物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

東京から帰って来た

2023-11-30 13:56:22 | 本と雑誌
昨日(11.29)東京から帰って来た。孫の七五三のお祝いで東京に行っていた。その後に妻の両親の墓にお参りするというので一日をとった。

義弟と義妹の親切なおもてなしを受けた。わが子も含めて多くの皆さんにお世話になった。義弟はある企業に勤める技術者であったが、現在はある大学の大学院の研究生である。数年前にこの大学で博士号まで取ったという優秀な方である。

妻も私もそのことが誇らしいので、つい口に出てしまうのはお許しを頂きたい。しかし、そのことよりも義弟が退職後も有意義に生きているのがよいと私は思っている。

企業に勤めていたときには優秀でいた方々が勤めを辞めた後で無為に過ごす方がもしかして多いとすれば、こんな残念なことはない。企業とか大学とかを辞めた後で、その方の本当の生き方ができるのではないか。私はそんな風に考えている。

verraten

2023-11-25 17:32:08 | 本と雑誌
verratenはドイツ語である。私の覚えていたverratenの日本語の訳語は「裏切る」であり、あまり表向きに使えるような芳しいものではない。

しかし、最近覚えた使い方は「こっそりお教えします」という使い方である。これだとそれほど芳しい使い方ではないということはない。この言い方は二重否定で何が何だかわからないかもしれないが。

ドイツ語もいろいろな状況での言葉の使い方を知ることが大切なのであろう。そうはいってもこれがなかなか難しい。「こっそりお教えします」という使い方については辞書を引いてみたら、「機密をもらす」というような意味で出ていた。なるほど、なるほど。

この年になっても苦労すれば、新しい言葉を少しづつではあるが、覚えることができるものだ。






粒子性と波動性

2023-11-24 12:04:17 | 物理学
昨日にちょっと粒子性と波動性について述べたので、これについてもう少し考えてみたい。

古典物理学における粒子像は質量がある小さな箇所にかたまってあり、それらが空間全体に広がってはいない。そういうものとして私たちは粒子というものを考えている。

一方、波は空間に広がっているものとして考えている。波といっても一番よく見てわかるものは水面上の波である。海の沖の方から押し寄せ海岸に打ち上げる波だってそれを利用してサーフィンをする人には小さな場所に固まった波などはない。それだったら人が波乗りなどできないからだ。

海岸に打ち寄せる波はそれほど空間に広がっているわけではないが、それでもある種の広がりを空間的にもっている。これはなかなか目で見ることができないが、ラジオ波の電波だとかテレビの放送を伝える極超電波でもこれはすくなくとも空間に広がっているイメージであろう。

ちなみに波って何と言われれば、ある場所での振動現象がその周りの空間に広がっていくことである。振動と波動とは親戚である。もっとも振動自身はある箇所に留まったくりかえし(周期的な)の現象であるのに対し、波はその振動がつぎつぎにまわりの空間的に伝わっていくことである。

だから古典物理学的には粒子像と波動像とは全く別の現象であると考えられてきた。だが、電子のようなミクロの実体entityになるとだが、電子は古典的に粒子と考えられてきたが、どうしても波動的な性質を持ち合わせた実体である
という風に考えなくてはならない現象が見つかったのである。

その証拠に物質(この場合に結晶を考えるのが普通だが)に電子線を当てると波動性の電磁波(たとえばX線)を当てたときに得られるような結晶による電子線の回折像が得られるのである。このような結晶の観測手段は電子線回折といわれている。

波動による現象としては波の干渉だとか回折の現象がある。粒子にはこういう干渉とか回折の現象は起らない。だが、粒子と思われていた電子にもこういう回折現象が起こることがわかったのだ。さてどう考えたらいいのだろうか。

逆に、光とか電磁波は古典的には波であると考えられてきた。ところが光にも粒子性を認めなければならない現象が存在することがわかってきた。

それは光電効果であった。その上に電磁波の一種であると思われてきたX線にもその粒子性を表していると思われる、Compton効果が存在することもわかった。

ミクロの世界では対象とするものは粒子性と波動性との両方を持つことがわかった。このことをどう理解するのか、これは20世紀のはじめのころには深刻な物理学のテーマであった。これを理解するために量子力学がつくられたのであった。


真実は一つか

2023-11-23 12:23:11 | 物理学
自然現象で学問の対象になるような場合だと真実は一つに決まらないと学問として成り立たない。これは普通には認識されている事実だろうか。

だが、人間的な感情においてはどうだろうか。なかなかそうはいかないのが実状ではないだろうか。だからときどき一つの事件を複数の立場から見た映画や演劇とかがあったりする。

だから、どちらかがまちがっているとは言えないことがであるのではないだろうか。こういう風なことを考える機会がたまたまあった。

当事者にはやりきれなくて、相手が正しくないと思うことはままありそうだ。だが、感情的なことではどちらもそれなりの真実味があるということだ。そういう観察をしてというかその場では思わなかったが、後で考えてみるとそういうことではなかろうかと思えることを見聞した。

物理学のことでもそれに似たことが起こった。電子は質量があって、古典的な粒子として考えられてきたが、それを覆す考えがde Broglieにより1924年に提唱された。電子の物質波仮説である。もちろん、この仮説、電子は粒子的性質をもつが、一方で波動的な性質をも併せ持つということが現在では正しいことが知られている。

現実の世界では電子は波でもあり、粒子でもある。しかしこれは古典的の考えでは波であるものは粒子ではないし、粒子である物は同時に波であることはあり得ない。

だが、これは量子論の立場からはそういうことが可能になる。それだけ物の見方が高次の論理的なものになっている。それは観測するという行為が、例えば電子の運動量を観測するのか位置を観測するのかによって電子はその振る舞いがちがうからである。

こういうある意味で弁証的ともいえる見方を現在ではしている。それも別に弁証的な見方だともあまり意識せずにである。


Tout est bien qui finit bien.

2023-11-20 14:46:23 | 本と雑誌
                  Tout est bien qui finit bien. 
     (トゥ エ ビャン キィ フィニ ビャン)

   (フランス語のできる人は読みのカナを無視してください)

直訳すると「よく終わるものは、すべてよい」とでもなろうか。これは私が高校生の頃に覚えた英語のことわざ
     All is well that ends well
に対応しているであろう。日本語でも「終わりよければすべてよし」と言われるだろうか。wellはフランス語でbienと言えばいいのだとわかる。isはestになる。

またendsはfinitとなっている。終えるのフランス語の不定詞なfinirであるが、3人称単数に対応した変化はfinitとなっている。この場合にフィニットとは発音しない。フィニである。フランス語では単語の語尾の子音は特別な語以外は発音しないから。

単語の語尾にあっても発音することのある子音の語はc, f, r, lである。carefulと覚えなさいとフランス語の先生によく言われる。
 

『三次元の世界』

2023-11-20 10:12:53 | 本と雑誌
『数と図形の話』(岩波書店)の「地球儀の幾何学」を読むのを諦めたと先日書いたが、その代わりに『三次元の世界』(ほるぷ出版)を読んでいる。

こちらの方がずっとわかりやすい。第6章「球面の幾何」と第7章「経度・緯度・地図」のところである。地図の箇所は十分にはまだわかっていない。

それと球面三角形の内角の和は2直角=180度より大きく6直角=540度より小さいという定理がある。この本の図には内角が170度の描いているらしいのだが、あまりよくわらない。ここはもう一つ工夫が必要に思われる。

この本は最近日本図書出版から復刻出版されている。そのとき数教協の主要なメンバーだった人々がこれらの本を読んで再編集しているので、新しい版ではそこらあたりが改善されているのどうかはわらないが、改善されているかもしれない。すくなくとも私は修正したほうがいいという見解である。

愛媛県立図書館にはこの復刻版があると思うので借り出して読んでみたい。もしそこらが改善されていないならば、その改善したものを作っておきたいなどという気持ちが起こっている。

先日書いた『立体幾何学』(日新出版)はよく読めばわかるのだろうが、読むのに苦労しそうである。

球面の幾何学とか球面三角法とかのわかりやすい本がほしいと考えている。新沼恒次郎の『球面三角法』(冨山房)の現代版をつくる必要があるだろうか。







諦めた

2023-11-18 12:53:43 | 数学
昨日、「地球儀の話」という『数と図形の話』の1つの章を読もうとしていると書いたが、これは私には読めないことが分かったので読むことをあきらめて他の本をまず読んでみることにした。

「地球儀の話」で引っかかるところが出てきたから。私みたいになんでもずっと納得して読みたい気持ちの者にはこの本は初読には適していない。頭のいい人には何でもないことだろうが。だから他の本を読んでこの章の引っかかった箇所を解決しながら読む必要があるということだ。

この本の対象者は中学生であるのに、私の頭は中学生以下であることが証明されたのであろう。それでいま考えているのは『わかる三角法』(日新出版)の球面三角法と『わかる立体幾何学』(日新出版)の球面三角形の箇所である。これらが読めるかどうかはわからない。


球面三角法

2023-11-17 11:57:01 | 数学
私は球面三角法を学んだことがない。これはもちろん学校でということである。なんでも学校で学ぼうと思ったりすることは退廃の極みであろうか。

「岩波科学の本」というシリーズの中に『数と図形の話』(岩波書店)という本があり、その中に「地球儀の幾何学」という章がある。全体で70ページくらいなのだが、これが読めない。特に最初の節が読めない。それでそこを飛ばして読もうとしている。

昨夜少し読んだがまだ20ページには行かない。読めるだろうか。今さっき調べたらまだ10ページほどしか読んでいなかった。もっともこの後の方には前に計算をフォローしたらしい紙片が挟まっていた。

私は短気で根気がなく、かつせっかちと来ている。これくらい短所がそろっていては偉い人にはもちろんなれない。まあそういうことは自分自身のことだからよくわかっているつもりではあるのだが。

ともかく球面三角法はいつかは納得したいと分野の一つであることはまちがいがない。

それと球面三角法の短い記述が秋山武太郎『わかる三角法』(日新出版)にある。これも30ページそこそこなのにまだまったく読めていない。

Umstand

2023-11-17 10:41:34 | 外国語
なかなか言葉を覚えられない。いや、この年になるとつい先ほどのことを思い出せない。

だから短期記憶がだんだんいかれてしまっているのだろう。

大体私は記憶のいい方で、これは自慢になるが、1976年2月にフライブルクのゲーテ・インスティテュートでドイツ語を学んでいたとき、前日に洗濯物は普通die Waescheと複数でいつも使うと先生が言っていたのを覚えていて、それをつぎの日にもう一度授業中にクラスの全員に聞かれたのだが、Wagensonner先生が昨日そういっていたと発言したら、Sie haben guten Memory. とお褒めを頂いたことがある。

ところが最近は午前に起こったことを午後に思い起こしにくいというようなことが起こる。特に、記憶するようなことはなかなか難しくなっている。

昨夜のドイツ語のクラスで出会った言葉にUmstandがある。「面倒なこと」「面倒」とその意味を思っていいだろう。もっとも辞書のはじめには事情とか状況と訳がついている。

Machen Sie bitte keine Umstaende.とか言われれば、 日本語では「おかまいなく」とでもいうのだろう。ともかくこの語は私には定着していなかった。今回はじめて印象に残った語である。


「ごぼう」のドイツ語

2023-11-16 10:42:46 | 外国語
先週だったかのドイツ語のクラスで出てきた言葉にKletteがあった。日本語で言えば牛蒡(ごぼう)である。もちろんこういう言葉は知っていなかった。

これはある方のご自分に起こった話に出てきた言葉である。それを昨日になって、zoomの記録として残してある、ホワイトボードの記録から昨日見て、辞書を改めてひいて確認したのだが、今朝になって思い出そうとしても思い出せない。

独和辞典を引いてみたのだが、Kleeという語はあるが、牛蒡がどうドイツ語で言ったか思い出せない。ホワイトボードの記録をもう一度見に行けばいいのだが、それも面倒だ。

結局、和独辞典のお世話になることにして和独辞典を引いてみたが、牛蒡に対応したドイツ語はdie Schwarzwurzelとなっていて、私が昨夜見た語とは違っている。困ったなと思ってよくよく見るとその後ろにdie Kletteとも書かれていた。これだ、これだ。

はじめに出ていた牛蒡のSchwarzwurzelは直訳すれば「黒い根」とでもなろうか。ちなみに最初にあげたder Kleeは男性名詞でクロバーのことである。この語も私は知らなかった。

また、klebenという動詞もこの牛蒡の話が出て来たときに使われていた。これは私も知っている動詞で「貼り付ける」という意味で使われる。牛蒡の葉か何かが衣服にくっつきやすいという話だった。

腕時計

2023-11-15 12:31:29 | 本と雑誌
腕時計は私には縁が遠い。

もう半世紀以上も昔の学生のころ、腕時計をしていた金属のバンドが切れたので、皮のバンドに変えたら、腕首がかぶれてしまった。

あわてて金属のバンドに戻したが、それでも汗でかぶれるようになった。それで腕時計はしないようになった。それでも大学で授業をするときには講義の残り時間が気になるので、腕時計を持っていって教卓に置いてあった。

しかし、授業とかに関係がなくなって久しいので、カバンに腕時計を入れていたが、そのうちにその時計が壊れてしまった。

その後、腕時計はなしですんでいる。もし時間を知りたければ、近くの人にいま何時ですかと尋ねることにしている。ご自分の腕時計で確認して教えてくれる人もいれば、スマホを見て教えてくれる方もある。

いつだったか大学院での後輩だったある方と話していたら、腕時計を持っていないことに関してだけはさすがに真似ができないと言われた。




11月の子規の俳句

2023-11-14 12:39:52 | 本と雑誌
11月の子規の俳句を挙げておこう。

いまさきほども妻が来年のカレンダーが来たのでもう来年が来たとかつぶやいていた。

さてそれはともかくとして

   野の茶屋に蜜柑並べし小春かな   (子規)
   
          tea stall in the field
          tangerines in a row
          Indian summer                                        (Shiki, 1896)

さて、ミカンはorangesというのかと思ったが、tangerinesは知らなかった。

mandarinという語は知っていたが。これを知ったのはドイツのフライブルクでのドイツ語の研修のときにイタリアから来た化学者Rollaが大学のメンザで小型のオレンジが出て来たのを見たときにオオ、マンダリーノと喜んだが、このときにはじめてマンダリンという語を聞いたのであった。

mandarinoはmandarinの縮小語尾-inoがついている。mandarinoはイタリア語
で小さい物に付く縮小語尾である。物理を学んだ者はニュートリノ(neutrino)
という質量の小さくて電気的に中性の他の粒子とあまり相互作用しない粒子が
あるのを知っているだろう。


おもしろい短歌

2023-11-13 10:29:47 | 本と雑誌
おもしろい短歌などと言ったら、失礼に当たるだろうか。 

昨日、朝日新聞を見ていたら、こんな短歌が出ていた。読者の投稿した選に入った短歌である。

  数学が嫌いだけれどマイナスの二乗がプラスになるの大好き 

というのである。新聞に名前が出ているのだからここで名前を出してもいいのだろうが、一応遠慮して名前は出さないでおく。松山市在住の女性である。

 私も50年以上松山市民であるから、比較的近いところに住んでいる方といえるだろう。私が注目しているのは   

 マイナスの二乗がプラスになるの大好き 

ところである。数学教育ではどのように教えられているのだろか。 私が学んだ中学時代に数学教育では天下りに負数を含んだ数の計算の規則として覚えなさいと教わったと思う。 

さて現在ではどうだろうか。大多数の中学校の教師はやはり単に負数を含んだ数の計算の規則だと教えているのかもしれない。 

数直線を考えよう。0を境にして0の右側が正数であり、0の左側が負数である。 ー1をかけることはその数直線を0を中心にして180度回転させることである。

そうすると、すべての正の数はすべて負の数となり、逆にすべての負の数は正の数となる。 負の数を二度かけることは数直線を0を中心にして2度180度回転することである。

 正の数にマイナス(負)の数を掛けるとその正の数がすべて負の数となる。さらにもう一度マイナス(負)の数を掛ければ、その負の数は今度も0を中心にして180度回転することになるから、元の0の右側にもどってくる。

こういう説明を聞ける中学生は幸せである。そういう教え方を知らない数学教師が多いのかもしれない。本当のところは、そういう教師は今では少なくなっていれば幸いである。

いやいや、作者の気持ちをまったく考慮していなかった。作者はネガティヴ(negative)のことが二回あるとポジティヴ(positive)になるところが好きなのであろう。

postiveは英語では数が正であることを意味するが、また積極的なことも意味する。同様にnegativeは英語で数が負であることも意味するが、また消極的のことも意味する。

作者に数学が好きになってほしいなどとは言うまい。だが、そういう機微が数学にもあるということを知ってほしいなどと思っている。

以前に購入したつもりの本も

2023-11-11 11:12:05 | 物理学
以前に購入したつもりの本も現在の時点で書棚を探すのだが、どこに行ったか分からない本が多くある。

これは一般に私のもっている本全体のことを言っているのではなくて、江沢洋さんの書いた本というか、彼が編集したとか解説したとかなんらかの関係をした本についてである。

どこかにあるだろうが、ちょっと探したら、出てくる本もあるが、どこにあるのかわからない本もある。これは特に書棚の高いところにある本は探しにくいということもある。

さらに私のもっている本が結構多く、書棚に2重に入れてあったりするので、どこかに確かに存在はするのだが、すぐにはわからないという本も確かにあろう。

それだけではなく、ひょっとしたら購入したつもりで購入まではしなかった本もあるに違いない。

それくらい江沢洋さんの活動範囲は広かったということだろう。

日本の古本屋で2003年の時点で出版された「江沢洋博士の著作目録」という冊子が古本市に出ていたので昨日もう一度見て購入しようかと思って探したが、売れたのかもう残っていなかった。一日遅かった。


気持ちが続かないので、

2023-11-10 12:48:59 | 数学
気持ちが続かないので、「因数分解の水道方式」について調べて書くつもりだったが、「積分下でのパラメータでの微分による積分」についてちょっと調べてみたらと思い出した。

実はこのことをウッズが書いた本のコピーを持っているのだが、それに関心が起こったのだ。そしたらこの本に触れたストロガッツの『二人の微積分』(岩波書店)が気になった。これにウッズの本のどのページにこの方法について書いてあったかが書かれていたことを思い出したからである。

そしてそのテーマを扱ったところを見たら、なかなか面白そうなことがそこに書かれていた。ということでふらふらしている。

「積分下でのパラメータでの微分による積分」については私も3つも数学エッセイを書いている。だから私の気持ちとしてはすでに解決済みのことであったはずだ。だが、ウッズが私のとりあげた例以外の積分の例を取りあげているのではないかと思ったのだ。(関心のある方は「数学・物理通信」の当該のエッセイをインターネット検索してごらんください)

ころころ気の変わる私の心である。