物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

積分とは?

2006-04-30 19:07:23 | 数学

先回の講義で微分を説明して、それを使ったらわかる2次式を説明しておいて、実はこれは1次式の積分といわれているものですといったら、学生から積分がわからないというコメントをもらった。

難しい話ではない。べき関数の積分の話である。しかし、わからないものはわからないというのはいいとは思う。でも君たち高校で数学をやって来たのではないのといいたくもなる。

ぐっとその言葉を呑んで、説明をしなくてはいけないのだろう。積分は微分の逆演算である。しかし、そういうことから積分をわかっていけるかのどうか。なんでも逆演算は難しい。足し算よりは引き算、掛け算よりは割り算が難しい。もとより微分より積分が難しい。

求める面積を小さな幅の短冊のようなものに分けてそれを足し上げるというのが、積分の考えであろう。だから微分よりも積分の方が考えやすいといって積分を先に導入する人もいる。でも数学の話をしている訳ではないので、どうしたものかと悩んでいる。


数学は一つの言語である?

2006-04-26 18:13:54 | 数学

数学は一つの言語だという考えをこの間のM大学の基礎物理学の授業で話した。

そういう考え方で数学に対して一般学生のもつアレルギーを少しでも減らしてもらいたいと思ったからだ。だって、数式が一つ出てくると思考停止におちいるのは困る。

数式だってなんらかの意味を持っているのだし、それを一つ一つ調べていけば普通の人にも分かるはずだから。

それで有名な例はランスロット・ホグベンの「百万人の数学」の冒頭に出てくる。

フランス百科全書派のディドローが数式がわからないために神の存在を証明したというオイラーの提出した数式に眼がくらんで当時滞在していたロシアの宮廷から逃げ出してフランスに帰ったという話である。

とてもありそうな話で身につまされるが、遠山啓によれば、これはホグベンのフィクションだろうという。というのはディドローは数学の論文も書いているという。

ホグベンはもちろんこのオイラーが神の存在を示したという式を言葉で解説して、それがもちろん神の存在とは関係のないことを示している。

しかし、世の中には数学は一つの言語だという考え方に同意しない人もいるに違いない。では数学は何だといわれると困るが、数学は一つの思想だというのがそれであろうか。


基礎物理学

2006-04-21 19:41:28 | 物理学

今年から松山大学薬学部の非常勤講師となって、基礎物理学を教えるようになった。

今週の月曜日に第1回の講義をした。第1回はどのような講義をするかということや授業のやり方を中心に説明を行った。

また物理学ではきわめてものごとを簡単化して理解をするということを述べて、講義の最後にアンケートをとった。

大多数は高校で物理を履修していない学生だが、2割くらいだろうか取得はしたがあまり得意ではないという学生たちがいる。

それよりもっと少ないが、自分は物理が得意だとか好きだとかいう学生もいるのは心強い。

でもアンケートをとって心配になった。私の物理の講義に対する期待が大きすぎるのである。

高校で物理を履修した学生はその式の多さにうんざりしていて、そういうものでない物理を期待している。また、物理を履修していない学生はもっと分かりやすい物理を期待している。

そういう授業が果たしてできるのだろうか。数式を使わない物理を期待されてもそれはまったく無理というものであろう。

また数式のない物理は無力ではないか。できるだけ直観に訴える物理の授業をしたいとは思っているが、それでも数式なしという訳にもいかない。早速次回は微分を使わなくてはならない。

渡す教材のプリントには2次式が出てくる。微分の定義式も出てくる。それを見て彼等はどういうだろうか。

誤解を恐れずに言い切ってしまうと、数式は一つの言葉である。これを習得すれば、世界が大きく開ける。まるで英語を話せれば、世界の人々と相互理解ができて視界が開けてくるといったように。

それと同じようなことが数式という言語を使うときにある。また数式を計算していくことでひとりでに数式が考えてくれるという風な感がある。

このことが出来るためにはちょっとした計算をできるためのある種のトレーニングが必要であり、ある程度の苦難を乗り越えなくてはいけないのだが、一般の学生にはそれは乗り越えがたい壁のようなものであろうか。

私は高校のときに数学でつまずいたことがあるので、彼等の心境を少しは理解できるが、それでもやはり専門家になりすぎている。

大学で物理を数式なしで教えられるという先生もいるかもしれないし、また物理は数学ではないのも事実だが。


新学期がはじまる

2006-04-19 11:46:38 | 物理学

昨年度で大学での非常勤の講義もおしまいと思っていたら、思いもかけず今年も量子力学の講義をすることになった。もっとも半年だけで量子力学の講義の前半に当たる分である。

30数年量子力学を中心に教えてきたのだが、長年教えてきた工学部ではなくて今年は理学部の物理学科の学生である。昨日は演習を行った。問題をあてておいて黒板で解いてもらい、本人に説明をしてもらう。もっとも少し説明がいると思えば、まず質問をして問題点を明らかにし、本人が答えればそれでいいが、不十分なときは補足説明をする。

ありきたりの方法だが、やはり演習というのはやった方がいい。講義ではいえないようなことが教えられるからである。電気量の単位のCoulomb Cと電圧の単位のVolt Vをかけると仕事とかエネルギーの単位 Joule Jになることをある問題にあたった学生が知らなかった。力学でJouleがどういう単位であるかは知っていると思うが、電磁気の方との関連は知らなかったようである。

なんでも一つずつ記憶したり、身につけたりして行くのだ。そういうことはあるが、センスがよくて、工学部で教えていた時に感じたようないらいらするようなことは少なそうである。


小川修三先生の最終講義

2006-04-13 18:43:20 | 物理学

小川先生の最終講義のテープから西谷さんが文に起こしたものを読んで、少しづつ読むことの出来る文章に直している。

トランスペアレンシーを使って話しているので、手で指し示して、ここではとか言っているところを少しでも文とか式とか図にしなければならない。

図はトラペンの図を取り込んでもらって使うことが出来ると思うが、式は補わなければならない。一人の人の一生の研究を数時間で話すということは至難の技だろうが、これが小川修三先生のような人の講義ということになるとやはり後世に残しておく意義があるだろうと思って作業をしている。

しかし、同じような仕事をしてきたわけではないので、理解が出来ないところもあるし、元のテープの聞き取れないところも残っている。でもできるだけ読むに値するようなものを仕上げたいと思っている。

(2013.6.13付記) ここで書いた活動は結局私は途中でやめてしまい、澤田、西谷、大貫の3氏による、講義録の再録が小川修三追悼文集に掲載された。私のこの講義録への寄与は小見出しを入れるというアイディアを出しただけであった。


湯川朝永生誕百年の展示

2006-04-12 14:54:48 | 科学・技術

元学習院大学の江沢先生のお勧めで松山でも標題の湯川朝永生誕百年の展示ができそうになってきた。

先日愛媛大学のIさんを尋ねてその開催の可能性を探ってもらったのだが、愛媛大学の小松学長がその計画を認可してくださったらしい。2週間といった短期間だが、松山でも展示が出来る可能性ができたのはうれしいことである。

これからの若い方々にこの展示を見て頂いて、学問への励みになってもらえればと考えている。