物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

Attendre et esp'erer

2013-02-28 13:13:43 | インポート

Attendre et esp'ererアッタンドル エ エスペレ (待て、そして希望せよ)

これは昨日のNHKの「100分で名著」の中の第4回目のデューマの「モンテクリスト伯」の最後の印象的な言葉だという。

待つだけではなく、その間に十分な準備をしながら待てという。これはゲストで来ていた作家の安部譲二さんの解釈である。若い時には勉強して教養をつけよ。その教養が花開くときがある。希望せよと。

今日が2月の最後の日だから、朝日新聞の天声人語の「今月の声から」に似てくるが、今朝新聞で見た印象的な言葉を挙げておこう。

「声」欄の編集長・松浦和夫さんは作家・森沢明夫さんの小説「あなたへ」で出会った言葉として

「他人と過去とは変えられないが、自分と未来は変えられる」

という言葉をときおり自分に言い聞かせていると書いている。

社説余滴で編集委員の潮智史(さとし)さんは「スポーツと相いれないもの」と題して次のように書いている。

海外から来た(スポーツの)指導者の多くが「日本人は指示されたことは忠実にこなすが、自分で判断できない」「ミスを恐れてチャレンジしない」と指摘すると。

また、サッカー2010年W杯でベスト16に入った当時の岡田武史監督が「education(教育)の語源はラテン語で引き出すという意味だという。私はずっと、指導とは空のコップの中に何かを入れるものだと思っていたけれど、違った。中にはいっていないと引き出せない。だから、選手に気づかせてやればいいんだと」(注)

これは何回か日本人の音楽演奏家が語っているのを聞いたことがあるのだが、音楽でピアノとかバイオリンを演奏者を目指して欧米に留学する若者が決まって先生から言われる言葉がある。

「あなたはこの演奏を通して、何を表現したいのですか」と。人に先生に言われたまま演奏するだけではダメだ。「自分の気持ち、感情、主張、個性を表現できるようになれ」。

(注) ドイツ語のErziehungは「引き出すこと」という意味である。ドイツ語だけのことかと思っていたが、これはラテン語の語源の忠実な翻訳だと知った。どうも教育といわれると岡田さんではないが、何もないところから作るような感じがしてしまうのは否定しがたい。

「外国語を知らない人は自国語も知らない」とゲーテが言ったというが、こういうこともあったかもしれない。


ジグソーパズル

2013-02-27 14:30:36 | 数学

四元数と空間回転のことを1年以上考えて調べてきた。

SO(3)表現とSU(2)表現との同等性をここ1週間ほど示そうとしてきたが、原理的な問題はないはずなのにどうも具体的にはうまく示せなかった。それが一昨日ほとんど示せそうになったが、まだいくつかのジグソーパズルのピースが欠けているような感じであった。

それが昨夜遅く計算が一致して、まるで最後に欠けていたジグソーパズルのピースがうまくはまった感じで終わった。

1週間以上にわたって計算をしていたのだが、どこかどう違うのか似たような式が得られるが、詳細に見ると違っている。これではだめだ。ということで試行錯誤を繰り返していた。

どうしてだかわからなかった。記号を変更する必要があることはわかっていたが、それをしたのにどうしてもあわない。そうこうするうちに、変換する前の記号の方は変更したが、変換した後の記号も変更する必要があることに気がついた。それで一歩前進した。

それで5/9くらいは上手くいったのだが、なお残りがうまくいかない。計算を何回か見直したのだが、どこが悪いのかわからなかった。それで昨日は仕事場ではもっぱら計算はせずにそれまでまとめた文と式のパソコンへの入力に費やした。

夕方、テニスがあるからと思って少し早目に帰宅したが、あいにく夕方から雨が降りだした。テニスコートに6時10分前に電話をかけるとコートの方も雨が降っていたが、誰かがコートにやって来るかもしれないと思って、雨の降る中を出掛けた。コートに着いたが、どうも誰もやって来そうにもない。しかたなく、コートの予約をキャンセルにして帰宅し、入浴した。

妻と二人でコタツに入ってテレビを見て、リフレッシュしたのちに夜遅く計算を再度やってみることにした。どうもおかしいと思っていたところが、実は勘違いでおかしくはないことがわかった。これは少し時間をおいたことで頭の先入観がリセットされたのであろう。

それで、計算して最後のチェックをしてみたら、どんぴしゃり一致していた。これに満足して就寝した。のどに小さな魚の骨が引っかかっているようで、この数日すっきりしなかったが、すっきりした。


イタリアという国

2013-02-27 13:14:46 | 国際・政治

イタリアの政治が流動的になってきたために世界の経済が雲行きがちょっと怪しくなってきた。

これは先日の選挙の結果として上院で過半数を占めた政党がなくなったために政権を担える政党が見当たらないということからくるらしい。

その影響はすぐに1ドル92円の値をつけていたのが、90円の円高に振れて、株式が下がった。もっとも円高がどのくらい悪いのかということは経済学者でもなかなか意見が同じというわけにはいかないらしい。

今日の朝日新聞で、一ツ橋大学大学院の教授のある先生のインタビューが出ていたが、アベノミックスに反対とは言わないものの、その効果は必ずしも賛成しかねるという風であった。

これは私の取り方であるから、インタビューされた人の本意ではないかもしれない。経済学は個々の政策には無力という感じがつきまとう。大きな流れとしてはいいけれども。そこが自然科学とは違うところだという。

決定論的な自然観というのは普通の人には当然なのだろうが、自然科学だって電子の振る舞いを古典力学的な意味で予測することはできない。これは量子力学をちょっと学んだ人ならだれでも知っている。

だが、それでも量子力学は有用である。そのことは疑いがない。そういうような状況がある。それと同じことが経済学にも言えるのだろうか。だが、個々の政治政策とか経済政策とかになるとこれはなかなか一意的に言えないということだろう。

新聞にイタリアの簡単な図が載っていたのをつくづく見たら、この国が長靴の形をしていると言われる所以が分かったように気がした。工業圏として知られている、ミラノとかトリノを中心とした北イタリアと農業を中心とした南イタリアとに分かれている。

一般にやはり南イタリアは貧しくて、北イタリアは富んでいる。前首相のベルルスコーニの支持地帯はミラノを中心にした地方と南イタリアらしいが、それ以外の北イタリアは中道左派の支持地方らしい。

ナポリはローマよりも南だということを今回この地図を見て認識した。

それにしても安定化へと向かっていた世界経済が一挙にまた流動化するだろうか。


中年の失業

2013-02-26 12:50:54 | 社会・経済

お隣のご子息が中年になって病気になり、勤めていた会社を辞め、その後臨時的な職には就いてきたが、その後も定職がなく、とうとう住んでいた家の家賃の払いもままならぬとかで、何十年ぶりに同居をするという話を聞いた。

これは他人事ではない。いつ私の子どもたちもそういう運命に見舞われるかもしれない。病気になり、その療養をした後で、また仕事に復帰しようとしたときに勤め先を見つけることがとても難しくなっているからである。

半導体のことを職にしていた人たちが半導体製品の売れ行きが悪くなったとかで、解雇されたり、自発退職を求められたりする。そのときに、自分は半導体の専門家だといっても、もうどこでも雇ってくれないかもしれない。

知り合いに早期退職をして一時無職だったが、そのうちに次の職を見つけてまた働いている人がいる。この人は半導体の専門家ではなかったが。

この人はテニスで知り合った知人だが、彼の子どもがまだ小さいので、定年退職のころにはまだ子どもは大学生だから、60歳を過ぎても働かなければならないと今年もそういうことを年賀状に書いていた。

妻が言うには、日本国内で仕事がなければ中国でも東南アジアでもどこにでも仕事先を見つけるたくましさが必要なのではないかという。それには外国語の中でも世界共通語である、英語が少しでもできることが必要なのではないかと。

技術関係の人は英語がはじめ、たどたどしくても実際に具体的なものがあり、場面があるので、なんとかクリアできるものだと言われている。要は飛び込む勇気があるかどうかの差かもしれない。

その例とは言えないが、姪の夫は技術関係の職だが、会社から派遣されて中国の深圳で今働いている。

派遣は2年間という約束だが、姪の長男がお父さんに一人ついて行って、インターナショナルスクールに通っている。2年で帰って来ると高校を終了しないので、もう1期中国にいたほうがいいのではないかとは私の意見である。さてどうするだろうか。


せっかく入力したのに

2013-02-25 12:51:41 | 本と雑誌

いま、長文のブログを書いて保存しようとしたら、エラーが出てせっかく書いたブログはどこかに消えてしまった。

これは本を読む速さを話題にしたブログであったが、同じ文章を入れることなどできない相談だ。

ドイツ人のR氏が知人のS氏の学位論文の草稿の英文を1日に30~40ページ読むということであるが、私は8~10ページくらいしか読めないということを書いていたのだ。

これの言い訳は私の対象とする文書は理系の数学とか物理の文書だということである。少なくとも大学に勤めていたころに翌日の講義の準備のために一晩で読めるページ数は8~10ページだったという経験がある。

もちろん、文系の書ならもっと早くて一晩で100ページだって読むこともできるであろう。

もっともR氏が読んでいたのは情報工学を専攻した方の学位論文の草稿であり、式の部分は飛ばして読むということであろうが、それでも一晩で30~40ページの速さは結構読書力があると思われる。

私などでは一晩で15ページも英語を読めば、もうアウトであろう。


「わが書物愛的伝記」を読む

2013-02-23 13:44:10 | 本と雑誌

ドイツ語のクラスでいつもご一緒の I 医師から一昨日「わが書物愛的伝記」(広瀬書院)という本をお借りして読んだ。

木曜日の夜に借りて帰って、その夜から金曜日の午前1時半ごろまでかかって読んだ。もっともこういう本はそのときに読んでしまわないと自分の賞味期限というか関心がなくなると全く読まないものである。

それだから、一気に読んだ。渡辺昇一さんは英語学・英文学者であるが、どうも右翼的な言説で有名であると思っていたので、そういう人の本は読みたくないと頭から思っていた。いわば、食わず嫌いである。

I 医師が私にこの本を貸してくれたのは、先日のドイツ語のクラスでお金があれば、私的な図書館をもちたいと長年の思いを口走ったことによる。I 医師は渡辺さんが同じようなことを本に書いているとすぐに教えてくれたのが、この本は本屋に行ってもすぐに手に入るようなものとは思われなかった。

ところが、木曜の夜に I 医師のお宅に伺う機会がたまたまあり、その本を貸してくださった。

読んで見ると、私などとは桁外れにスケールが大きい。渡辺さんは15万冊の蔵書をおもちだという。私などは数千冊であろう。

ドイツ語のクラスでは私の蔵書は2000 冊といったが、それよりは多いとしても3000冊は満たないであろうか。もっとも本の冊数を数えたことはないので、もっとあるかもしれないが。

それに若くして英語学者ながら、ドイツのミュンスター大学に留学して学位をとられたり、その後の活躍もすばらしい。

巻末に渡辺さんの出された本のリストがあるが、このリストが29ページにわたっている。対談とか座談とかもあるが、これだけの本を出版しながら、研究もしていたとするとなかなかできることではない。

理系の科学者として私の知っているのは地球物理学者の竹内 均さんくらいであろうか。文系と理系ということを抜きにしてもこんなことが一人の人にできるのか、疑問に思うくらいであるが、それをなした遂げたということはある意味で尊敬に値する。

そのためには大学の行政的なことには全く携わらず、政府や官庁の委員とかにもならなかったと書いてあるが、それぐらい努力をしなくてはこういったことはできまい。

彼の著書の書棚に収められた、写真が出ているが、書棚の一区切りに入っている冊数を13冊として、区切りが40区切りあるとすれば、約520冊の著書になる。amazingというべきであろう。

もちろん、本の中身の問題はあるが、それは問うまい。なんであってもこれだけの知的活動をするということはそれなりに敬意を払うべきだと考えている。


とりとめもなく

2013-02-22 10:42:15 | インポート

明日のサロン(雑談会)で話すために量の体系とか量の理論とか呼ばれているものを、遠山啓の「数学の学び方・教え方」(岩波新書、1972)を読み返してメモをつくろうとした。

ところがお話としては、この第1章 量はするすると読めていいのだが、どうもメモをつくってそれをもとに約1時間のレポートをしようとするとどうもこの本のままでは話ができそうにない。

というのは、この本は有名な本であるので、参加者の中にはこの書をすでに読んだ方もあるかもしれない。そう思うとどうもこの本の私なりの要約ではどうも不十分だと思われてきた。

それで銀林浩さんの本「量の世界」(むぎ書房)を取り出して読んで見たが、どうも私には難しすぎる。それで「わかる数学指導法事典」(明治図書)を読んでみたら、うまくまとめられていて、これが私には一番しっくりときた。

遠山さんとか銀林さんは量の体系とか理論の、いわゆる創始者である。だから、それなりにきちんとしているのだが、説明が詳しいせいか、どうもぴんとこないところがあった。

ところが、上の「わかる数学指導法事典」ではコンパクトに説明をするという要請のために要領よく説明がされており、これは理論とか概念の提唱者ではない方が、勉強をして書かれたのだと思うが、かえってよくわかった。

さらに、それを読んで量の体系について話しようとする、私などは2番煎じどころか3番煎じ、4番煎じであろう。

しかし、これからこの事典にしたがってつくったメモをもとにレジュメをつくるつもりである。

何をするのでもそうだが、やはり自分の内なる希望とか要求とかが出て来てしまう。それが量の理論の創始者の方々の書いたものを読んでは満たされなかった。

しかし、これは単に自分の未熟の言い訳にしかすぎないのであろう。

(注) 「もの」があってそれに対して「数」がある。「もの」から直接に「数」への抽象でいいではないかという議論があり、特に現代数学では「もの」と「数」との結びつきが大きくなっている。

その後、特に20世紀の後半には、現代数学は具体的なものとの結びつきを取り戻すという側面も出て来ている。いつまでも抽象化だけでは数学それ自身がやせ細って枯れ木のようになるからであろう。

それはさておき、量がないと数学の基本である、算数の教育では子どもの理解が難しいと考えて、その中間に量という概念を入れてやらなくてはというのが、量ということを考え出した理由だと思う(勝手なきめつけでごめんなさい)。

ところが「量をどう定義するのか」というところに私はひっかかってしまった。量とは、ものの属性とかものの側面を表すものという説明だが、それは数ではよくないのかという議論が出そうに思えた。

量という概念はどうしても必要と思えるが、いろいろな量としてすでに知った後なので、数だけで量はいらないという人が出てきたときに、その人を説得することは今の私には難しそうである。ということは量をよくわかっていないということかもしれない。

もう一つ、全く関係がないことであるが、「もの」と「数」との間の「量」は武谷三段階論でいう、実体に当るような気がしている。そして「もの」と「数」との間を実感を持てるようにつないだという感じがしている。

もっとも遠山や銀林が武谷三段階論から「量」を意識して強調したというつもりはまったくないが、結果的に量が数学の基本の認識の進化に役立っていると感じる。


量の理論

2013-02-21 13:50:10 | インポート

量の理論は無用というのかどうかは知らないが、そういうものを知らなくても十分これまでやって来られたという方がおられる。それを私は肯定をする。

だって、世の中の大部分の方はいわゆる数教協派ではない。それでももちろん、新しいことが発見されてきたことは私も認めている。だが、量の理論が無用という立場にはそれでも立っていない。

もっとも、それが有用であったのかはもう一つわからないところである。それに数教協に集う人は教育界でまだそれほど多いわけではない。

もちろん、少なくはないのであろうが、大勢を占めているとまでは言えない。だから、彼らの教えた人たちの中から優れた科学者や技術者が出てきているのかどうかはまだわからない。

どなたかそういう人が出て来て、回想を書いてくれることを期待している。

だが、数教協による先生たちから教えられた、小学生で算数が面白いと思ったものがでてきているのなら、成功であろう。もちろん、これはそれ以外の方々の成功を否定するものではないであろう。

教育については、その成否はなかなかわからない。100年のオーダーでみないといけない。なかなか成否などわかるものではないのだということを心しなければならない。もっともそれは「成否がわからなくてもいい」ということを意味をしていない。

量の理論は小学校から中学校のレベルでは有効であるが、それ以上ではいろいろ問題点がある。しかし、小学校のレベルで量の理論がいらないことを意味しない。

また、熱力学では外延量と内包量に当ると思われる、示量変数と示強変数という量の区別を学ぶ。その知識をもっと早く学んで悪いことはない。

(2024.6.6付記)
私など大学の物理学科の熱力学の講義で示量変数と示強変数という量の名を聞いたことがない気がする。

これは私がうかつ者なのか、それとも私に熱力学を教えてくださった先生がそういうことを教えてくれなかったのかはわからない。だが、熱力学の本をいくつか読んでいるうちにそういうことが書かれていることを知った。これはだいぶん後年になってのことであった。

Zuviの廃止

2013-02-20 11:37:35 | 国際・政治

最近、ドイツでZuviが廃止されたことを知った。

ZuviとはZuvildienstの略で兵役代替義務である。ドイツではWehrdienst(兵役義務)があったが、それを良心的に忌避する人にこのZuvildienstが課せられていた。

ところが、数年前にドイツでもこの徴兵制度がなくなった。それに伴い、このZuviもなくなったらしい。

何十年も昔のことだが、当時の若者に聞いた話では兵役義務で8か月かの期間Bundeswehrにつく。そのときに機関銃を抱えて、何キロも行軍させられて、これはとてもつらいのだということであった。

だから、兵役義務の拒否者が出るのはどうもしかたがない。そしてそういう人たちのためにZuviがあった。

病院とか、養護施設とか介護施設でやはり8~10ヶ月働くことが義務付けらていた。ところが兵役義務がなくなったので、このZuviもなくなった。

兵役義務のことをKriegsdienstというと覚えていた気もしたのだが、この語だと今でもドイツはどこかの国に戦争を仕掛けるように他国からは思われるかもしれない。それで、多分いまではWehrdienstというのだと思う。自分の国を守るのなら、他国の市民だって文句はないだろうから。

その点、安倍首相が自衛隊を軍隊と名前を変えたいと言っているのはおかしな話である。彼の言だと、他国民が自衛隊を軍隊と言っているからといって、それに合わせるために軍隊と名前を変えたいというのは他国民の神経を逆なでするようなものだろう。

なぜなら、自衛隊という名は少なくとも侵略のための戦争はしないという宣言だからである。ところが軍隊と名を変えるのなら、どこか他国に出かけて戦争をしてもいいという意思表明のように思われるからである。

そういう微妙なこともわからない人には外交などはわからないであろう。


佐藤久成さんの演奏

2013-02-19 11:30:29 | 音楽

先週の木曜日に市民コンサートがあったので、ドイツ語の教室を休んでコンサートに行った。佐藤久成(ひさや)さんは独特の演奏で体全体が楽器のようであり、今まで見たことのあるどのバイオリニストとも違っていた。また、弱い音の演奏もすばらしかった。

彼は東京芸術大学を卒業後、ヨーロッパに渡り、研鑽を積んできた方らしい。CDなど買うことをめったに勧めない妻がCDを買って来なさいと4000円をそっと渡してくれたので、休憩時間に買いに行った。

彼の演奏に感動した数名の方が来て、すでにCDを物色していた。私もそこに並べてあるCDをいくつか見た後で、みんなが買ったのと同じ小品集のCDを1枚買い求めた。

一昨日、仕事場でこのCDを聞こうとしたら、ラジカセのCDプレーヤーが動かない。仕方がないので、家にこのCDを持ち帰って聞いた。

もっとも、佐藤さんには悪いがあれほど彼の演奏に感銘を受けたのに、CDの演奏からはそれほど感銘を受けなかった。もっとも演奏が悪いというわけではない。美しい演奏であることは間違いがない。

ただ、生でコンサート会場で彼の演奏を見たり、聞いたりすると、それは、それは、鬼才と彼が言われる所以が分かる気がする。ということはやはりコンサート会場に足を運ぶということは必要なことであろう。

音楽音痴の私でも少し感じたところがあった。


隕石の落下被害

2013-02-18 13:13:30 | 物理学

1000人を超える人々がロシアで隕石の落下の衝撃波の被害で負傷されたという。これらの方々には言葉だけではあるが、お見舞いを申し上げたい。

新聞解説で音波よりもその音波をつくる源の方が速い現象として「衝撃波」が説明されていた。波面のところにとても大きな圧力がある波である。

このブログではすでに2007.8.23日付で「波源が波の進行速度よりも速い現象」として衝撃波とかチェレンコフ光のことを書いたが、あまり一般には注目を引かなかったが、こういう具体的な被害が起こるとインターネットでの検索にかかったりする。

津波なども一番の先頭の波面のところにとても大きな圧力がある。だから、津波もとても特異な現象である。これなどは衝撃波と先頭の波面で大きな圧力があるという点でとても似たようなところがある。

また、2008.6.27日付けで「湯川秀樹と隕石」という隕石の落ちてきたことを実際に観測した方がおられるという話を書いたが、こちらもどなたかの検索に掛かって読まれたことがわかった。

もっとも私のブログはマイナーなブログであるので、それらの検索は1人または2人の少数であり、別にアクセスが急に増えたなどということはまったくない。


西洋科学者ゆかりの地in Japan

2013-02-16 13:08:21 | 本と雑誌

西條敏美さんの「知っていますか? 西洋科学者ゆかりの地in Japan」という本を出版社から送って頂いた。

日本のいくつかの地で外国人科学者のゆかりの地があるというのは、普通には思いつかないアイディアであり、この書は西條さんの快心の書ではないだろうか。

その本格的な書評はいつかしたいと思うが、今回パスツールに関した話をしたい。パスツールは少年のときにさほど優秀と思われなかったそうだが、高等師範学校の出身というからいまから見れば、超エリートである。

日本で高等師範学校というと、東京高等師範学校とか広島高等師範学校を思いだして、その卒業生はエリートではあるが、超エリートの部類には入らないであろう(失礼、これらの学校の卒業生様)。

だが、フランスの高等師範学校はグランゼコールの一つであり、大学なんかよりも入るのが難しい学校であり、大学には高校(リセー)卒業後に受けるバカロレアに合格すれば、入試などないが、グランゼコールは特別の入試がある。

その入学成績の順位が気に入らないとかで、初めの年は入学をせず、次年度に再度入試を受けて4位だったので、納得して入学したというから、努力家である。1867年に、ソルボンヌ大学化学の教授となったとある。

パリのカルティエ・ラタンには確かにuniversit’e a la Sorbonneとファッサードに書かれた建物があり、フランスの事情に詳しい、詩人の西條八十氏などもソルボンヌ大学という語を使っているので、一般的な使い方かも知れない。

しかし、いまならパリ大学というべきではないのだろうか。鈴木信太郎監修の仏和辞典には1808年以来ソルボンヌとはパリ大学文学部と理学部だとある。

これなどはマリー・キュリーの卒業大学などもソルボンヌ大学といわれるが、これなどもuniversit’e a la Sorbonneの訳なのであろう。

もともとSorbonがパリに創設した神学大学をソルボンヌといったことから来ているらしい。

また、パスツールの像は東京大学の総合図書館にパスツールとユーゴーの像があり、その説明の中でDon de l'universit'e Paris,1933と書かれているとあった。

donという語を知らなかったので、donner(与える)と関係があるのだろうと見当をつけたが、仏和辞典を引いてみたら、贈物の意味だった。これはもちろん普通の日常生活で使う、プレゼントの意味で使う、cadeauとはちょっと重みが違う。

今朝、朝食の時にパスツーライズとは固有名詞が普通の動詞になった例だねといったら、妻が知らなかったので書くが、pasteurizeは英語の辞書によれば、「低温殺菌する、~にパスツール予防接種をする」こととある。名詞では低温殺菌法のことをpasteurizationという。


初版は貴重?

2013-02-15 13:09:49 | 本と雑誌

もう何年も前のことだが、物理学者の渡辺慧さんの岩波新書「生命と自由」を古本で神田の古書店で購入したことがあった。

そのときに岩波新書であるのに結構値段が高かったのを覚えている。出版されたときに購入しておけばよかったのだが、それをついつい延ばしているうちに「生命と自由」は書店には在庫がなくなった。そのころ、ようやく私は渡辺慧さんの著書を集めようとしたのであった。

そのときに、古書店店主が当店で集めている岩波新書はすべて初版だから高いのだと胸を張って言われたので、はじめてそういうものだと知った。

理系の書などは再版などしているうちに、明らかな誤植などが訂正されて少なくなるので、私の思うところでは初版などあまり貴重だとは思うことはない。

そういうことをある会合で言ったところ、文学の初版本などは高価な値がつくのだそうである。例として挙げるのが適切かどうかは知らないが、夏目漱石の「吾輩は猫である」などの小説の初版などがあれば、高価な値がつくのであろう。

朝永振一郎さんの「量子力学I」、「量子力学II」(みすず書房)は名著だが、それでもかなりのミスプリントがあり、特に「I」の初版を読むときにそれらのミスプリントを直しながら、読んだものである。

そのうちに第2版が出てミスプリント(ノート1冊分のミスプリントがあったと第2版の序文にある)は大分減ったが、それでもまた新しいミスプリントが出ていたりした。これもその後版を重ねているので、ミスプリントは減っているであろう。

「II」の方は「I」ほどは広範には読まなかったが、それでも部分的な拾い読みをしている。こちらもそのうちに第2版が出た。

いや、ひとのことをあげつらうのはこれくらいにして、自分の書の反省もしなくてはならない。「数学散歩」(国土社)を出したときに本を贈ったある偉い先生からミスプリントが少ないようだとお褒め(?)の言葉をその直後に頂いたが、どうしてどうしてミスプリントが多くあった。

それもどうしてこんなミスプリントが起こったかというようなものも多かった。それらは新しい「物理数学散歩」(国土社)として抜粋版を出版するときに、直したつもりではあったが、すぐに数ヶ所のミスプリントがあるのに気がついた。

きちんと読む人にはこれらのミスプリントは明らかなので、致命的だとは思わないが、自分の校正の粗雑が恥ずかしい。


パワーポイントも必要だ

2013-02-14 16:46:36 | デジタル・インターネット

2005年にパソコンを購入した時には、エクセルももちろんパワーポイントも標準装備でマイクロソフトオフィスの中には入っていなかったが、今年買ったパソコンの中にはこれらが標準装備されている。

8年の年月の中で当然とされることがそれだけ広がってきたということであろう。当然といえば、当然だが、世の中の進歩とはそういうものであろう。

昔、技術者をしている義弟がワードの使い方を学んでその当時は一太郎が全盛時代であったと思うが、なんでもアメリカが全力を出してくるとなかなかつらいねと言っていたことがある。

私なども一太郎の愛好者であったが、いまではlatexとワードで間に合っている。latexは数式を入力したい者にとって必須のアイテムになっているだろう。

図の入力がlatexの難点だという話は聞いたし、それには違いないが、それでもlatexに代わるものが今後出てくるのかどうか。

latexははじめ使い方に慣れるのが難しいとは言われたし、まことにそうではあったが、いまではlatexが使えないと手足がもがれたような感じである。

いまはまだ前のパソコンが動いているので、なんとかlatexを使えているが、それでもインターネットとそちらはつながっていないので、pdfにして送ることができない。


1%と2%との違い

2013-02-14 11:00:09 | 社会・経済

「1%と2%との違い」という表題だけでこれはいわゆるアベノミックス、すなわちインフレターゲットの話だと気がつくようなら、あなたはかなりな政策通というか、経済通であろう。

子どもが久しぶりに年末から年明けに帰郷をしたときに、このインフラターゲットの経済政策について議論をした。

そのときに子どもから1%のインフレターゲットでは量的に十分でないのだと聞かされたが、その理由は十分には聞かなかった。その理由を先日の池上彰さんのニュースの解説のテレビ番組で知った。

その池上さんの説明によれば、日本銀行は確かに1%のインフレターゲット政策を何年か続けてきた。だから、私などはアベノミックスをあまり肯定的にとれなかったのだが、池上さんによれば1%だと日銀がいつ緊縮財政に戻るのかと市場は疑心暗鬼になって、投資とかが企業のローンとかが進まないのだという。

それを2%にインフレターゲットの目標をあげておくと、1%の物価高になってもまだ金融緩和はまだ続くと安心してお金を銀行から借りられるのだという。それでやっと子どもの主張に納得ができた。だが、そういう心理的な話もしてくれれば、納得ができたのにと感じている。

ただ、一つ心配は金利の安い円を借りて、財テクに走る、外国資本がでてきて悪影響を及ぼさないのかとか心配の種はないわけではない。

バブルとのころにはそういう風なことがあったとか聞いた気がする。この場合にはお金による株の売買だけで、いわゆる製品の生産とかによらない、財テクである。

実際にそういう風にしても株の売買だけで、お金が儲かるなら、現在の資本家はそういうことをする。そうなるとこれはなんのための景気回復なのかと疑問視されてもしかたがない。

日本の社会ではもちろん生産はしっかりしており、いわゆる紙幣だけの経済にはならない。これが子どもの主張である。それについてはある程度安心してうなずけるけれども、一方で上に述べた紙の上だけの経済の活況がまったくないとまでは言えない。そこをコントロールすることができるのだろうか。