「サブカルチュアの戦後史」というNHKの番組が10月3日に終わった。10回くらい続いた番組であったが、結構おもしろかった。
最終回のときにちょっとしたレビューがあった。
それによると
(1)ポップカルチュア(大衆文化)
(2)サブカルチュア 本質的に逸脱していく特性をもつ
(3)カウンターカルチュア(対抗文化)
があるという。それに元々の本来のカルチュアもあろうか。
「これからの文化の中心は必ずしも都会ではない」との宮沢章夫さんの予言である。それは期待を込めてのことかもしれない。
インターネットで検索してはじめの方にだけあるものを見るのではなく、終わりの方にあるものも見ようという提言をされていた。
NHkのEテレの番組『知恵泉」から。
昨夜は高田屋嘉兵衛の2回目だった。ロシアに人質に取られた嘉兵衛がどうやって自分の苦境を乗り越えて、帰国できるかの工夫であったが、
1)まわりのものを味方につけろ
2)常に行動を共にせよ
という教訓であった。
ロシア語が全く分からない中で、身の回りの世話役の少年からロシア語を一語一語づつ学んでいき、はじめ反感をもっていた自分を拘束した副艦長の相談にのり、一人づつ自分の見方にしていく。最後にはロシア皇帝までも巻き込んでいく。その知恵と実行力には脱帽である。
さらに、副艦長と同じ部屋で寝起きを共にし、その心情を理解していく。誰にでもできることではなかろうが、言葉だけの問題ではなく、その知恵と実行力とまた人柄に敬服するしかない。
副艦長は自分は出世が他の人よりも遅れたというと、それには部下を大切にしなさいとアドバイスをする。そして人間的な信頼を得て行くとかである。
人としての視野の広さというか、自分だけに限らず、ロシアと日本のそれぞれが持つ偏見を一つ一つ取り除いていき、最後には幕府に拘束されていた、ロシア艦艇の艦長を解放させる。
その一つ一つのことよりもその深い洞察と知恵を学ぶべきだろう。
昨夜、さだまさしとCMプランナー箭内さんとの「人生の10曲」という番組をみていたら、さだまさしが彼の尊敬するアメリカの歌手ポール・サイモンに会った話をしていた。
ポール・サイモンは音楽は作られた時が最高の瞬間なのであり、それを演奏するときは再生音楽に過ぎないと考えている。
だから、どこかで演奏会をすることはこの音楽をつくった瞬間の感動を再生しているに過ぎないが、どうもそれは2番煎じというか印象が薄いものだという。
ちょっとさだまさしが語っている、ポール・サイモンの意見をうまく表現できていないかもしれないが、ともかく演奏会はあまり感激的なことではないという考えらしい。
そして、さだまさしはこれまでに4000回以上のコンサートをやってきたが、この曲が作られた時とほぼ同じ感触を得られたのは実は3~4回に過ぎないと語っていた。
さだのような国民的な歌手にしてそうなのだから、凡庸な私などが講義をしたときによかったなどと思う時がすくなかったのは当然でもあろうか。
金曜日の夜に最近の数週間サブカルチュアについての放送がある。
2週間ほど前だったかマンガが取り上げられていた。私はあまり読んだことがないのだが、「カムイ伝」を描いた白土三平とかナンセンス漫画「天才バガボン」を描いた赤塚不二夫(?)とかが優れて特徴があったという。
私などは「明日のジョー」とか「ドカベン」くらいしか知らない。お好みのマンガは斎藤隆夫(?)の「ゴルゴ13」である。
先週と今週のNHK放送の鶴瓶の「家族に乾杯」で鶴瓶さんと松下奈緒さんが西伊豆を訪れていた。
何時だったか、作家の片岡義男さんが田中小実昌さんか誰かに謎々で「西伊豆でペンを拾った」を英語でどういうかと行きつけのスナックで質問されたと岩波のPR誌『図書』で読んでこのブログでも話題にしたことがあった。
片岡さんはNishi is a pen.と田中さんの期待に応える返答をして面目を保ったという話であった。
まさか、そのときに話題となった、その西伊豆に鶴瓶さんと松下奈緒さんとがいくとは思ってもいなかった。
私はこの放送を見ながら、Nishi is a pen.と独り言を繰り返して言っていたのはもちろんのことである。そばに妻がいたら、聞き咎めたであろうが、幸いそばには妻はいなかったのは幸いであった。
いつも変な行動をする、私のことを変人と思っている妻に聞かれなくてよかった。
なんでも話には前史があったりするが、その由来を知らない人が見たら、奇妙なことだと思うのは当然であろう。
今週のNHKの「プロフェッショナルの条件」は中日ドラゴンズの山本昌投手をとりあげていた。
中日ドラゴンズにドラフト4位で指名された山本投手は4年間芽がでなかった。そしていつ野球を辞めるかと考えて展望が開けなかった。
ところが3年目か4年目にアメリカの教育リーグに参加して、生原(愛称アイク)コーチに基本を大切にせよと口を酸っぱく言われたという。
それでいつも基本に忠実を心がけて練習に励んでいるうちに芽が出て、200勝を達成した大投手にまでなった。
それで彼は48歳の現在も基本をおろそかにしない練習をして、現在でも現役最年長の投手として活躍している。
アイクさんは山本投手が教育リーグに参加して年から4年後に亡くなったそうだが、彼の育成法がよかったことを示している。
もちろん、コーチがどうあろうとそれを実行するのはいつでも本人である。だから、アイクさんの同じ助言を聞いたからと言って誰でも同じように成功するわけではない。
ただ、この放送を見て、私にも少し思い当たることがあった。それが何であるかは語ることはできない。
が、基本を大切にというアイクさんのアドバイスは別にプロ野球選手にだけあてはまることではなさそうである。
昨日は水曜日だったので、NHKのEテレでTEDカンファランスの講演があった。
ここではJohn LegendのピアノをひきながらのTrue colorsという歌の一文だけを紹介する。
True colors are beautiful like rainbow.
という、一文である。これがなんどとなくリフレーンで歌われる。
true colorsとは人々が本来持っている自分の特色だとか、皮膚の色だとか、個性だとかを指しているらしい。
NHKの「日本人はなにをめざしてきたか」の第2回は表題の放送が先週の土曜日夜にあった。
元来元気な、鶴見さんもさすがに老齢で病院の入退院を最近はくりかえしているらしい。
それで新しい映像はなかったようだが、思想の科学で見いだされた論客の数人が出演されていた。
映画評論家の佐藤忠男氏、歴史家の山領健治氏、それから野沢さんとか作家の黒川創さんとかである。声なき声の会のメンバーの熊谷順子さんとか他の女性も出てきた。
それともう思想の科学の創刊同人の一人としてまだ健在な武田清子さんとかがおられる。
7人の創刊同人は武田さんと鶴見さんの二人となってしまった。
黒川創さんが言われていた思想の科学の多元主義は武谷三男から来ているというのが、鶴見の発言からわかっている。
創刊同人は丸山真男、渡辺慧、鶴見和子、鶴見俊輔、都留重人、武田清子、武谷三男の7人である。和子、俊輔、武田清子、都留重人はアメリカ留学生であり、渡辺慧はフランス、ドイツへの留学生である。
それで思想の科学の多元主義はそれらのアメリカとヨーロッパの留学生がつくり出したかと思われがちだが、実はそうではなくて外国に行ったことのなかった武谷が主張したことであったと鶴見はいう。
『思想の科学』は50年続いて1995年に終刊になったが、それは生まれて間もなく廃刊になるところだった。それは日本共産党以外の意見を代表する雑誌が一つくらいあってもいいのではないかという武谷の一言であったという。
ここに鶴見は思想科学の多元主義の根幹を見る。マルキストと思われていた、武谷の意外な側面であった。
残念ながら、そいう話はこの放送にはほとんど出てこなかったが、そういうところから「思想の科学」に投稿したり、かかわった人は5000人に及ぶという。
7月2日の夜、横浜在住の旧知の物理学者のKさんから、電話がかかってきた。7月5日の夜に放送があるので見てほしいという。
それが「日本人は何をめざしてきたか」ー知の巨人たちーというテレビ放送の第1回であった。
今回の直接のタイトルは「原子力 科学者は発言する」で特に物理学者の湯川秀樹と武谷三男をとりあげていた。
この二人が原爆から原発まで含めた原子力のときどきの問題点について警鐘を鳴らしてきたことはまちがいがないのだが、最近ではそのことを曲解するような書まで出ている。
一般的に肯定的な放送内容であったが、一部として原子力情報室の代表の一人山口幸夫さんがちょっと自分たちと武谷とは考え方がちがっていたという風な話が入っていた。
それは科学者も市民の一人であるとして、原子力の運動に携わるべきだという考え方と、あくまで反原爆とか反原発とかで重要なのは市民の運動だが、科学者はそれに正しくしっかりした助言をする立場にある、という考え方のちがいである。
この点で高木と武谷とは考え方が根本的にちがっていた。
これは高木の『市民科学者として生きる』(岩波新書)に武谷との論争のことが書かれている。時計か金槌かという論争として有名である。
武谷は時計を金づちとして使わない方がいいという考えであった。あえて誤解を恐れずにいうと高木は「自分は時計にもまた同時に金づちにもなりたい」ということであった。
もっとも科学の正しい使われ方を主張する人にとってもそうでない人にとってもなかなか現在の社会では厳しい状況であることは変わらない。
放送に出てきた、多くの物理学者は私の知っている方々であったが、年をとられているので、名前のサブタイトルがでなければ、ほとんどわからなかった。
藤本陽一、長崎正幸、小沼通二、澤田昭二、町田茂といった方々である。小沼さんと澤田さん以外は昔の凛々しい姿はもう見られず、さすがにお年だと思わせられた。
第2回は7月12日(土)午後11時からで「鶴見俊輔と思想の科学」というタイトルである。
NHKがマスコミとして無力だと感じる。
これは最近の集団的自衛権の報道でそう感じる。すべてのNHK人がそうではないのであろうが、少なくともニュース等でのとりあげ方はどうも内部自主規制をしているとしか思われない。
これは典型的にNC9に現れている。誰もNHKを批判しないので、それで済むと思わない方がいいと思う。
聴取料の支払い拒否をするほど私も強固な反対者ではないのだが、まったくNHKは牙を抜かれたライオンである。
朝日新聞が一人かどうかはわからないが、集団的自衛権の閣議決定反対で頑張っているのと比べれば、その腰抜けぶりがひどすぎる。
読売新聞や産経新聞はもともと頼りにならないのだが、その列にNHKも加わるのだろうか。
NHKの内部でもいろいろの意見があり、良心的な人もいるのだろうが、それが表に出ることはいまのところなさそうである。
政府のNHK会長人事がやはり効を奏しているとしか思えない。
これはイギリスのBBCが時の政府と対立することがあるのと対照的である。
NHKの「知恵泉」で先週と今週の火曜日に2回上杉鷹山をとりあげていた。
昨晩の上杉鷹山の知恵
(その1)マイナス情報を隠すな
米澤藩の財政状況が厳しくて大借財を抱えていたのに、その状況を包み隠さず藩全体に公開したという。これは農民に至るまでその情報を共有していたとか。それで危機感が共有されて、危機感が広がった。
また藩政への意見書を広く募り、いいものは採用をしたり、試行を行ったりした。
(その2)成果を実感させる
責任体制をつくる。
売り上げを上げる。
コストカットはしない。
コストカットは会社がつぶれる前ぶれとなる。悪循環が起こって防げない。そして最後には倒産にいたる。
成果を実感させるとモチベーションが上がる。現代だったら顧客からのほめ言葉が最高の見返りだろうという。
自分のためにするのではなく、多くの人の幸福のためにする。
これはゲストの方の言葉では、「大きく着眼して、小さなことから着手する」とのことであった。
またマイナス情報をつかめば、それで半ば成功したも同然だという。これはそのマイナス情報をしっかりつかめば、それに対する対策も立てられるからである。
昨夜、真鍋大度さんのことがNHKのテレビで放送された。
彼はアーチストというのかどうかは知らないが、特異な人らしい。
今までアートでの人が見なかったようなプレンゼンテーションをする人だという。
彼は大学では数学を学んだ人であり、彼の数学のノートの一部がテレビの画面に出ていた。それをちらっと見た感じではどうも微分方程式かなにかで、ルジャンドルの微分方程式か何かのところのように思われた。
それはともかく彼のアートにおけるプレゼンというか表現の源は
テクノロジー・発想力・プログラミング
だという。特に新しいテクノロジーにどんなものがあるか常に調べているらしい。プログラミングの言語が何かは分からないが、英語で書かれていた。
番組の中で効率はと尋ねられたとき、あまり効率は良くないような雰囲気だったが、新しいものを生み出す人には効率は問題ではない。
効率を求めるところからは新しいものは出てこない。
水曜日に変わった「知恵泉」の中で特撮技術を映画に取入れて成功を収めた円谷英二をテーマにした、今週の放映で、「新しい物は平穏を乱す」という文言があった。
なんでも「新しい物は平穏を乱す」のは本当だろう。だが、それに対する反応のしかたはいろいろある。
その新しい物を取り込んで自分の度量も大きくして行くのか、そうではなくて自分にできないことだ、けしからんとして抑圧する方に回るのか。
抑圧するとしても一時的には抑圧できても最終的には抑圧はできないものである。そうだとすれば、新しい物はなんでも困ったものだという立場を捨てて、自分の度量を大きくする方向に使いたいものだ。
昔、ボーリングが人気で流行ったことがあった。そのころある若い(その当時のことだが)大学院生が会議か授業をさぼってボーリングに行ったらしい。
そのことを知った、ある物理学者が若い大学院生を後でけしからんと叱ったらしい。それからその方は~ファショというあだ名をつけられたという。
ひょっとしたら、その大学院生の方がよくなかったのかもしれないが、それでも若者の気持ちの理解も必要だったのであろう。
まあ、これはしかし笑い話の類ではある。
もういつのETVの放送だったかわからないが、TEDカンファランスで上記のタイトルの講演があった。
要するに、もし人を助けたいと本当に思うなら、助けをほしがっている人がしたいことを黙って聞けという。
これはアフリカとか他の国の人々を助けることに業績をあげている、あるイタリア人の人の話であった。
若いときに7年ほどどこかアフリカの国に出かけてそこの人々に農業を教えようとした。まるまると大きい立派なトマトができたという。
ところがその収穫をする前にカバの大群がやって来て、そのトマトを食べてしまった。土地の人に「なぜ教えなかった?」と聞いたら、「聞かれなかったから」と返事があったという。だから、土地の人が農業をしないのには訳があるとわかった。
そういう失敗続きの7年後には、酒場でだれかと一緒に飲んでいるときにその人の悩みを聞き、どこかで個人的に出会ったときに、相手の言うことをよく聞き、相手のしたいことを助けるというやり方をとったという。
ほんとに何かをしたいと思っている人は集会に来て、こんなことをやりたいとは絶対に言わないという。だってそれが本当にいいことだったら、他の人にそれをやられてしまうから。
経済学者のシューマッハーの書で読んでそれから援助のヒントを得たのだという。それは文句は忘れたが、相手の欲していることでないと意味がないとか、役立たないというような文句であったと思う。
もっとも現状から抜け出したいと思っている人はどこにも必ずいるのだという。そしてその人の言うことに耳を傾け、その人のやりたいことの助けになるような人を紹介したり、仲介したりしていくうちに大きな仕事ができあがっていくのだという。
伊藤穣一さんはこの講演の後のsuperviewでこういうのが最近のdesignerだと言っていた。
私たちはデザイナーというとファッションモードの新モードをつくる人というイメージしかなかったが、そういうイメージは間違ってはいないまでも狭い意味だという。
伊藤穣一さんによれば、designは
1) user-centric design (ユーザー中心型デザイン)
2) paticipating design (参加型デザイン)
3) co-deisgn (共用デザイン)
の3種類があるのだという。
これは援助のあり方としても新しいが、これをサービス産業とか企業でも使えるのではなかろうか。
商売とか技術の現場に行ってすぐに自分の会社の利益に直結しないことでも話を聞いているうちに相手の希望とか、やりたいことを援助できて、それがその相手の利潤につながり、かつ、それがまわり回って自分の会社の利潤にもつながるということがあれば、そういうつながりは長い、いい関係になる。
もっともそういう関係をよしとするような経営者がいまどきいるのかどうか。すぐに利益が上がらないとすぐにその部署をなくしてしまうことを考える経営者でないことを望む。
それがどうしようもない部門なのか現在は利益があがってはいないが、独特の取り組みをしている部門で将来性がおおいにあるのかを見抜く力が経営者には必要であろう。
要するに現在の数字としての会社の利益だけを見るのではない度量があるのかどうか。