はアメリカでは誰でもできるので、車の運転ができない人が珍しがられて、「女性にもてるのだ」とか嘘かほんとかわからない話をはやらしたのは作家の小田実であった。いまでは日本でも車の運転免許を持っていない人の方が持っている人よりも少ないであろう(注)。
数学者の遠山啓は1909年の生まれだから、かなり古い人である。その彼が一時期、車の運転免許をとろうとして自動車学校に通ったという記述をいつだったか読んだ覚えがある。彼の場合には途中で断念したと思う。
友兼清治『遠山啓』(太郎次郎社、2017)には多分そういうことは書いてなかったと思う。もちろん、車の免許云々は遠山にとってはどうでもいいことである。だが、転居して交通の便が悪くなって車の運転免許があった方がいいと考えて自動車学校に通ったのであろうか。
私が自動車学校に通ったのは53歳のときであり、このときを逃せば車の免許取得をするチャンスはないと思った。それでも途中で1週間くらいやむを得ない理由で休まなければならなかった。それで1週間後に自動車学校に出掛けたら、自動車学校の先生から「もうあきらめたのかと思った」と言われた。あきらめる気はまったくなかったから、意外な気がしたが、先生は私につらく当たったとでも思っていたのだろうか。
実はこの先生は教え方が合理的であり、いい先生だった。それにきつく叱るということなどなかった。これは私が彼の高校の時の同級生の知人であるとか、またその同級生のお姉さんとやはり知り合いであるとかいうこともあったであろう。10月3日にはじめてこの学校に行き、その年の12月24日だったかに免許取得をした。
今年の5月にその自動車学校で高齢者講習を受けた、そのときにまだ S 先生が在籍されておられるかどうかを自動車学校の教官の名前から探したが、出ていなかった。この人は車が好きなだけではなく、大学を出ていた人だった。珍しい人である。
もっとも私が車の免許をとったのはもう25年前のことであるから、その当時の教官が非常勤にしても勤めているはずはないのかもしれない。自動車学校の教官には口ぎたない人も多いとか聞いているが、私はそういう経験はあまりしなかったのは幸いだったかもしれない。
(注)「英語カタコト辞典」だったかに小田実がアメリカの名うての女たらしは"I love you"と言って"I love you very much"とかのvery muchみたいな修飾語をつけないのだと書いてあって本当かなと半信半疑だったが、フランス語でも Je t'aime(ジュ ティム)といって Je t'aime beaucoup(ジュ ティム ボークー)とかは言わないと聞いてヨ―ロッロパ言語ではそうなんだということを後で知った。
副詞の beaucoup をつけると相対的になってしまい、「愛している」という感じが「君のことを好きだよ」というような軽い感じになってしまうという。だから、本当に愛しているときには beaucoup(ボーク―) だのvraiment(ヴレマン)だのという副詞は厳禁だという。そういう話を聞いてようやく小田実・開高健の「英語カタコト辞典」の記述を信じることができるようになった。もっともこれにあたる話はドイツ語では聞いたことがない。