物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

トランプ大統領のお騒がせ

2017-01-31 11:28:29 | 日記

アメリカ大統領になればなんでもできるわけではないけれども、それでもその権限は日本の首相とは比べものにならない。

それで思うのだが、こんな大統領をアメリカ国民は2期続けて選ぶのだろうか。本来普通に大統領となれるためには失言等をしてはならない。だのに失言というか問題発言ばかりである。だが1回大統領にえらばれることはあったかもしれないが、2期続けて大統領として務められるようにアメリカ国民は再度選ぶのだろうか。

まだ1期目が始まったばかりである。だから2期目のことを考えるのは気が早すぎるかもしれないが、やはり世界中を敵に回すような言動であるので、気になる。

それはやはりアメリカ国民の質の問題であろう。現実さえ無視するというか言いかえるというかするようなことは本来許されるはずがない。そして自分に都合が悪い現実を突きつけるマスコミはフエイクなマスコミだと決めつけていいはずがない。これは言語での発言や行動以前のような気がする。

言葉を発するときにはいつでも「二つの意味がある」とかいうことわざがあるそうである。どういう文脈で言われるのか説明を先日ドイツ語で聞いたのだが、十分にはわからなかった。

戦争しているときにはどこの国でも時の政権に都合のよい報道をするというのは常らしいが、そういう時期ではいまはもちろんない。だのに言葉は常に二つの意味を持つとは大変な時代になったものである。

 


ルベック積分の本の書評

2017-01-30 16:12:51 | 日記

をインターネットで読んだ。日本ではすでに「ルベック積分」の本とか関数解析の本とかは20冊を超えて発行されている。いつも言うようだが、これは日本の文化の特異性と高度さを誇っていいかもしれない。

もっとも私はルベック積分がどっちを向いていてもどうってことはないと考える不勉強、かつ不届き者である。数学好きの人から見たら、低級で度し難い嫌な奴である。

もっともそんな私でもルベック積分本を複数もっているけれども、あまり読みたいという食指が動いたことがない。

それでも日本にはたくさん特色のあるルベック積分についての書籍があることもわかったし、その理解が重要そうであることもある程度は想像できた。

大学の教養時代に1級上の学生たちがHalmosの”Measure Theory"という測度論の数学テキストをS先生にお願いして輪講しはじめるとか聞いた覚えがある。これは多分物理学科の学生ではなくて数学科の学生たちが主になって始めたのだと思う。

培風館の新数学シリーズに収められた吉田洋一さんの「ルベック積分」が最近になって筑摩書房の学芸文庫に入ったので、それをアマゾンが私にしきりに勧めるメールをよこすようになったというのが 今日ルベック積分の本のアマゾンでの書評をかなり時間をかけて読んだ理由である。もっとも肝心なことはわからなかったけれども。


今日はくもり

2017-01-29 11:56:42 | 日記

で冬らしい天候である。

心があまり晴れ晴れしない。気候とか天気は個人の気分をも支配する。うがった見方かも知れないが、それはあると思う。

もう亡くなったある日本人の化学者がドイツでは冬には天候が悪いので、ドイツ人の精神が、この冬の時期にはちょっとおかしくなっているように思われるという彼の観測と見解を述べてくれたことがあった。

冬のどんよりした天気が続くことへ精神的なのうっぷんが2月または3月のファスナハットFastnacht(カーニヴァル)でようやく晴れるのだというのが彼の主張であった。

冬の天候が厳しいのは日本でも日本海に面した地方ではそうであろうから、ドイツに限ったことではない。それで一度太平洋側の地方に住んでみるともう二度と日本海側の地方には住みなくないと思う人もいる。しかし、自分の思いとは異なり結局職を金沢に得ることになった、知人もいる。

彼の出身大学は金沢大学であったから、そういう意味ではなじみのあるところに職を得たのだが、かなり長い間太平洋側の日本の地方で職を得たいと努力をしていたとは彼が金沢に職を得た後になってある方から聞いた。なかなか人生はままならないものである。

もっとも金沢市太陽が丘とかいうところに住んでいるとかで、そこにはたまたま別の知人も住んでいる。そして二人とも犬を飼っていて、朝の犬の散歩のときに出会う犬友達でもあるとか。もっとも実際に犬友達なのは後に述べた知人の奥様が前の知人と犬友達であるらしい。不思議な縁もあるものである。

もっともこの二人の知人とも久しく会ってはいない。


今日は新年会

2017-01-28 11:29:30 | 日記

をする。昨年の12月に定例の懇親会(忘年会)ができなかったためである。だから、久しぶりの掃除をしなければならないのだが、ぐずぐずしてパソコンの前でこのブログを書いていたりする。

もっとも開始時刻は16時からであるが、14時には買い出しに出かけるので、それほど時間に余裕があるわけではない。その中には昼食の時間も含んでいるのだから。

それでも前のブログを読みなおしたりしたうえで今日のブログを書いているという訳である。今日は天気はよくて、朝は冷え込んだかもしれないが、いいお天気で気持ち良い。

寒い日が続くがそれでも風もなければ、けっこういい日である。開始時刻は16時で終わりは20時の予定である。メニューはおきまりの焼肉である。焼肉をするとその後に部屋が1週間くらい焼肉の匂いがこもってなかなか抜けないのだが、年に1回か2回なのでしかたがあるまい。

普段はここでは料理することはないので、嫌な匂いとかとは無縁なのだが。いまの予定では6人の参加者である。大体よく知った者同士なので遠慮がいらない。


岩波新書『現代数学対話』

2017-01-27 13:12:25 | 日記

がアンコール再版されたので、また購入して後ろから読み始めて大分前の章に帰って来ている。いま第2章を読んでいる途中だが、面白かったのは第4章「拡張への衝動」だったかのガンマ関数の定義域を広げていくという話であった。これは解析接続の話であろう。

これはここの部分だけ読んでこの本を読む価値があるなと気付いたきっかけとなった。この本が出たときにこれは遠山啓さんの著書なのですぐに購入したが、あまりやさしそうに思えなかったので積読になった。でも古びたのをとり出して一部だけだが、読んで見るとさすがに関心をそそられた。

だが、一般にあまり現代数学的なものには関心をもたないので、そのままになったと思う。 

最近、年末と年始に東京に行く機会があって、『不思議な数 e の物語』という本を手にする機会があった。例によって最終章ではないが終りに近い14章から読んで一つづ前の章に帰って行き、かなりの章を読んだ。もっともまだ全部の章を読み終わっているわけではない。

遠山啓さんの岩波新書『数学入門』下だったかに e のことについて書いてあったが、それを補足説明して e のことについて数学エッセイを書いたことがあるので、数 e について関心がある。

(2017.1.30 付記)  いくつかの箇所で理解を越えていたのだが、その個所を除いておおよそは『現代数学対話』を読み終えた。一挙に全部わからなくてもいいというスタンスである。それでもまがりなりにも全体を通読したということになる。読み方は終りの方の章から一つづつ前の章に帰っていくという方法である。

どうも自分の関心に合わせて読まないと初めから読んでいこうとするといつも挫折をする。それで拾い読みするような形でこの書も読んできた。


書くこと、読むこと

2017-01-27 12:58:10 | 日記

私は書くことも好きだが、読むことも結構好きである。それも自分の書いたことをもう一度読み返す機会はブログの検索で10位までの項目が出るので、以前のブログを読み返す。

そして小さな入力ミスや新しい知見があれば、付記としてつけ加えることもおおい。自分の書いたことだが、結構おもしろい。

入力ミスはこういう風にして一般の方が検索をしてくださるお蔭ですこしづつ少なくなっているであろう。何でも完璧ということはないので常に注意をしている。

我ながら、こんなことを考えていたのだなとか、ドイツ語の知識だとかフランス語の知識だとかで細かなことを思い出す機会になっていたりする。いわば、他人からもう一度自分自身を見直す機会を日々与えられている。

さすがに、日々いつでも新しい観点を一般の方に示すことができる訳ではないが、それでも自分自身がおもしろいと思ったことはいつかは書く機会があるであろう。

最近はTEDの話題はあまり書くことがなくなった。けっこう関心を呼ぶ話題もあるのだが、なかなか頭に残らないのである。昨夜もTEDの放送をEテレで見たのだけれども。


消せるボールペン

2017-01-26 12:28:24 | 日記

先日、赤のボールペンを買うためにスーパーへ行ったら、消せるボールペンを売っているのに気がついた。

もともと何かの賞品にそういうボールペンをもらったのだが、赤のボールペンはよく使うのですぐにインク切れで使えなくなった。それでそういうボールペンがあればいいのだが、と思っていた。それがスーパーでも売られる時代になっている。もっとも値段は300円代でそんなに安くはなかった。

それでもその便利さに助かっていたので躊躇なく購入した。Frixon Ballという商品名がついている。pilotの製品である。このような製品があることを知ったのはNHKの教育テレビかなにかで海外にボールペンを売りたいということでそういう付加価値のついたボールペンの販路拡大を図るという番組を見たことがあった。もっともNHKであるから、メーカー名はわからなかった。

もっともペンの頭についた消しゴムみたいなものでこすると書いた字が消えるのは確かだが、低温にするとその字が現れるとかいう。その実験はやったことがないが、そうなのであろう。

だが、便利なボールペンができたものである。英語ではボールペンはそのままでは通じずball-point-penとかいうとか。この英語は聞きかじりだが、ドイツ語のder Kugelschreiberとかder Kuliとかはよく耳に馴染んだ語である。ちなみにフランス語ではun styloでよかっただろうか。


ブラインドを

2017-01-26 12:12:33 | 日記

ドイツ語でなんというか。die Jalousie, (pl) -nという。カタカナで発音をまねておくとジャルジとでもなろうか。

ドイツ語とのもう何十年のつきあいだが、日本にいてそれもあまり普段はドイツ語との接触がない中ではなかなかJalousieとかJalousienとかにいう語に接することはあまりない。

ドイツ人教師の R 氏とのつきあいももう30年を越えたが、それでもこのJalousieという語を聞いたのはただの1回だけである。だからすぐにこの語を忘れる。ブラインドは普通の生活用語であるのだから、本当は覚えて使いこなさせなくてはいけない語であるのに。発音がまたわかり難い。複数はジャルジンとでもなるのであろうか。それともジャルジーンと後ろにアクセントが来るのが正しいのであろうか。

もっともこの語はフランス語から来た語らしい。辞書をみると J で始まるドイツ語はきわめて少ない。

(2017.2.1 付記) ジャルジーンという発音でいいらしい。NHKの「まいにちドイツ語」の放送で確認した。もっともジーンのところにアクセントがあるのかもしれないが、あまり強くは発音されない。


「ないもの(こと)」を示すには

2017-01-25 13:14:15 | 日記

二百四は24ではなく、204と書く。これは「位取り」を知っている私たちにはなんでもないことだが、位取りを学ぶ前の子どもには24と書くことが多いという。

二十四とどう違うかということである。すなわち、十の位のところに数字がないときに0を用いる。

これとは違うのだが、同じ思想で行われていると思えるものに、ドイツ語の不定冠詞の格変化では男性名詞につく不定冠詞では

ein( ) Junge, ein(es) Junges, ein(em) Junge, ein(en) Juge

女性名詞につく不定冠詞では

ein(e) Frau, ein(er) Frau, ein(er) Frau, ein(e) Frau

となる。また中性名詞では

ein( ) Kind, ein(es) Kindes, ein(em) Kind, ein( ) Kind

となる。 (  )は不定冠詞の変化語尾を明示するために入れた。もっとも3個所 (  )の中に何も入っていないところがあることに注意せよ。 

ドイツ語学者の中にはこのときに男性名詞の1格のときに格変化語尾がないことを強調するために

ein( ) Junge

と( )を入れて本来不定冠詞の格語尾が入るところに何も入らないことを強調して、学習の助けにしたりする。または( )のところに小さな正方形を入れたりする人もいる。同様に

中性名詞の1格のときに、ein( ) Kind, また4格のときにein( ) Kind

 と( )をいれてある。これらの3個所を除いてすべて格変化の語尾が(  )の中になにか入っている。

これは算数で2,1、0を学ぶときにお皿の上に団子を2個、1個,最後の0はお皿だけでその上には団子はないというふうに教えるとは数学教育協議会での 0 の教え方である。

0 はもっとも 3-3=0 みたいなものもあり、これは上に正方形が 3 つ並んだその下に、斜線をつけたやはり同じ大きさの正方形が上下に並べたりする。これは電荷がプラスとマイナスの両方があり、正負が打ち消しあって 0 になるようなイメージである。

ものがないことを表す 0 にもいろいろの考え方がある。

 

 

 

 

 

 

 


武谷三男の論文を一つ発見

2017-01-25 12:50:05 | 日記

した。これは今月の7,8,9日の武谷文書の整理に出てその後2日ほどMさんの事務所でその続きの作業をしたなかで別刷を見つけたのである。

私の編算した武谷の業績リストの最新の第4版には入っていなかったものである。1964年にイタリアであったか科学史か何かの会議で発表されたものである。

「ガリレオ ガリレイの力学における力と運動の関係」とかいうようなタイトルである。これは1946年に科学に発表した和文論文の一部をこの会議で話したものらしい。もっともすでに国内では知られた研究結果ではある。

武谷文書は16番と番号のついた箱を私が担当しているのだが、この箱はすべて見終わった。もっともエクセルにその文書のリストを入力しなければならないのだが、まったくその仕事は進んでいない。

業績リストへの追加は今後もグループの他の方が担当されている箱の中の文書の中からもまだ出てくる可能性がある。

これとは別に著作目録は第5版が最新であるが、これにも追加の必要が出ている。これは西谷さんがつくっている和文の論文リストの中に「近藤洋逸数学史著作集」の第2巻の付録に「近藤洋逸君の思い出」という寄稿があることを西谷さんが作成のリストから見つけた。こちらは現物は国会図書館でそれを先日一度読んだが、明倫館書店から古書で購入して今日の午前中に再読した。

本に掲載された文章はもうほとんど残っていないだろうと思っていたのだが、完全というのはなかなか難しいことがわかる。


ちょっとした疑問

2017-01-24 13:24:47 | 日記

先刻書いたブログの終りに『千の太陽よりも明るく』というロベルト・ユンクの本のタイトルをドイツ語で上げた。

Heller als tausend Sonnenとしたが、ひょっとしてtausende Sonnenではなかったかしらと思い出した。それで検索をして見たのだが、どうも原題をあげたサイトに行きつけなかった。それで翻訳本の表紙がアマゾンに出ていたので、それを拡大して見たら、tausend Sonnenでtausende Sonnenではなかった。

こういうときに複数の語尾をつけないものかどうかはわからないのだが、その英訳の題名が理解不能であった。これにはBrighter than a Thousend Suns: A Personal History of the Atomic Scientistsである。

ここでよくわからないのはaと不定冠詞を用いておきながら後ろはThousend Sunsと千の太陽と複数にしている。どういう感覚なんだろうとわからなくなってしまった。

だれか英語のよく分かる方教えてください。

アマゾンの書評では3つしか星がついてなくて、このノンフィクションが発表された1955年当時は特異なノンフィクションであったが、いまでは著者のユンク自身も見解を変えてしまったとか書いてあり、訳者と編集者の追補が大いに必要になっているとあった。そこら辺がもっと詳しく知りたいところでもある。

私が文芸春秋社の訳本を読んだのは1960年前後であり、1955年よりも後だが、それでもその衝撃は大きかった。だが、その有名な書も追補が必要な時代が来ているとは知らなかった。

ちなみに1913年生まれのユンクは1994年に亡くなっているという。

(2017.1.27付記) ドイツ人の R 氏に昨夜聞いたところではtausendとはひと塊であって、複数という意識があまりないらしい。それでtausend(e)と語尾eをつけないらしい。また英語のa Thousend Sunsの方はThousend Sunsが一塊であり、そういうモノがいくつかあるのでそれらのうちの一つという意味で不定であるので a がついているのだという。バイブルにもそういう例があるという。

しかし、ここにいま書いたことは付記は R 氏の話の私の理解であり、もし間違っていても R 氏に責任はないことをお断りをしておく。


Vedetteの性は?

2017-01-24 11:26:25 | 日記

先日、en vedetteというフランス語の熟語について書いた。そのとき辞書を引いたときにいつでも注意しなければならない性について気をつけていなかった。

いま、vedetteは女性名詞のようだが、はてさてどうだったかとLe Dicoを引いてみると案の定女性名詞であった。だから普通にはune vedetteと不定冠詞をつけて覚えた方がいいのだ。フランス語の名詞は女性名詞と男性名詞がある。

これは自然の性とは何の関係もない。もっともお母さんはune mereでもちろん自然の性にしたがっている。でもla tableとテーブルがなんで女性名詞なのかは合理的には説明できない。語尾が-eで終わる名詞は女性名詞が多いが、un livre本のように-eで終わっていても男性名詞もある。それでもそれはむしろ例外で-eで終わる名詞はフランス語では女性名詞が多い。

英語には性という考えがないので、外国語として英語しか知らない人には名詞に性があると聞くと変に思うかもしれないが、性のあるのがヨーロッパの言語では普通である。

それもドイツ語なら、男性名詞、女性名詞に加えて中性名詞まである。たとえば子どもはdas Kind(ダス キント)である。少女を意味するdas M”adchenも中性名詞である。自然の性としては少女は女性であるのだが、言葉としてはどうしたものか中性名詞である。

混乱を招くのはフランス語では太陽はle soleilと男性名詞であるのに対して、ドイツ語ではdie Sonneと女性名詞である。これに対し、月はla luneとフランス語では女性名詞なのに対し、ドイツ語ではder Mondと男性名詞なのである。月とか太陽とかは一つしかないのでun soleilとかとは普通の文脈では不定冠詞をつけては言わないで、定冠詞をつけていうのが普通である。

もっともロベルト・ユンクのノンフィクション「千の太陽よりも明るく」の原題はHeller als tausend Sonnenとなっていた。これなどは特別の使い方であろう。


2017-01-23 12:11:38 | 日記

夢を今朝方見た。

ドイツに留学しているころに受け入れをしてくれたMainz大学の物理の教授Kretschmer氏が夢に出て来た。内容はあまり判然としないが、どうもそういう夢だったらしい。

私をMainz大学に、受け入れてくれたころは、Kretschmer氏自身がアメリカに長い間おられて後に、ドイツへ帰って来られてすぐだったのかもしれない。私は中間子の多重発生かなにかについての、彼のレビュー論文があるのを知っていた。

もっとも彼に聞いたところでは、アメリカのその当時有名だった物理学者のChewが彼の生活資金が少し不足気味なのを心配してそのレビューを彼にやらせたというふうに言っていた。その真偽のほどは知らない。

たぶん、彼は渡米してすぐにはUC Berkleyにいたのだと思う。その後、フロリダ州立大学へ移っていた。娘さんがギムナジウムに入る年頃になったので、ドイツへ帰ったというふうに理解している。

Mainz大学でいちばん優れている物理学者といわれていた、Scheck氏も夢に出て来た。もう40年前の昔のことである。ちなみにScheck氏はスイス出身である。

何で今頃こんな夢を見るのだろうか。Herr ・・・(私のこと)もっとしっかりせよとでもいうことだろうか。


日曜日と土曜日の役割を交換

2017-01-22 15:01:28 | 日記

昨日はよく晴れた暖かい日であったので、土曜なら仕事場に来るのだが、それを止めて洗濯物を干したり、布団を日の光にあてる少ない機会だとおもったので、自宅で過ごした。

冬の日だからそれほど布団はほかほかにはならなかったが、それでも冷たかった布団が少しはふかふかしていた。

今日は雨が降り、風も強いから、急遽、土日の入れ替えをしたのはあたっていた。もっとも日曜日は新聞に書評が出ており、それを逐一読むことにしているので、仕事場に出てくるのは午後になってからであった。

松山にいなかった時に来ていた新聞を読むのがようやく終わりそうになった。一日に2,3日分くらいしか読めないので、なかなか10日ほど留守にするとそれを挽回するのがつらい。

AIについてたくさんのデータさえあれば、機械学習で解決法(深層学習deep learning)が得られるというが、人間がどうやってその解決方法が得られたのか理解することができないという。(朝日新聞Globe 2017.1.8付け)

私はそのような理解には武谷の三段階論の実体的段階の認識が役立つのではないかとこのブログですでに以前から指摘している。もちろん、これは物によるので、判で押したようにいつでもAIの手法の理解をできるとは言えないが、それにしても大いに三段階論の考えが手助けになるのではないかと考えている。

もっともコンピュータの中ではそのような段階を踏まないのでそこをどのように考えるのかという問題が新たに生じることになる。認識はコンピュータの中のAI認識では現象論から本質論へと直接行くみたいなことが起こるということになる。


En vedette

2017-01-22 14:38:28 | 日記

En vedetteというフランス語を最近知った。

vedetteというとスターという意味らしい。この語も知らなかったのだが、もっとen vedette(アン ヴュデット)はもっと知らない。比較的新しい辞書にはこのスターという意味がはじめに出てくるが、家にあった古い辞書にはスターという意味が最初には来ていなかった。「哨戒艇」というような意味が先に来ていた。

ところで、ビニールの袋に書かれた文字がen vedetteであった。「注目の的の(に)、主役の(に)、見出しの(に)」と仏和辞典にある。

ecrire en vedetteというのは「大文字で書く」という意味だとは鈴木氏の編纂になる古い仏和辞典(大修館)にあった。私が学生のころというのは1960年代のはじめだから、もう50年以上前の仏和辞典である。これが当時はいちばんいい仏和辞典だと私がフランス語の初歩を教わった長崎先生の言であったが、いまではもっといい辞書がある。Le Dicoという白水社の辞書を仕事場では使っている。