物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

初読後にメモをつくった

2024-08-31 15:49:12 | 物理学
Nさんの原稿『武谷三男の生涯』の初読後に彼に修正箇所等を知らせるためにメモをつくった。

昨夜からつくっていたのだが、さきほど出来上がってようやくブログを書いている。どうも胃腸を壊しそうである。ひどくなければいいのだが。

昨夜は12時過ぎに一度就寝しようとしたのだが、眠れず起き出してきて午前2時ごろようやく眠れた。最近の私には珍しいことである。

はじめちょっとNさんの原稿『武谷三男の生涯』に不満を感じたのだが、最後まで読むとNさんが現在できるすべてのことを行って本の原稿を書いたことがうかがえて評価の意見が私自身変わった。

もっともこういう本が出ても読んでくれる人は日本人でも本当に一握りなんだろうなと思うとさびしい思いがしないでもない。だからと言って本の価値がないというわけではないのだが。

Microsoft Edgeを使ってみる

2024-08-30 19:35:16 | 本と雑誌
いままでGoogle Chromeをもっぱら使ってきたが、Microsoft Edgeも使ってみることにした。

以前にはMicrosoft Edgeは使いにくかったのだが、最近使いよくなったらしいからである。使い方を50-50くらいにしたいと考えている。

完全に使いやすくなっているのかどうかはもっと使ってみないとわからない。いずれにしてもこういう競争があることはたぶんGoogle ChromeにとってだけでなくMicrosoft Edgeにとってもいいのではなかろうか。


『武谷三男の生涯』1

2024-08-30 13:37:56 | 物理学
先日からNさんの書いた『武谷三男の生涯』という伝記の原稿を読んでいるが、昨夜第一回の読みは終わった。

少なくとも2回は読んでおきたいと思っている。書かれた内容に不満な気持ちがあると昨日書いたが、どうしてどうしてよく書けているとの判断に変わった。

これは武谷三男みたいな人は現在まったくいないからであり、彼のことをできるだけ多くの人に知ってもらいたいという気持ちで一杯である。

そういう意味でとても余人をもっては代えがたい人であったと思う。

いくらかの学問上のミスはあったかもしれないが、大局的には大きな寄与をした方であり、こんな人はいまの日本にはまったくいないからである。

彼は若いときに湯川秀樹の中間子の理論の発展に協力した人としてしか記憶されていないかもしれないが、単なる物理学者の枠にははまらない。

彼はどこからも賞をもらわなかったが、そういうところが彼らしいかもしれない。日本だけでなく、世界の人々に大きな寄与をした人だと思う。

そのことをNさんの『武谷三男の生涯』は世間の人に改めて知らしめることになるのだろうか。武谷が亡くなってはや四半世紀が経つが、彼の生涯がNさんによって近いうちに世に出版物として示されることになるだろう。


台風の襲来

2024-08-30 13:18:51 | 本と雑誌
台風10号は九州に上陸する前は935ヘクトパスカルとかであったが、大分市にあったころには964ヘクトパスカルとかに気圧が上がっていた。

いまは山口にいるらしいが、もっと広島とか松山に近づいているのかもしれない。いずれにしても松山では今日の夕方とか今夜が一番ひどい風とか雨が降るのであろう。

なにせその速度が時速10キロとか自転車の速さである。雨とか風が長く続くであろう。50年ほど前にやはり松山を台風の目が通過するという経験を持ったことがあった。

昨日だったか妻が長男が生まれてまだ9か月だったとか言っていた。二男もまだ生まれていないころである。

あのときは高知の方から台風が四国山脈を越えてやってきたのであった。今度は海の方から来るのか、すなわち、松山だと西の方から風が吹くのかどうか。

台風の眼が通過するという経験をもったのは私自身にはあのときがはじめてであり、その後そういう体験はない。果たして今回はどうなるか。




昨日も原稿を読んだ

2024-08-29 12:49:33 | 物理学
昨日も原稿を読んだ。Nさんの『武谷三男の生涯』である。Nさんは故武谷三男邸を訪ねて武谷の残した文書等についてレポートをしたことのある、科学史研究家でもある。

なかなか詳しい説明がある書の原稿であり、すべてに通じているわけではないが、たぶんこの書を越える谷三男の伝記はでて来ないだろう。

だが、それにもかかわらず不満がないわけではない。それは武谷の業績の評価がある意味では不足していると思うからである。

その点をNさんにこのことをメールで尋ねたら、自分以外の人にそのことはしてもらいたいというようなお考えらしい。なんでも人一人のすることには限界があるし、観点もちがうからしかたがないのであろう。

本書の本文は207ページである。それ以外に注が40ページくらいある。私の一度目の読みはいま157ページまで来ている。本文だけでもまだ50ページほど残っている。


blogが書けないときは

2024-08-28 11:22:32 | 数学
blogが書けないときはブログとして、たくさん書きたいことがあったように思う。

ところが書ける環境に帰ったときにそのトピックをすべて忘れているのだから不思議なものである。

ブログを書けないときにはふてくされて、もうほぼ20年以上前につくっていた高校数学程度のe-Learningのコンテンツを修正していた。

できていたものは14節におよび、三角関数についての節が欠けているが、ある小さな出版社の社長が真剣に出版を勧めて下さったのだが、三角関数の節が欠けていたのでお断りしたといういきさつがあった。

いまそのコンテンツを真剣に出版することを考えているが、なかなか完成しそうにない。

自分でいうのはわるいのだが、特色のある内容だと思っている。これは数学教育協議会での成果も一部取り入れてあるし、初等物理の話題も取りれてある。

ある有名な大学の物理学科出身の故人となった社長Tさんには新鮮に思えたのだろう。



元と同じではないが、

2024-08-28 10:43:28 | 本と雑誌
元と同じではないが、先日ネット環境は復活してブログとかメールを見たり出せたりするようにはなった。

そして、プリンターもまた使えるようになったので、まったく同じではないが、ほぼ同じ環境にもどった。

だが、この際に元のOCNを止めることも視野に入れている。というのは小回りが利かないことに危機感を感じているのだ。もっとも昔子どもが勤めていた会社を見限るのはちょっと気が引けるのだが、今回の無力さを痛感したせいでもある。

ただ、いまはOCNでブログに入っているので、それを止めるのはなかなか気が重いことは事実である。

他の仕事ができない

2024-08-27 14:22:34 | 物理学
Nさんの『武谷三男の生涯』の原稿を読み出したら、他の仕事はまったくしなくなった。これはいいことなのか、悪いことなのか。わからない。

普通はラジオを聞いたり、ラジオ体操をしたりしているのだが、そのことを忘れてしまった。

9月になれば、「数学・物理通信」の投稿があろう。それで『生涯』の閲読に精を出しているということもある。

台風はやって来ているのだが、まだその影響が松山に及ぶには数日かかりそうだ。


レザープリンターの復活

2024-08-26 14:11:29 | 本と雑誌
レザープリンターの復活のためにエディオンにプリンターを持って相談に行った。

どうもユーティリティが削除されていたらしかった。これではトナーを変えても印刷しないはずだ。

ということで、Nさんの『武谷三男の生涯』の原稿をようやく全部をプリントして見ることができるようになった。

すでに部分的には見て、いくつかのミスプリントを指摘するメールを送ってはいるが、そうではなくて全体を見て朱筆を入れることができる。

9月になれば、忙しくなるのでここ数日がこの原稿を見ることのできる限られた時間である。

日曜日だが、ブログを

2024-08-25 14:26:52 | 本と雑誌
日曜日だが、ブログを書く。

これは最近1か月ほどブログを書く環境になかったのでその埋め合わせに書くというところもある。

メールが届かなかった間にNさんから『武谷三男の生涯』という伝記の原稿が届いていた。240ページくらいのかなり長いものであり、私にはいまはプリンターで印刷できる環境でないために画面上で見ている。

pdfの文書なので、ミスプリントを中心に見ているのだが、pdfの文書の添削のしかたを知らない。その方法を知れば、原稿に直接、朱を入れて送るのだが、残念ながらそういう技術をもっていない。

引用が多くて武谷の若いときに書いた文書から引用も多い。それを元のカナ遣いで書いてあるのだから、私などは旧人類に属するから読めるけれども若い人が読めるのだろうか。もっとも旧仮名遣いだからその当時の様子がよく反映できるという意見もあるだろうか。

Nさんは以前に『坂田昌一の伝記』も書かれた方である。私よりは数歳は若い方である。多分この『武谷三男の生涯』が武谷の伝記の決定版となるだろう。





レーザープリンタ

2024-08-24 22:20:32 | 本と雑誌
レーザープリンタのトナーが切れたので、購入して入れ替えたのだが、どうしてかプリントをしてくれない。

どこかにリセットボタンがあったのかとも思うがちょっと触ってみたが、そういうボタンもないようである。どうしてプリントしてくれないのかわからないでいる。

困った困った。

午前中は健康チェックに協力

2024-08-24 20:18:32 | 本と雑誌
妻が医療生協の支部役員をしているから、地域の老人会の健康チェックに協力してくれないかと頼まれた。

握力とか足の指の力とかの測定の記録を記入して70代の方に「50歳代の握力ですよ」とか言って検査した紙片を渡す役割である。

誰でも褒められてわるい気のする人はいないと見えてニコニコ顔であった。よかったよかった。

先日も孫を連れて市のコミュニティセンターで一時遊んでいる子どもたちを眺めた。このときに子どもほめられると運転していた三輪車を止めて私の方を振り向く子どもがいた。

よその子どもには甘いのに自分の孫には厳しいのだと後で思って、自分が嫌になった。

8月の子規の俳句

2024-08-22 15:07:24 | 本と雑誌
もう8月の下旬になった。あわてて8月の子規の俳句を紹介しておこう。

 ヒグラシやお堀の松に人もなし 子規
 evening cicada
   pine trees along the moat
   and no people                                shiki 1893

松山に来られたことのある方なら、お堀のところに松の木があるのをご存じだろう。夏の暑いときにはそこにも人はいないだろう。

元の句にはヒグラシは漢字であったが、ここでは現代風にカタカナで書いておいた。moatはいつだったかアメリカ人から「堀」の訳として直接口頭で聞いたことがある。

エントロピー

2024-08-22 13:51:13 | 物理学
微小エントロピーdSを微小熱量d'Qに積分因子1/Tをかけて
  dS=d'Q/T
で定義すれば、こうして定義されたエントロピー状態量となるとどの熱力学の本にも書いてある。

数学の式として不完全微分であったものが積分因子をかけて完全微分になるという例があるのは知っているのだが、もう一つピンとこない。そこのところを多くの熱力学の本にどう書かれているのだろうかという疑問を持っている。

もう一つのよく知られたことは内部エネルギーUは状態量であるので、dUと完全微分で書かれるが、これは熱の不完全微分d'Qと仕事の不完全微分のd'Wの和である。

 dU=d'Q+d'W

となるという疑問もあるが、こちらの方はまだよくわかったわけではないが、ムーアの『物理化学』上(東京化学同人)の「熱の力学的定義」という節だったかに説明があってそれを読んで納得したという記憶がある。

いま急遽ムーアの『物理化学』上を書棚に探したのだが、見当たらなかった。しかし、こちらはすでに解決済みであると思っていい。

だが、もう一つのほうはまだdS=d'Q/Tの方はそのことについてはっきりと書かれた文献を知らない。そのうちにどこかできちんと書いてある文献に出会うことだろうか。

これはこのブログでも書いたことがあると思うが、温度Tは相転移があるときには変わらないのでエントロピーの導入の理由はそういうことのためにもあるということだ。

算数といわれる初等数学においても遠山啓さんらが提唱した量の理論では示量変数といわれる量は外延量と呼ばれており、示強変数は内包量と呼ばれている。

私はこういう名前の量のことを知ったのは多分40歳代であった。熱力学は大学で単位はとったのだが、そういう示量変数とか示強変数とかの名も聞いたのかもしれないが、覚えていなかった。


ブログを書けなかった期間

2024-08-22 13:21:55 | 本と雑誌
19年間もの長い間ほぼ毎日ブログを書いていた者が急にブログを書かなくなったら、ブログの著者は病気にかかったか、死んでしまったと思われても仕方がない。

だが、私は健在である。どうしてブログを書かなかったかというとこれはネットにつながる環境が失われて書こうにも書けなかったからである。

私はOCNに加入しているのだが、もちろんOCNに来てもらって復旧してもらうことは試みたのだが、「パソコンがわるいとしか思えないから診てもらえ」というアドバイスをもらえただけで復旧してもらうことはできなかった。

それで気力もわかずそのままほぼ一ヶ月が過ぎた。元NTTコミュ二ケーションズ社員の子どもが孫を連れてお盆休み明けに帰省して、診てくれてルーターを使ったネット環境が復活した。元と同じネット環境ではないが、なんとかブログが書けるようになった。

子どもの診断でははっきりとはわからないが、IPV4世代のコンピュータとIPV6世代のコンピュータとの接続ソフトの齟齬ではなかろうかということだが、はっきりとはわからないという。

いずれにしてもネットワーク音痴にはことの正否はわからないが、環境をいくぶん取り返せてほっとしているところである。