そういえば、それ以前にも同じような葬儀をしたやはり同じような労働運動をしてきた方の葬儀があったが、それには参列をしなかった。
私たちの雑談会にその方の奥様がレポートをされたことがあったので、弔電で済ませた。だが、その葬儀も無宗教でよかったという参列した方の話を漏れ伺った。
これからは香奠を辞退した、無宗教の葬儀がふえるのであろう。やはり時代は進んでいるという気がする。
早く来ることもあれば、遅めに来ることもある。岩波書店のPR誌『図書』である。10月号は昨日帰宅して見たら、もう来ていた。
その中のエッセイをあらかた読んだのだが、その中に徳永 進さんという医師の方の書いたエッセイがある。タイトルは「<エビデンス>と<ナラティブ>」。
エビデンスとは証拠とか根拠である。科学とか技術としての医療はもちろんエビデンスがなければならない。ナラティブとは物語であろうが、いわゆる愛情とか感情のある医療ということらしい。
だから、エビデンスは医療に必要ではあるが、それだけでは十分ではない。そういうことを基調としたエッセイなのであるが、ここで感銘を受けたのはそのことよりもあるエピソードである。
95歳の男性の自宅介護の話であるが、その方の生き方というのが印象に残った。その再現はここではしない。
この方は公認会計士の方であるが、親族の話によると山本宣治氏(俗にいう言う山宣氏)の息子であった。
急に私事について一言。
数年前のことだが、京都南座での前進座新春公演を見た次の日、宇治の平等院を見学した後で、宇治川のほとりのレストラン「花屋敷」でグループのメンバーが昼食をとった。そこに松山出身の堺市在住の方が来てくれて、山宣の業績を話してくださった。彼は山宣の研究家である。
昼食後、そのレストランから歩いて10分ほどの小高い丘の上の山宣の墓を訪ねた。
山宣はその墓の文字をセメントで埋められるなどの迫害を戦争が終わる1945年までされたという。
山宣といえば、政治家というイメージしかもたないだろうが、彼は元々は東京帝大卒の動物学者であり、京都大学理学部の講師をしていた。
物理学者の武谷三男が京都大学在学中には、山宣は動物学科の講師だった。武谷の回想に山宣になんかの機会に会ったら、「君は酒もたばこも女もやらんそうだな。それでなんで人生が楽しい?」と言われたというのがあった。
もう私の世代にとっては山宣も歴史の彼方だが、山宣の子孫の話を知るとは思わなかった。
山宣がいつも毅然としていたように、その息子さんも孫さんも毅然としていたという。やはり山宣のDNAは受け継がれているらしい。
自著の『四元数の発見』(海鳴社)を姪に送ったら、その夫の M さんが読んでくれているらしい。
その前に兄に電話をしたら、兄はお前の本は数ページ読んだが、難しくて読めないという。瀬山士郎さんの『読む数学』(東京図書)をいま読んでいるのだが、それに比べると難しいという。
そんなはずはないのだが、といって電話を切った後に、ああ第1章の終りの方が難しかしいことはないのだが、面倒だと気がついた。
それで姪のところへ電話をかけたら、姪の夫のMさん本人が出てきた。それでその旨を伝えたが、すでに第1章は読んだということであった。それに彼は言う。わからないところは飛ばして読んでいると。
そこらが本に慣れている人かどうかによる。数学の本などははじめから読むものと頭から決めていると大抵最後まで読めないものである。
だからということではないが、私は最近は興味があるところだけ読むことにしている。
だが、本を書く人はそういうわけにはいかない。自分も数冊の本を書いているのだからわかるのだが、どうしても体裁を整える必要を感じてしまう。
そうすると、なかなか本来の言いたいことに読者が近づいてくれるまでに読むことをあきらめてしまうことになる。
大抵、数学の本だとはじめに予備知識を導入して、それから著者が自分の一番主張したいところへと記述が進んでいく。そこまで行かない内に諦めてしまうということが実際に多い。
これは数学の本ではないが、むかし鶴見俊輔著『北米体験再考』(岩波新書)を購入後に読み通せなかったが、その後終りの章から前の章へと読んでみたら、なんとか読めたという経験がある。第1章が長くて退屈に感じられたのだ。
遠山啓著『数学入門』上(岩波新書)もそうであった。第1章がどうも関心をもてなかった。それで複素数の章から一つづつ前へと帰っていけば、第1章も読むことができたという経験もある。
本は必ずしも、「はじめから終わりへ」と読み進む必要はない。
以前に、表題をもつ、数学エッセイを愛媛県数学教育協議会の機関誌「研究と実践」に発表したことがある。
ところが、それを代数的な観点だけではなく、解析幾何的な観点も踏まえて書き直して別のところへ発表したいと思うようになった。
これは「四元数の発見」という徳島科学史雑誌に投稿した論文の執筆中にどうもその考えが強くなって、本来の「四元数の発見」の完成が遅れたといういきさつがある。
それでも「四元数の発見」の原稿が優先されるので、その気持ちを抑えていた。
そちらの作業も終わって、ここしばらくの間はルーティンの仕事がない。自由に仕事ができるはずなのだが、なかなか考えがまとまらない。
原始ピタゴラス数を図形的に求めるということで、松坂和夫先生の『数学読本』2(岩波書店)に紹介にある図が表題と関係があるのだ。また、最近購入したF. Kleinの本でも同じ図を見かけたので、関心が深まっている。
これらの説明にはもちろん三角関数の不定積分のときに表題に述べた置き換えをするということへの言及がないのだが、もちろん松坂先生はそのことを忘れておられるはずがないし、F. Kleinの本も同様であろう。
Kleinの方はドイツ語から訳された英文をあまり十分に理解できていないので、大学の図書館に行って、元のドイツ語から日本語への訳本を見て見ようと思いながら、そのままになっている。
一松先生の『解析学序説』上(裳華房)にも同じような図がでているのだが、こちらはどうしたことか図の角度が -90 度回転したようになっており、それには説明がない。
前にこのエッセイを書いたときにはもちろん自分なりの解釈を付加しておいたが、松坂さんやKleinの図の方が一松さんの図よりもわかりやすい。
そういうことにここ数日悩んでいる。
(2016.8.10付記)表題のことについて「数学・物理通信」5巻11号に詳しく書いたので、関心のある方はそれを参照してほしい。誰でもインターネットで「数学・物理通信」で検索すれば当該の号にたどり着くことができる。すくなくとも私には今これ以上のことを書くことはできない。
TEDで先日ガン研究に新しい視点を持ち込んだ中東出身の女性研究者が講演していた。
よくはわからなかったが、ガンが増殖するためには細胞の膜とかがぐちゃぐちゃになっているとかで、もし細胞の膜をきちんとしたものに取り換えるとガンの増殖が止まってしまうというような研究らしい。
それで、私の知りたいことは以前から問題になっているエピジェネティクスとの関係である。大きな意味でのエピジェネティックスの研究分野に入るのかそれともそれとは違った観点の研究なのかということが知りたい。
遺伝子ですべてのことが決まってしまうが、それでも遺伝子の発現を抑える機構があり、遺伝子そのものは変わっていないが、発現を抑えることがあったりなかったりする。そのことがエピジェネティックスで解明が進んできたという風に理解をしているが、それ以外にも新しい観点がありそうである。
細胞生物学の研究をしていて、ガンの発生メカニズムに関心がなかったが、それがガンの発生メカ二ズムに寄与しつつあるという風に私には聞こえたが実際のところはどうなのであろうか。
昨日、徳島科学史雑誌に投稿原稿をe-mailで送った。
さて、これからの1か月ほどが比較的自由な時間である。どうしようか。
三角関数の還元公式の導き方のいくつかをまとめてみようかと考えている。すでに構想はあるのだが、うまくまとめられるであろうか。
最近、著者から送って頂いた、『算数・数学活用辞典』(日本評論社)に、武藤 徹先生が電卓の普及でこの還元公式の必要性が薄れたと書かれている。
その通りではあろうが、ここは自分なりのこだわりかたでまとめてみたいと考えている。
最近、『四元数の発見』(海鳴社)を出版した。
そして、そのことをこのブログでも述べたので、私の四元数を話題としたブログのアクセスが増えている。とはいってもごく少数の人に限られているのだが。
昨日、義弟と子どもたちにこの本を送った。それから姪にも送った。今日か明日には届くであろう。次兄に電話して読んでみるかといったら、読んでみたいというので、次兄にも送った。
もっとも彼が読んで理解するかどうかはわからない。前に『数学散歩』(国土社)という私の退職記念に発行した書を送ったら、時間がかかったが、読んだらしく、親戚の集まりがあったときに、感想を述べてくれた。
次兄は法学部の出身だが、姪の結婚式のときに高校時代の友人がその祝詞に花嫁の父はもともと理系型の人間だと言っていたので、そうかもしれないと思った。
私の兄弟姉妹は彼を除いて理系人間である。だからかどうかは知らないが、彼は常に話が理屈っぽい。
子どもころには彼は気難しい感じがいつもしていた。いまはそれほどないが、それでも小さいときの片りんはある。
私は自分で言うのも変だが、そういう気難しいところがないはずである。またあまりプライドももっていない。
一方、妻はときどきプライドの強さが現れてほとほとその強さに困ることがある。まあ、そんなに大変なことは35年間にいままでにところ2, 3回であるから私も救われているけれども。
NHkのEテレの番組『知恵泉」から。
昨夜は高田屋嘉兵衛の2回目だった。ロシアに人質に取られた嘉兵衛がどうやって自分の苦境を乗り越えて、帰国できるかの工夫であったが、
1)まわりのものを味方につけろ
2)常に行動を共にせよ
という教訓であった。
ロシア語が全く分からない中で、身の回りの世話役の少年からロシア語を一語一語づつ学んでいき、はじめ反感をもっていた自分を拘束した副艦長の相談にのり、一人づつ自分の見方にしていく。最後にはロシア皇帝までも巻き込んでいく。その知恵と実行力には脱帽である。
さらに、副艦長と同じ部屋で寝起きを共にし、その心情を理解していく。誰にでもできることではなかろうが、言葉だけの問題ではなく、その知恵と実行力とまた人柄に敬服するしかない。
副艦長は自分は出世が他の人よりも遅れたというと、それには部下を大切にしなさいとアドバイスをする。そして人間的な信頼を得て行くとかである。
人としての視野の広さというか、自分だけに限らず、ロシアと日本のそれぞれが持つ偏見を一つ一つ取り除いていき、最後には幕府に拘束されていた、ロシア艦艇の艦長を解放させる。
その一つ一つのことよりもその深い洞察と知恵を学ぶべきだろう。
今日は秋分の日の休日である。
私は特別なことがなければ、日曜日以外は休日も出勤である。日曜日はさすがに休むが、これはある程度生活にメリハリをつけないとダラダラしてしまうからである。
それと土曜、日曜はラジオのドイツ語とフランス語の放送がないが、休日は放送があるからでもある。
先日、フランス人の学生に出会ったとき、30年来ラジオでフランス語を学んできたが、実際に話す機会がほとんどなかったと彼には言ったが、実はフランス語は聞いたり聞かなかったりではあるが、30数年を越えてラジオとかテレビの放送を聞いたり、また見たりしている。
だから、本当は少しくらい片言のフランス語が話せたところで自慢にもならないのである。そうはいってもなんでも外国語が片言でもいいから話せるようになればすばらしい。
若い人たちは私のようにフランス語とかドイツ語話さなくても英語を話せれば、十分である。もっともフランスに行けば、フランス語を片言でもいいから話せないと苦しい。
フランスではフランス語しか話さないというのは一種の伝説である。それが、本当のことだとは思っていないが、それでも片言でもフランス語を話した方が、フランス人には心象がいい。
それにそこで住むことになったとすれば、毎朝のパンを買いに行くことも必要がでてくるかもしれない。
これは笑い話の一種だが、パリから数十キロ離れたある村に一家で数日滞在して、そこからパリの観光に通ったことがある。そのときのある日、妻が美容院かパン屋にでかけたとき、入って行くなり、Au revoirとあいさつした。本人は「今日は」のつもりのあいさつをしたのだが、non, nonと言われてポカンとした。
お店に入って行くなり、「さようなら」と外国人に言われたお店の人がびっくりしたのは当然だろう。
だが、間違えてもいいのだ。なんか言葉を発するということが、あなたとのこれから関係をつくるという意味なのだから。
なかなか日本ではお店に入って行くときにこんにちはとか言わない。言う人もあるだろうが、お店の人がむしろ「今日は」というのが普通である。
だが、外国ではお客も「今日は」を言う必要があるのだ。実は私はこのことで大失敗をしたことがある。
「今日は」言わなかったために、お店の雰囲気が変になった経験をもっている。だが、それほどの失敗経験をしてもなかなか「今日は」というのが、むつかしい。
できたら、日本のお店でも郵便局でも入って行くときに「今日は」という習慣をつけておいた方がいいのだが、昨日も郵便局に行ったが、黙って入って行って、挨拶はできなかった。
ようやく自著『四元数の発見』(海鳴社)が発行されて、それの数十部が私のところへ送られて来た。
9月20日のことである。奥付の発行年月日は2014年10月1日となっているから、まだ正式の発行は10日ほど後になる。この発行の日付とは書店に展示される日付のことらしい。
定価は2,000円でそれに8%の消費税がかかるが、自分で言うのもおかしいがお買い得商品である。
もっとも四元数にまったく関心にない人には買うことをお勧めしない。しかし、ちょっとでも四元数とかコンピュータグラフィックスとかのフィギュアーの回転とかに関心のある方にはお勧めする。
もっとも実際にコンピュータグラフィックスでアニメをつくっている人はこの書を読んでも別に上手に作業が進むわけではないことを前もってお断りしておく。
いつも仕事に四元数をつかっているのだが、その基礎はどんなところにあるのだろうかということが気になっている人にはお勧めである。
高校数学だけでこの本は理解できると前書きに書いたが、それは誇張ではない。もちろん、他の知識があって悪いことはない。
前もって前提としている知識は行列のかけ算とベクトルのスカラー積とベクトル積の定義である。もっともベクトルのスカラー積とベクトル積の定義はどこかに書いてある。
行列のかけ算の定義はこの本のどこにも書いていない。もっともちょっとした数学の本にはその定義は書いてあるので、それを黙って用いたことがこの書を読む障害になるとは思えない。
もっとも世の中には結構の数の数学ファンもいるが、数学嫌いの方々は数学ファンとは桁違いに多い。
ある記事を数式を入れて書いたときに、ある知的な方の反応が数式のあるところはチンプンカンプンだが、他のところの言うところはわかったという反応だったので、苦笑したことがある。
中学校数学かそれよりは程度が高いかもしれないが、それでも高校数学程度でわかることだったからである。
数式が出てくると突然拒否反応を起こす人は少なくない。ドイツ人のR氏は全部が全部わからないまでもそういう反応をしないので、彼は理系の人ではないが、R氏には数学アレルギーがないのは助かる。
昨夜、NHKのEテレの「日本戦後サブカルチュア―史」を見ていたら、鶴見済(わたる)の『完全自殺マニュアル』という書が90年代に出版されたということを知った。
この書は自殺のしかたをいろいろ挙げて事細かにその優劣を論じているらしい。しかし、別に鶴見は世の中の人に自殺を勧めているわけでもなさそうである。
ともかくいろいろな自殺のしかたの利害得失を述べたものであり、結局はそのような自殺をしないような人生を送ることを願った書らしい。
それで思ったのが、私のやって来たこととか、まだこれからやろうとしていることは数学版の『完全自殺マニュアル』の作成ではないかということであった。
意味していることは数学版の自殺のしかたを書くということではない。そんなものはありはしないけれども。
意図していることは数学(高校程度または大学初級程度)のある小さな事実をどのように理解するかについて、いろいろな考え方を集めたものである。まるで子どもが昆虫の新しい種を見つけることを楽しむかのように。
有名な「ピタゴラスの定理」はその証明法が1000くらいあるとかで、そのような本も出ている。そういういったことをピタゴラスの定理ほど有名ではない、小さな数学の定理とか事実とかについて調べてそれを集めて書き留めておくことである。
ある場合には全くオリジナルではないけれども、自分で新しい方法を提案することも含まれる。
『完全自殺マニュアル』という本の存在を知って私が思ったのはこのようなことであった。
『算数・数学活用辞典』(日本評論社)を著者の武藤先生から贈って頂いた。
なかなかしゃれた表紙である。算数の項ではひらがなを多く使って小学生でも読みやすいような工夫もされている。
大項目の活用辞典であるから、個々の用語を探したいときには索引を使えばよい。こういう書は著者の思想を色濃く反映しているだろう。
項目の英訳が必ずついているのはいい。同じ出版社の『算数・数学百科』も持っているが、こちらの方は項目の英語がない。それでなぜ英語をつけなかったのかなと疑問に思っていた。
最近の高校の数学で行列が教えられないのか、ベクトル以外の行列のテーマがないのが残念だが、その他の点では満足できる出来栄えである。
こういう辞典の場合に私がすぐに調べる事項がある。対数についてどうか書いているか。ちゃんと「対数は指数です」と書いてある、数少ない書である。
微分は積分の後に「導関数」の項で触れてある。多分最近の教育傾向にこの記述の形態はあっていると思う。高校数学までという制約のためだろうが、テイラー展開がないのは残念である。sin xのテイラー展開には触れているけれども。
円周率という語は簡単だが、英語では長々としてratio of circumference of circle to its diameterとなる。
余数と補数について一言。余数という語は知らなかった。最近では五-二進法が普及しているためであろうか。たして5となる数だという。補数はたして10となる数である。
補数の方は知っていたが、妻がタブレットで検索してくれたところでは補数はもっと一般的な用語らしく、たして桁が一つ上がる数と定義がされているという。この定義によると99と1とか、98と2とかも互いに補数である。
まあ、小学校の低学年では補数として現れるのは10の補数が最初であろうからOKであるが、ちょっと気になった。
武藤先生は数学史思想家であるから、その分野の薀蓄を知ることができて楽しい。
(付記)関数方程式の手法がいくつかのところで使われていて、目新しいが、これが高校生の理解の妨げにならねばいいが。他方、高校の先生等にとっては記述が新鮮に思えることだろう。