科学の認識論として知られている武谷の三段階論だが、広重徹はこれが武谷の科学史の曲解から出て来たという風に考えている。
広重は「科学史を具体的に研究して三段階論のようには歴史はなっていない」といっているか。それとも「歴史からは三段階論は出て来ない」という風に言っているか、または「三段階論は間違っている」と言っていると私は理解している。
これはかなり私の自分勝手な解釈なので本当は広重がそう思っていたかどうかは今後詳細に調べてみる必要がある。ともかくもそういう理解を前提としてここでは論を進めてみる。だからこの前提がくずれれば、以下の議論は無用である。
武谷はこの三段階論の着想を必ずしも科学史だけからヒントを得たものではないことは彼の回想「思想を織る」に出てくる。音楽理論等からも着想を得ているという。
そうだとすれば、広重がいう武谷は科学史をきちんと調べないで論を立てたという話は確かにそうかもしれないが、それだからといって武谷を論難するのはちょっと話が違うかもしれない。
だからどうだというところまで考えが及んではいないが、もっと広い(人文科学や社会科学も含めた)科学全体のコンテキストからこの三段階論をもう一度考え直さなくてはならないだろう。
広重のいう「科学史の素人であった」武谷の三段階論はやはり素人目にはぴったり来るところがあるのを否定はできない。これは力学の形成だけではなくて他にもいろいろな場合でも考えられるだろう。
ということは個々の科学の歴史についてそれが三段階論と離れていようとも実はそれがむしろ本質をついたものであったのかもしれない。しかし、実際の場合の有用性については別に評価をしなければならないだろう。
以下は単なる放談である。
量子電気力学では現象論の段階をどこにとるのかはよくわからないが、坂田のC中間場の理論はその実体論とも考えられる。もちろんこの場合には実体論はうまく行かないところもあり、結局は「くりこみ理論」である種の本質論となった。
もっともそう捉えるとHeisenberg-Pauliの場の量子論はどの段階に位置づけたらいいのか。
また、電弱理論は「量子電気力学と弱い相互作用」のある種の本質論であるが、その前の段階として何をどのように位置づけるのか。そしてそれは実際の電弱理論をつくるときにどう働いたのか、または働かなかったのか。実際の歴史は輻輳していて一筋縄では行かない。
ゲルマン等のクオークモデルへと導いたその元の坂田モデルはやはりある種の実体論と位置づけるべきではないか。ところが逆転してU(3) またはSU(3)へと導かれたところはある意味で現象論であったということになる。
坂田モデルは実体論であるが、それからU(3)というある意味で本質論だが、一方で現象論であったものができた。
その現象論を修正することにより、SU(3)という本質論であるが、また新たな現象論であったものができ、それの実体を探るという意味でクォークモデルが出た。またこれはある種の実体論であり,またそれは現象論でもあった。
そのときにゲージ原理がある種の役割を果たしているが,それをどう位置づけるのかそれを落としてはならないだろう。
そういった素粒子の歴史をもう一度ひもといてみる必要がありそうだ。