物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

佐伯泰英さん

2010-11-30 12:00:42 | 本と雑誌

佐伯泰英さんはいまはやりの時代劇小説の作家である。数ヶ月前まで土曜日のNHKのテレビの30分の時代劇の原作者としてその小説がドラマ化されて放送されていた。彼がいま岩波のPR誌「図書」に連載ものを書いている。もっともこれは小説ではなくて、エッセイである。

彼は長い間スペインにいたそうで、そのころは写真家であった。その後日本に帰り、作家となったが、現在はとても売れっ子の時代劇小説の作家である。もっとも彼の小説は単行書では発行されずに一挙に文庫で発行されているという。その発行部数はとても多いので、超売れっ子の作家である。

彼が熱海に仕事場を設けたが、その背後に岩波書店の別荘「惜櫟荘」があり、そこを岩波書店が売りに出すときに買い入れた。そしてこの「惜櫟荘」を改築するということに関したエッセイを書いているのだ。

だが、その「惜櫟荘」を改築の話の間に、彼のスペイン滞在中の話がはさまっており、一種の彼の自伝風のエッセイになっている。12月号でもうすでに8回になるのであるが、彼がスペインで関係した作家堀田善衛とその家族との交流とかその他が語られており、なかなか好ましいエッセイである。彼は堀田家に一時居候をしており、車の運転手を務めていたという。

このエッセイはなかなか興味あるものであるから、そのうちに岩波書店から単行書として出版されるであろうから、もし「図書」をとっていない人はその本の出版を楽しみしておいて欲しい。


異説『数学者列伝』

2010-11-29 11:30:56 | 本と雑誌

言うまでもなく異説『数学者列伝』(ちくま学芸文庫)は森毅さんの書である。

森さんはもう数を数えるのも面倒なくらい、たくさんの本を書いているが、私はこの書を一番気に入っている。この書は森さんの処女作ではないと思うが、処女作に等しいのではないだろうか。

遠山啓の処女作ともいえる『無限と連続』(岩波新書)を遠山さんのすべてがこの書に含まれていると森さんは評したが、それと同じことが森さんについてもいえるのではないかと思っている。

そしてこの書を編集したのが蒼樹書房の辻信行さんだと聞くと、この辻さんはいま海鳴社の同じ辻さんだろう。辻さんにはまだ面識はないのだが、ひょんなことからメールのやり取りがある。彼は吉田 武氏の『オイラーの贈物』(海鳴社)を出した編集者だと思う。

ところで、昨日は日曜日であったので、久しぶりに異説『数学者列伝』を引っ張り出して読んでみたのだが、ラグランジュは取り上げているのにラプラスを取り上げていないことに気がついた。

ラプラスの伝記の資料があまり手に入らなかったということが理由かもしれないが、ラプラスを落としたことに森さんの何らかの意図があったのだろうか。

こういった数学者の伝記の類では岩田さんの『偉大な数学者たち』がやはり最近同じちくま学芸文庫から再版で出ている。これは評判の書だということなのであるが、どうも私には読んでそれほど面白い本だという気がしない。どうしてなのだろうか。

(2021.2.8付記)  海鳴社社長の辻信行さんとは2015年だったろうか、面識を得た。辻さんは私に著書『四元数の発見』を書くことを勧めてくれて、その後2014年に海鳴社から出版してくれた。

小著の出版は10月であったが、その後上京の折に、同社を訪れて直接に面識を得た。辻さんは京都大学物理学科の出身だが、出版に身を投じられた方らしい。

(2024.3.28付記)その後、昔の同僚であった友人の N さんが昨秋だったか、今年なってだったか忘れたが、私の仕事場を訪れたときに聞いてみたら、Nさんは辻信行さんと京都大学で同学年であり、それも物理実験だったか、化学実験だったかでパートナーだったとか聞いた。世間は広いようで狭いと感じた次第であった。

辻さんはすでに故人であるので、名前を表に出したが、Nさんはまだ健在なのでNさんとイニシャルだけにした。

ドイツ語要約の作成

2010-11-27 13:03:12 | 外国語

最近は作文の宿題が多いので、それを含む今週の要約を昨日まとめる作業をはじめた。

いつもは木曜日の2時か3時から夕方の6時までに要約の作成をしていたが、どうも作業がこのごろ多くなってその日の作業では間にあわなくなった。そのために少し早めに作業をすることにした。

いつも一週間経ってメモを見ても、その前後関係を思い出せないことが多かった。だから早く要約を作ったほうがいいのだが、私自身の仕事を優先するとどうしても要約をつくる作業はぎりぎりまで延ばされてしまう。

だが、作業や宿題が多くなるとどうしてもそのための時間が必要となる。それで、少しづつ作業を早めている。

こんなことは誰かが他のメンバーがやってくれるといいのだが、他のメンバーも忙しくて頼めない。だから、仕方なく自分でやっている。そしていつの頃からかこの要約がつぎのクラスでの学習の一部になっている。

R氏のドイツ語の中級クラスは松山市の事業としてやられていたのだが、行政的な費用の削減から自主編成のクラスとなった(*参照)。

それを組織したのはO氏で、彼の懸命な世話がなければ、ずっと以前に崩壊してしまっていただろう。そういう組織能力は私にはない。だから、要約をつくるぐらいはしなくてはならないのかもしれない。

さらにいうと、先生のR氏の努力がある。彼は自分の知っている知識を惜しげもなく教えてくれる。私などは物忘れがひどくすぐに教わったことを忘れてしまう。

だが、彼はそれでも嫌だともいわずに何度でも繰り返してくれる。また、この時間は彼にとってもドイツ語をある程度気兼ねなく使える機会ということだろう。

日本人に囲まれたドイツ人にとっては日本語は上手になるが、その分だけ母語のドイツ語がおかしくなるものである。

それを防ぐ方法は多分ときどきドイツ語圏に帰ってドイツ語の雰囲気の中で過ごす必要がある。しかし、その旅費とか滞在費を大学から毎年保証されているわけではない。本当はその毎年のその費用は雇い主の大学が支払うべきなのだが、そうはなっていない。

以前と比べてこの事情はいくらか改善しているかもしれないが、以前には2~3年に一度しかこのような旅費の保証がされていなかった。ひょっとしたらいまは雇用のあり方が変わって、そういう費用はまったく保証されなくなっているかもしれない。

(*) R氏のドイツ語の初級クラスはいまでも数千円の費用を出せば、参加できるはずである(松山市から補助の費用が出ている)。

もちろん3番町のコムズに申し込みをしなければならない。市の広報にその募集が出るから2月と7月か8月の松山市の広報を注意しておく必要がある。この初級クラスはドイツ語のまったく知らない人でも参加できる。

(2013.4.17 付記) あまり確かな情報ではないが、R氏のやっていた初級クラスは市の事業としてはいまはもうやられていないのではない。R氏がそのクラスを引き受けを辞退したように聞いているが、あまり確かな情報ではない。


快挙?

2010-11-26 16:26:19 | 日記・エッセイ・コラム

昨日のドイツ語のクラスが始まる前に医師の I 先生がこのブログをはじめから最新の分まで全部読んだといわれた。そういう奇特な人は他にはいないと思うので、快挙(?)であろう。しかし、これは私の言い分で、他の人にはどうでもいいことだろう。

どうしてそういういうことをなさったのかは聞かなかったが、ひょっとして深夜に寝つきが悪くてそういうことをなさったのかもしれない。それならお気の毒というべきだが、たぶんそうではなくて意識的にされたのであろう。

このブログに読者がいることは書いている本人としては嬉しいことでもあるが、それは一方ではちょっと恐ろしいことでもある。というのはこれは書いている本人の独り言なのだが、その独り言が一人歩きをするという事態にもなるからである。

ブログを書くということはある意味で精神的な内面を公にさらすことになる。自分の内面のもちろん全部ではないが、少なくとも一部をさらしていることである。それが私の全体のどのくらいの部分を占めているかは自分でも判断がつきかねるが、数分の一くらいなのか数十分の一くらいなのか。多分数十分の一くらいだと思うが、それでも自分の中のかなりの部分を表明していることになる。

人間の無意識のコンプレックス(ここではインフェリオリティ・コンプレックスを含むが、そのものよりも広いものを指す)は意識している以上に大きいので、人間全体を評価するにはその全体を評価できる必要があるが、無意識は行動にどう現れるか、ユング派の精神分析学者にでも聞いてみないとわからない。

このブログで話題にしていることは数学とか物理、ドイツ語やフランス語といった外国語、テニスや一般のスポーツや健康、その他日常生活の折に触れた話題とかである。できるだけ政治には触れないでいるが、まったく皆無というわけにはいかない。だが、湯川秀樹がその著書「天才の世界」でとり上げる人として、天才でも政治家と軍人を除いたと同じような考えをある程度は踏襲している。

だから、私のブログが世間一般とかけ離れているだろうことは想像に難くないが、それでも書くテーマには事欠かない。だが、とても狭い見解であることをお断りをしておく。

よく、大学在職中に学生の卒論の添削をした。書いていることがもう一つわからないので書いた学生を呼んでその意図を聞くと、それはこういうことを書きたかったのですという。それではそう書けばいいではないかとその場で私が書き足していたが、書くことがわかっていてもそれを文章にできるかどうかはまた別なのである。自分の思ったことを文章で何とか書けるようになるというのはかなりの修練が必要である。


ラジオ体操と体の敏捷性

2010-11-25 12:00:30 | 健康・病気

数年前だが、NHKの「試してがってん」でラジオ体操を長年やっても、体づくりにはならないといっていた。ではラジオ体操は何の役に立つのかといえば、体の敏捷性が増すのだという。

あまりはっきりした効用がないが、ラジオ体操をするようになって、ほぼ2年になるだろうか。その効用かどうかはわからないが、最近テニスで少し体が動くようになったらしい。大体私はテニスでも体がほとんど動かない。

それでボールが来ても、もたもたしてフットワークが悪い。歳相応なのだが、それにしてもひどかった。だからなんでもないボールでも、ミスすることが多かった。昔からテニスは上手ではなく、いまに至っているのだが、それでもいくらか動きが改善されているようだ。

もちろん、自分ではこの改善度合いはわからないのだが、23日夜のテニスの後で I 夫人から足が今日はよく動きましたねと声をかけられた。もちろん、これはお世辞ではあると思うのだが、それでもこれまでずっとよりは相対的にマシになっているのかと考えたりしている。

もっとも体の動きだけではテニスが上手だとはいえない。ボールをしっかり見てボールを打つなどのことが必要である。だが、ラケットの動きも少しは敏捷になったらしい。とはいってもこれは相対的な話で、もともとテニスが下手なのだから、大して上手になっているわけではない。

私たちのクラブ「ひまわり」には二人ほどかなり上手なプレヤーがいて、それ以外は趣味のテニスを少し出たくらいである。ああ、もう一人若い女性の I さんが上手だ。彼女は会社に勤めているが、小さいときにアメリカのシアトルでテニスを習った。そのコーチがいいコーチで、そのコーチは以前にはスリランカの国の代表選手だった方だという。

さらに彼女は身長も高く、体もがっしりしている。だから、彼女が遠慮なくストロークを打つとあっという間にボールが飛んで来るし、そのボールも重い。大学でテニスクラブにいた二人の男性も彼女と対戦するときは真剣に対している。これは私たちを相手にするときのボールとはその速さが違うことからも窺える。


ミスプリント

2010-11-24 11:30:47 | 日記・エッセイ・コラム

昨日も少し触れたかと思うが、数日前から旧著の校正刷りを見ている。ところが全体を見直していると細かなところだが、つぎからつぎへとミスプリントを見つけてしまう。何回この本を読んだろうか。それでもまったく気がつかなかったが、はっきりしたミスプリントが多いのである。

自著だから、まったく読まないのではなくて私自身が一番の読者であろう。ところがこんなにミスプリを見つけれずにいたかと思うと恥ずかしくなる。もっともすでにかなりたくさん気のついたところがあり、そこを印刷所に修正するように頼んでいたのだ。

三角関数の加法定理の幾何学的な証明のところにもミスプリがあるのを昨夜見つけた。というのは何回か読み直したときにはその証明のところは面倒なので、読み飛ばしたらしい。そういうこともあるし、小さなミスもある。小数と書くべきところが少数となっていたところも見つけた。

人は間違うものであるとはいうが、こう間違いが多くては申し開きもできそうにない。だから今度旧著の修正をしてもなかなかミスプリが皆無になるとは思えない。これは人間のすることだからだろうか。


100円ショップ1

2010-11-23 12:57:25 | 社会・経済

妻がときどき気の利いた小物を買って来ることがあり、どこで買ったのかと聞くと近くの100円ショップで買ったという。100円ショップはデフレの産物みたいなところがある。

いま、私の旧著「数学散歩」のミスプリを訂正しているのだが、その校正刷りが来たので、その訂正箇所を示すためにpost itを買いに100円ショップに行った。なんとか目的のものを買ってきたのだが、どうも思っていたものとはちょっと違ったらしい。

ほとんどの商品が100円ということで他のものを5品目ほど買った。これが結局100円ショップの目的なのだろう。別に衝動買いというほどではないが、それでもpost itだけ買うつもりが余分に500円分買い込んだ。

もっとも100円分の買い物のつもりが余分にあと500円分買ったといってもどれほど日本の経済に寄与するかというとまったくゼロに等しいだろう。だが、これは私だけではなくてこの100円ショップに来る人が同じようだとすると少しは日本の消費経済に寄与することになる。

もっとも100円ショップでも100円ではなくて300円とかのものもあるが、やはり基本は100円である。それで、書類のフォルダーでハードな表紙のものがあるかなと見て回ったがそういうものはなかった。これはいろいろな書類のコピーをファイルして保存するために探したのである。

もちろん、どこの文房具店でも売っているものであるが、500円くらいの値段がしてそんなに安いものではない。だから、それを100円ショップで見つけようとするのが本当は無理なのである。すでにいくつかのフォルダーを買ったのだが、それでもまだ十分に論文や本のコピー等の整理ができないでいる。


ギリシアの教育

2010-11-22 12:00:16 | 日記・エッセイ・コラム

昨日は日曜で、自宅にいた。それで、以前に買っていた本を久しぶりに取り出してきた。Dysonの本The scientist as rebel である。この日本語訳が今は出ているのだが、私はもっていないので、原本である。

Dysonの文は英語の構文としては難しくないのだが、それでも知らない単語がたくさん出てくる。それで私のようにあまり英語の強くないものにはなかなか読めない。それでも興味のありそうなところを拾い読みしてみた。それがFeynmanの書簡集に関連したエッセイであった。

Feynmanはあまり論文を書くのが好きでなかったそうで、数十年後に彼がノーベル賞をもらうことになった研究の論文をなかなか書かなかったらしい。あるとき、シカゴの友人の家に行ったときにこの友人夫妻が彼をある一室に閉じ込めて論文を書くことを強制して、書くまでその部屋から出さなかったので、やっと論文を書いたのだという。

自分の成果を論文でなく、講義とか講演で口頭発表することが好きだったらしい。彼は自分では文法に則って英文を書けないといっていたらしい。ところが手紙はきちんと文法に則っていたとDysonはいう。(似た性癖の人に数学者の佐藤幹夫がいる。佐藤幹夫さんが独創的な人であることは多くの人が認めているが、広田良吾さんの話ではだから佐藤さんの講義録が全世界の数学者に読まれているという)

その手紙の一部に家族に宛てた手紙があるが、その中の一つがおもしろかった。これはFeynmanがアテネに行ったときの彼のギリシアでの観察を伝えた手紙である。それによると

ギリシアでは、古代のギリシアが優れた科学業績を挙げたということを学校教育で徹底しているので、子どもたちはその偉大さに打ちひしがれてなかなか現代にその偉大さを精神的に克服することができない。

Feynmanはいう。ヨーロッパで一番重要な数学上の業績はタルタリアによる、3次方程式の解法だという。これはあまり使われないが、これは心理的にはすばらしいもので、これによって近代人は古代ギリシア人のできなかったことをやっと乗り越えられた。そして、人間を自由にする、ルネッサンスに役立ったという。

このFeynmanの話を聞いたギリシアの子どもたちは大変驚いたという。しかし、古代のギリシア人が人間の理性の成果である、科学においては偉大なことを成し遂げたことは事実としても、それに押しつぶされるような雰囲気が現在の学校教育で支配的であるのなら、それは行き過ぎた教育であろう。だから、Feynmanのいうことは正しい。

もっとも私はタルタリアの3次方程式の解法が古代ギリシアを乗り越えた、最大の業績かどうかはわからない。それにしてもFeynmanの書簡集は英語の原本もその日本語の翻訳もいずれも、まだ私はもっていない。あわてて購入するべきだろうか。

上の話は私がDysonの文を読んでその内容を伝えようとしたものだから、正しくないかもしれない。正確なことは原本を読むか日本語訳を読んでみてください。


考えること

2010-11-20 13:27:36 | 日記・エッセイ・コラム

小児科医の松田道雄が高齢になって80歳を越えたころの随筆で、岩波書店の発行の新しい森鴎外全集の購読予約をしようかどうかと迷っているという一節があったと思う。

これは「安楽に死にたい」というエッセイの一節だった気がする。これを読んだのは多分長年購読している岩波書店のPR誌「図書」であり、彼のエッセイを収めた同名の書が出たのかどうかはしらない。多分出版されているのであろう。

こういうことを書いたのは実は最近小山昭雄著「経済数学教室」全九巻(岩波書店)を予約購読しようか、どうしようかと考えたからである。これは松田道雄のエッセイを書いた歳と比べればまだ私は10歳くらい若いが、もちろん自分の寿命との関係を考えたということである。

私は基本的に文学書は読まないので、文学に関係したものを予約購読したのは、みすず書房から出た「ロマン・ロラン全集」くらいである。

あとはもちろん寺田寅彦全集は予約購読をしたが、それは寺田が科学者であったからである。もちろん寺田のエッセイはなかなか興味深いものであり、これはやはり文学であろう。

文学くらい読まないでどうするという、声が聞こえてくるが、これは文学に浸れば、理系の学問などはやらないようになるだろうと若いときに自分で思ったからである。

結局、「経済数学教室」は予約注文したが、これからはそういう考慮をいつもしなければならないであろう。私はそれほど蔵書家であるとは思っていないが、妻などは一生に読める本の数などは多寡が知れているという意見の持ち主でいつも皮肉を言われる。

もっとも姪がいつだったか我が家を訪れたときに、「叔父さん、本棚を見せて」というので、見せたらびっくりしていた。が、それはProgress of Theoretical Physicsという雑誌を若いときからとっていたのが書棚の大部分を占めるようになっているからである。 しかし、この雑誌もあと数年の寿命のようで数年後にはなくなるだろうと予想される。


あげまん、さげまん

2010-11-19 12:42:58 | 日記・エッセイ・コラム

昨夜のドイツ語のクラスで医師の I 先生が「あげまん、さげまん」という言葉に触れられた。それをYさんがドイツ語で説明された。どういわれたのかはっきり覚えていないが、キワードはKarriereという語だったと思う。

もともと「あげまん、さげまん」という語の意味をよくは知らないのだが、それにしてもそのぼんやりした概念をKarriereという語で表した感覚に感心した。これは日本語でいうキャリヤであろうか。日本語でも現在「キャリヤを積む」という言い方が一部で定着していると思う。それと本当は同等(イクオール)ではないだろうが、それでもなんとかR氏に理解をしてもらえたようだ。

いま、もし私が言うとすればどういうであろうか。たとえば、

Wenn eine Frau  einen Mann heiratet, dann macht der Man gute Karriere. In diesem Fall heisst man die Frau "Ageman" auf Japanisch. Im Gegenteil sagt mann "Sageman" .

(この文は勝手にいま私がつくった文なので正しくは多分ないであろう。まじめにとらないでほしい。辞書を調べていないので、ひょっとしたら、Karriereとはポジティブな方にしか使わないかもしれない) 

とでもなろうか。それにしてもYさんの表現する能力には驚いた。これは昨日だけのことではもちろんない。内容はまったく覚えていないのだが、去る7月のドイツ語のメンバーの学期終了パーティで、やはり私には表現できないと思うようなことを話していた。昔は私も誰かが日本語で言っていたり、ドイツ語でつまったりしたら、それを聞いていて,対応したり、またはその続きのドイツ語が自然に出てきていたような気がする。それができなくなってしまった。

日中は一人で仕事をしているので、誰とも話をしない。だから日本語でも言葉が出てこないことがある。それで多分言語能力が落ちているのであろう。

話はちょっとはずれるが、日本を代表する数学者の一人だった小平邦彦さんの書かれたものに「何十年もアメリカで英語に接して生活していたが、新しい英語の単語に出会う」というのが、あった。これは彼がニューズウィークか何かで出会う英語の単語が種切れにならないということを述べた文章であった。

それと比べるとはあまりにも環境が違いすぎて恥ずかしいが、昨日のクラスでも知らない語が数個出てきた。VettelだとかReiherとかである。他にもあったかもしれないが、今は思い出させない。私たちのクラスは文学的な話はあまり出てこないから、あまり抽象的な単語はほとんど出てこないがそれでも毎回10語まではいかないかもしれないが、知らない単語が出てくる。

どうも2千語くらいのドイツ語でなんとかしようとしているのだから、仕方がないかもしれない。教養あるドイツ語圏の人々は一万語くらいを身につけているというが。


数学の教材研究

2010-11-18 11:30:55 | 数学

大多数の方々にとってはまた数学の話かと鼻についていることだろうが、申し訳しありません。

昨日、友人のNさんに会いに町の中心部を抜けて行った。いつかも書いたようにNさんと私の家は町の正反対の方にある。そして小一時間ぐらいNさんと話をした。

彼はGauss積分の新しい計算法(彼の長年の教育経験から得られた結果)をエッセイに書いてくれたのだが、その文章の一部の言葉遣い等の修正してもらうために出かけたのである。

それは簡単に話が済んだのだが、彼によると、私も知っている2重積分を用いたGauss積分の評価の仕方以外にもいくつかのGauss積分の評価法があって、彼が知っているだけでも5つの方法があるという。

それで「それをいつか数学エッセイに書いてください」とお願いをした。そのときに一つの定理や公式等のいろいろな導出法を知ることは数学の教え方の教材研究だと思うと私がいうとNさんもまったく同意見であった。

私は動物の昆虫採集にはまったく関心がないが、ある意味で数学の教材の採集をやっている。

すでに愛媛県数学教育協議会の機関誌「研究と実践」に載せた、「オイラーの公式の導出」などはその最たるものである。それであのエッセイをいつか『数学・物理通信』に再録してもいいなと考えはじめている。

教材研究といってもその全部を学校で教える必要があるなどとはもちろん思っていない。これは教える教師が知っていればいいことである。

Nさんによれば、日本ではそういった教材研究を発表する雑誌がないということである。ところが、世界的に見るとそういった雑誌はあるらしい。すなわち、日本での関心のあり方が、世界と微妙にずれている。

新しい学問分野を開いたり、新しい発見をする研究の重要さはもちろんいうまでもない。が、それだけでは教育の分野では十分ではないといつも考えている。

西欧の輸入学問の受け売りという域を出ないのではないか。自分で考え抜くということや教育の分野でも新しい観点をもつということが必要であろう。

小学校や中学校等の数学では「水道方式」や「量の理論」がその道を開いたし、大学の基礎数学に関しては「森ダイアグラム」という見通し(Perspective)もある。

また、宮本敏雄氏の『新しい微積分教育の方向』といった試みもある(注)。だから、日本の独自なものがないとは思わないが、また別の方向へも指向したいと思っている。

いま私は平方根の近似値の求め方とか不等式の証明法に関心がある。さらにテイラー展開とか微分の応用でどんなことができるかにも関心がある。

Nさんは数学では不等式の証明が重要なのだという。この見解には異論があるかもしれないが、それは一つの数学の見方なのであろう。そして不等式について書かれた数学書はまったくないわけではないが、少ないと以前に言われていた。

(注)『新しい微積分教育の方向』は国土社の発行の『数学教室』の連載記事で、その後数学教育協議会の小冊子として発行された。


体内時計と生活

2010-11-17 13:38:00 | 健康・病気

昨日、武田薬品工業の愛媛営業所で、「体内時計と生活」という講演会があるというので、出席した。睡眠導入剤を最近武田薬品が発売したのだそうだが、それの販売促進を記念した講演会だったらしい。

主催者の一人の医師の方から、出席者が少なそうなので、出てくれないかの要請を受けたのである。主催者によると出席者30数名で結構な盛会であったとのことで主催者は胸を撫で下ろされたらしい。

講演自体はあまりよくは理解できないものであったが、ひとつの新しい医学の基礎研究がなされていることの一端に触れることができた。もっとも日本人は私も含めて話が下手である。

そういう典型のような講演であった。もちろんこれは講演の問題であって、研究のテーマがつまらないということを意味しない。むしろとても興味深い研究を行っているらしいことが窺われた。

だが、研究をしている人は研究の全容を聞いている人がわかってもわからなくても話したいものだが、そこはぐっと抑制してテーマを狭く絞って聞いている人のわかるような話をする必要がいつでもある。

これはいうは易くして実際に行うことはとても難しいのだが、それでもそのように努力をしなけらばならないと思う。すなわち、情報は少なくしてその範囲で首尾一貫した理解が得られるようにすべきだと思う。


白鵬64連勝ならず

2010-11-16 13:10:03 | スポーツ

昨夕、すこし早めに帰宅したら、テレビのニュースでなにか町の人がインタビューに答えていた。それがまさか白鵬の連勝記録が止まったことに対する町の人へのインタービューとは思わなかった。

少ししてようやくそうだということがわかったが、これはショックであった。というのは白鵬が負けそうな雰囲気はこのところまったくなく、双葉山の69連勝どころかもっと記録を伸ばすのではないかと考えていたからである。

「双葉山の69連勝の記録を抜かれるのはどうもなんて」けちな考えはほとんどの日本人は考えていなかったに違いない。私自身もそんなけちな考えはもっていなかった。白鵬がモンゴルの出身だからといってやはり日本で相撲をとっている以上は日本の伝統に則っているわけであり、その連勝が63連勝で終わったといっても偉大であることは間違いがない。

白鵬はあの千代の富士の連勝記録も塗り替えたほどの力士であるのだから。白鵬がこの千代の富士の連勝記録を塗り替えたとき、その連勝記録をつくった千代の富士自身が白鵬の記録を祝福していた。だから、千代の富士には自分の記録が破られることに妬みの気持ちはなかったに違いない。偉大な人は自分以外の偉大な人のことを知っているものである。

白鵬はまだ25歳と若いと聞く。もう一度挑戦をしてもらって、いつかぜひ双葉山の69連勝の記録を破ってもらいたい。

双葉山の連勝記録が止まったのは私が生まれた1939年で、私は5月の生まれなので、この1月にはまだ生まれていなかったが、私が小さい頃から双葉山の69連勝は伝説的な話であった。だから、何かの因縁を感じている。

また、白鵬に11連敗中だった稀勢の里は大金星である。彼の相撲は大いに称賛されてしかるべきだ。この機会に大関、横綱をねらう力士に育ってほしい。双葉山を破った安芸の海が横綱になったように。


問題に難渋

2010-11-15 11:00:55 | 数学

微積分のe-learningのコンテンツの演習問題のところへ入っている。ところがこの演習問題はもと同僚がつくったのだが、関数の極限の問題で解き方のわからないのが数問出てきており、考えあぐねている。

とはいっても世の中の秀才諸氏だったら、なんなく解いてしまうような問題なのだろう。私は若い頃から問題を解く能力がない。どうしても解けなければ、誰かに聞くことになるのだが、それにしてもこんな問題が本当に技術的に必要なことがあるのだろうか。

そうはいっても、解けないのは悔しいのでクイズを解くようにあくまで解を見つけるつもりである。だが、どうもこの問題は生産的ではないような気がする。そうはいってもみても負け犬の遠吠えのように聞こえるだろうから、何とかしようと思っている。

それとは別だが、数学・物理通信の第5号の原稿というつもりでだろう、友人の数学者Nさんからの印刷された原稿が届いた。これを昨日から読み始めた。いくつかの書き換えてほしい項目が出てきた。

もっとも計算の詳細がわからないところもある。だが、これもわかりそうでわからないということなので、もう少し自分で考えてみたいと思っている。このテーマはGauss積分を普通は2重積分で評価するのだが、このNさんのは2重積分を使わない方法である。

Nさんは基本的に微積分のテキストにある曖昧さをなくすように、書き換えたいという意図をもって、こつこつやっているのだが、彼は持病があり、なかなか進まない。しかし、その持病も命には別状がないらしいので、Nさんの仕事が無事に完成することを願っている。


黄砂

2010-11-13 13:49:44 | 日記・エッセイ・コラム

昨日から、景色が変だと思っていたら、案の定、季節はずれの黄砂だそうである。春霞のようにかすんでいつもははっきりと見えるはずの山々がかすんでしか見えない。普通には春先の現象だが、この季節には珍しい。

中国の奥地のあまり木の生えていない砂漠の砂とかが強風で巻き上げられて、はるか海を越えてやってくるらしい。それなら中国の奥地に木を植えて、砂漠化を食い止めたらと、私のような素人は思ってしまうが、それほど簡単なことではないらしい。

中国でも私が学生のころには(もう50年もまえのことだが)、一人一本の植樹運動が展開されたと思う。が、なにせ中国の国土は広いのとその広大な大地には奥地のほうではほとんど雨が降らないのだという。いつか星野芳郎氏の書いた本で見たのだが、雨の降水量と水分の蒸発量とを比べると蒸発量の方が大きいのだと書いていた。それでも砂漠化を何とかして食い止めることが必要ではあろう。

それとは違うが、中国の内陸部でも農業を起こして、内陸部も豊かになろうとすると水の問題が起きる。それで、大きなダムをつくるとかして発電や農業用水としようとすると水が多量にいることになって、河口近くの広大な土地には水が不足することになるという。それだと沿岸部の工業地はまだいいかもしれないが、それよりは少し内陸の部分では農業ができないために壊滅的な被害を受けてしまう恐れがある。

また、首都北京では水が不足しているために、水路を開発して内陸部から水を供給しようとしているとテレビで見た記憶がある。単に水の問題だけとっても中国には問題があるらしい。その広大な土地に10億あまりの人が住んでおり、その人たちが個別に経済活動をしようとしているのだから。

アメリカも問題だが、そこには3億くらいの人口である。だから、問題がないとはいわないが、まだ問題としては小さいだろう。これが10億の人にある程度の生活のレベルを保障しようとすると恐ろしく困難なことであることは想像がつく。 内陸の都市では大学を卒業しても職のない人がかなりでてきているとか。これは日本でも同じだが、日本ではどうも企業の経営の問題として派遣社員の雇用とか首切りとかが問題なのである。

日本でもどうやって雇用をつくり出すかは政府のみならず、これからの大きな問題となってくる。しかし、それもあまり人が頭を使いたくないというような風では問題外の外といった感じがする。職がないからといって、数学とか物理とか、はたまた工学とかいった面倒な学科を学ぶのかといったら、そういう面倒なことを学びたくはないという、若者の勝手な言い草である。

もちろん、みんなが理工系の学問を学ぶ必要はないのだが、一般的に安易な方向に流れていくという傾向はどうも否めない。それで生活ができないとかいわれたって、自業自得ではないのかと、そこまでは妻なども言わないが、それに近い感覚をもっているらしい。

私などはそうはいっても、そんなに簡単ではなかろうと思ってはいるが、やはり先進国となったら、今までのようには行かないという自覚が国民に必要なことはいうまでもないだろう。そしてその自覚はやはり一番教育に現れなくてはならない。

というわけで、そういう観点も考慮して、私個人はこつこつとe-Learningのコンテンツをつくっているのである。こういうことは誰かがやらなくてはならないのだが、小学校から高校、大学の先生まで含めてとても忙しくなってきており、どうもなぜこんなに忙しくて、それも生産的でないことで忙しいのかわからないような状況になっている。

これはしかし政治の世界もそうであり、創造的な観点はほとんどなくなり、自分たちが政権をとってその恩恵に浴したいという考えばかりが与野党を含めて伺える。もちろん政治は政府与党の責任が一番大きいが、どうも野党もあまり頂けないという感想をこのごろ強くもっている。

これは国民もそうである。政府とか首相の指導性とその責任が十分に果たされていないという声があるが、では全体的にあなたの言うことをそのまま聞いたら、うまく外交がうまく行き、また雇用なり、所得が増えるかというとそんなに簡単ではなかろう。マスコミも市民の声を聞くと称してヒステリックになっている。

この国の問題は、じっくり腰を落ち着けて抜本的な対策に取り組むという気概がないというところに一番の問題があるのではないか。