した。これは数日前から準備していたのだが、昨日はじめて編集した部分をすでに著者点検にまわした。そして、その予稿を共同編集者の N 氏のところへコピーを持って行った。
3月10日発行を予定している。そのつぎの8巻2号もそろそろ準備をするつもりである。だが、8巻2号はまだ原稿が足りない。30頁前後にならないと発行できない。
私もなにか書くつもりだが、N さんも何か書いてくれるという。けっこうなことである。ただ原稿がちょっと遅くなるのが気になるところである。慌てて書くしかない。
した。これは数日前から準備していたのだが、昨日はじめて編集した部分をすでに著者点検にまわした。そして、その予稿を共同編集者の N 氏のところへコピーを持って行った。
3月10日発行を予定している。そのつぎの8巻2号もそろそろ準備をするつもりである。だが、8巻2号はまだ原稿が足りない。30頁前後にならないと発行できない。
私もなにか書くつもりだが、N さんも何か書いてくれるという。けっこうなことである。ただ原稿がちょっと遅くなるのが気になるところである。慌てて書くしかない。
というタイトルで金曜の夜に日本テレビでドラマがあった。これはたまたま新聞と雑誌「数学セミナー」で知っていたので、妻と見た。
数学者岡潔とその妻みちさんとをめぐるドラマである。このドラマのせいか、私の以前に書いた「波動幾何学と岡潔」というブログもまた検索がされていた。
そのためかどうかはわからないが、普通は日曜の検索が150くらいに減少するはずが、200を超えていた。日本テレビのドラマのおかげでもあろうか。
「数学セミナー」3月号にはこのドラマに協力した数学者の高瀬正仁さんの寄稿の記事もあった。先日もこの高瀬さんのことを少しブログで触れた。高瀬さんによれば、なかなかこのドラマをつくった人たちは本格的で岡さんの本とかをたくさん集めて来て、ドラマの中ではあるにしても出て来る数式は本物のものとしたいという高い志をもっていたという。
このドラマでは数学の論文をあまり発表しないので、木下教授からあまり評価されなかったように描かれてあったのだが、広島文理科大学に勤務していた時代にも論文を発表しているし、その評価が定まらなかったのかどうか。本当のところはどうなんだろうか。
戦後、フランスの数学者アンリ・カルタン(数学者エリー・カルタンの息子)が多変数関数論の論文を評価してようやく岡の評価が定まったというふうにドラマではなっていた。実際にはどうなんだろうか。
生涯に11篇の論文しか書かなかったが、これらがどれも優れた論文であったと言われている。多変数関数論の未解決の3つの難問題をすべて一人で解いたというきわめつきの天才である。彼の数学は全身全霊を傾けてされたので、ときには精神異常を来たすほどであったらしい。それほど全身全霊を傾けむけられる人はやはり少ないのではあるまいか。
岡潔は天才だといわれる由縁である。
(注)いまでは岡潔の詳細な伝記が高瀬正仁さんによって5冊が書かれている。手ごろで入手しやすいのは岩波新書の『岡潔ー数学の詩人』であろう。
が今日ある。1年に10回か11回する会合だから、もう9年以上続けている会合である。なにか毎月テーマを決めてレポーターが話をしてそれから雑談へと移っていく。
世話人は私と N さんだが、N さんは病気をしたりして、もっぱら世話人の仕事は私にかかってきている。N さんは自分が世話人の役目ができなくなると思って他の人を世話人に何度か推薦したけれどもどうもそれらの人は定着をしなくて、結局のところ私が世話人を務めてきた。
私も他のメンバーも結構健康なので、まだまだ続く会合であろう。議論をするのが好きというか、もともと N さんが勉強家だから、こういう形式をとって会合することになった。それでときどき話題提供者を探すのに苦労したりする。
それでもなんとか今まで続けて来られたのは妻の尽力が大きい。彼女はなにせ顔が広くていろいろな人を知っている。それでレポーターを頼んでくれたりする。
左足の小指がしもやけになった。それで歩くときに足が痛い。
ここ数年しもやけになったことがなかったので、久しぶりである。子どもときには戦後のときで日本全体が貧しく、かつ暖房などははなかったので、しもやけなどなるのが当然であったが、ここ数年はしもやけとは縁がなかった。
左足の小指であるので、妻はそこがあまり暖房の熱が行かないところだと勝手に決め込んでいる。そうなのかどうかは私にはわからない。いずれにしても風呂に入ったときなどマッサージをしているが、どうもよくなる気配はない。
いまは歩くときに痛いくらいだが、温かくなってくるとしもやけが治りはじめてかゆくなってくるであろう。その時が一番厄介かもしれない。
は私が E 大学に勤めていたころほとんど毎年教えていたが、私の勤めていたのが工学部であったので、物性と関係がつくような形で教えていた。それで本当はもっと広く関心をもった方がいいのだが、関心の範囲が狭くなっていた。
それを広げる必要もあまり感じなかったが、一人ド・ブロイという学者にはなんだか心惹かれるものを感じていた。だから、いつかド・ブロイの論文を詳しく読んで彼の発想を調べてみたいという気はいまでもある。そのために彼の初期の論文を全部ではないが、コピーをしたことがある。
しかし、すでに大学を退職してからででもすでに10年以上を過ぎた。だが、いま O さんの量子力学の講義録の編集でこれについてすこし関心が起きてきた。およそ、なかなか講義ノート編集するのは手間がかかる。そして私は自分がわからないことを編集するのは嫌な方である。それでも入力すべきことがたくさんあるので、バカのようにあまり考えずにまずは入力を優先すべきかと感じている。
それやこれやで、ヒッポファミリクラブの『量子力学の冒険』の一つの話を読んだりした。そうするとその話は読み終わったのだが、あまりよくはわからないことに気がついた。そういうことで話が発散していきそうである。どこかで収束をしないといけないのだが、ちょっとどうしていいいかわからない。
昨日、県立図書館に本の期間更新と別の本を借りるために行った。その前に『百万人の数学』新版(日本評論社)を借りようかなと思ったので、調べてみたら、すでに貸し出し中であった。
世の中は広いので、私が借りようとした本を借りて読んでいる人がいる。もっともこの本の前の翻訳で筑摩書房から出版された版はもっている。もっとも新訳を読みたいと思ったので探したのだが。
いつだったかもドイツ語文法の新しいテクストを借りようと思ったら、誰かにすでに借りられていた。それでその本を借りることは沙汰やみになった。
これがたとえば、昨年末にノーベル賞をもらった、カズオ・イシグロの小説を読みたいと思ったらそれを誰かがすでに借りているというのは十分に予想ができることである。その場合には借りて読むのを少し待たねばならない。ところがところがである。数学の本とかを借りようと思ったら、それをすでに借りている人がいるなどということは驚きである。
世の中は広く、いろいろの関心をもつ人がいるものだと、いまさらながら、驚かされる。というようなことを以前にもこのブログに書いたことがある。しかし、こういうことが起こると、いまさらながら世界は広く、関心をもつ範囲も広いのだと感じた昨日であった。
『百万人の数学』(日本評論社)(旧版)に関して言えば、病気療養中の物理学者の父親をもった、高校のクラスメート N 君はこの本を読んでは高校の数学の先生に放課後に質問に行く姿を見たことがあった。その友人も以前に亡くなってしまって、久しい。
それでしかたなく、『数は科学の言葉』(日経新聞社)という本を借りてきた。この本は私の年頃の人なら、その本を読んだことがあるかどうかはともかくとして岩波書店から訳本が出ていたことを覚えているだろう。もっとも私はこの本を1度も読んだことがなかった。
には驚いた。オランダとの決勝だったのだが、そのオランダチームに個人の力は劣るのに、チームのメンバーの間隔を最適に取るなどして、個人的な走力ではまさるオランダのチームを破って優勝した。これは前日のノルディックの渡部暁斗がジャンプで1位となりながら、ランで結局5位に終わったのと対照的であった。
渡部暁斗は彼を助けてくれる他の日本人のプレーヤーをもたなかったために破れたのだと思われる。それくらいスケートやスキーのランで空気抵抗を受けて体力を消耗するということが如実に示された。
今日も、新聞には3人のスケーターに65cmの間隔をとれば、2人目と3人目のスケーターは先頭のプレーヤーと比べれば、空気抵抗が50%となるという。これが実に役立ったのはスポーツ科学と技術の勝利でもあった。
もちろん、高木美穂が銀メダルしかとれていなかったことが今回の金メダルにつながったという見方もある。それは一つの真実ではあろうが、個人的な力が劣っていても、それをカバーするスポーツ科学と技術とが役立ったいい例であろう。
あらためて、日本チームのパーシュート・チームの金メダルおめでとう。いずれにしても5人のチームのスケーターがいなければ金メダルはそもそもなかっただろうから。
を発行するなど読者のことを考えたらできないものだが、言論弾圧に対抗してわざと白紙の新聞を発行した例が外国にあるとか聞いたことがある。だが、日本ではそんなことができる訳がない。しかし、宮武外骨という人はユーモアあふれた政治批判を書いた新聞を出したという。それでときどき官憲に捕まって刑務所に入れられた。だが、そこから出て来たら性懲りもなくユーモアあふれる時の政府の批判を繰り広げたとか。
たぶん、この宮武外骨は香川県の出身だったと思う。私のゼミに来た学生に宮武外骨と同姓の M 君という学生がいた。その学生は音楽が趣味であり、E 大学の交響楽団に属していたが、3年生のころはいつもニコニコとしてはいるが、感じがもう一つよくないなと思っていたが、ゼミに来たころにはしっかりした感じとなっていた。
そして、そのころ学科主任で忙しくてあまり4年生のゼミの学生の指導ができなかったのに、私が少し時間がありそうだと見たら、自分がそのときまで勉強したことを報告に来て、つぎの学習へのステップとするというなかなか自発的な学生だった。彼は音楽をしたために1年進学が遅れていたのだが、それは彼ができが悪いためではなかった。それは学科の中で一番厳しい見方をする先生からもきちんと評価を得ていた。
この M 君も宮武外骨とおなじ香川県の出身であった。彼は趣味の音楽をしたいために、会社よりも工業高校の教員になることを希望していたが、あるとき親戚の人の勧めである会社の面接に行ったら、その面接の人たちにとても気に入られてその会社に入った。そしてやはり音楽を趣味とする人と結婚して、いまでは日本初のベートベンの第九交響楽を演奏されたと言われる N 市に住んでいる。
彼は私のところに来た学生で一番優秀な学生であった。
などという言葉はどの独和辞典を引いても出てこない。だが、es reineltという表現が私のまわりの人たちの間でもう何十年か前によく使われた。
非人称表現という表現がドイツ語にある。こういう表現はフランス語にもあるが、「雨が降る」だとか「雪が降る」とか天候をいうときに使うのが普通である。
たとえば、Es regnet (雨が降る)とか es schneit (雪が降る)とかである。フランス語なら、Il pleut(雨が降る)とか Il neige(雪が降る)とかにあたる(注)。こういう表現は天候をいうときに多いが、それだけではなく、時刻をいうときにもつかう。
Es ist 9.15 Uhr(これは読むときはエス イスト ノイン ウーア フンフチェン)だとかである。もっとカジュアルにはEs ist Viertel nach 9だとかいう。これだと9時15分となる。
ドイツ語でちょっと私が馴染みにくいのが、たとえば、Es ist halb 10(エス イスト ハルプ ツェーン)でeある。これは「10時に向かってあと30分」というので結局は9時半なのだが、10 (zehn)が出ているので、どうも10時半かと間違えてしまう。Es ist Viertel vor 10だとこれは10時10分前である。この場合にはvorと前置詞が入るのでまだいいが、 Es ist halb 10はvorだとかnchだとかという前置詞が入っていない。
こういう表現はもちろんドイツ語を母語とする人たちには絶対誤解を招かないから、これは私に特有の難点なのであろう。
ところで、冒頭のEs reineltとはどういう意味なのであろうか、たぶん推測だが、Reineltという人がいつも楽しげでまわりに陽気な雰囲気を与えていることを表現するために、ユーモアをこめて作った和製の非人称表現なのであろう。これをつくった人が誰かは確かめてはいないが、いま金沢大学のドイツ語・ドイツ文学の教授をしている N さんか、高知大学の名誉教授の M さんあたりであろう。
(注)「雪が降る」という歌詞が繰り返されるアダモのシャンソンがあるが、このときの「雪が降る」はIl neige(イル ネージュ)とは歌われず、Tombe la neige(トンブ ラ ネージュ)である。
「過去と他人は変えられないが、自分と未来は変えられる」とよく言われる。実際には基本的には変更可能なはずの、未来を変えることも自分を変えることもなかなか難しい。だが、それでも他人を変えることとくらべれれば、まだ可能性がある。
もちろん、過去は変えられないけれども。もっとも時の政府・政権のように勝手に歴史的事実をなかったことにしたり、その意味するところを変えようとしたり動きもないわけではない。だが、基本的に過去は変えられない。
そういうふうにみてみると、なかなかこの冒頭の「過去と他人は変えられないが、自分と未来は変えられる」もその実現はそう簡単ではないことがわかる。
それでもともかく、世界の片隅に行って世界を助ける行為を行っている人のはすばらしい。例えばだが、愛媛県にもカンボディアに出かけてそこに何十年も前に敷設された地雷を除去して、住民が安心して住めるように努力している人がいる。高山さんという元自衛官の人である。
それだけではなく、カンボディアの人が自分たちで地雷の除去をできるように技術を教えていたり、カンボディア人の若者に奨学金を出して、日本の大学とかへの留学を進めたりしている。
現実の世界のなかには私たちが、なかなか真似のできない人がいるものである。
『量子力学の冒険』(ヒッポファミリクラブ)をはじめて読んでいます。全体ではなくて、「マトリックス力学」についての第3話を読んでいるのですが、まだもう一つわからない気がしています。この第3話は108頁にわたって書いてあります。
計算はあまり難しくはないし、丁寧だからそこは問題ではありません。何がわからないのだろうと思われるところなんですが、昨日から読み始めて90ページほど読みました。今日中には読み終えると思いますが、数回読み返さないとわからないだろうと思います。
わかったら、ヒッポファミリクラブの書いた、この第3話よりも簡単なレジュメをつくっておきたいと考えています。他のところもおもしろそうだけれどいまはあまり食指が動かない感じです。
かなり以前にこの本を買っていたのですが、あまりに初等的なことをグダグダ書いていて、面倒くさい感じがして読んだことがなかったです。なにに関してだったか忘れましたが、私が量子力学で疑問に思っているところをどう書いてあるかと思って読んでみたら、やはり疑問のところはさらっと流して書いてあって、疑問は解決しなかったのでこの本でも駄目かと思って放ってありました。
しかし、「マトリックス力学」のところは読んだことがなかった。ここはけっこう力作です。
(2018.2.21付記)
第3話は読み終わりました。もっとも何回か読みなおさないとよくわからない感じです。はじめのところがやはり難しい。そこがわかれば後の方はなんてことがないのかもしれません。
(2019.2.9付記)
ほぼ1年を経過してまた第3話「W. Heisenberg」のところを読み返した。今回は第2話「N. Bohr」のところから読み返した。それで行列力学以前のフ―リエ級数のところの解読があまりつっかえなかった。これは私の理解が進んだのか、どうかはわからない。2019.2.9のブログも参照せよ。
『量子力学の冒険』は式の計算はもうすこし共通因数をくくりだすなど、かっこをうまくつかって簡潔に表現したほうがよいと感じた。式が面倒な感じを与えるから。
(2019.4.18付記)
一昨日、3度目の「マトリックス力学」を読んだことになる。まだよくわからない。これは数式のことではない。まだ何回か読む必要があるのだろう。それと朝永の『量子力学』I (みすず書房)を読み返す必要がありそうだ。もっとも、これもマトリックス力学の章を中心にしてである。
広島県竹原市であった2回目のパグウッシュ京都会議の後で、当時の物理学会のスターであった、湯川、朝永、坂田の3人の先生に加えて末川博・立命館大学学長等が広島市の公会堂でパグウッシュ京都会議の報告を兼ねた、講演会を開いたことがあった。
そのときに。3番目か4番目くらいに演壇に立った朝永振一郎さん、講演の終りをちょっとしたユーモアで締めくくった。それはpugwashという語は「最近平和にために努力する」という意味の動詞になっており、pugwash, pugwashed, pugwashedと規則変化します。みんなでpugwashしましょうと。これは朝永さんがつくったユーモアなのかもっと普遍的であったのかはわからない。多分、朝永さんのユーモアであったのであろう。
それから数年して、今度は半年間ほど基礎物理学研究所の非常勤研究員になっていたとき、これは湯川先生から聞いた言葉である。これはいつも研究所の所員の方々がいつも昼食に集まる小さな会議室での話であったが、いつかその当時京都大学理学部の原子核の助教授であった丸森さんのことが話に出たことがあった。そのときに「学生たちはmarumorizeされたのかね」とかなんとかいう発言を笑いながらされたことがあった。
私自身はそのとき丸森さん本人を知らず、その意味するところがわからなかった。いまでもわからないが、普通の動詞として使われるくらい物理学会で有名な人だと知った。
その後、数年してだったか茨城大学であった、あるセミナーで丸森さんの講義を聴く機会があり、そのときにはじめて今では有名になっている、Higgs mechanismという概念を知った。その当時すでに丸森さんはもう京都大学にはおられず、すでに東京大学の原子核研究所の原子核の教授になっておられたと思う。
marumorizeなどという語はューモアのある方がつくられた語だと思うので、もちろん辞書を引いても出てこない。いまでもどういう意味に使われていたのかはわからない。その語の響きからその意味を密かに推測しているにすぎない。こういう語ができるくらい周囲に影響を与える人がいたことだけは確かだが。
毎日ブログに書くことなど凡人の私にはできることではない。それももう13年にもなるのだ。
ということであいも変わらずつまらないことしか書けない。とはいっても大体日常生活というのはそういうものだろう。
笑い話として「誰かがアインシュタインにアイディアを書き留めるノートをもっていないのを不思議がって聞いた」とかいうのがある。アインシュタインはそんなにアイディアが思ひ浮かばないから、ノートなど必要がないとの考えだったとか。
ところが質問者はこまごました単なる思いつきをノートに書き留めることを言っていたようである。そのような行き違いはこれは大科学者とわれわれ凡人との違いであろうか。
新聞でも朝日新聞の天声人語を書く記者はなかなか名文家でもあるだろうし、その人生経験の豊富で、発想も優れた人が起用される。いまの天声人語は二人の人が毎日交互に書いているとかいつぞやの新聞で見たが、それでも二人の人がちがった感じを与えないのはさすがである。まるでずっと一人の人が書いているかのごとくである。
朝日新聞の英字新聞にこの天声人語の英訳が出るとかとも聞いているが、あまりその英訳を読んだことがない。
をとることの難しさは私には想像もつかない。多分メダルを取ることを期待されながら、とれない人の方が多いのかもしれない。期待されながらなお、それでもメダルを取る人の精神的な強さとか、鍛錬のほどとかすべてはなかなか凡人の私などの想像をはるかに超えていてもそれは当然であろう。特に、金メダルをとるということはなかなかできることではあるまい。
フィギャースケートの羽生結弦さんとかスピードスケートの小平奈緒さんとかはその私が想像を絶するという感想をもつ二人である。この二人は日本で金メダルをとることを期待されており、それをその通りに金メダルを取るというのはすごいというしかない。二人にプレッシャーがなかったということはあるまい。
それに金メダルでもなくても銀メダルでも、はたまた銅メダルであってもいまの時代の世界第2位や第3位であるわけだから、すごいことであることには変わらない。
それにそもそもオリンピックに出場できるだけでもすごいことであろう。なかなか国の代表としてオリンピックに出場できることなど誰にでもできることではないのだから。オリンピックに出場できた人はその幸せをかみしめたことであろう。
「数学教室」という教育系の雑誌だが、先月は複素関数のことが書かれていて、複素関数に最近関心があるから、そのシリーズを関心をもって読んでいる。
ところで、今月はオイラーのツェータ関数のことが書かれている。\zeta (s)で s >1 ならば、問題がないが、s=1とか s<0 のときに使うと問題が出てくる。それはこれらの場合には\zeta (s)が発散して収束しないから、これらの場合には使えないはずだ。もっともオイラーはこの場合にも使ったという話が出てくる。
ひどい場合には s=-1 とか s=-2 とかの値を求めている。これはオイラーがした過ちであるが、それをそのまま書いている。もちろん、著者の N さんはそのことを先刻ご承知のはずである。だが、ちょっとだけ言い訳めいたことが書かれているが、それ以上には詳しくは触れていない。
これは連載物のページ数が限られているからしかたがないのかもしれない。だが、やはりちょっときちんとした注釈をつけておくべきだという気がする。これと同じような記事を雑誌「数学セミナー」でも見たような気がする。
雑誌「数学セミナー」は数学好きの人が読むのだからまあいいとして、「数学教室」なんて教育系の雑誌では書く内容によほど注意して書いてほしいというのは余計な注文だろうか。
次号にそのあたりの事情を書いてくださるのかどうか。
\zeta (-1)=1+2+3+・・・=-1/12 (正の数をたして行ったはずだのに和が負の数となっている)
\zeta (-3)=1+2^{3}+3^{3}+・・・=1/120 (1だけでも1/120を超えているのに和がそれよりも小さい)
だとかのオイラーの推論はおもしろいけれど、それがあまり数学のことを知らない人に本当に成り立つなどと誤解されたら困るのではなどと考えてしまった。
もっとも「夢を育てる遊び心の数学」というシリーズを読む人はかなり数学がわかる人しか読まないだろうから、ちょっとくらい、おかしな推論をしたとしても誰もそれをまともに信じたりはしないから、いいのだろうか。(どこが論理的にいけないのかというと、上の2つの例だと無限級数が和をもたない例だから、それを和をもつとするところがいけない。)
これらの推論をしたオイラーの議論では
1-x+x^{2}-x^{3}+・・・=1/(1-x) は |-x|<1 のときにのみ成り立つという前提だったのに、その条件がみたさないときに使っている。
もちろん |-x|<1 を超えた領域に 1-x+x^{2}-x^{3}+・・・ を 1/(1-x) として解析接続できるのであろうが、それはその解析接続された領域で 1-x+x^{2}-x^{3}+・・・ が和をもつことを意味するわけではない。
この記事の終りの方に\zeta 関数の積分表示が導出されていて、その積分表示ではs<0でも収束するのかなと思ってちょっと手を動かして見たが、その積分表示でも積分は発散するということがわかった。当然かもしれないけれど。
(2018.2.19 付記)雑誌「数学教室」の記事の批判めいたことを書いたが、昨日、庭にある書庫から岩波講座の「現代数学の基礎」の分冊である『数論1』をとりだしてきて、見るともなく見ていたら、\zetaという章があり、解析接続によるものであろうか、上で私が批判した点の結果が出ていたようである。今日その本を仕事場に持ってくるのを忘れたので、逐一調べることができないが、多分、解析接続で上の結果を正しく求めることができるのであろう。ただ。そういう正当化は後でされるとしても、オイラーの導出法は許されるものではないというのが私の現在の見解である。