物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

「たまたま、この世界に生まれて」を読む

2008-10-31 12:38:52 | 本と雑誌

鶴見さんの「たまたま、この世界に生まれて」(SURE)をこの2日ほどかけて読んだ。

そのために昨日はこのブログを書く暇がなかった。それくらい興味をそそられたのである。

読んでしまった後で、この本のどこがよかったのかと言われても、年のせいで読んだ端から忘れるので困るが、読んでいる途中ではプラグマティズムについてもっと勉強して見たいとまで思わせるようなものだった。

日本の哲学会にはプラグマティズムは根付かなかったが、何人かのプラグマティズムにもとづいた考えで生きて来られた方がいるということがわかった。石橋湛山、柳宗悦等である。

この本はもともと鶴見さんの50年以上前の本「アメリカ哲学」と2001年にアメリカで出版されて、鶴見さんがある人のアメリカ土産にもらった本「形而上学クラブ」を中心として議論が展開される。

この「形而上学クラブ」とはプラグマティズムの発祥のもととなった数人のグループのことである。したがって、この本は鶴見さんが「アメリカ哲学」に描いたプラグマティズムよりのプラグマティズムの発祥となったグループの歴史や何かに詳しいらしい。

それを踏まえての今回の鶴見さんの「半世紀後の『アメリカ哲学講義』」となった。しかし、話はそれにとどまらずいろいろに脱線する。その脱線のところも面白い。

副題が「半世紀後の『アメリカ哲学』講義」とあって、こういう副題が付いているので買うのを前にはためらったのだと思う。しかし、この副題を恐れる必要はなかったのだ。哲学を専攻していないものにも十分にわかる内容である。

今回「悼詞」を購入するついでにこの本を購入したのだが、本当によかった。


鶴見俊輔『悼詞』

2008-10-29 13:21:46 | 本と雑誌

先日注文して昨日手に入れた鶴見さんの『悼詞』を読んでいる。以前に朝日新聞等で読んだ追悼の詞もあるが、その広がりはもっと広い。その大部分が私の知らない人である。

鶴見さんには自分と意見や思想の違う人でもその人の生き方とか何かに共鳴するところがあれば、敬意を払うというところがあり、それが彼の幅の広さを示している。

彼は自分の出自を不良少年だとしている。そのことはこの『悼詞』にはあまり出てこないが、その不良少年くずれはなかなか几帳面と言うか義理固いというかきちんとした、いわば正座した人という印象をもつ。

ある小さな集まりでの講演をお願いしに鶴見宅を訪問したときが彼との初対面であった。謝礼をわずかしか払えないといったのに快く承知してくれて講演をしてくれた。また、その数年後であったが、松山まで憲法九条をまもる会の総会があったときに講演に来てくれた。これは今になって思えば、彼のお姉さんの和子さんが容態がすでに悪くなっていたのに、以前からの約束だからということで来てくださった。

日本の、いや世界の誇る知性の一人であるのに、彼には偉ぶったところがまったくない。むしろ彼の出自を恥じてはいないにしても、そこから離れて個人として立つというところがあり、その点に好感をもつ。

私と鶴見さんとの接点のもとは武谷三男である。私は武谷の研究論文のリストをつくり、著作目録を作ってその別刷を彼に送ったことから接点ができた。私は彼の判断を通じて自分の先入観を改めたりしている。


交響曲第九

2008-10-28 11:34:12 | 音楽

妻がいまべトーベンの交響曲第九の合唱に出るといって練習している。

毎晩私がテレビを見ていると妻がラジカセをつけて練習で歌いだす。こういうときはテレビを消して、他の部屋に行って小さなテレビをつけるか、それともつきあって練習を聞くことにする。

だいぶん詩の全体を覚えてきてだんだん様になってきつつあるが、それでもまったくドイツ語の意味がわからないで歌うのだからおかしなところも出てくる。

楽譜とCDを買ってきて、CDをつけては聴きながらそれにつけて歌うのだ。こちらまで詩の一部を暗誦できるようになった。Seid  umschlungen  Millionen, diesen  Kuss  der  ganzen  Welt-----。

日本では第九は年末恒例の歌となったが、本国ドイツでは別に年末とは関係がないらしい。

Freude, Sch"oner G"otter Funken,

Tochter aus Elysium,

wir betreten feuertrunken,

Himmlische, dein Heillightum !

Deine Zauber binden wieder,

was die Mode streng geteilt;

alle Menschen werden Br"uder,

wo dein sanfter Fl"ugel weilt.

Schillerのこの詩はべトーベンのこの第九の曲がなかったら、これほどまでに有名になっただろうか。もっとも全体の詩は100行近い壮大なものであるという。

まだまだ第九の合唱曲との付き合いは続く。12月28日のコンサートの日まで。


高瀬正仁著『岡潔』

2008-10-27 11:42:29 | 数学

岩波新書の新著である高瀬正仁著『岡潔』を読んでいる。岡潔は数学の多変数関数論の分野ではよく知られた巨人である。

「岡の前に岡なし、岡の後に岡なし」といっていいくらいの数学者であるらしい。昨今の数学会のノーベル賞ともいわれるフィールズ賞は40歳以前の数学者に与えられる賞だが、これらの賞には無縁だったが、天才というにふさわしい人である。

もちろん岡が数学にのめりこんで没頭したことにより、岡の社会的、世間的な評判はあまりよくない。奇行や失跡等があった人である。だが、その数学的天才はまごうことがなかった。

昔、私は誰かに言ったことがあるが、「彼くらいの才が私にあるのなら、なんと言われても私は意に介さない」と。ただ、こういった天才のまわりにいる人はつきあうのは大変だったろうなと思う。

高瀬の『岡潔』は抑えた調子でこの岡の様子を書ききっている。数学の言葉は出てくるが、式は一つも出てこない。私は1変数の関数論でさえ理解が十分でない方だが、その雰囲気はよく伝えているのではなかろうか。数学者の伝記を書くのは難しい。それは内容が普通の読者に理解が簡単にできるようなものではないから。

普通なら世間的な数学者の奇行とか何かに重点がおかれてしまい、数学の内容への言及は少なくなってしまうのだが、この本には言葉で意を尽くすことができないかもしれないが、その数学的な内容を伝えようとしている。

残念なことは岡の跡を継ぐ、多変数関数論の学者が世界的にいないらしいことだ。岡潔の数学的な問題意識が消えて誰にも受け継がれていないことが描かれている。もう、日本にはそのような社会的余裕はまったく残っていないのだろうか。現代社会における効率化の弊害は大きい。

(217.7.13付記)多変数関数論が応用上も将来において重要であろうというのが岡が多変数関数論を終生のライフワークにした理由であったろうが、いろいろな事情でそれが実現はしていないらしい。それと同時にやはりとてもこの分野が難しいことが挙げられるのであろう。残念なことだが。

(2023.6.12付記)岡潔についての表現を一部改めた。ご本人に対して失礼であったとの考慮からである。前にはうっかり書いてしまい、気がつかなかった。お詫びをしてすむことではないが、お詫びをしておく。

電子辞書

2008-10-25 12:41:19 | 受験・学校

若い高校生に聞くとこの頃はみんな電子辞書を使っているという。これはもうページを繰るという労力から解放されること、外国語の学習が辞書を引くことではないという状況を作り出したということで大いに歓迎されることである。

まだ電子辞書を私はもっていない。しかし、若いときに新聞で読んで知った、「辞書を引いたら、その語に赤線を入れた方がよい」というアドバイスをいまもって実行している。これは主に英語やドイツ語の辞書を引くときに行っている。電子辞書にはそういうことをすることができるのだろうか。多分いまのところそれはできないのではないか。将来的には以前にその語を検索したことを示すこともできるようになるだろう。

辞書に赤線を引くというのは以前にその語を引いたことがあれば、それを思い出すことにもなるし、第一たくさんある語の中で目立つことになるというのが、学習心理学上の利点である。私の英語の辞書ではまだ赤線が引いてある箇所は少ない。

これは英語の文を読むときにはほとんど辞書を引かないで、山勘で読むというのが普通であるからであるが、Dysonの「反抗としての科学(Science as rebel)」を読んだときは夜遅くに仕方なく辞書を引きながら読んだ。物理の書ならあまり使わないような凝った語が使われており、意味の見当が付かないことが多かったからである。現在ではこの本の翻訳がでているそうだが、まだ購入していない。


空襲の夢

2008-10-24 11:31:53 | 日記・エッセイ・コラム

夢をよく見るとこのブログでも書いているが、昨夜は空襲の夢を見た。

1945年、ちょうど6歳のときに5月ごろ遅れて幼稚園に入園したのだが、あるとき空襲警報が鳴った。それで幼稚園は閉園となり、先生が引率して園児を家まで送ることとなった。私は園児の中でも遠いところから通っていたらしく、先生一人と私とで家に帰ることとなった。

途中の I 市の高野山別院の寺の門の前まで来たところ飛行機の急降下の音と何か大きな爆発音がして、私と先生とは寺の門の高い石柱のそばに身をかがめたのを覚えている。その後そういう音は響かず、家に帰り着いた。母が先生にお礼を言ったのを覚えている。

その後幼稚園に行ったかどうか覚えがない。危険ということでもう幼稚園には行かなかったのかそれともその後数日は行ったのかわからない。

後で聞いたところでは私立の女学校に爆弾が落ち、女学校生が何人か亡くなったと聞いた。また戦後しばらくの間その学校の爆弾でつぶれた校舎がそのままになっていたのを知っている。

その日の帰宅途中の夢を見たのか。そのときの飛行機の轟音とともに戦闘機から機銃で狙い撃ちをされているような、そういう夢である。そのときにはまさに自分が狙われている、そういう風に感じたのである。

世の中ではいろいろなことが起こる。現在でも危険は一杯あるが、それでも日本が戦争に巻き込まれるという事態には私の生きてきた、その後の60数年間はなっていない。だが、潜在意識の中にはあのときの記憶が残っていて、こうしてときどき夢になって現れるのであろう。

「希望は戦争」などと怖いことをいわれる方が出てきた世の中であるが、戦争のことを思い出すだけでクワバラ、クワバラである。


香り

2008-10-22 11:40:09 | 日記・エッセイ・コラム

妻が友人からもらったゆりの匂いが部屋に立ち込めている。またトイレに入ると先日買ってきたトイレットペーパーからのいい匂いがしている。

そういえば、半月くらい前になるか隣の家の庭にきんもくせいが咲き、独特のにおいを放っていた。また、仕事場に行く途中の道すがら塀の中から落ちたきんもくせいの花びらの上を車の通った跡がくっきりとついていた。

le nezとはフランス語で鼻の意味だが、香水の匂いを調整する技師の調香師(この場合はun nezと不定冠詞を用いる)の意味もあるといつか聞いた。

人間の感覚として視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚があるが、始めの二つは物理学の対象になっているが、残りの3つはまだきちんとした学問にはなっていないと思う。味覚は主に料理の分野の問題であり、嗅覚は香水とかの分野の問題であろう。

color(色)とflavor(香り)というのは素粒子物理学で最近使われている用語である。色という量子数を素粒子に導入したのは今年ノーベル物理学賞をもらう南部さんである。

baryonと呼ばれる陽子の仲間は3つのquarkからなり、mesonと呼ばれるpi中間子の仲間はquarkとその反粒子antiquarkの1個づつでできているというのが定説である。その法則に反する粒子が見つかったというのが最近の話題ではあるが、一応の定説はこういうものである。

このbaryonを構成する3つのquarkは光の3原色にあたる赤、緑、青だったかの量子数をもっており、全体では無色になっている。いわゆるcolor singlet(1重項)になっている。

そして0以外のcolorの量子数をもった粒子は現れない。mesonの場合もquarkと反quarkが反対の量子数をもつ結果として全体では無色の粒子となっていると考えている。

これがcolorといわれる量子数だが、もう一方ではflavor(香り)という量子数もある。こちらの方はあまりよくは私は知らないのだが、小林-益川両氏が6つのquarkを導入した後でこれらのquarkは2つづつ組になっていることがわかってきて、それらは(u,d), (c, s), (t.b)と名づけられている。

これらはいわば二人兄弟(doublet)が3つある。(u,d)は第1世代, (c, s)は第2世代, (t.b)は第3世代といわれる。flavorはこれらの世代間を区別する量子数なのかそれともそれぞれのquarkを区別する量子数なのかいまはっきりと覚えていないが、ともかくこういう粒子の区別をする量子数だったと思う。

具体的な香りから話がとんだ方向に入ってしまったが、香りもいろいろである。


小さい秋

2008-10-21 12:41:01 | 音楽

先日、ボニージャックスと「ともに歌おう」という伊予銀行創立130周年記念の会の第2部に行ったということを書いた。そのときに「小さい秋みつけた」という歌を聞いたが、そのときにこれは「秋の始めの歌です、または夏の歌です」という紹介があった。

その後だったか、その前だったか秋の兆しとか春の兆しを告げる短歌とか詩をこのブログで紹介した。よく考えてみるとこの「小さい秋みつけた」はまさに夏の暑さにうんざりした詩人のサトウハチロの秋を見つけたという詩なのだ。そのことを気づくのが遅すぎたと思う。

歌の一部を紹介しておこう。

まずは1節から

”目かくし鬼さん 手のなる方へ

すましたお耳に かすかにしみた

呼んでる口笛 もずの声”

つぎは2節から

”わずかなすきから 秋の風”

最後に3節から

”はぜの葉あかくて 入り日色”

とある。サトウさんの心情の本当のところはわからないが、こういう解釈は一つの解釈だろうか。それにしても前に述べたような心情だとすれば、サトウさんはどこからそういう発想をえたのだろうか。妻によればサトウさんは茶の間に座ったままでさらさらとこの詩を書き下したらしいということだ。

明日は「香り」について書いてみたい。


人生の生き方

2008-10-20 11:49:35 | 日記・エッセイ・コラム

土曜日には私たちのテニスクラブでは特別の会をもった。午後の一時から五時までテニスをやり、その夕方からバーべキューパーティである。テニス仲間のK弁護士が企画されたのだが、テニスそのものは私はあまり上手ではなく戦績は負けがこんだ。

それはともかくもパーティで印象に残ったのは税理士のSさんと弁護士のKさんとが60歳で仕事を止めたいという話であった(彼らはわたしよりおよそ一回り年下だから56、7歳であろうか)。彼らは人生とは何かを考えたいというような気持ちの強い人たちであり、お酒にも強くヨットとか車での旅とか趣味をお持ちの方である。一方私は人生とは何かというようなことは考えるタイプではなく、初等的な数学のe-Learningのコンテンツをつくることをこれからの人生の仕事と考えている。もちろん、そんな内容は言わなかったが、そういう違いはある。

別に人生を旅に生きようと趣味に生きようとそれはかまわない。他人が否定をするようなことではないが、そういう人が現にいるのだということを知って人間ってまんざら捨てた物でもないと思ったことであった。

今朝になって妻にいきさつを話したら、「お二人ともお酒が好きだしね」とまったく理解をしていたのには驚いた。長生きをしたいとも思わない人たちであり、人生を恬淡と生きている。私とは少し違う人生のあり方を聞いたのは彼らがこれからを実際にどうするかとは別に興味深いことである。


オシュコーヌ先生

2008-10-17 14:08:17 | 日記・エッセイ・コラム

明日はこのブログはお休みにするので明日の分を今日書いておく。

ムシュー・オシュコーヌはフランス語の先生であった。三高の学生を愛し、三高の学生から愛されたという。私は彼の1回か2回の出張講義を受けたに過ぎない。しかし、それだけの出会いにすぎなくても深い印象を残した。

世間的には京都タワーができるときにその建設に反対した文化人として知られている。もっともムシュー・オシュコーヌは絶対京都タワーに反対だと言った訳ではないらしい。京都駅前からどちらかに数百メートルでもずれていれば許容できるという考えだった。でも結局は元の案どおりに建築された。それは私がムシュー・オシュコーヌに出会った後、数年後のことである。

ムシュー・オシュコーヌのことを話してくださったのはフランス語の長崎広次先生であった。フランス語を勉強しようかと思ったのは大学3年のとき1961年だった。半年だけ仏文の学生たちと一緒にフランス語の初歩の講義を受けた。夏休みまでに大体文法を終われば夏休みに学生がフランスの文を読めるという配慮から特急の講義であった。

理学部からフランス語の講義を聴きに行く学生はあまりいなかったので、長崎先生から私は理学部のムシューと呼ばれた。ただし、後期の講義は時間が空いていなくて聴くことができなかった。長崎先生に学内でときどきあったらフランス語勉強していますかといわれた。

ともかく、いまフランス語はカタコトは話せるとは思うが、難しいことは話せない。しかし、それは大学を出てから一時フランスに留学しようかと思っていたときがあったので、そのためにテレビで勉強したからである。以前はもっとフランス語を聞くこともできたし、話せたと思うのだが、今では心もとない。

長崎先生は大分以前に亡くなったし、ムシュー・オシュコーヌの消息は聞いていないが、フランスに帰られたのではないかと思う。それでも彼の人生のほとんどは日本で過ごされたかたなので、ひょっとすれば日本で亡くなられたのかもしれない。

彼はもちろん日本語も達者だったが、日本に来たころに「六つ」というのと「三つ」というのが区別が難しかったと日本語で聞いた(どうしてかはこれらの語を発音して見てください)。土曜日の午後にあった会話のコースの後で先生に話しかけたら、いろいろとフランス語の学習とか日本語の話をしてくれたのであった。あの熱心さは並大抵のものではなかった。ムシュー・オシュコーヌが三高生やその後の京都大の学生に愛された理由がわかる気がする。

およそ47,8年前のことである。ムシュー・オシュコーヌをアルファベットでどう書き表すのか今も知らない。Hで始まることだけしか覚えていない。


鶴見さんの新しい本

2008-10-17 11:30:26 | 学問

鶴見俊輔先生の新しい本が出たらしい。「悼詞」という本である。らしいというのは読んではいないからである。知り合いの人がなくなったときに追悼の文を書いた。それを集めた本である。

書店では手に入らない本で直接注文をしなくてはならない。少しほんの値段が高いが仕方がないであろう。ぜひ購入して読んでみたいと思っている。それにしても朝日新聞は鶴見さんが好きだなと思う。別に悪いわけではない。こころあたりが、朝日新聞のいいところといっていいのであろう。


これから

2008-10-16 12:40:42 | 日記・エッセイ・コラム

市内某所のレストランでEさんと二人でゴールドスタインの訳の完成を密かに祝った。初校の段階でかなり手を入れたので初校の校正が実質的にこの仕事の完成となった。

もう一人のFさんは忙しいらしいので、今回は誘わなかった。だが、下巻が出版されたらもう一度三人で正式にお祝いをするつもりである。上巻が出てからでも3年が経ってしまった。

これは現在の大学が忙しくなったということの証拠であって、その割には何をしているのかわからない。そして基礎科学の振興とか誰かがノーベル賞をもらったときだけ叫ばれるが、日本の地方大学の実態は無残である。研究費は私が定年の数年前に貰っていた研究費の額の1/3か1/4となった。

研究費はどこかで取って来いということらしいが、応用研究でもなければ研究費を出す企業とか財団とかはありはしない。結局、自分の給料から研究費を捻出するというのが大方の研究者の実情ではないだろうか。

ところが、マスコミ関係でもそのことに危機感を抱く人はほとんどいないし、大学の研究者はもう黙っているしかない。これでは基礎科学を中心として学問が振興されるはずがない。

「科学とは国家がお金を出して研究者の好奇心を満足させることだ」とかいったのはイギリスの物理学者のBlackettだったが、そういう神話はほとんどもう生きてはいない。もちろん、研究費を私用に使ったりする人がいないわけではないが、そういう人はパーセントからするときわめて少ないし、いつかは金の卵を産むかもしれない基礎研究はもう金の卵を産む可能性も根本からか根絶しかけている。

優れたことをする研究者や技術者の少数精鋭主義でいいのかもしれないが、小林ー益川のノーベル賞の陰にはそれにはいたらないが、多くの研究があるのだということを忘れてはいけないと思う。また、そういう科学者や技術者を教育している多くの教育者がいるのだ。

もっとも、最近ではマンガではないかもしれないが、マンガまがいの数学の本まで出版されており、それらも何らかの役に立っていると思う。私も数日前から基礎数学のe-Learningのコンテンツをつくる仕事に復帰したところだ。そういういろいろな積み重ねがあり、教育が進み、科学が進み、技術が進むのである。

予算とか経費をどこかから取ってくるというようなことを断念したところから私たちの仕事は始まっている。そして類似の試みは決して少なくはない。


高精度計算サイト

2008-10-15 12:29:11 | 科学・技術

カシオ計算機のサイトに「高精度計算サイト」があると知ってちょっと覗いて見た。日常生活に使える計算もあるが、専門的なものもある。

専門的な計算はそれについてある程度知識がないと使えないが、それでも確かに役立つと思われる。いくつかの数学の公式も出ている。有用であろうが、そのためにはそれを解説したマニュアルが必要であろう。

私のようにいつも計算をしてきた者には面白いサイトだが、これは将来的には教育のサイトと競合するかもしれない。このころは物理や数学のインターネットのホームページがあって、役立つがそれには大抵数値計算ができるようにはなっていない。ただ、この高精度計算サイトは単発的であって複雑に込入ったものは計算できない。そういう計算は自分でプログラムを組んで処理しなければならない。

サイトのアドレスはhttp://keisan.casio.jp/has10/Menu.cgiである。関心のある方は覗いて見てください。数値積分もできるようになっている。


石手川ダムの貯水率

2008-10-14 12:16:36 | 日記・エッセイ・コラム

平年の貯水率を長い間割っていた石手川ダムの貯水率が平年の貯水率を回復して、取水制限が解除された。夏の間晴天が続き、雨が降らかなかったが、秋雨前線のお陰で雨が松山地方にもしばしば降り、徐々に貯水率が回復して行き、とうとう平年の貯水率を越えた。越える直前に取水制限は撤廃されて、また渇水対策本部も解散した。このようなことは以前にも経験したことである。

松山ではいつぞやのようなひどい渇水があったにもかかわらず抜本的な水対策は行われていない。方法としてはいろいろ考えられるのだが、結局対策の費用が大きすぎるというのが、いままで対策が進まない理由である。確かに渇水対策に莫大な費用をかけると市の財政が傾くというのは本当であろう。

ダムに依存するか、はたまた海水を真水にするかとか方法はいくつか考えられるが、いずれも費用が大きくかかりすぎるというのが市当局の考えである。いまは西条市の黒瀬ダムからの分水をとお願いをしているが、水のことであるから西条市もなかなかうんとはいわない。ところが、黒瀬ダムの運用の費用は赤字だというので、県は西条市にその赤字の補填ということもあって分水をといっているようだが、なかなか話は進まない。

しかし、自然の恵みの雨によってまた市長の首はなんとかつながったというわけである。


体育の日

2008-10-13 14:57:32 | 日記・エッセイ・コラム

今日は体育の日で祝日である。今時分は毎年季節がよくてあまり雨も降らないということで10月10日が体育の日として祝日に選ばれたと聞いているが、今日も晴天である。

今、仕事場の窓から空を見れば、少なくとも雲は見えない。昨日の昼から天気はよくなり、晴天が続いている。

昨日は県の美術館にベルリンの美術館所蔵の日本画のコレクションが来ているので見に行った。もっとも、作品の劣化を防ぐために照明が暗く、また日本画は明るいものばかりではないので、よくはわからないところもあった。

でも、2次世界大戦のときにこれらの絵はどうしたのだろうと思った。どこかに疎開をさせたのだろうか。安全に保管してそれが戦後60数年を経て、日本で展示されるということを思うと大変の一言である。

戦争中は世界どこでも食べるものとか自分の身の安全とかの方が大事であったはずだが、それを乗り越えて作品を保護しようとした人がいたということをこれらの作品が示していると思うとその努力をした人たちの尽力には頭が下がる。こういう人たちがいつもいるのだ。人知れずではあるのだが。