物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

憲法9条

2005-07-20 20:32:05 | 日記・エッセイ・コラム
憲法9条を中心として憲法を改定しようという動きが一方であり、9条を守れという運動がもう一方である。改定せよという動きは単純な議論が多いようだが、9条を守るという動きはなかなか複雑である。また、その論理が改定論者のいう論理を十分に踏まえてないように思う。

というのは先日も憲法9条を守る県民の会の1周年記念の集会に出たのだが、その招待講演者はいかに日本を守るかという議論についてまったく言及されないかった。また、これは妻が毎月の9日に行われているビラ配りに出てそこである市民から憲法9条では日本を守れないのではという議論をされた。そこで、そんなことはないのだと説明したら、その若者はでは安心していいのですねと言って立ち去った。なぜ日本の国がそんなに危うくはないかということをきちんと議論がしないで、憲法を守れといっても納得はされないのではないか。

確かにこの60年間日本は戦争をしなかったから、戦争で死んだ日本人はいない。事故その他で亡くなった人はいるが。でも北朝鮮の脅威とか中国の脅威とかマスコミで恣意的に言われると善良な市民はあわててしまう。

北朝鮮の脅威については日本を攻めるようなときには北朝鮮の国が滅びることを覚悟しなければ、日本にであれ韓国であれもう戦争は仕掛けられないであろう。そういう国際情勢になっていることを日本市民ははっきりと認識していなくてはならない。そうでないと北朝鮮の脅威をわめく人がいれば、あわててしまう。

それと財界人の心積もりの間違いを正すだけの視野の広さや見識をもたなくてはならない。経団連はこのごろ憲法改定を主張しているそうだが、たとえ中国にある日本企業の権益を守るためであってももう昔のように軍隊を派遣することなどできないような国際情勢になっていることを財界の人々だけでなく、市民にも分かってもらう必要がある。これはたとえ憲法9条を廃止したとしてもである。

まして9条を堅持することによってさらにより大きなメリットがある。中国はもちろんインドさらに東南アジアの諸国またもっと将来はアフリカの諸国の信頼を得ることができる。これはひとえに日本が軍隊を持たず、核兵器をもたないことによって可能となる。イラクに自衛隊を派遣したときも日本がイラクにやってくるといえば、イラクの国民の期待は自分たちを雇用してくれる企業がくると期待したのであった。今のイラクの状況ではそれは不可能なことくらいは賢明なイラクの市民はわかっていたはずだが、それでもそういう期待が大きかったことは覚えておかなければならない。

もう一つ大事なことは世界経済の相互依存がいまほど進んでいるときはないのであって、中国で反日デモがあったとしてももう中国は単独では生きていくことはできない。それはもちろん日本も同様である。日本や中国のアメリカとの相互依存はもちろん言うまでもない。第一どうやって日本人が生きていく食料を手に入れるのだろうか。戦争があれば、もちろん戦争によって人が死ぬことが起こるが、それだけではなく国民全体が飢えることにもなる。だから戦争はもうできないのである。

だから憲法9条を改定しても戦争はしないよと政治家は言うかもしれないが、でも軍隊を持つことを宣言すれば、つい外交的努力を惜しんでつい武力に頼りたくなるのは別にアメリカに限ったことではない。それがとても拙劣なやり方であってもそういう手段に訴えたくなるし、国民からそういう声が大きくなれば、政府がそういう手段に訴える可能性はとても大きい。

アメリカのいい友達としての日本の国はもっとアメリカに率直に忠告をしなければならなかったし、これからも忠告をしなければならないのだが、それを歴代の日本政府はして来なかった。これは日本の外交が拙劣であったことを示している。それによってアジアでも日本は信頼を得ることができていない。

識者によるとすでに70年ほどの昔に石橋湛山が日本の行く末を予言していると言う。そしてその提言を時の政府はまったく聞き入れず第2次世界大戦によって日本の敗戦に至ったという。そのような経済や外交、政治、技術を見渡した視野と見識のある人はもう日本にはいないのだろうか。もしそうなら、嘆かわしいことである。


愛国とは

2005-07-15 22:46:46 | 日記・エッセイ・コラム
女房が「愛国」という言葉で悩んでいる。女房のような普通の日本人にとって愛国なんて当然のことだったのに。県議会の傍聴である議員の質問に対して他の議員が「愛国心だ」と野次を飛ばしたことからその疑問は始まった。

自分のまわりの善良な人々を愛し、郷土を愛するということは自然な感情だが、国家を愛するということはまた違った側面を持っている。国を愛していないのかと問うことで、ある種の強制を強いるというところに問題点が存在する。愛国のために自国を守る軍隊を持て!となると大丈夫かと思ってしまう。だって第2次世界大戦末期にアメリカ軍に攻められた沖縄では軍のために一般市民が多く犠牲になったと言われている。その記憶がまだ人々の中にあるために沖縄は日本の本土とはかなり違った反応を基地や軍について持つ。

また私にしても素朴に愛国心を持つという心境にはならない。国家は一般市民を圧迫して来たというのはある意味本当だからである。憲法に国民、国民とあると女房はいう。だから、国民は悪い言葉ではないとでも言いたげである。

しかし、羽仁五郎なら「国民」というかわりに「市民」というところだろう。またはゴードン=シロタの日本国憲法の草案にあったという、all natural persons..... というのならわからないではないが、国民という言葉には従順に税金を納め、法を遵守し、日本の政治に盲目的に従うという感じをぬぐいきれない。いまは1945までとはちがっているが、いつ、そのような時代に一部ではあるが戻るのではないか。そういう恐れが全くないわけではない。


武谷三男と三段階論

2005-07-10 18:58:52 | 物理学

「武谷三男と三段階論」という題で徳島科学史研究会と科学史学会四国支部の合同年会で講演をすることになった。

もっともまだ何を話すか決めてはいないが、おおよその話す内容は

(1)自己紹介

(2)武谷三男の紹介

(3)三段階論の紹介

の三つを予定している。

全体で1時間だが、質疑応答に10分を使うと50分を講演に使うことになる。武谷三男の業績というと何だろうか。

彼はまず第一に三段階論の提唱者である。自然の認識は現象論的段階、実体論的段階、本質論的段階という三つの段階を経て、認識されるということを提唱した。

また、技術論では「技術とは客観的自然法則の意識的適用である」と定義して新しい技術論を開いた。これらは哲学とか科学史とか技術論の分野の業績である。

物理学ではどんな業績をもっているだろうか。

まず第一に核力研究の指導者としてのTNSといわれる核力を核子-核子の距離によって3つの領域に分けて領域ごとに異なった方法で研究するという方針を立てて、核力グループという研究者集団を組織した。それによってグループとして日本の核力研究をリードした。

領域 I は1 pion交換領域でここでのポテンシャルを確立した。

領域 II はもう少し内側の領域で実質的には共鳴状態としてのrhoとかomega中間子が核力に効いてくる領域である。

領域 III は現象論的に研究されるべき領域とした。hard core その他のテーマがあった。

核力の問題が現在最終的に解決したといえるのかどうかは私にはわからないが、現在ではQCDといわれる学問体系が出来上がっている。

しかし、これは核子をクォークからできているとして、クォークの間の力をグルーオンというゲージ粒子が交換されるということから説明しようとしている。

もっともQCDではクォークとクォークとの距離が近づけば近づくほど力が働かなくなり、遠ざかろうとすれば、大きな力が働くという性質のきわめていままでと変わった性質の力が働くと考えている(漸近的自由とクォークの閉じ込め)。

このようなQCDが出来上がる前の段階を見てみると、

(1) deep inelastic散乱ではBjorkenのスケーリング則があり(現象論的段階)

(2) その後にFeynmanのparton modelが出てきて、quarkがpartonとして考えられた(実体論的段階)

(3) それを受けてGross, Wilceck,Polizterの漸近的自由をみたす量子場の発見があった(本質論的段階)

物理の話の筋としてはこのようになっているのだが、核力研究としての武谷の研究方法は成功を収めたと言えるのだろうか。これは私にはまだ分からない点である。

核力はクォークとクォークとの間の力から導かれる2次的な力ということになった。

核子がクォークの3体系となっているので、それらの足し上げとしての力となったために1次的なgluonによるクォークとクォーク間の力によって核子と核子間の力をeffectiveに導くということができるはずである。

それをすることが意味のあることかどうかということが問題であろうか。


計算の順序規則?

2005-07-07 22:14:17 | 数学

「計算の順序」についてのエッセイをこの間から書いている。そろそろ仕上げようと思っているが、なかなか仕上がらない。
abとかa/bとかには括弧がないけれどもそれらの項には括弧があると思って計算しなければならない。また、べき乗と開法は先に計算をするという規則もある。それだけ聞いたら、なんてないことだがやはり間違える人がいるということだ。

ところが問題はこういう規則をあまり聞いたり、習ったらりしたことがないことが問題なのである。べき乗は優先して計算するということはプログラムを習った人は知っているが、実際に式の計算をしなければならないときにそのことをきちんと思い出せるかということはまた別の問題であろう。やれやれ面倒なことである。だからそれについてのエッセイを書くことが意味があるのだけれども。


空梅雨から大雨に、果たして水資源は?

2005-07-03 18:33:01 | 日記・エッセイ・コラム
今年の6月は空梅雨でまったく雨が降らなかった。ところが昨日の土曜の夜から大雨が降って床下浸水の家も出たという。人間だったら、そんな極端な人は嫌われるのだが、自然が相手では文句の言いようがない。それに雨が降らなくて松山中が困ったのは約10年前のことだった。今年はそれを上回る渇水かと思ったのだが、かなりの大雨でちょっと一息をついたようだ。松山市ではこの前の渇水時に市長の首が飛んだということはなかった。

福岡では20年前だったかの渇水で当時の市長は無策と言うことで再選か三選が果たせなかったという。松山ではその後ちゃんと水対策を立てているのかと思ったが、どうもそうではなさそうである。海水を淡水化するという話もちらほら出ていたが、それもきちっとされているわけでもなさそうだ。もちろんそういった事業をすれば、お金がかかるのはわかるので、簡単に取り掛かれないというのは一応は理解できるが、なにせ水がなければいくらえらそうに言っても人間生きていくことなどできない。自然のお陰で生きていられることを痛感した10年前の渇水であった。

もっとも道後平野の水資源を評価して水の研究をしている人は私の知り合いである。彼は天気のいいときはすることがないが、雨が降るといくつかの下水の定点の観測点を長靴を履いて回るんだということを聞いたのももう20年以上昔のことである。彼はどんな水対策を抜本的に考えているのだろうか。また話を聞いてみたいものである。