちのこととしてすぐ跳ね返ってきてしまう。例えば、南京の大虐殺とか大連での残虐行為といったようなことを隠したがったり、そんなことはなかったと強弁したりする人が跡を絶たないからである。

それはともかく、アインシュタインが20世紀の最大の科学者であることは言うまでもない。科学に少しでも関心のある人たちなら、中身は知らないまでも「相対性理論」という言葉は聞いたことがあるであろう。アインシュタインの名は相対性理論と共にまさに不滅である。この相対性理論は大きくいって特殊相対論と一般相対論とに分かれる。20年ほど昔には物理の学生にとって特殊相対論はぜひ修得しておくべき科目だったが、一般相対論はそれほど必要ではなかった。ところが現在では、これも必修となってしまった。

アインシュタインといえば、相対論という連想があまりに強く働きすぎるためか、彼が量子論に対して行った貢献の大きさがともすれば、見過ごされがちである。初期の仕事である光量子仮説や固体の比熱の量子論はまさに量子論への重要な寄与であるが、それにとどまらず量子論におけるいわゆるコペンハーゲン解釈と言われるものの確立に、それについての疑義を提出する人としてアインシュタインは重要な役割を果たした。すなわち、ボーアの量子力学の解釈はアインシュタインとの論争の結果として、確立したのである。

「神はサイコロをふりたまわず」という彼の信念は20世紀の物理学者の大部分に、古くさくあまりにかたくなな古典的な因果概念の固執に見えたので、彼の晩年は学問の主流から外れた道を歩むものと考えられた。さらにアインシュタインは量子力学を理解できなかったとまで言われた。

しかし、この点についても彼の晩年の研究の中心であった統一場の理論に対する評価と同様に、現在の時点で再度関心を集めていることは歴史の弁証法的な意味でのくりかえしのようでもあって興味深い。

湯川秀樹は晩年よく「アインシュタインの一般相対論のような構想をいかに素粒子の世界に生かすか」に苦心していると語ったが、湯川の意図は十分ではないとしても現在の素粒子の超弦理論の構想に引き継がれているのではあるまいか。凡人から疎んじながらも自らの道を行くといったところにやはりアインシュタインとか湯川とかハイゼンベルクとかいった天才の真骨頂をみる思いがするのは私だけだろうか。(1989.1.22)

 

(2023.1.20 注)ちょっと現在の私の感じと異なっているところもあるが、昔書いたところを尊重して、文章は変えなかった。時代錯誤の表現があるかもしれないが、ご寛容をお願いする。その後、1997年だったかにウルムを訪れたことがある。


『キーポイント線形代数』2読目

2023-01-19 18:39:11 | 数学

『キーポイント線形代数』(岩波書店)の2読目中だが、10章のうちで10章と7章を残すのみとなった。1回目ではわからなかったところとかも、やはり2回目だとわかったりして来ている。

この本を3回は読んでおきたいという気がしているのだが、3回目を読むことができるだろうか。7章の「線形代数の基本定理」のところが難しいと感じている。それで2読目もこの章は最後にしたいと考えている。まずは10章の「ジョルダンの標準形」のところを先に読みたいと思っている。

昨日から今日にかけては9章の「行列の対角化」のところを読んだのだが、それに夢中になってブログを書くことができなかった。

今日もやっと今になってブログを書いている。

1読目は計算をするのをちょこちょこと紙の切れ端に書いたので、記録として残らなかった。それで今度はレポート用紙に記録を残している。やはり本を読むのは記録を残さないといけない。


佐藤幹夫さん逝去

2023-01-17 15:32:40 | 数学

佐藤幹夫さん逝去という記事が朝日新聞に出ていた。

 私自身は佐藤さんのことをよくは知らない。しかし、非線形波動の解法で広田の方法を考えられた広田良吾さんがE大学での集中講義で「僕は天才などいるとはまったく思わなかったが、佐藤幹夫さんは天才ですね」と言われておられたのを聞いたことがある。

 広田さんにそれくらい深い驚きを与えた数学者はどんな人なんだろうかと崇敬の念を抱いていた。日本は偉大な数学者を失ったことになろう。その独創性が群を抜いた人であったことはまちがいがない。

 何十年も昔のことになるが、京都大学の数理解析研究所の研究会に出たときにちらっと佐藤さんを見かけたのではないかと思ったが、定かではない。研究会を行っている会場の後ろに知らない方が姿を見せたことがあった。今から考えるとその方が有名な佐藤先生であったように思われる。

 残念ながら、有名な佐藤超関数がどういうものだか存じ上げていない。佐藤超関数を解説した本があるらしいのだが、それらのどれもまだ読んだことがない。いつか読んでみたいという気持ちはもっているけれども。

 

 

 

 


マックス・ボルン

2023-01-17 13:44:17 | 物理学

これは「ドイツ語圏世界の科学者」というタイトルで雑誌『ひうち』という雑誌に掲載したものである。その中の第4回である。

ご参考までにこのブログに掲載する。

 

(4)マックス・ボルン(Max Born) 1882-1970

 10年以上も昔になってしまったが、ドイツのマインツ大学に留学していたころ、住んでいたMainz-Gonsenheimの近くの森の傍のバスの終点に、M. Bornとのみ記された(小さな)石碑があった。そこになぜ、マックス・ボルンの名を記した石碑があるのか、由来を書いたものが見当たらなかったので結局わからずじまいであった。

 日曜などに子どもをつれて森を散歩するついでに、よくそこへ立ち寄ってボルンに思いを馳せたものだ。ボルンといっても、たいていの人はそんな名前はご存じないにちがいない。

 しかし、彼こそハイゼンベルクやシュレディンガーやディラックと並んで「量子力学」の創始者の一人なのだ。特にハイゼンベルクの独創的ではあるが、荒削りの洗練されていない論文から数学的に構造のはっきりした量子力学の理論を抽出したのはまさに彼とP. ヨルダンであった。彼らの量子力学は行列の形で表されるために行列力学と呼ばれている。

 また、量子力学における状態関数は、粒子がある場所に見い出される確率と関連するという確率波解釈を提唱したり、またボルン近似といわれる粒子の散乱によく用いられる近似法を考案したのも彼であった。ハイゼンベルクの先生の一人であるにもかかわらず、哲学的立場がハイゼンベルクと異なるためか、その評価においていくらか彼はないがしろにされる傾向にある。

 例えば、ハイゼンベルクがノーベル物理学賞を1932年に受賞したときに、共同受賞したとしてもおかしくかなったのに、ボルンのノーベル賞受賞は1954年であり、ハイゼンベルクの受賞より22年後のことであった。

 因みに「量子力学」(Quantenmechanik)という語はボルンによるものという。ユダヤ系ドイツ人であったために、1932年から1954年まで、イギリスに亡命生活を余儀なくされた。1954年に帰国し、1970年にゲッティンゲン郊外のバート・ピルモントで亡くなった。私の好きな学者の一人である。(1988.11.20)

 

(2023.1.21 注)Quantenmechanikは英語ならだれでも知っているQuantum Mechanicsである。発音が難しいのでカタカナでつたなくだが、つけておくとクヴァンテンメヒャニークと発音する。ドイツ語をご存知の方はカタカナの発音は無視してください。


全部を読み終わったので、

2023-01-16 14:58:18 | 数学

『キーポイント線形代数』の全部を読み終わった。昨日から2度目を読んでいる。やはり、ベクトル空間について書いた4章と線形変換についた書かれた5章とはじめの1章を読んだ。さらに、2章をチェックしていたが、これを途中で止めて、3章に進むことにした。

 

例によって、面白そうな章から読み直していくつもりである。