私がつくった理系の大学生のおちこぼれを救うためのe-Learningと高校数学との違いについて考えてみたい。
私のつくったコンテンツには普通に高校の数学で学ぶ多くのことが載っていない。たとえば、分数関数、分数方程式・不等式、無理関数、無理方程式・不等式、三角方程式・不等式等がその主なものだろうか。
2次関数の最大最小とか2次不等式もあまり出て来ない。これは私の教育経験からそういったものにあまり出会わなかったからである。
だから、じゃあ上に挙げたこれらの項目を学ばなくてもいいかというとやはり一通りは学ぶべきであろう。分数方程式の解については、一度武谷・豊田の『原子炉』(岩波書店)でお目にかかったくらいで、本当に必要なことに私は出会ったことがない。
これは私の経験が狭いからであり、無理方程式や分数方程式およびそれらの不等式が絶対不必要だというつもりはない。
だが、高校時代と大学に入ってからの、理系で落ちこぼれそうになっている学生に対しては自ずから力点が異なってくるのが当然であろう。
姪の子が高校生でいま中国の深圳で高校生活を送っている。その彼が今夏休みで日本に帰郷しており、最近会ったら数学が難しくなったとこぼしていた。
それで私の以前につくったe-Learningのコンテンツを参考に送ってあげると約束をしたので、数日前にメールで送った。
その後、電話で尋ねたところではどうもまだそこまで学んでいないという。何が足らないのかは聞かなかったが、どうも上に挙げたような内容らしい。少なくとも三角方程式の解き方について知りたそうな口ぶりであった。
いずれにしても私のe-Learningのコンテンツは高校数学の内容にぴったり一致しているとは言えない。
無料オンライン講座でモンゴルの高校生が勉強してMITに奨学金を得て、入学できたと新聞に載っていた。それを見た妻がだから無料塾に来る必要がなくなったのではないかというが、それは違うと思う。
無料塾はもともと程度の低い生徒の教えるのであるし、もちろんいろいろな程度のオンライン講座はあるが、それらのオンライン講座に触れたいと思うような生徒とか子どもにはなんでも問題はない。
それよりも悪い環境に置かれた子どもがそのようなオンライン講座にたどりつくことは考えにくい。
だから、無料塾も存在価値はなくならないと思うのだが、その存在にも気がつかないのが普通なのであろう。
だが、私が考えていた、e-learningなどは吹き飛んでしまいそうである。もっともそれも本当はだんだんその存在意義は小さくなってはいるが、存在意義はなくならないと思っている。
いろいろな教育の手段ができてきて、学校にいじめとかその他のなんらかの理由で登校できなくなったとしても学ぶことはできるのが、現在であろう。
ただ無料オンライン講座でも登録が必要かもしれないし、そんな面倒なことをしなくても済む、e-learningのサイトがあればその方が当面の役に立つ。
そして、現在では学校で学んでいる学生でも気楽にインターネットのサイトで自分のわからないことを調べることのできる時代になっていることがいいと思う。
無料オンライン講座が最近クローズアップされている。
その中で反転授業が特におもしろい。これはオンライン授業で前もってそれを見てきた生徒が普通の授業ではその内容を確かにするという機能をもっている。
実は大学で何年も教えてきた人なら、いくら口酸っぱく口角泡を飛ばして情熱的に講義してみてもちょっとテストをしてみたら、その講義は何だったかと思うぐらい内容が学生には定着をしていないということをご存じであるに違いない。
昔の学生はそれでも自分で自宅で勉強をして先生の教えてくれた内容を自分のものにしようとしたものだが、最近ではそういう学生はほとんどいない。
それくらい学生は忙しくなっているのである。それで自分の講義時間をあたかも演習の時間のように使って講壇から先生は降りて来てクラスの学生が座っている机間をまわって、それぞれの学生の質問に答えるようにしていたりする。
そいうことをすると確かにただ講壇から黒板を使って講義するよりは定着度がいいのだが、一つ困るのは進度がとても遅くなるということである。そこらあたりが真剣に学生に教えたいと思って先生方が困っているところである。
だから、この反転授業では前もって生徒がオンライン講義を見て来て、対面授業ではその中で分からないところとかわかりにくいところとかを聞いて理解する。または定着させるという方法はなかなかいいアディアであると思っている。
しかし、最低前もって無料オンライン講座を見て来なくてはならないという意味で生徒や学生に無条件に義務を課している。
2013年4月25日の朝日新聞に載っているサルマン・カーンのオンライン講座がどの程度のものかは見たことがないので、わからないが、なかなかの興味深いオンライン講座ではないかと思っている。
(2013.4.30付記)反転授業というのを英語で何というか。flipped classというらしい。
私が知っている言葉でいうと、spin-flipとかflip-flop回路とかぐらいである。spin-flipは電子の上向きスピンの状態が下向きスピンの状態になることだったかと思うし、flip-flop電子回路は双安定回路と言われていたかと思う。
まだ若かったときに、同僚のHさんに教えられて自分でもflip-flop回路をつくってみたことがあった。手元の辞書ではflipは弾き飛ばすというような意味が出ている。
先日の新聞広告で『チャート式幾何学』(数研出版)という昔の受験参考書が復刻されたという広告が載っていた。これがチャート式受験参考書の始まりであるらしい。
私自身はユークリッドの初等幾何学を学校で学んだ経験がないので(大学で解析幾何学の講義の単位を取得はしたが)何ともいえないが、ある人たちには懐かしいものであるのだろう。
そういえば、「考え方」というのがあって、代数では私もこの「考え方」の受験参考書でようやく自分の数学の混迷を抜け出すことができた経験をもっている。
もともとは考え方の幾何の受験参考書が考え方の始まりだと思う。これは藤森良蔵さんという数学の先生が開いた塾かなにかであるが、その教え方を本にして出されていた。
私の高校生のころにはもう考え方は隆盛ではなかったが、それでも子息の良夫先生が学習参考書をまだ出されていた。それで、「考え方」という存在を知っている最後の世代であろう。
私は初等幾何学を学校で学んだことがないので、自分で初歩の物理学を学ぶときに必要な程度の幾何学は自習した。そのためもあって、初等幾何学の学習参考書を大切なものと考えていて、良蔵、良夫先生共著の『幾何学 学び方考え方と解き方』(考え方研究社)とか数冊を古本として購入してもっている。
だが、残念ながら詳しく読んだことがない。いつか読んで見たいとは思っているが、そういう時間がもてるかどうかはわからない。漢字とカタカナとで書かれた文はなかなか読めない。
(2024.4.11付記)
昨日、今日と朝日新聞にこのオンライン授業のことが出ている。多分明日に3回目の記事が出るのであろう。
学校から離れた教育として最近話題の話がアメリカの有名大学とか新しいタイプの会社のオンライン授業である。
そしてそれが無料で受けられるという。無料だが、検定試験とかもあって、その講座を修了すると優秀な人材だというお墨付きをもらえることになる。優秀な人材を欲している、企業に紹介されるとかでオンラインの講座は無料だが、企業とかへの人材紹介業としてペイするらしい。
どうも何かでオンライン講座を受講するとかで、費用をとろうとするようなことは料簡が狭い。
これはそういう画期的なオンライン講座ではないが、私がe-Learningのコンテンツをつくったときにも大学の壁があり、もちろん特定の大学から入力のための財政支援を受けたりしているので仕方がない側面ももちろんあるが、その普及に壁があった。
open sourceということがコンピュータのソフトでも、その発展には大事なこととなっているが、そういう姿勢が大学もなければならないだろう。
もちろん、どこからも財政的に支援とか資金を得られないならば、そういったオンライン授業もできない相談だが、一方で優秀な人材をほしがっている企業があり、そういう企業は紹介してもらう費用を少し払っても優秀な人材を欲しがっているということであろう。
大学に行くなどということは昔は一部のエリートの特権であったかもしれないが、そういう時代は過ぎ去った。
意欲があれば、最高のオンライン授業を受けることができるいい時代になった。大学にこだわる時代ではないのかもしれない。
「大人のための数学勉強法」(ダイアモンド社)という本を昨夜3/4くらい読んだ。246ページのうちで183ページまで読んだ。昨夜、2時ごろまで読んだが、遅くなったので読むのを止めて寝た。
教えられるところもあった。幾何図形の補助線の引き方で、情報を増やすように補助線を引けという。具体的には平行線か垂線が情報を増やす方向にいくという。
幾何図形のことをあまり学校で学んだことがない身としてはなるほどと納得した。私たちは学校で初等幾何学を学ばなかった世代に属している。
初級の物理学の特に力学で初等幾何学の知識が必要になるので、その最少限のところは自習したが、それでも高校で幾何学はほんの2時間くらい学んだだろうか(20時間の書き間違いではありません。本当に2時間くらいしか幾何学を高校では教えてもらわなかった)。
著者の永野裕之さんは東京大学地球惑星学科の出身の方だそうだが、プロの指揮者でもあり、かつ数学塾のカリスマ塾長であるそうだ。本人は高校時代に数学ができなかったと言われているが、それでもその学習法の独自性は先生も注目をしていたらしい。
この本の副標題が「どんな問題も解ける10のアプローチ」とある。どうも大学入試問題を解くということで数学の学び方を実地指導するという本らしい。
しかし、大人に数学の勉強法を教えるというのならいつまでも大学入試レベルに限定すべきではないのではないかと思ったりする。しかし、現に高校生ならこの本は有効であろう。
10個の方法というか考え方をうまく使えれば、大抵の入試問題でも解けるというのは本当ではあろう。この種の本としては予備校の講義を本にした秋山仁さんの「数学講義の実況中継」上、下(語学春秋社)があり、この本はいまでは古本としてしか手に入らないであろう。この本は私の子どもが大学受験のころに出版されていた書である。
秋山さんはその後の受験関係の仕事から退かれて、もっと広範な小学校とか中学校とかの数学教育に重点をおかれるようになったと思う。彼の駿台予備校から出された受験数学対策かどうかは知らないが、一連の叢書が発行されているらしいが、古本でも1万円以上の高値がついており、あまりに高価なので私は購入をしていない。
もっと古くは数学者のポーヤが書いた一連の「いかにして問題をとくか」(丸善)、「数学における発見はいかになされるか」上、下(丸善)、「数学の問題の発見的解き方」1、2(みすず書房)もあるが、昔からこういう数学の発見法に関心がある割にはこれらの本をもってはいるが、あまり読んだことがない。
最近、数列の和の問題に関心があり、最後の本の1巻の一部を読んだりしているが、それでも全巻を通じて読むということにはなかなかならない。
それにしてもそれらの総合的な方々の研究成果の比較検討ができればいいのにと思っているが、私が生きている間にそういう仕事に取り掛かれそうにはない。
夏休みに日本では宿題があるのが普通であるが、ヨーロッパでは夏休みには学校でも宿題がなく、休暇を存分に楽しむという。
母親が日本人で父親がドイツ人の方がNHKのラジオドイツ語講座のゲストであるが、いつだったか日本では宿題を出されて嫌になったと言われていた。その気持ちはよくわかる。
ところが、先日ドイツ語教室のドイツ人R氏から、8月15日までに提出せよと宿題を出された。まったく課題を見ていないが、クラスで学習熱心なOさんや I さんならば、熱心に宿題をするのだろうなと思ったが、私はまったくやる気がない。
Ich habe keine Lust, die Hausaufgabe zu machen.
である。それは私にはこの夏休み中にやらなければならないことがたくさんあるからである。
自分の仕事も二つほどあるのだが、本来は自分の仕事ではないもので、私が少なくとも手を貸さないとまとまらないと思われるものがいくつかある。
どうもそこら辺りが非情になれないというか、でしゃばりというかなのである。これらは放っておいてもいいものもあるかもしれないが、それも惜しいと考えるといけない。
数学・物理通信はもともとlatexで入力した原稿を受けつけており、それ以外は受けつけない。これが原則ではあるが、いろいろな都合でそうもいかなくなり、普通のワードで投稿された原稿でもそれをlatexに入力しなおして、掲載したことがあり、そういう必要がいまでもある。
世の中にはもちろんlatexを自由自在に扱う人もいるが、latexをまったく使えない人も物理屋さんもおられるのである。だが、それらの人が考えたことを少しでも生かしたいと思うと編集人として自分の仕事ではないものも引き受けなければならない。
妻は自分がそんなことで壊れてしまわないようにと忠告をしてくれるが、さてどうしたものか。
無料塾で中学校の理科の中に出てきた、BTB溶液というのを知らなかったので、ちょっとショックを受けた。
それでインターネットでしらべたら、ブロムティーモルブルーという粉末を少量のアルコールで溶かし、それの水溶液をつくれば、中性のときに緑色だが、酸性のときには黄色とか赤になるという。またアルカリ性が強いと青色とか紫色になるという。
私が中学生だったのはもう60年近く前のことなので、BTB溶液などという試薬が出てきて、それを知らなくても不思議ではない。だが、こういうものも知らなかったので私は理科の教師としては失格だと知った。
それとは違うが、ガルなどという単位は最近まで知らなかった。もっとも名前を知らなかっただけでガルは難しいものではない。多分このガルはGalileo Galileiにちなんだものらしい。
ペーハーについてもよく知らなかった。数学のe-Learningのコンテンツをつくったときに、その下敷きにした本の演習問題にペーハーの話が指数の例題として出ていたのだが、その問題の解説が難しく思えたので、はずしてしまっていた。これは指数というか常用対数のいい例であることをようやくわかったのは最近である。
やれやれ、私の理解というのはなんでもこういう不十分なところがある。だから、いつかこのことを解説したエッセイを書いておきたいと考えている。
中学生がいじめに屈して自殺をしたらしいというので、これは昨年のことだが、最近学校の捜索に警察が入ったりしてニュースになっている。
朝日新聞でもそれに負けないようにとでもいうのだろうか。識者の意見や考えがシリーズで掲載されている。
それらはいずれも確かに間違ったアドバイスではないだろうが、私にはそういったいじめを生む人々というか、その雰囲気をなぜ問題にする人があまりいないのかということが気になっている。
別にいじめをする人を弁護したい訳ではないが、いじめをする子どもの心理に分け入らなくてはいじめはなくならない。もちろん、いじめに負けてはいけないから、それぞれの個人が気を強くもって孤立しないようにして、相談を誰かにすることが必要ではある。
だが、どうしていじめの心理が働くのかを基本的に解明できなくてはならないのではないかと思う。いじめをする人たちもある意味ではそういうことでしか、心理的な不満のはけどころをもたないからいじめが起こるのではないだろうか。
もっともそういういじめを社会の仕組みを直すことで少なくするというのはなかなか気の遠くなるような話であって、社会をどのように変革してみても、心理的にいじいじしている人がいることは否定できない。
私も中学校時代に生意気だと思われて、通りがかりに先輩や同級生からみぞおちや腹に一発食らうというようなことがあったが、いわゆるじめじめとした「いじめ」には遭遇しなかった。
それでいじめに対する経験が少ないから、あまり的確なことを言えないのだが、それでもやはりいじめを起こす人々の心理の問題を考えたいと思う。
彼らが心理的に自由にならないといじめはなくならないのではないか。大学の勤務を退いた後で、元の同僚のご本人から、「君を見ているといじめたくなる」と告白されたことがある。
そういう感情を持つ人は大抵の場合、頭もよく優秀な人である。ただ、この人はそれをかなり後であったにしろ、その当時持った自分の感情を告白された。
それで、そういう心理がある程度よこしまな心理であるということを自覚されていたのだろう。だからそれはある程度抑制が効いているとも考えられる。
完全にその方が心理的に抑制をされていたとは思わないけれども。また、そのことで私はその方を恨んだことはないことを言っておきたい。短気な人という印象は抱いたけれども。
それはある機会に私が何の気もなしにした、あるきっかけがあったかとも考えている。それはささいなことではあったのだが。
それよりはずっと以前のことだが、やはり学生から後で「あのころの先生はふうふうだったね。体調もあまりよくないようだった」といわれたことがある。
なにがどうだったのかは詳しいことは忘れたが、それでも自分の心理や体調は、講義をしているときにでもかなり反映していたと考えられる。
いじめはいじめをする者たちの場(社会)であるから、「その場の秩序を壊さない」とそのいじめにいつまでもあう。その場の秩序をいかにして壊し、「いじめのない新しい場(社会)にするか」。これを私の乏しい経験から強調したい。
昨年の10月に有志の方々と「タダ塾北持田」を立ち上げた。昨年は中3生が一人、途中でもう一人来られていたが、どうも認知度が低い。
今年も医療生協などの組合員活動でこの塾の存在を知らせてもらったりしたのだが、今年もまだ申し込みは一人である。認知度が極めて低い。
文字通り、家庭の経済的な事情で塾にいけない中学生に勉強を英語、数学、理科、社会等の科目を無料で指導する。そういう趣旨の塾である。もちろん、名前の通り受講料等はとらない。これはボランティアワークであるが、どうもPRが足らない。
もっともあまり大々的に宣伝すると、既存のいわゆる塾の経営を脅かしてもいけないので、その存在はなかなか微妙である。本当はそういう「無料塾」に子どもをやりたいと思っている家庭には実は情報は届いていないのだろう。
今年の5月末くらいに松山市が築山町の青少年センターで、生活保護世帯を対象にこのような塾を開いたとか聞いた。生活保護世帯等でそういう要望のある世帯は松山市に一度接触をしてもらいたい。
ただ、私たちの塾は生活保護を受けていることを条件にしている訳ではないが、中学生一般を対象にしているところは同じらしい。「らしい」としかいえないのは私のもっている情報が伝聞情報にしか過ぎないからである。
私たちの塾に関心のおありの方は事務局長の田中さんの携帯090-8977-3576か自宅電話964-5845に連絡をしてみてほしい。
本日6月30日13時30分から松山市北持田町の教育会館内の一室ではじめる。教育会館は松山東警察署の近くにある。また、時間は毎週土曜日の午後13時30分から15時30分に開いている。
無料塾を開くという運動は現在の親のもっている生活格差を次代の子どもには引き継がせないようにという意図で各地で開かれているが、それがどれくらいの広がりを見せているのかは私は知らない。
ただ、そういう運動が全国的に出ていることは誰かが何かのためにする運動ではなくて、全国の心ある人たちの草の根運動の一環だろうと受けとめている。
昨夜の深夜、NHKで教育を考える番組をやっていた。途中から見たのだが、深夜の1時30分まで見て、それから就寝した。論者はすべてなかなかな立派な意見の方々であり、それらの方々に別に私は特に異論はなかった。
異論がないなどと言うと話が発展しないが、それぞれさすがにNHKが選んできた方だけあって、なるほどと思わされた。教育について語りたくないと言ったのは、いつも引き合いに出して悪いが、武谷三男である。彼は教育をあまり好きではなかった。彼は教育をそれぞれの個人の独創性を蝕むと考えていたのだろうか。
私などは教育にそれほどのアレルギーはないが、そういう教育をおぞましいと思う方が居られても不思議ではない。東浩紀さんなどは「教育は何をしたいか」が若いときに分からない人たちのためにあると言い切っていた。それも一つの考えであろう。
協同教育を推進する人とか独創性を発揮させる土台となる事を目指して、子どもためにワークショップをしている方とか、ITの会社を経営している人とか参加者はいろいろではあったが、議論が発散するようでいて、それほど発散はしなかったと思う。
教育学者のある方によると、教育は個人のためか社会のためかとかいうテーマがあるそうだが、どちらか一方に偏るべきではなかろうとか、教育の将来性も語られていた。
しかし、全体的にこれからの社会では確かなことはなにもなく、自分で自分のぶつかった危機とか障碍を乗り越えていくしかない。そのために教育が役立てばよいというような論調であったろうか。なかなか一言で要約するのは難しい。
大学入試のシーズンである。入試など嫌だ。思い出したくもない。そういう人もいれば、大学入試を懐かしく思い出す人もあるだろう。いずれにしても現在の社会では避けて通れない関門である。
大学で何を学んだかというと、さて何だったのだろうと疑問に感じる方も居られることであろう。それでも大学で知識の多寡ではなく、なにかを得て卒業をしてほしいとは私などは思っていた。その点は何も残らなかった方もおられるかもしれないが。
アメリカでは大学に入って真剣にいろいろなことを学ぶので、大学を卒業するのは難しいとか。その代わりに大学入試はいくつかのエリート大学を除けば、入学は難しくはないとも聞く。大学入試で事が終わらないからである。一方、日本では大学入試でその人の評価が決まってしまうかの印象をもつ人が多いかもしれない。
現実はそんなに簡単ではなく、大学の偏差値だけでその人の価値が決まってしまったりすることは本当はない。昔、ある会社の取締役である人から聞いた話では大学を出て、その大学の顔が利くのは10年くらいでその後は結局その人のもっている実力で人は評価されるようになるのだという。
この人の話がどれくらい本当かはわからないが、一つの貴重な意見であるとは思う。だから、常に前向きに積極性をもって、日々の精進を怠らないようにしたい。こういうことはもう老年の私がいうことはおかしいが、若い人にはくれぐれも言っておきたい。ことは大学入試で終わることはないのだから。
性懲りもなく、野口悠紀雄さんの『「超」勉強法』のことを書く。
野口さんは「超」勉強法の3原則としてつぎの3つを上げている。
1.おもしろいことを勉強する
2.全体から理解する
3.八割原則
また勉学は意欲で進むとも言っている。どれももっともである。
この3つの原則で説明が必要なのは八割原則であろう。彼は完璧にはやらないでも八割できたら前へ進めという。これも当然であろう。
もっとも時間の余裕ができたら、そこに帰って残りを仕上げることも勧めている。
それにしても野口さんは無類の勉強好きと思える。努力家でもあるのだろう。こういう勉強法とかの本を書く人は大抵勉強家で努力家である。
以前に紹介したことがある、「知的鍛錬法」を書いた地球物理学者の竹内均さんもそうであった。
竹内さんはもう亡くなったが、彼は自分で自分を怠惰にしないために用があってもなくても文章を書くという義務を自分に課したという。なかなか怠惰な私などは見習えない。
昨日、ハードオフ・ブックオフのお店に用で行った。そのときにブックオフを覗いてみたら、野口悠紀雄著「超勉強法」があった。ちらっと店頭で読んでみたら、面白そうだったので買って帰った。それで昨日はそれを読むことに費やした。
270ページの本であり、なかなか役に立つことが書いてあり、おもしろかった。いくつか感じたことがあったのだが、その中で一つだけ今日は「英語の勉強法」について書く。
野口さんの推奨する英語の勉強法は英文の丸暗記である。これは短文の丸暗記ではなくて、あるまとまったテキストの丸暗記である。中学から高校の英語ならその教科書の丸暗記がいいという。
私はこの勉強法をとったことがないのだが、実は中学校のときに塾で英語をならった老齢の先生が私たちに勧めてくれた方法であった。なかなかそれが実行できなくて結局英語は上手にならなかったが、その方法を忠実に実行していたらと今になって悔やまれる。
まあ、学校を出てしまった今となっては問題となるのはどのようなテキストを丸暗記するかであろう。そういう教材というかテキストを、特に一般人用のテキストを数冊だけ例として上げてほしかった。
これは英語ではないが、ドイツ語の関してはそういう趣旨の本が出されていた。1959年発行の万足卓著「ドイツ語への招待」(大学書林)である。この書のことを覚えておられる人は少ないと思うが、ひょっとすると野口さんもこの書を購入されたかもしれないなと思った。私と野口さんとはほぼ同年代である。
ただ、この英語の勉強法での問題はテキストがあってもそれをどのように発音するか、文章をどう朗読するかということは大事なことであって、そのための朗読した音声教材のCDがほしいところである。そしてそれにならって音読しながら、丸暗記をすればいいと思う。このごろは中学校や高校の英語テキストにはそういう音声教材がついているだろうか。
初心者用に不自然にゆっくり読まれた音声教材ではなく、普通の速さで読まれた音声教材があり、それを聞きながら優れた「外語テキスト教材」を覚えれば、いいのだが、そういうものはちゃんと製作されているのだろうか。
もう一つは英語の歌を覚えながら、英語のリズムや発音や音の落ちや語と語の音のつながり等を勉強したらよいという主張の岐阜大学の英語の先生(だった方)のホームぺージか何かで見たことがある。
これもいい方法であると私は思う。しかし、凡人の私たちにはいい教師がついていれば、できるかもしれないが、普通には実行がなかなか難しそうである。
上で外語テキスト教材と書いたが、普通には外「国」語と書くところであろうが、言葉に国は関係がないという、言語学者の田中克彦氏の主張に共鳴しているので、「国」をわざと入れなかった。