2012年の3月1日にひめぎんホール(県民文化会館)で前進座の80周年記念公演がある。それで先日の12月21日の夕方、松山市来住町の生協病院の会議室でその公演を成功させるための集会があった。
妻がこの公演の準備会の実行委員の一人になっているので、参加した。前進座は会社組織になっているそうだが、この会社の社長の嵐圭史さんが公演促進のために松山に来られて話をされたり、平家物語を朗読されたりした。
さすがにこの朗読は圧巻であったが、話もユーモアもあり、とても興味深いものであった。ただ、嵐さんが自分の持ち時間を20分ほど超過したのは頂けなかった。これは司会者が注意すべきところであろう。
3月1日の公演の題目は歌舞伎の「毛抜き」と現代劇の高野長英の逃走中の一こまを描いた、「水沢の一夜」である。高野長英は愛媛県の宇和町などにも関係があり、ある程度愛媛県の人も親しく感じる人である。
長英はシーボルト(ドイツ語では本当はジーボルトが正しい)の高弟であり、彼のやったことが当時の幕府の気に障ったために牢獄につながれ、死刑の宣告を受けたのだと言う。特に長英が倒幕運動を繰り広げたわけではない。
そういう意味では長英とか現代から見ると、不条理であるが、牢獄に火事を起こし、そのすきに牢獄を駐英は抜け出したのだと言う。医学に優れていただけではなく、軍事学にも詳しかったために各藩が競って密かに長英を一時的にかくまっただろうとは圭史さんの話であった。
ここで、軍事学とは具体的に何かと質問をしたかったが、それを聞く機会はないままで終わった。私の推測ではこの軍事学の主なものは砲術ではなかったろうか。砲術はどういう風に大砲を撃つかに係ってくる。それはある意味では放物体の運動を含んでいただろうから、軍事学とは物理学の初歩を含んでいたはずである。
軍事学が科学のどういう意味で日本での近代科学の導入になったかはわからないが、武田楠雄氏の「明治維新と科学」(岩波新書)だったかには日本における近代科学の導入は航海術であったとかいてあった。
航海術は大海で自分の船の位置を天体の観測から決めるとかいうことを含んでおり、これは三角法の知識が必須である。こういうことから近代科学が日本に次第に導入されたのであろう。
近代科学はこういう実学としてはじめて日本では導入されたのに違いない。