物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

Heisenbergの生き方

2017-03-31 13:27:28 | 日記

先日、『部分と全体』というHeisenbergの自伝ついてちょっと述べたが、その後で80回目の雑談会があったので、そこでHeisenbergはガンにかかったが、治療を断って痛み止めの薬の投与だけを受けたと話した。これは単にHeisenbergの共同研究者であった、山崎和夫さんの追悼文からの知識である。

なんでも議論するときに、そういったちょっとした知識を添えることが議論を深めるような気がしている。そういえば、最近読んだ『窮理』6号で朝永振一郎さんの子どもの淳さんが自分も父と同じガンにかかったが、早期発見で治癒して、父とほぼ同じ年になったと書いていた。

だから、Heisenbergは亡くなったのは1976年で、朝永振一郎さんは1979年になくなっているのだが、それからの医学の進歩は目覚ましい。私も母が亡くなった74歳をもう数年は過ぎた。だから、長生きができる時代に入っていることは確かである。

 


Kleider machen Leute

2017-03-31 12:51:05 | 日記

Kleider machen Leuteとはドイツ語のことわざである。「衣裳は人々をつくる」と直訳されるが、日本語にも「馬子にも衣裳」ということわざがある。

私のE大学での上司だった、A先生は三高、京大卒であって、三高のときのドイツ語の先生からKleider machen Leuteということわざを教わったという。

そして、彼のE大学での最終講義の終りの言葉がKleider machen Leuteであった。これは部下の私があまり服装に気に留めないことへのやんわりとした忠告であったかもしれない。

そうではあったとしてもほとんどネクタイをしたりしないとか、赤い色のシャツを着たりしている私を直接叱るというようなことはなさらなかった。しかし、上司のA先生としては気が気でなかったのであろう。

ところで、このKleiderであるが、一般の衣裳というような意味では使われるかもしれないが、なかなか使い方が難しい語である。Kleiderは複数で、単数はdas Kleidである。これは普通婦人服のワンピースのことであって、男性の衣裳には使わない言葉である。

昔はワンピースのことをドレスと言ったので、独和辞典にはドレスという訳語の方が先に来ていたりするが、私はドレスという語は現在ではあまり使われなくなっていると思っている。

そういえば、最近ではワンピースという漫画かアニメが好まれて読まれていたり、見られていたりする。海賊か何かが出てくるアニメなのであろうか。ときどき、お隣の小学生が妻のタブレットでこのワンピースを見ていたりするが、私自身は見たことがない。

マンガ本としては全88巻だとかお隣の小学生から聞いたことがある。そしてそれを全部もっているのだとか。最近の親御さんはそれを買うだけでも物いりである。

Kleiderに話を戻すと、Kleidungという語だと衣服だとか衣類だとかという意味になる。Kleidungは女性名詞であるから、die Kleidung である。

 


雑談会80回

2017-03-30 11:55:47 | 日記

私のやっていることはもちろん「数学・物理通信」の発行もあるが、それだけではない。

もう一つやっていることは月1回第4土曜日の午後やっている、雑談会がある。これは経済学者の N さんと私が世話人になって始めたのだが、N さんが長い間病気をしたりして、結局、私の妻と私の主宰する会のような様相を呈してきている。

8月は私が徳島科学史研究会の例会で話をするための準備もあって、あまり時間がとれないことと夏休みで暑いことから例年8月は雑談会は開かないが、その他の月は大抵開いている。その雑談会が3月25日で80回目を迎えた。この調子で行けば、数年後には100回目を迎えることができるであろう。

ただ、はじめに N さんの提言で毎回1時間程度のレポートをどなたかにお願いするという性格を基本的に変えていない。これはたぶん、 N さんが自分の勉強の結果の話をしたいとかいうことが動機であったのであろうが、よかったと思っている。3月のテーマは「ガンとお金」というテーマで物理学者の T さんがテレビとかなんかで話されていた話題をまとめてくれた。

これは確かに新薬が開発されてガンも治る時代になったのだが、その費用が高額であり、保険医療制度を圧迫しているとかいう話題がでた。そのために新薬の定価の見直しが行われたりした。もっとも当初考えられていたよりも効くガンの種類が多くなり、利潤もはじめの予想よりも大きくなり始めているとか。

話を元に戻せば、私たちのメンバーはある程度私の気に入った人しかメンバーに入れていない。これは私が年を取ったためということもあるが、もう若い時のようには人を許容する範囲がせまくなっているためかもしれない。若い時には親しかった人でも人柄に問題ありと判断している場合には雑談会によんでいない。

これは私の考えもあるけれども、多分に私の妻の判断も入っていると思う。激しく議論しても後で、さらっとしているような方でないと困るからである。


数学史家、近藤洋逸氏

2017-03-29 12:38:11 | 日記

私は近藤洋逸氏と一度だけ大学院生のころ会ったことがあった。私の学んでいた大学に集中講義に来れられたことがあり、科学史をやりたいと思ったことがあったので、一度だけ講義の後で、10分か15分だか会って話したことがあった。

そのころはこの近藤洋逸氏が武谷三男との知り合いであるなどとは思っていなかった。それが彼の死後『近藤洋逸数学史著作集』が日本評論社から発行され、それの付録(いわゆる月報というもの)にまだそのころ生きていた武谷が近藤洋逸氏とのつきあいについて書いていることを西谷 正氏の論文リストで知った。

それで、東京神田の明倫館書店から、その著作集を20,000円で古書として購入した。一度、国会図書館でこの現物を読んではいたのだが、「武谷著作目録」をつくっているので、それに記載もれがあったということになる。

いまの最新の「武谷著作目録」は第5版であるが、これを修正する必要がある。


数学・物理通信の配布

2017-03-29 12:22:04 | 日記

について、これはメールで無料配布しているのであるが、あまり送らないでほしいというメールはいままでもらったことがなかった。ところがある数学者の方から、そういうメールをもらった。それはほとんど読まないのでメールが貯まるだけで申し訳がないということであろう。

たしかに、純粋な数学者などはこういう怪しげなサーキュラーは読まないのかもしれない。それにそういうことを言って来た数学者はある意味で私に対して、遠慮ない物言いができるという方であったのだろう。

それにそのメールアドレスを知ったのは彼の奥様を通じてであるので、ひょっとしたら数学者その人ではなくて、彼の奥様が書いて来たのであろう。もっとも彼の奥様も中学かどこかの数学の先生をされていた方だと聞いている。

「数学・物理通信」の配布を受けている、普通の方はどう処理をされているのかはわからないが、ほとんど読まない人でも貯まったら、ゴミ箱に捨てているのであろう。少なくとも発行人である、私に対して遠慮してそうしているのだろうと思われる。

もしそうなら、申し訳がないところだが、あからさまに読まないのでという理由で配布の辞退を受けたのはほとんど最初であった。私などならば、分かるところだけ読んでわからないところは読まないという処置をとると思うので、ちょっと考えるところがあった。       


vielleicht, wahrscheinlich

2017-03-29 11:46:12 | 日記

私のような老人がドイツ語を学びはじめたころには独和辞典のvielleicht(フィライフィト)の訳語は「多分」とか、「おそらく」であった。これはあまり正しくないということだったのだろう。

その後、何十年か学んだNHKのテレビとかラジオのドイツ語の講座ではvielleichを「ひょっとしたら」という意味だと繰り返して聞いて来た。

最近ではvielleichtを「多分」とか「おそらく」とか訳をつけている独和辞典はないと思う。それだけドイツ語の研究も進んできたのだ。私などが学生のころに一番よいと言われていた、木村・相良の独和辞典でもvielleichtの訳語は「多分」とか、「おそらく」となっていた。

私自身の経験でも、私が1976年にドイツの大学に留学して間がないころに、新しいPhysics Lettersの号が図書室から一時的に行方不明となったというので、同僚の研究者にHaben Sie vielleicht die neueste Physics Letters ?と聞かれたことがあった。

可能性は低いのだが、ひょっとして最新のPhysics Lettersを借り出していないかというのであったろう。もちろん、私がその雑誌を借り出していたわけではなかった。

一方、wahrscheinlich(ヴァ―ルシャインリッヒ)だが、こちらはそれこそ「おそらく」とか「多分」とかいう意味であろう。大分こちらの方は確率がたかくなる。このwahrscheinlichから派生した名詞にdie Wahrscheinlichkeitという語があるが、これは数学用語として「確率」という専門語でもある。

あまり量的に考えたことはないのだが、vielleichtならありそうなのが、10%か多くても20%くらいな感じがするが、wahrscheinlichなら70%か80%で確かの感じがする。これは私の感じであるから正しくはないかもしれない。 


ようやくたまったメールを

2017-03-28 18:12:29 | デジタル・インターネット

消去することができた。すべてを単に全部を削除するだけなら簡単であったのだろうが、私信の部分で意味のある長いものはできるだけ残したいと思ったために昨日一日と今日一日かかった。

明日からまた普通の生活に戻れるだろうか。やれやれ。


Der Teil und das Ganze

2017-03-24 15:30:52 | 日記

というのは日本語では『部分と全体』(みすず書房)という題で出版されている、ドイツの物理学者W. Heisenbergの自伝である。もちろん『部分と全体』はすでに読んだことがある。

ところが、このドイツ語版を先日に東京神田の古書店である、明倫館の店頭にあった中に見つけて買った。定価ははじめ900円がついていたが、最近ではドイツ語を読む人など一部の人を除いていないと見えて、私が見つけた時には300円の値段がついていた。

それで私が他の本と合わせて購入した次第である。私だってそんなにすらすらとドイツ語が読めるわけではない。それで、興味がありそうな章だけ読んで見ようとしているのだが、あまり進んではいない。

dtv(Deutscher Taschenbuch Verlag)の1冊であるので、日本でのいわば新書みたいな感じである。Taschenbuchとは直訳すれば、ポケット版書籍とでもなろうか。一番関心があるのはHeisenbergが行列力学の端緒をHelgolandで見つけたという箇所であるが、その後はEinsteinとの話が出ている。話はドイツ語からの訳書で読んで知ったことだが、Heisenbergが原子内で電子の軌道は観測できないから原子の理論から軌道という概念を追い払うという考えだったのに、Einsteinはそういう考えはおかしいという異論を述べたというのである(注)。

Heisenbergは特殊相対論の論文でそういう考えをあなたは展開したではないですかと反論したが、それでもやはりそういう考えはとるべきではないとEinsteinがしたという話であり、観測できる量は理論が決定するのだというEinsteinの主張が述べられる。

この章が一番興味深いので、ここだけでも通して読んで見たいと思いながら、まだ通して読むことができていない。

最近NHKのEテレで放送の「仕事の英会話」の中にある会社の営業担当者(?)の名前としてWerner Heisenbergという人が出てくる。Heisenbergも死後およそ40年も経つと英会話の一人の登場人物の名として復活を遂げているとはご存知あるまい。

ちなみにハイゼンベルクHeisenbergは1901年12月生まれで、1976年2月に亡くなっている。 ちなみに語尾のgはクと発音する。ハイゼンベルグではない。

(注)電子の軌跡は霧箱(cloud Chamber)や泡箱(buble chamber)の中で見ることができる。これは厳密には電子そのものの軌跡ではないかもしれないが、一応難しいことをいわずに電子の軌跡であるとしておくと、電子の軌跡は観測にかかることになる。もっともこれは原子内の電子の軌跡ではない。


数学史家、三上義夫

2017-03-24 11:15:32 | 日記

最近、日本評論社から三上義夫著作集が出版されはじめている。広島市の大きな通りである、平和大通りに数学史家、三上義夫さんの顕彰碑がある(注)。

これは私が大学の学生であったころにできた思うが、三上さんのことは小倉金之助の本で知っていたくらいである。その後、三上さんの話を広島大学理論物理学研究所の教授だった、竹野兵一郎先生から大学院の授業で話をちょっと伺ったことがある。

戦後すぐのことだったかと思うが、三上さんが広島市郊外のお寺の離れかどこかに寄宿していたときに、竹野先生が訪れたことがあったらしい。このとき、数学者が自分を訪問してくれたということで、日頃貯まっていた不平不満を竹野先生がどっさりと聞いたとか話をされていた。

最近知ったことでは三上さんは奥様を亡くされた後で、この広島郊外のこのお寺に寄宿していたらしい。戦後でもあり、日常の生活品も入手が困難なころであったろうから、三上さんとはいわず誰であっても生活に困難を来たしていてもおかしくはない。ましてやもう老人の域に入っていた三上さんの生活も困難であったのだろう。

いまから見れば、世界的な数学史家である、三上さんの世間での評価はそれほど高くなかったのかもしれない。世の中でも三上義夫さんの著作集が出るにあたっても元の「数学セミナー」の編集長であった、K さんの尽力が大きいのだろう。

(注)この平和大通りは北海道の札幌の大通と似通っている。もっとも札幌の大通りにはテレビのタワーなどがあり、冬には雪祭りが開かれて、大勢の観光客が訪れると聞く。

学生のころに札幌を訪れてから、その後もう一度札幌へは学会のときに訪れたくらいしか機会がないが、いい街だと思っている。そこに住まわれていると思われる、Sさんはうらやましい。


資料の保存

2017-03-23 13:03:06 | 日記

武谷三男関係の資料をどう保存するかという議論がされている。

ところが少しでも関係があったと思われるところにもあまり武谷関係資料を保存するという意志がないらしい。まず、立教大学は唯一武谷三男が教授として16年間勤めたところであるが、勤務年数が少ないこと等から、彼の資料を保管するということはほとんど望めないらしい。これは立教大学に関係者が問い合わせたことがあるのかどうかはわからないが、多分そうなのであろう。

つぎに、武谷の著作を多数発行している勁草書房であるが、ここも編集者が代替わりしていて、資金を支出してまで武谷の資料を保存しておくだけの財政的なメリットがなさそうである。

それに古い資料は国会図書館ではデジタル資料として保管がされているということもあって、武谷三男が残した段ボール箱にして30箱以上におよぶ資料を保管する機関がない。

それで、すべての資料をスキャンしてデジタル化をして、インターネットのサイトに保管するという計画が上がっている。それも目録データとしてインターネットのサイトに掲載しておき、それを見た有志の人が担当の機関に請求するというシステムが考えられている。

これはそういう資料保存計画委員会が発足して、その組織がことにあたることになるのであろう。いま、たまたま非公式には法政大学の物理学のある教授がその任にあたってくれるかもしれないとのことである。

私の持っている武谷三男関係の資料は著作が主だが、どうしたらいいのか。そろそろ考えておかなければならない。


燃え尽き症候群

2017-03-22 13:58:39 | 日記

は今回はさほどではなかった。これはいつも3号続けて「数学・物理通信」を発行するときには罹る病気みたいなものである。ちょっと放心状態になって数日は仕事が手につかないというか、何かをする意欲がわかないのである。

今回は2号だけの発行に終わったので、燃え尽き症候群には陥らなかった。それでも東京に12日ほど行っていたので、予定よりも発行が遅れた。

午前中に共同編集者の N さんのところへ行って彼のパソコンに今回の号をコピーしておいた。ということで私にできることはすべてやった。またしばらくは「数学・物理通信」から解放される。

 


積分演算子、積分変換、積分方程式

2017-03-22 13:14:14 | 日記

といったものに関心をもち始めている。これは「数学・物理通信」7巻1号に掲載されたパリティ演算子を積分で表すという中西先生の提案から私が関心を持ちはじめたということである。

いずれもこれらについて、いままであまり関心をもったことがなかった。積分変換ではよく知られたものにはフーリエ変換とかラプラス変換とかがある。

積分方程式については数学者の N さんについ先ほど聞いたところでは、微分方程式よりも積分方程式の方が安定感があって解きやすいという感覚が数学者にはあるのだそうである。あまり積分方程式に馴染みのない私などにとっては想像だにしなかったところである。

 


『聞かれるままに』

2017-03-21 12:18:07 | 日記

と『思想を織る』とは武谷三男が対談相手に語った、ある種の自伝である。ところが朝日新聞社から出版された『思想を織る』を武谷三男の研究者でこれを引用しない人はいないのに、もう一方の『聞かれるままに』(思想の科学社)はその認知度が低いように思われる。

どうしてだろうか。「武谷三男著作目録」(素粒子論研究電子版)を編集してその第5版まで出している私には不思議でならない。私の「武谷三男の著作目録」のコピーを持ち歩いていた武谷思想の研究者、八巻俊憲さんは多分この著書をお忘れではあるまいが。

岡本拓司さんにしても、金山浩司さんにしても『聞かれるままに』は引用しておられない。この二人は『昭和後期の科学思想』(勁草書房)で武谷三男の思想を論じられた気鋭の科学思想史家である。

もっともその存在は引用しておられなくても知っておられるのではあろうが、引用する必要がなかったということでもあろうか。それにしても冒頭にあげたような恐れもまったくないわけではない。

伊藤康彦さんは『武谷三男の生物学思想』を著された方であるが、武谷の『原水爆実験』(岩波新書)を引用してはおられなかった。それを読めば武谷への見方が変わったかもしれないのに。


3月は忙しい

2017-03-21 11:47:17 | 日記

3月14日に東京から帰って来てから忙しい。これは東京にいたときにできなかった仕事をかたづけるということが大きい。

全国の日独協会の会合が四月にあるとの連絡をもらっていたが、いなかったので、そのメールを見たのが3月14日だったが、ほかの用事で連絡が数日おくれて、日独協会の事務局長さんをはらはらさせた。

それが済んでからは主にサーキュラー「数学・物理通信」の編集に時間をとられた。それも準備段階で表現とか内容にいくつかのコメントがあったりして、それで表現を変えたり、それを投稿者と打ち合わせしたりした。

それも大方終わり、もう一度編集者としてチェックした後で今日中にも7巻1号と2号を発行しようと思っている。それだから、毎月1回融資の人とやっている雑談会の開催通知がようやく昨日にだすほどに遅れた。

心配した友人が私がそんなに忙しいなら無理に毎月開催しなくてもといいのではないかというメールをくれたが、時間を見るとそのメールをもらったとほぼ同時に開催通知のメールを送っていた。