物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

Grossのノーべル賞受賞講演

2007-04-28 12:35:48 | 物理学

最近号の素粒子論研究4月号に2004年度のノーベル賞を受賞したGrossの講演の翻訳が載っている。まだ全部読み終わったわけではないが、興味深い。

Grossはいま漸近的自由という用語で知られているnonabelian gauge 場の量子論をつくった人の一人である。ノーベル賞はあと二人の人と共同受賞だが、彼がその中で一番年上でかつ見通しもしっかりしていたと思われる。

また、もう一人受賞者のPolitzerはS. Colemanの学生で漸近的自由をもつnonabelian gauge 場の量子論をつくれるかというのは、Colemanから出された課題であったらしい。

PolitzerとColemanの関係は電弱理論のくりこみを課題として't Hooftに与えたVeltmanと似たような関係にあるようにも思われる。

もっともVeltmanは't Hooftとノーベル賞を共同受賞しているのである程度報われたが、それでもVeltmanの心理的葛藤は大きくて、彼はその後オランダから離れてアメリカの大学に勤めた。

現在ではまた故国オランダに帰っているようだが、そういう心理的な葛藤の問題は量子力学の行列力学の創設者Bornにもノーベル賞を単独受賞したHeisenbergに対して同様にあったことはよく知られている。

私の関心は武谷三段階論との関係からであるが、Feynmanのparton模型のことには言及してあるが、しごくあっさりとしたものでむしろscalingの成立する場の理論を求めたという観点がGrossの見解には強いように思われる。

武谷三段階論の観点からは実体論的段階であるparton模型が重視されるのであろうが、Grossにはそういう感じが彼の語るところではない。

現象論としてのscalingから直接にではないにしても本質論的段階としての摂動的QCDである漸近的自由な場の量子論がつくられたという感じがしている。もう少し詳しく知りたいところだ。

しかし、実際にはparton模型という段階を経ていることがあっさりとした彼の言説の中にも認められる。


武谷三男の年譜作成への試み

2007-04-25 16:11:48 | 科学・技術

武谷三男の年譜を作成することを始めたいと思うが、そのための文献としては「思想を織る」、「聞かれるままに」、「原子力と科学者」、「素粒子の探求」等が役に立つだろう。

武谷は自分は湯川、朝永のような立派な学者ではないので自伝を残さないと言っていたが、実際に「思想を織る」とか「聞かれるままに」には自分の生い立ちについてのかなり詳しい言及がある。特に「思想を織る」は自伝的な色彩が強い。彼はそれでもこれは自伝ではないと言い訳をしている。

湯川秀樹の詳しい年譜は故河辺六男さんがつくられて、「湯川秀樹著作集」に載っている。それに対応するものをつくりたいと思っているが、現在までのところ取り掛かることもできてはいない。8月には徳島科学史学会の総会があるので、それに向けた試論をそろそろ用意したいと思う。


続これからしたいこと

2007-04-22 19:41:05 | 数学

2005年11月2日に「これからしたいこと」という題で書いたときが、その中で「球の体積」、「Lagrangeの恒等式」の2つについては処理済である。

だが、その他の「定積分を求める方法」、「ガンマ関数」、「超幾何関数」、「曲線座標」、「逆格子ベクトル」、「Green関数」、「Lameの定数の導出」、「電磁気の単位の換算」についてはまだ構想とか草稿の一部があるにすぎない。

さらに「解析接続」、「複素積分」、「Laplace変換」といったテーマはその構想もまだまったくできてないが、いつかは取り扱ってみたいテーマである。特に「解析接続」は以前から気にかけているテーマだが、それが果たされていない。

きっかけは今村先生の「物理と関数論」に解析接続のやり方は3つあるとして項目が挙げてあるのだが、その具体例を挙げてはないことから具体例を挙げてある本を探している。

私がいま一番いいと思うのは松田慧さんの書いた複素関数(岩波書店)の本である。それと高橋秀俊先生の解析接続の仕方を解説した新しいテキストを見たことがあるのだが、いまそれがどの本にあったかは覚えていない。そういうことでなかなか宿題ができていない。

(2012.2.9付記) 上に述べた数学エッセイの項目のうちで「超幾何関数」だけその1を書いたが、あとはどれも草稿があるのみである。「解析接続」、「複素積分」、「Laplace変換」は構想もできていないのは変らない。ああ。


講義の開始

2007-04-16 14:56:59 | 受験・学校

今年の講義が始まった。先週から始まったのだが、先週はガイダンスとかでまだ本格的ではなかった。ちょっとおしまいの方で時間が足らなくなって、加速度のところが駆け足になってしまった。次回に補うことにしよう。速度は分かってきたようだが、加速度はよくわからないという学生が何人かいるようである。それと単位の換算がすっとできないようである。

単位も普通の数のように計算するということを知らないらしい。この点も補足しなくてはならない。物理をやったことのある人の常識は普通の人の常識ではないのだ。大変、大変だ。そういうことをいままで一度も学んだことがないというのはなんと嘆かわしいことなのだろう。

これは別に工学部の学生でもそうだったから、薬学部の学生だけがそういう基本的知識が欠けているわけではない。しかし、それにしてもなんとか高校までにならないものか。


年year

2007-04-12 17:04:50 | 日記・エッセイ・コラム

英語で会計年度ならfiscal yearだし、学年ならacademic yearだろう。普通の暦年ならcalendar year だろうか。日本ではfiscal yearとacademic yearとは一致しているが、これは世界各国で必ずしも一致しているわけではない。

学校の新学期は9月というのが世界の大勢であろうか。これはヨーロッパなどはやはり夏はいい季節なので、そのときを十分に太陽の日にあたって冬に備えるということがあるからなのだろう。夏が厳しい日本とは考え方が根本的に違っている。

雲の中に首を突っ込んでいるようなうっとおしいヨーロッパの冬を経験すると彼等が夏を大切にする気持ちが分かるようになる。また冬から春にかけての行事としてのFastnachtは彼等の気晴らしのためにも大切な行事だ。精神的におかしくなっているときFastnachtはヨーロッパの人々の精神の鬱屈を爆発的に晴らしてくれるのだという人もいる。


ブログの効用

2007-04-11 14:25:38 | 健康・病気

長男が自分がやっているブログを閉じたいと言っている。しかし、テーマはなんであってもいいがブログが更新されていれば、少なくとも彼が元気でいることは分かる。電話もかけられるが、そういつでもかけられると本人は嫌だろう。

しかし、親というものは苦労性なものでいつも子どもが元気でいるか、気にかけている。それでブログはそれを更新している人の健康のある程度の証だというわけである。そういう使い方をしている人はあまりいないかもしれないが、少なくとも私はそういうことを気にかけているのだ。

二男の方はブログを長男と同じごろに始めたが、その後ブログを閉じたのでその動静がわからない。そういうことがつまらないかもしれないが、親子の意思の疎通を阻害していたりすることにつながっているのだ。かく申す私も常にブログを更新しているわけではないが。


花見と風力発電

2007-04-07 15:54:36 | 日記・エッセイ・コラム

佐田岬は半島でも中途半端な半島ではない。40数キロにわたって九州の方へ向かって伸びている。先日お花見を兼ねて一泊どまりでこの半島へ出かけた。四国電力の伊方原発があるので有名なところだが、そこへは行かなかった。いまでは山の上に風力発電の風車が沢山並んでいた。

風力発電については騒音公害が言われているが、ある環境保存の活動家は渡り鳥がその羽根に当って死ぬから反対と言っているそうだ。確かにそういうことが起こる確率は0ではないだろうが、鳥もそういう危険性を逃れて飛ぶことができないようだともともとその種の生存は難しかろう。

でも私にはそれがもし主な理由で風力発電に反対だというのなら、それはやはりちょっとおかしいと思う。主な理由がそうでないのならば、その訳を知りたい。

人間は自然に働きかけて生きている。確かに人類の生存を脅かすような重大な自然への働きかけはできるだけ避けるべきだと思うが、本質的に人間は自然を利用することによってしか生きられないのだ。そこのところを見誤ると何をしてもいけないということになろう。

将来にわたって何百年も放射能汚染が残るとかいうとこれは人類の生存が直ちに脅かされることになる。だから反対するのは間違いではない。ヨーロッパの反原発の運動はチェルノブイリの原発事故によって自分たちの生存が危うくなったという認識がヨーロッパに広がったためだと聞いた。

環境保護者は環境の保護を訴えるが、それも程度問題であろう。それほど影響がないと考えられるのに狼少年のごとく警告を発するのは本当に警告をしなくてはいけないことへの警告を印象が薄くすることにはならないのか。

また人間は自然に働きかけて生きているという自覚があるのか。それが問題であろう。しかしもちろん野放図に自然を改変して利潤を追求していいはずはないのだが。


「文化としての数学」と吉本隆明

2007-04-03 16:43:14 | 本と雑誌

遠山啓の『文化としての数学』(光文社)につけられた吉本隆明の遠山さんの追悼文がなんだが、心に残る。

吉本隆明の書いたものを読んだことはないが、先入観的にあまり好きになれない人と感じていたが、この文章だけから判断すると彼が遠山さんに何らかの敬意を払っていたことが分かる。

戦後の混乱の中で寡黙ではあるが、すっくと自分の足で立って学問というか自分の生き方を示していたという遠山啓の姿に感動を覚えたに違いない。

戦後の混乱を私も幼少ではあったが、経験してきた。呆然とした感覚も行方を見失った感じも私にはわからないが、そういうときでも毅然として自分を失っていないということがどれほどその当時として希少であったか。それの感覚は分からないでもない。

鶴見俊輔も吉本隆明を嫌ってはいないようだから、私のまったくの先入観をすこし修正しないといけないのかも知れない。