物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

velocityとvelo-city

2025-01-31 11:16:21 | 本と雑誌

velocityとvelo-cityとはどうちがうのかわかりますか。

velo-cityはvelocityを分けて書いただけではないですか。velo-cityは朝日新聞を読んでいて物理用語の「速度」(velocity)の英語が書かれてあると思った。ところがそうではなかった。

velo-cityは自転車国際会議というつもりだったらしい。この会議を現愛媛県知事が松山で開きたいという記事であった。そういえば、自転車のことをフランス語でveloともいうなと思いついた。

mon veloというと私の自転車という意味である。bicylcetteというフランス語もある。

 


私の活動は?

2025-01-28 10:35:30 | 本と雑誌
私の活動は?ということで少しだけ紹介しておこう。

先日の1月25日で20年間続けた月1回開催の雑談会を止めたことは先日のブログで書いた。他に何をしているか。

その一つはこのブログの執筆である。このブログも始めたのは2005年4月末の4月30日だったかであるが、ブログも今年で26年目である。これが私の活動の第2番目である。これはまだ継続中である。現在で7212件のブログを書いている。

もう一つは2009年12月から始めた「数学・物理通信」の発行である。これも現在は継続中である。

人間の活動期に大学に勤めていた人などごまんといるが、大学を退職した後でこういう活動をある程度長期間にわたって継続している人は少ないのではあるまいかなどと勝手に考えている。

もちろん、私だけが頑張っているなどというエリート意識など持っていないつもりである。「それそれ、そういうところがエリート意識の丸出しではないか」と言われればおっしゃるとおりかもしれませんが。

雑談会も友人・知人の集まる場を意識してつくってきたつもりであったが、何せ孤立無援であり、ほかのメンバーからの助力とかの申し出はほとんど感じられなかった。

一度、「雑談会の開催通知をする連絡係をだれか代わってくれませんか」という提案をしたことがあったのだが、積極的あるいは消極的な助力の申し出はまったくなかった。これが今回の止めるという決断の背景をなしている。

私自身はあまりなんでも積極的な方に活動をするタイプではないのだが、それでもここで書いたようないくつかの活動を続けてきた。

他にもこれは知人から頼まれてしかたなくやっていることだが、月の第4週土曜の午後以外の毎土曜の午後に「ただ塾」の中学数学の先生もしている。

最近は、この任務が私の活動の大きな一部となっている。こうしてみると人間って、しなければならないことは結構あるものです。

雑談会を止めて、第4週の午後も時間があいたので、この週に代わりに講師を引き受けてもらっている人の代わりを引き受けることになるのだろうか。

ここで、自分の個人的な活動については触れるつもりはない。そういう活動が本当は私のしたいことである。


新しいパソコンの購入

2025-01-27 12:57:09 | 本と雑誌
先日edionの南松山店に行って新しいパソコンの購入の予約をしていたのだが、今日その新しいパソコンが入って設定をしてもらったばかりでこのブログを書いている。

実は妻が子どもにおねだりをして費用の大部分を拠出してもらって、購入した新しいパソコンである。

面倒な設定もしてもらったので、今回は面倒なことはほとんどなかった。ただlatexのdvdを再度読み込ませる必要があるが。

字の大きさとか画面の大きさとかポインターも大きくしてもらった。老眼でも見やすくなった。むしろ今では大きすぎるのではないかというくらいである。


近藤康太郎さんに会う

2025-01-26 15:41:29 | 本と雑誌
朝日新聞の名物記者・近藤康太郎さんが松山に来られるというので、会う約束をしていたのだが、昨日の午後4時過ぎご当人に直接に会うことができた。もちろん始めての面会である。

どうして知り合いになったかは省くことにして、数学にも近藤さんがどうして関心を持ったかをご本人から聞くことができた。

いろいろな本の著者でもある近藤さんは文章を書くことは職業でもあるし、好きでもあるが、数学も言語の一種だと思われたことが数学に関心を持たれたきっかけらしい。

これは彼の高校時代の数学の先生でクラス担任でもあった名物教師・武藤徹先生の影響によるものだという。

数学が言語であるという考えは数学者の中には否定的な方もおられようが、そういう側面をも数学が持つことは否定しがたい。

近藤さんのような一芸に秀でた人ともなれば、自分の専門領域以外の他の分野でも鋭い独自の見解と直観で持って観ることができるということであろうか。




雑談会を終える

2025-01-26 15:22:43 | 本と雑誌
2005年から主宰してきた雑談会を昨日の2025.1.25でもって終えた。これはこういう試みは個人の努力では維持できないとの判断から終了することを決めたものである。

個人の決定であるから誰からも出席者からは異議はでなかった。というか全く個人の努力でされていたのだから、異論をはさむ余地なだとあり得ないだろう。

もう一年くらい前になるかもしれないが、世話役に誰かなってくれないかと提案したことがあったが、それに対する反応もほとんどなかった。要するに自分が責任をもって世話役になるという覚悟のある人はいなかったということだ。

これではいつまでも続くはずがない。153回目の会合であえなくつぶれてしまった。通常だと月1回のペースで1年に11回は行っていた。

大学を退職した年の2005年に始めたと思うので、ほぼ20年は続いたことになる。いま153を11で割ると約14だが、20年ほぼ続けたことは事実である。

毎回の会のレポートをする人の世話を妻と私以外でして下さった方も数回はあったが、ほぼ私たち夫妻でレポートをする人を都合をつけて会を行ってきた。

その気持の糸が切れてしまったというのが実情だろうか。

原稿を書くべきだのに書かないで

2025-01-24 13:12:30 | 本と雑誌
ガウスの定理とストークスの定理の理解が少しだけ進んだのだが、あまり進んでいないので、原稿を書くべきだのに書かないでいる。

それで昔のベクトル代数のエッセイを引っ張り出してきて修正をしたりしている。数編のベクトル代数とかベクトルについてのエッセイをいままでに書いているが、全部合わせても10編くらいかそこらくらいである。

だが、『四元数の発見』(海鳴社)でも元は「数学・物理通信」に連載した四元数の原稿をまとめて本として上梓したという経緯である。もちろん本とするにあたってはそのときに書き下ろしの章を付け加えたり、補遺をつけたりしている。

だから、基本は「数学・物理通信」に連載した四元数の原稿だが、それだけではすまないのは当然である。ベクトル解析関係の件についても同様にできないかという甘い夢を持つのだから、私はよほど甘い人間なのだろう。

もっともベクトル解析について私のようななかなか納得できない体質の人をこれから救いたいというのが私の願望である。

(2025.1.25付記) しかし、自分自身をまだ救い出せていないので大問題である。推理小説ならミステリの解読に至らないのに物語が終わってしまうというところか。それはあり得ないだろうか。




午後からはただ塾

2025-01-18 11:51:48 | 本と雑誌
午後からはただ塾の中学数学の先生である。

昨晩も魔の金曜日で夕方は夕食が済んだら、ものもいわず中学数学のテクストと首ったけである。

中三生はピタゴラスの定理を取り扱うことにした。今週から来る生徒がいるというから。先週は円の性質としての円周角の定理をやっていたのだが。

中二生には平行四辺形の性質の話をしたい。平行四辺形の判定の条件は5つもある。なかなか性質が多い。

ただ塾はボランティアであるから、もちろん無報酬である。当然ではあるのだが。



妹の夫の1周忌

2025-01-17 12:53:45 | 本と雑誌
昨日はブログを書けなかったのは妹の夫の1周忌で高松に行ったからである。

10時前に自宅を車で出発し、法事をして帰宅したのは午後7時であった。大分の時間は高松までの行きと帰りの時間である。高速道路を平均して時速80キロで走ったとして2時間とちょっとくらいの所要時間である。

それにときどきはトイレ休憩とかのためにサービスエリアに立ち寄るので、行きと帰りの所要時間は4時間を超えるのはしかたがない。

運転は妻がしている。私もまだ免許は返上していないが、53歳で免許を取っていまも保持をしているが、次回の更新時には返上するつもりである。

妻は30歳前後で車の免許を取り、50年の運転ベテランである。それにヨーロッパのアウト・バーンを一年運転した経験ももっている。

だが、雪が降ると困るなと漏らしていたが、幸い昨日は天気がよくて四国では雪の心配は全くなかった。やれやれ。

松浦秀人さんのノーベル賞受賞記念報告会

2025-01-14 09:54:38 | 本と雑誌
昨年の12月10日のオスロであった、ノーベル賞平和賞の受賞式に出席した被団協代表理事の一人の松浦秀人さんのノーベル賞受賞記念報告会が昨日の1月13日に松山市のコミュニティセンターであった。

主催者発表で250人の参加者があった。確かに机の間にも椅子をおいて、一人でも多くの参加者に座る場所を提供する努力もされていた。

主催者も驚くような参加人数であったろう。これは一つには比較的身近の人、松浦秀人さんが関わっていたこともあろうが、それだけではなくウクライナへのロシアの侵攻とか、イスラエルのガザ攻撃がとどまりがないことへの多くの人が心配しているためでもあろう。

愛媛大学の学生のレポートとか平和学の和田先生の話とか、東雲高校の生徒の意見とか所見の発表もあった。

ただ、大国主義とそこの頂点にたつ権力者の権力欲が問題なのではなかろうか。権力者の権力欲は個人的な考えなのでそれをどう牽制していくことをどう実行できるようにするのか。

私は大国がいけないとは言っているのではなく、権力者の意識としての大国「主義」がよくないと言っているのである。それと権力を握った人がその権力をフルに使って自分に反対する人を痛めつけることに問題があるのだ。

すなわち、権力者のある種のわがままを押し通そうとすることに問題があるという気がしている。権力者の圧迫を受けた者たちが権力者の横暴をどうやって規制することができるのか。

または圧迫を受けてはいないが、それを糺すべき市民が反対の声を上げることができるのか。

これは大きな問題である。それができないとかいうつもりはない。どうやって有効にすることができるか。それを真剣に考える時期がきているのだろう。




1月の子規の俳句

2025-01-11 16:48:48 | 本と雑誌
一月になったので1月の子規の俳句を紹介しておこう。

 水仙は畑三反の主かな   子規
 narcissus
    the masters
    of this expansive field          Shiki   1896

今年のカレンダーには今治市大角海浜公園の水仙の写真が載っていてきれいである。おぼろげではあるが、赤い灯台も見えている。

私は今治市の出身だが、大角(おおすみ)海浜公園とはどこなのか知らない。

いま妻に聞いたところでは旧波方町だとのことである。妻は行ったことがあるという。高縄半島が瀬戸内海の海に突き出したところらしい。

Wallpaper

2025-01-10 09:54:49 | 本と雑誌
Wallpaperとは壁紙のことだが、ここではパソコンの背景画面の意味で使っている。本当の名前はどなたかが教えて下されば、このタイトルを変えるつもりである。

さて、日替わりくらいで、このWallpaperが変わっている。今はスイスのRutzernの有名な屋根のある橋が出ている。この写真を見たときに「ああRutzernだな」とすぐわかった。

ところがここを一緒に訪れたことのある妻に「ここどこだかわかる?」と昨晩聞いたのだが、「そんなところには行ったことがない」と剣もほろろの返答である。そんなことはないはずなのだが。

ここは、この橋で有名なところで、知人の日本人のゲルマ二ストS氏がスイス留学時代に訪れて感激したところと私のドイツ留学前に名前だけ聞かされていたところだ。

これは橋というべきだろうが、湖に突き出た橋であり、どこかに通り抜けることはできない橋だったように思うが、定かではない。一番先端まで行ってそこからまた引き返してきたような気がする。

しばらく前にも一度訪れたところの写真が壁紙として登場したことがあった。
それはロワール河の上に建てられた宮殿でシュノンソー城の写真であった。川面に写ったシュノンソー城の影と本体とが映ったきれいな写真だった。

こちらの写真を見て妻も「ああ、これはシュノンソ―だね」と思い出していたのに。


ドイツ語の名詞の複数形

2025-01-09 12:54:55 | 本と雑誌
長い間ドイツ語を趣味でやっているのだが、趣味だからあまり熱心には勉強していない。

ドイツ語の名詞の複数形は語尾がいろいろに変わるので面倒であまりわからない。もちろん日常でよく出てくる語の複数形は知っているが、それがどういう性であるかはあまり注意してこなかった。

いまNHKのラジオの「まいにちドイツ語」の講座で名詞の複数形のときの典型的な語尾をまとめてあったので、はじめて理解が少し進んだ気がした。もっとも一年前の先回の放送のときにも同じことを聞いたはずだのに、そのときはそれについての認識がなかったといううっかり者である、私は。

男性名詞の複数の典型的な語尾は-eであり、女性名詞の典型的な語尾は-enであり、中性名詞の典型的な語尾は-erであるという。

例をあげておこう。まず男性名詞はder Tag, die Tage; der Sohn, die Soehne; der Stuhl, die Stuehle等である。女性名詞はdie Woche, die Wochen; die Uhr, die Uhren; die Frau, die Frauen等である。中性名詞はdas Kind, die Kinder; das Haus, die Haeuser; das Land, die Laender等である。

oe,ae,ue等は普通はo Umlaut, a Umlaut, u Umlautである。これらはそれぞれo, a, uの字の上に横の2重点を記した字体である。Umlautは変母音である。
 

『湯川秀樹の戦争と平和』(岩波書店)を読む

2025-01-08 10:56:02 | 本と雑誌
小沼通二『湯川秀樹の戦争と平和』(岩波書店)をはじめて始めから終わりまで通して読んだ。これは優れた読み物である。

これは岩波ブックレットの1冊だが、湯川秀樹の戦争防止と平和への願いの思想とその闘いの記録でもある。またその思想に共鳴している小沼さんの闘いの書でもあろう。

発行されたときに小沼さんから「ぜひ、ご購読下さい」との要請があったので買ったのだと思うが、読んでいなかった。実は他の本を自分の書棚に探していて見つけて、ようやく昨日読んだのである。

戦争と平和とかに関心のない方はこれは湯川秀樹の伝記だと思っていただいてもよい。小沼さんは世界平和アピール7人委員会の委員や日本パグウオッシュ会運営委員をされている物理学者である。

緻密な方であり、歴史にも詳しい方であり、またリベラルな思想の方である。巻末近くでの小沼さんのご自身のお考えとか見通しとかも少しだけだが、書かれている。

私が小沼さんとまったく同意見なのはむしろおかしいくらいである。しかし、それほど小沼さんのお考えが湯川の思想の延長でご努力され、活動されていることだということでもあろう。

私も約半年の短い期間であったが、湯川さんの基礎物理学研究所に勤務していたので、昼食時とかにいつも出会った。所長室の隣の小会議室で仕出しの弁当を食べながら所員の方々と談笑する数十分を過ごされていた。食後に牛乳を1本、特に飲まれていた。

食後のある時には若い私たち研究員を相手にそれとなく研究の激励をされることもあった。これは具体的に何らかの指示をされるというようなことではなかったが、湯川の学問に対する気迫を感じさせたことであった。

学問上の孤独を恐れず、独創的な独自の道を進むという気迫である。

話が思わずまた外れたが、この小冊子を購入してできるだけ多くの方に読んでいただけることを望んでいる。定価は620円である。少しは定価の上昇はあるかもしれないが、そんなに高価にはなっていないだろう。

健脚、健康、健啖

2025-01-07 13:23:35 | 本と雑誌
健脚、健康、健啖という健という熟語で思いつくものを挙げて見た。

実は、これは正月明けに北野先生からもらったメールで、ブログに健筆を振るわれていますねとか言われたから、健のつく語を思い出して見たのである。

一番よくつかわれるのは健康とか健勝とかであろうか。北野先生くらいのインテリになれば、こういう語も日常に使われるのであろうか。しかし、だいぶんインテリ度が上がるので、私の日常語の範囲には入らない。もちろん、健筆とかは書き言葉(文語)であろう。

辞書をもし引けばもっとたくさんの健のつく語があるであろうが、いまちょっと引く気は起らない。しかし、若いときは辞書など引いたことがなかったが、最近は漢字が自分では書けなくなっていることもあって、しばしば引くようになった。

これは日本語の国語辞典もそうであるが、ドイツ語とかフランス語も比較的引くようになった。大体私は辞書を引くのが手間で嫌いであった。

それが訳が分からないと比較的にいうと辞書をよく引くようになった。謙虚に聞こえるかもしれないが、そういうことではない。

とかなんとか言って、話題には事欠かないというのが私の日常である。ところが、どこかに出かけるでもなく書斎にこもりきりの生活なのだから、妻などは信じられないという顔をいつもしてあきれている。

微分形式

2024-12-31 12:51:33 | 本と雑誌
微分形式をどの本で学ぶか。有名なフランダースの『微分形式の理論』(岩波書店)を私も全部ではないが読んだことがある。

かなり読んだところで息が切れて修得するところまでは行かなかった。いまでもなかなかこれを読み返すという気力がない。

年で気力とか体力が持たないのだ。学問は若いうちに学ぶ必要があろう。もっとも私は自分で納得するのに時間がかかる方の体質である。これが時間がかかる。ただこれは世間様にはいいようにも作用する。

例えばだが、小著『四元数の発見』(海鳴社)はまだ2刷の段階だから購読者は2,000人くらいだが、これで四元数が初めて分かったという人もいるのは事実である。

私にみたいな気質の人も世間にはおられるとは思うが、なかなかそういう人にはあまり出会わない感じがするが、果たしてどうなんだろうか。

世の中には秀才・才媛には事欠かない。生まれつき秀才ではない私は秀才・才媛が心底羨ましい。

だが、いまこそ私みたいな物わかりのわるい人が望まれるときはないのに。