このブログで「ギリシャの教育」という題でギリシャでの経験をファインマンが家族に手紙に書いたと述べたが、その原文はつぎのようである。
F. J. Dyson, "The Scientst as Rebel "(New York Review Books, 2006) (p.279-280)から引用した。ダイソンの3行の前置きから書いておこう。
(引用はじめ)
The Athens story describes how the Greek educational system, with its overwhelming emphasis on the glories of classical Greece, gives children a bad start in life, teaching them that nothing they do can equal the achievements of their ancestors:
They were very upset when I said that the thing of greatest importance to mathematics in Europe was the discovery by Tartaglia that you can solve a cubic equation---which, altho it is very little used, must have been psychologically wonderul becasuse it showed a modern man could do something no ancient Greek could do, and therefore helped in the renaissance which was freeing of man from the intimidation of the ancients --- what they are learning in school is to be intimidated into thinking they have fallen so far below their super ancestors.
(引用終わり)
残念なことにこの箇所は日本語の訳書では省かれている。この部分が省かれた理由はこの訳書のどこにも見当たらない。
(2015.3.2 付記) 昨日訳書をよく読んだところでは理由はあからさまに書いてはいないが、他の訳書の中にその内容がすでに紹介または訳出されているためらしい。本が大部になるために省いたという断り書きがあるが、もっとも省かれた部分の全部が全部日本語に訳出または紹介されているわけではなさそうである。
2010.11.22のこのブログの前身のphysicomathで「ギリシャの科学」と題したエッセイを書いた。
これを「虚数の存在とカルダノ方程式」という最近書いた数学エッセイで引用しようとして、その元の原典であった、フリーマン・ダイソンの『叛逆としての科学』(みすず書房)を参照しようとしたら、その英語の原著がどこにあるかわからなくなっていた。
それでしかたなくあわててインターネットの古書でこれを購入して該当箇所を探してみたが、どこにもない。それが昨日のことである。ところが今朝、目を覚ましてベットの横を見たら、なんと原著があるではないか。昨日、一昨日に探したときに見つけられなかったのに。
それで私がブログのネタにした箇所があるかどうかを調べたら、ちゃんとあった。ところがこの箇所が訳書の方にはない。
訳書のまえがきにファインマンについての章の2つを掲載していないとは書いてあるが、なぜその個所を訳出掲載しなかったのかは訳者のあとがきにも出ていないようだ。
まるで私がウソをついてでもいるかのように思われるではないか。もっとも私も訳者あとがきをよくは読んでいないので、ひょっとしたらどこかに書いてあるのかもしれないが。
多分すでにどこかに訳出されて、そこで読めるという理由で訳出がされなかったのだろう。それにそこを訳出して掲載すると本としての部厚さと値段が跳ね上がるということもあったのかもしれない。それにしてもどこかにそのことの言い訳をすべだと思うが、なぜしないのだろう。
まったく不忠実な訳書である。不忠実なのはまあいいとして少なくとも理由を書いて読者にことわるべきだろう。
なお、この訳書の書評として読むべきものがアマゾンコムの中に「場野量子」というペンネームで出ている。これは私たちのよく知っている物理学者の N 先生であろう。さすがに N 先生の見るところは鋭い。大物理学者のダイソンといえどもおかしいところはおかしいと言われている。
これを「虚数の存在とカルダノ方程式」という最近書いた数学エッセイで引用しようとして、その元の原典であった、フリーマン・ダイソンの『叛逆としての科学』(みすず書房)を参照しようとしたら、その英語の原著がどこにあるかわからなくなっていた。
それでしかたなくあわててインターネットの古書でこれを購入して該当箇所を探してみたが、どこにもない。それが昨日のことである。ところが今朝、目を覚ましてベットの横を見たら、なんと原著があるではないか。昨日、一昨日に探したときに見つけられなかったのに。
それで私がブログのネタにした箇所があるかどうかを調べたら、ちゃんとあった。ところがこの箇所が訳書の方にはない。
訳書のまえがきにファインマンについての章の2つを掲載していないとは書いてあるが、なぜその個所を訳出掲載しなかったのかは訳者のあとがきにも出ていないようだ。
まるで私がウソをついてでもいるかのように思われるではないか。もっとも私も訳者あとがきをよくは読んでいないので、ひょっとしたらどこかに書いてあるのかもしれないが。
多分すでにどこかに訳出されて、そこで読めるという理由で訳出がされなかったのだろう。それにそこを訳出して掲載すると本としての部厚さと値段が跳ね上がるということもあったのかもしれない。それにしてもどこかにそのことの言い訳をすべだと思うが、なぜしないのだろう。
まったく不忠実な訳書である。不忠実なのはまあいいとして少なくとも理由を書いて読者にことわるべきだろう。
なお、この訳書の書評として読むべきものがアマゾンコムの中に「場野量子」というペンネームで出ている。これは私たちのよく知っている物理学者の N 先生であろう。さすがに N 先生の見るところは鋭い。大物理学者のダイソンといえどもおかしいところはおかしいと言われている。
妻が昨晩coincidenceという英語の単語を覚えたら、この語が入った英語が聞こえるようになったといった後で、「知らない言葉はやはり聞き取れないよね」と言っていたので、「そうだね」と返事をした。
もっとも妻はこのcoincidenceを「偶然」という意味に捉えていたようである。それはあまり正しくない。いま英和辞典を引いてみると「偶然同時に発生した出来事」とあるので、偶然というのが全く間違っているわけでもないが。
宇宙線の実験で鉛板か何かを置いた上と下に計数管をおいてそのどちらも粒子がきたことを感知すれば、宇宙線が地球の外から下に向かって突入してきたということがわかるといったときに、よく宇宙線の実験家はcoincidenceをとるとかいう。
だから、私は何かが同時に起こるという風に捉えていた。語源として正しいかどうかはわからないが、co-は「一緒に」とか「共に」という意味であり、incidenceは出来事であるから、同時に出来事が起こることを意味しているといっていいだろう。
co-で思い出したが、数学の座標という語を英語ではcoordinateという。ちなみに座標系の横軸はabscissaといい、縦軸のことをordinateという。ここでco-は共に調整するといった感じがする。
もっとも最近では着るものを合わせるといった意味で、coordinateという語を日本語として使っているようだ。もっとも私が知ったのは座標という意味でのcoordinateの方が先であった。
(2020.5.5付記) ちなみにcoedという英語があるが、ご存じだろうか。共学の大学の女子学生のことだと思う。これはcoeducation(男女共学)の派生語ではないかと思うが、それについて調べたことはない。
今日の朝日新聞にピケティの『21世紀の資本』について「注目の論点」というコラムにいろいろと載っていた。
私が問題としたいことはその内容ではないが、訳者の一人、山形浩生が「本書の力は何より実証の力だ。理論がどうであれ、データはこうなっています、といえるところに本書のパワーがある」「格差議論に多かった水掛け論や印象論を抑えて、今後の議論の基礎となるだけの力をもちえている」という。
これにはあまり異論がないが、飯田泰之が「最先端の数理モデルよりも地道なデータの収集が議論を決定づけるのは、かつての日本の経済学が得意としていた手法だ。それを私たちが忘れかけていたという事実に・・・気付かせてくれた」と述べるとき、認識論的な観点からちょっとした疑問を生じることを抑えきれない。
確かに 多量のデータが語るところはそのまま素直に受け取らなければならないが、そこで本質が尽きるわけではなかろうと思う。武谷三男の三段階論という認識論を踏まえて考えると現象のデータそのものがそのまま本質論であるというケースが本当だとは思えない。そういう可能性をまったく排除はしないけれども。
やはり最先端の数理モデルも必要であるだろう。もしそれが現実を分析するのに失敗をするのなら、新しい数理モデルをつくりなおすという風にことを進めるべきであろう。本質論へと進めるには数理モデルが必要であると考えるのが妥当であろう。
私は経済学者ではないので、何とも言えないけれども、飯田が指摘したような点を思い起こすことはそれなりのいい点ではあろうと考えはするが、そこでもし安心して追求を止めるのならば、本質的な経済学はできないと考える。
私が問題としたいことはその内容ではないが、訳者の一人、山形浩生が「本書の力は何より実証の力だ。理論がどうであれ、データはこうなっています、といえるところに本書のパワーがある」「格差議論に多かった水掛け論や印象論を抑えて、今後の議論の基礎となるだけの力をもちえている」という。
これにはあまり異論がないが、飯田泰之が「最先端の数理モデルよりも地道なデータの収集が議論を決定づけるのは、かつての日本の経済学が得意としていた手法だ。それを私たちが忘れかけていたという事実に・・・気付かせてくれた」と述べるとき、認識論的な観点からちょっとした疑問を生じることを抑えきれない。
確かに 多量のデータが語るところはそのまま素直に受け取らなければならないが、そこで本質が尽きるわけではなかろうと思う。武谷三男の三段階論という認識論を踏まえて考えると現象のデータそのものがそのまま本質論であるというケースが本当だとは思えない。そういう可能性をまったく排除はしないけれども。
やはり最先端の数理モデルも必要であるだろう。もしそれが現実を分析するのに失敗をするのなら、新しい数理モデルをつくりなおすという風にことを進めるべきであろう。本質論へと進めるには数理モデルが必要であると考えるのが妥当であろう。
私は経済学者ではないので、何とも言えないけれども、飯田が指摘したような点を思い起こすことはそれなりのいい点ではあろうと考えはするが、そこでもし安心して追求を止めるのならば、本質的な経済学はできないと考える。
今日の朝日新聞に生物物理学者の大沢文夫さんの研究指導法の考えが出ていた。彼は「なんでも自分がおもしろいと思ったことをやれ」という。
それは大切だと思う。大沢さんはある研究者の研究で「こういう風にやったらいいのだが」と思ったが、それでも黙っていたら、別の研究者に大沢さんの思っていたアイディアで研究がなされ、その当該の研究者がもう少しのところだったのにと悔しがったとあった。
そして、その悔しさがその研究者の現在を支えているという。ここまで懐が深いというか深謀遠慮の研究指導者はあまり知らない。
普通は適当なアドバイスを与えて研究の促進をはかるのが、研究指導者だと思う。それにしても研究指導者といえども、自分のよく知った分野のことなら指導できるが、ちょっと不案内のことなら指導できないというのが実際には起こる。
H君と私の初論文は3年越しでできたのだが、実際に研究の隘路に入ったときに、抜け出すことができたのはやはり当事者の私たちに努力によってであった。その当時の私たちの研究指導者であった、Sさんは忙しい人であり、大抵のことには相談に乗ってくれたが、この計算の詳細をチェックすることまではしなかった。
これは当然のことであり、そのことでSさんを恨んだりしたことは一度もない。そのおかげということでもないのだが、Sさんの後をついで私たちの研究指導をしてくれたYさんに私の頭のトロさはトロさとしてそれなりの研究のオリジナリティを認めてもらえるようになった。
それで自分に自信ができたなどということはまったくなかったけれども、自分の存在意義を自分で密かに認めることができるようになった。
それにしても大沢さんの研究指導のしかたは深謀遠慮であってなかなか真似ができないのではなかろうか。
それは大切だと思う。大沢さんはある研究者の研究で「こういう風にやったらいいのだが」と思ったが、それでも黙っていたら、別の研究者に大沢さんの思っていたアイディアで研究がなされ、その当該の研究者がもう少しのところだったのにと悔しがったとあった。
そして、その悔しさがその研究者の現在を支えているという。ここまで懐が深いというか深謀遠慮の研究指導者はあまり知らない。
普通は適当なアドバイスを与えて研究の促進をはかるのが、研究指導者だと思う。それにしても研究指導者といえども、自分のよく知った分野のことなら指導できるが、ちょっと不案内のことなら指導できないというのが実際には起こる。
H君と私の初論文は3年越しでできたのだが、実際に研究の隘路に入ったときに、抜け出すことができたのはやはり当事者の私たちに努力によってであった。その当時の私たちの研究指導者であった、Sさんは忙しい人であり、大抵のことには相談に乗ってくれたが、この計算の詳細をチェックすることまではしなかった。
これは当然のことであり、そのことでSさんを恨んだりしたことは一度もない。そのおかげということでもないのだが、Sさんの後をついで私たちの研究指導をしてくれたYさんに私の頭のトロさはトロさとしてそれなりの研究のオリジナリティを認めてもらえるようになった。
それで自分に自信ができたなどということはまったくなかったけれども、自分の存在意義を自分で密かに認めることができるようになった。
それにしても大沢さんの研究指導のしかたは深謀遠慮であってなかなか真似ができないのではなかろうか。
サーキュラー「数学・物理通信」の原稿として先日 N さんから投稿があった。忙しかったので、それをよく読む時間がなかったのだが、昨日の夜に帰宅してコタツに入ってその原稿を見ていたら、よくわからないが、N さんが自明とした補題がどうも証明としてはよくないのではないかと思えた。
まだ十分に検討はしていないので、何ともいいかねるが、どうもうまくないような気がする。それだけではなくて三角形の面積が違っているのではないかと思い出した。
それで朝方のうつらうつらで考えたのだが、どうも後の三角形の面積については私が誤解をしていることがわかった。なんでも疑心暗鬼になると正しいことまで疑わしく思えてくる。
それにしても円の一部としての扇形の面積とか円弧の長さがそれらのつくる中心角に比例しているという事実を下敷きにしているという気がする。ところがそのことは明確にはどこにも述べられていない。その辺を著者の N さんに尋ねてみたい。
Nさんの投稿原稿の一番主張したいことは角度の単位は無数に設定できるということだが、どこにもその例を述べていないのも不満に感じる点である。
この点について述べた文献があるらしいのだが、それについての言及がない。そういう意味では数学者らしく記述は簡潔でいいけれども、読者に不安を与えるのではないかと考えたりしている。
まだ十分に検討はしていないので、何ともいいかねるが、どうもうまくないような気がする。それだけではなくて三角形の面積が違っているのではないかと思い出した。
それで朝方のうつらうつらで考えたのだが、どうも後の三角形の面積については私が誤解をしていることがわかった。なんでも疑心暗鬼になると正しいことまで疑わしく思えてくる。
それにしても円の一部としての扇形の面積とか円弧の長さがそれらのつくる中心角に比例しているという事実を下敷きにしているという気がする。ところがそのことは明確にはどこにも述べられていない。その辺を著者の N さんに尋ねてみたい。
Nさんの投稿原稿の一番主張したいことは角度の単位は無数に設定できるということだが、どこにもその例を述べていないのも不満に感じる点である。
この点について述べた文献があるらしいのだが、それについての言及がない。そういう意味では数学者らしく記述は簡潔でいいけれども、読者に不安を与えるのではないかと考えたりしている。
昨日、15時から愛媛大学法文学部でドイツ文学が専門の A 教授の最終講義があった。「歌劇『タンホイザー』とヴァルトブルクの歌合戦」という題であった。
ヴァーグナーの歌劇『タンホイザー』がどのようにしてつくられていくかを述べた講演だったが、Aさんの長年にわたる研鑽の跡が窺われウような講演であった。さっそく、この講演を敷衍したような記事を季刊サーキュラーの「ドイツ語圏とその文化」書いてくださるようにお願いをしたのだが、はたして書いてくださるかどうか。
また改めて、メールでお願いをしてみたいと思っている。これはすでにそのような論文をもしまとめておられるならば、それを一般の読者に読みやすいように書き変えたものであろうし、また論文としてまとめていないのならば将来の論文の下書きとなるようなものであってもよいと考えている。
ただ、「ドイツ語圏とその文化」の読者は専門家ではないので、あまり専門的な用語は使わないとかの注意は必要である。ページ数は数回に分けて掲載するのであれば、5ページくらいであろうか。
まだ A 教授にそのことを詳細にお願いをしているわけではないが、まだ非常勤の講義は来年度も残っているだろうが、少なくとも会議は少なくなるであろうから、聞き届けてくださるのではないかなどと甘いことを考えている。
ヴァーグナーの歌劇『タンホイザー』がどのようにしてつくられていくかを述べた講演だったが、Aさんの長年にわたる研鑽の跡が窺われウような講演であった。さっそく、この講演を敷衍したような記事を季刊サーキュラーの「ドイツ語圏とその文化」書いてくださるようにお願いをしたのだが、はたして書いてくださるかどうか。
また改めて、メールでお願いをしてみたいと思っている。これはすでにそのような論文をもしまとめておられるならば、それを一般の読者に読みやすいように書き変えたものであろうし、また論文としてまとめていないのならば将来の論文の下書きとなるようなものであってもよいと考えている。
ただ、「ドイツ語圏とその文化」の読者は専門家ではないので、あまり専門的な用語は使わないとかの注意は必要である。ページ数は数回に分けて掲載するのであれば、5ページくらいであろうか。
まだ A 教授にそのことを詳細にお願いをしているわけではないが、まだ非常勤の講義は来年度も残っているだろうが、少なくとも会議は少なくなるであろうから、聞き届けてくださるのではないかなどと甘いことを考えている。
F. J. ダイソンの著書「反逆としての科学」(みすず書房)を参照したくなったので、I 大学の図書館にあるのではないかと思って検索したら、この書はまったく所蔵していなかった。
この高名な物理学者の名を知る研究者のいなくなったこともあるだろうし、各研究者に割り当てられる大学の予算がとても少なくなっているということも理由かもしれない。このような状況は嘆かわしいことである。
愛媛県立図書館にもない。だから結局古本で自分で購入することした。この英語の原本を家で昨日から探しているのだが、見当たらないのである。
しかたなく、大学図書館を頼ったのだが、どうもそれも役に立たない。武谷三男の著作などは大学の図書館よりも私の所蔵しているもののほうが多いが、それは私が自分の個人の支出でコレクトしたものであるから、これは大学図書館よりも多いのは当然であるが、ピケティの『21世紀の資本』はどうか検索してみようか。
この高名な物理学者の名を知る研究者のいなくなったこともあるだろうし、各研究者に割り当てられる大学の予算がとても少なくなっているということも理由かもしれない。このような状況は嘆かわしいことである。
愛媛県立図書館にもない。だから結局古本で自分で購入することした。この英語の原本を家で昨日から探しているのだが、見当たらないのである。
しかたなく、大学図書館を頼ったのだが、どうもそれも役に立たない。武谷三男の著作などは大学の図書館よりも私の所蔵しているもののほうが多いが、それは私が自分の個人の支出でコレクトしたものであるから、これは大学図書館よりも多いのは当然であるが、ピケティの『21世紀の資本』はどうか検索してみようか。
『四元数の発見』の英訳がまだ1~2ページであるが、始まった。ちょっと他人事のように書いたのは妻がひょんなことから、有意義な仕事をしたいという思いをもって、翻訳作業をしようと言い出したからである。
原著を1行づつ読んでは私がそれを英文に口述したものを妻が筆記して、それをパソコンに入力してくれはじめた。わずかまだ1~2ページではあるが、はじめがあって終りあるのだから、ということでなんとか着手した。
数式を元の原稿からコピーしたら、それらしくなるようだから、妻も私もちょっぴりだけれども喜んでいる。
原著を1行づつ読んでは私がそれを英文に口述したものを妻が筆記して、それをパソコンに入力してくれはじめた。わずかまだ1~2ページではあるが、はじめがあって終りあるのだから、ということでなんとか着手した。
数式を元の原稿からコピーしたら、それらしくなるようだから、妻も私もちょっぴりだけれども喜んでいる。
私の前に書いた「四元数の発見」のエッセイを英語にしてどこかに発表しておいた方がいいのではないかと今朝から考え出した。
そういうことは今まで考えたことがなかったのは自分でも不思議でもある。しかし、わたしと同じことを考えてすでにどこかに誰かが発表しているものと勝手に思っていた。実はそのことを私が知らないだけで。
だが、そういうこともなくはないが、ひょっとして詳細に論文を読み解いた人がいないのかもしれない。その場合には私のHamiltonの論文の解読も意味があろうか。
そうなるとHamilton自身が書いた本の中にどう書いているのだろうかということが気になる。Hamiltonは四元数について二つの書を著しているとか。そのいずれも現代の人が読んで、理解するのはなかなか難しいから、原著を読むことは賛成できないとAmazon.comの書評で読んだことがある。
それで現代的にわかりやすいKuipersの書を購入したという経緯があるが、一番の根本のところをHamilton自身の書いた論文でたどることとか彼の二つの著書ではそのあたりがどう取り扱われているのか知りたいところである。
そのことにもとづいて事と次第によっては私のHamiltonの論文の解読のいきさつを英語で書いてどこかに発表することが科学史の論文として必要と考えられるかもしれない。いまはまだその程度の考えである。
そういうことは今まで考えたことがなかったのは自分でも不思議でもある。しかし、わたしと同じことを考えてすでにどこかに誰かが発表しているものと勝手に思っていた。実はそのことを私が知らないだけで。
だが、そういうこともなくはないが、ひょっとして詳細に論文を読み解いた人がいないのかもしれない。その場合には私のHamiltonの論文の解読も意味があろうか。
そうなるとHamilton自身が書いた本の中にどう書いているのだろうかということが気になる。Hamiltonは四元数について二つの書を著しているとか。そのいずれも現代の人が読んで、理解するのはなかなか難しいから、原著を読むことは賛成できないとAmazon.comの書評で読んだことがある。
それで現代的にわかりやすいKuipersの書を購入したという経緯があるが、一番の根本のところをHamilton自身の書いた論文でたどることとか彼の二つの著書ではそのあたりがどう取り扱われているのか知りたいところである。
そのことにもとづいて事と次第によっては私のHamiltonの論文の解読のいきさつを英語で書いてどこかに発表することが科学史の論文として必要と考えられるかもしれない。いまはまだその程度の考えである。
先日、ドイツ語のクラスで階段教室というか大講義室とか講堂というのが出てきた。der H"orsalとかdie Aulaだとかdas Auditoriumである。(この3つの単語がそれぞれほとんど同じ意味なのに性がちがっているのがおもしろい)
そこで私の知っているdas Amphitheather(アンフィテアーター)というのがあると口をはさんだら、このAmphitheatherには階段教室といった意味がドイツ語ではないということだった。もちろん、R氏はフランス語も知っているのでフランス語にはそういう意味があるかも知れないとつけ加えた。
そうか。階段教室という意味だと思ったのはフランス語だったのか。フランス語の辞書を後で調べたら、やはり階段教室という意味が載っていた。やれやれ。英和辞典にはamphi-というのは接頭語であり、「あらゆる側に」の意味だとある。
そういえば、ドイツ語ではdas Amphitheather円形の野外劇場を指すとR氏も言っていた。ローマのコロシウムとかがこの範疇に入るのだろう。
話はちょっと変わるが、40年ほど前になるが、フライブルクのゲーテ・インスティチュートでドイツ語を2か月ほど学んでいたときに、ベルギーから来た女子学生が講師の先生にprofesseurと呼びかけたら、先生がIch bin nicht so titelsu"chtig(肩書にはそんなにこだわらないよ)と言って、自分の名前をWagensonnerと書かれた(注)。
私にはこのprofesseurというフランス語では日本語の「先生」という語にあたるので、それほど重たい言葉ではないことを知っていたが、ドイツでは大学の先生にしかつかわない。Professerは敬称語であり、その辺の感じ方がドイツ人の先生には違うのだなとわかったが、黙ってそのやりとりを聞いていた。
ちなみに、フランスでも小学校の先生はprofesseurとはいわないらしいが、中学校や高校にあたる学校の先生はprofesseurとよばれる。もっとも生徒は学校ではmonsieur ~とかmadame ~とか先生の名を呼んでいると思う。これは多分英語でもそうなのだと思う。
(注)-su"chtigのつく語でいま思いつく語はeifersu"chtig(嫉妬深い)という語がある。もっともこの語を知ってはいるが、一度も会話ではつかったことがない。
そこで私の知っているdas Amphitheather(アンフィテアーター)というのがあると口をはさんだら、このAmphitheatherには階段教室といった意味がドイツ語ではないということだった。もちろん、R氏はフランス語も知っているのでフランス語にはそういう意味があるかも知れないとつけ加えた。
そうか。階段教室という意味だと思ったのはフランス語だったのか。フランス語の辞書を後で調べたら、やはり階段教室という意味が載っていた。やれやれ。英和辞典にはamphi-というのは接頭語であり、「あらゆる側に」の意味だとある。
そういえば、ドイツ語ではdas Amphitheather円形の野外劇場を指すとR氏も言っていた。ローマのコロシウムとかがこの範疇に入るのだろう。
話はちょっと変わるが、40年ほど前になるが、フライブルクのゲーテ・インスティチュートでドイツ語を2か月ほど学んでいたときに、ベルギーから来た女子学生が講師の先生にprofesseurと呼びかけたら、先生がIch bin nicht so titelsu"chtig(肩書にはそんなにこだわらないよ)と言って、自分の名前をWagensonnerと書かれた(注)。
私にはこのprofesseurというフランス語では日本語の「先生」という語にあたるので、それほど重たい言葉ではないことを知っていたが、ドイツでは大学の先生にしかつかわない。Professerは敬称語であり、その辺の感じ方がドイツ人の先生には違うのだなとわかったが、黙ってそのやりとりを聞いていた。
ちなみに、フランスでも小学校の先生はprofesseurとはいわないらしいが、中学校や高校にあたる学校の先生はprofesseurとよばれる。もっとも生徒は学校ではmonsieur ~とかmadame ~とか先生の名を呼んでいると思う。これは多分英語でもそうなのだと思う。
(注)-su"chtigのつく語でいま思いつく語はeifersu"chtig(嫉妬深い)という語がある。もっともこの語を知ってはいるが、一度も会話ではつかったことがない。
先日新聞を読んでいたら、流星の速さが秒速で30kmだとあった。
私のもっている方法の一つは比較をすることであるから、これが他のものと比べてどうかということである。よく知られている光の速さは真空中で30万kmであるから、光の速さと比べれば10万分の1ということになる。
地球が太陽のまわりに回る公転速度は、地球が太陽から遠いときにはゆっくりだが、太陽に近いと速くなる。平均では毎秒29.8kmだというから地球の公転の速さと流星が降って来る速さはほぼ等しいことになる。
地球は自転もしているから、その自転の速度を計算してみると地球の半径を6400kmとして、計算してみると地球自転の速さは毎秒0.47kmで流星の速さはこれの65倍近い速さになる。
普通には地球の自転速度は与えられていなくて、自転の角速度が与えられている。それから地球自転の速さを計算してみた。
この計算の途中でどうも一桁小さい自転の速さしか出てこなかった。何度も計算が間違っているのかと計算し直したのだが、どうも予想よりも1桁小さな数値しか出てこなかった。
江沢洋先生の著書『物理は自由だ』力学(日本評論社)を参照して見たら、私の参照していた数表の数値が1/10だけ小さい値を間違って載せていることがわかった。なんでも計算であたってみることが必要だ。
まさか自分の使っているポケットブックの定数が一桁小さい数値を与えているとは。
みなさまの参考のために書いておくとそれは『応用物理ポケットブック』(培風館)で地球の自転角速度が7.292\times 10^{-6}rad/sと出ていた。正しくは10^{-5}rad/sである。
どうしておかしいと気がついたか。角速度から速度を計算してそれに1日の秒数をかけて地球の円周の長さ4万キロメートルになるかを確かめたが、どうも一桁小さな地球の円周の長さが4000kmしか得られなかった。
私のもっている方法の一つは比較をすることであるから、これが他のものと比べてどうかということである。よく知られている光の速さは真空中で30万kmであるから、光の速さと比べれば10万分の1ということになる。
地球が太陽のまわりに回る公転速度は、地球が太陽から遠いときにはゆっくりだが、太陽に近いと速くなる。平均では毎秒29.8kmだというから地球の公転の速さと流星が降って来る速さはほぼ等しいことになる。
地球は自転もしているから、その自転の速度を計算してみると地球の半径を6400kmとして、計算してみると地球自転の速さは毎秒0.47kmで流星の速さはこれの65倍近い速さになる。
普通には地球の自転速度は与えられていなくて、自転の角速度が与えられている。それから地球自転の速さを計算してみた。
この計算の途中でどうも一桁小さい自転の速さしか出てこなかった。何度も計算が間違っているのかと計算し直したのだが、どうも予想よりも1桁小さな数値しか出てこなかった。
江沢洋先生の著書『物理は自由だ』力学(日本評論社)を参照して見たら、私の参照していた数表の数値が1/10だけ小さい値を間違って載せていることがわかった。なんでも計算であたってみることが必要だ。
まさか自分の使っているポケットブックの定数が一桁小さい数値を与えているとは。
みなさまの参考のために書いておくとそれは『応用物理ポケットブック』(培風館)で地球の自転角速度が7.292\times 10^{-6}rad/sと出ていた。正しくは10^{-5}rad/sである。
どうしておかしいと気がついたか。角速度から速度を計算してそれに1日の秒数をかけて地球の円周の長さ4万キロメートルになるかを確かめたが、どうも一桁小さな地球の円周の長さが4000kmしか得られなかった。
修理に出していたプリンターがようやく帰って来た。故障ではなくて結局トナー切れだったらしい。おかげでこれから『ドイツ語圏とその文化』1巻4号 だとか『数学・物理通信』5巻1号 の原稿のプリントしての点検ができることになった。
最後の点検はどうしても紙の上にプリントして点検しないとディスプレイ上ではうまく点検ができないというのはおかしい話ではあるが、やはり事実である。
原理的には画面上でもよく見れば、点検はできるはずなのだが、そうはいかないことが多い。
これは画面上で作業ができれば、紙の消費が少なくなって無駄が省けるというのがパソコンが出始めの頃のうたい文句だったが、技術評論家だった星野芳郎はそんなことはないはずだと彼の著書で書いていたのを読んだことがあった。その通りでもちろん、むやみやたらな紙の消費は避けられるようになったかもしれないが、やはり紙の消費は少なくはならなかった。
半年かそれとも 7 か月に 1 回は A4 版のコピー用紙をひと箱購入するのが恒例となっている。このときは重たい紙の箱を覚悟をして車まで運ぶ。購入場所はどこかのスーパーだったり、大学の生協だったりする。
スーパーでは社員がカートで運んでくれる、サービスをしてくれたりすることもある。ともかく紙の消費は少なくはならなかった。
大学院のMCコースに在学していたころ、『素粒子論研究』という雑誌に日本語で投稿し始めたころには大抵原稿が出来上がるまでに 7 回くらいは清書するのが常だった。それくらいの回数は文章を書き変えていた。最近ではパソコンであるから清書の苦労はなくなったが、それでも全体をプリントして見る回数は同じくらいであろう。もっとも細かな修正は枚挙にいとまがないから、紙の消費は残念ながら減らない。
確かにパソコンの普及で製紙会社が倒産したという話はまったく聞かなかった。
最後の点検はどうしても紙の上にプリントして点検しないとディスプレイ上ではうまく点検ができないというのはおかしい話ではあるが、やはり事実である。
原理的には画面上でもよく見れば、点検はできるはずなのだが、そうはいかないことが多い。
これは画面上で作業ができれば、紙の消費が少なくなって無駄が省けるというのがパソコンが出始めの頃のうたい文句だったが、技術評論家だった星野芳郎はそんなことはないはずだと彼の著書で書いていたのを読んだことがあった。その通りでもちろん、むやみやたらな紙の消費は避けられるようになったかもしれないが、やはり紙の消費は少なくはならなかった。
半年かそれとも 7 か月に 1 回は A4 版のコピー用紙をひと箱購入するのが恒例となっている。このときは重たい紙の箱を覚悟をして車まで運ぶ。購入場所はどこかのスーパーだったり、大学の生協だったりする。
スーパーでは社員がカートで運んでくれる、サービスをしてくれたりすることもある。ともかく紙の消費は少なくはならなかった。
大学院のMCコースに在学していたころ、『素粒子論研究』という雑誌に日本語で投稿し始めたころには大抵原稿が出来上がるまでに 7 回くらいは清書するのが常だった。それくらいの回数は文章を書き変えていた。最近ではパソコンであるから清書の苦労はなくなったが、それでも全体をプリントして見る回数は同じくらいであろう。もっとも細かな修正は枚挙にいとまがないから、紙の消費は残念ながら減らない。
確かにパソコンの普及で製紙会社が倒産したという話はまったく聞かなかった。
以下はamzon.comに出ているtonkouさんの私の本に対する書評である。好意的な書評を有難いと思っている。
(引用はじめ)
こんなに分かり易く,丁寧に書かれた四元数の本は初めてだ
投稿者 tonkou 投稿日 2014/10/7
形式: 単行本
この本のタイトル「四元数の発見」は,Hamilton の四元数発見(1843)についての解説を本書の中心テーマの1つに据えているからだと思うが,中心テーマは大きく分けて3つあるように思われる.第1章で,読者は,まず,著者が四元数に関心を持つに至った動機を知ることになる.そこで,四元数の定義と性質を述べた後,四元数発見の物語に次の2章が費やされ,四元数による空間回転の記述から,オイラー角を用いた空間回転の記述に至る第4章から第9章が,本書のもう1つの中心テーマである.即ち,4~6章は四元数の空間回転表示を3つの異なった観点から論じている.7~9章は四元数からはなれた空間回転の表現であり,7章はSU(2)の表現,8章はベクトルの空間回転の表現,9章はオイラー角を用いた空間回転の表現を取り扱っている.
その後,軸足を四元数の「球面線形補間」に移している(この第10章も中心テーマの1つである).第11章では,四元数と球面三角法についてレビューすることを,著者のこれからの課題と考えている旨,述べられているので,その成果が早く世に出ることを期待している.
本の分類としては,数学書に属するであろうが,通常の数学書と違って,決して固い言葉を使わない.人によっては,冗長に過ぎる思われる個所があるかも知れないが,それは,著者が初めに(少しの例外を除いて)高校数学の範囲の知識だけで,ちょっとした根気があれば読み通せると思う,と述べていることから,得心がいくものと思う.式変形を順序よく,かつ平明に追っていくスタイルの,著者の論理の組み立てとその流れを裏付ける計算を追いながら,四元数とそれに関連した諸問題を勉強するには格好の本に仕上がっている.3次元コンピューターグラフィックスに携わっている技術者や四元数研究家にとっても,手元に置いておくべき必読の書と言えよう.(引用終わり)
球面線形補間はHenrikというドイツ人の知人が数年前にそういう手法を使って仕事をしていることを話に聞いたことがあったが、どんなものか長い間知らなかった。何でも一種の補間法であることだけはそのとき想像できたけれども。
『四元数の発見』では球面線形補間の原理については、繰り返して述べたが、そんなことをすべきではなかったのではないかという気がしている。
球面線形補間は多分3DCG(3次元コンピュータグラフィックス)を仕事にしている人にとっては馴染み深い方法なのだろうと思うが、自分では使ったことがない。
なんでもHenrikはSpherical Tensor Algebra(そんな数学があるのか?)を生医学画像の解析を使った研究でドイツのフライブルク大学で2013年に学位をとって今は京都大学で働いている。気鋭の研究者・技術者である。彼の学位論文copyの1冊をもらったのだが、なかなか読むことができない。
(引用はじめ)
こんなに分かり易く,丁寧に書かれた四元数の本は初めてだ
投稿者 tonkou 投稿日 2014/10/7
形式: 単行本
この本のタイトル「四元数の発見」は,Hamilton の四元数発見(1843)についての解説を本書の中心テーマの1つに据えているからだと思うが,中心テーマは大きく分けて3つあるように思われる.第1章で,読者は,まず,著者が四元数に関心を持つに至った動機を知ることになる.そこで,四元数の定義と性質を述べた後,四元数発見の物語に次の2章が費やされ,四元数による空間回転の記述から,オイラー角を用いた空間回転の記述に至る第4章から第9章が,本書のもう1つの中心テーマである.即ち,4~6章は四元数の空間回転表示を3つの異なった観点から論じている.7~9章は四元数からはなれた空間回転の表現であり,7章はSU(2)の表現,8章はベクトルの空間回転の表現,9章はオイラー角を用いた空間回転の表現を取り扱っている.
その後,軸足を四元数の「球面線形補間」に移している(この第10章も中心テーマの1つである).第11章では,四元数と球面三角法についてレビューすることを,著者のこれからの課題と考えている旨,述べられているので,その成果が早く世に出ることを期待している.
本の分類としては,数学書に属するであろうが,通常の数学書と違って,決して固い言葉を使わない.人によっては,冗長に過ぎる思われる個所があるかも知れないが,それは,著者が初めに(少しの例外を除いて)高校数学の範囲の知識だけで,ちょっとした根気があれば読み通せると思う,と述べていることから,得心がいくものと思う.式変形を順序よく,かつ平明に追っていくスタイルの,著者の論理の組み立てとその流れを裏付ける計算を追いながら,四元数とそれに関連した諸問題を勉強するには格好の本に仕上がっている.3次元コンピューターグラフィックスに携わっている技術者や四元数研究家にとっても,手元に置いておくべき必読の書と言えよう.(引用終わり)
球面線形補間はHenrikというドイツ人の知人が数年前にそういう手法を使って仕事をしていることを話に聞いたことがあったが、どんなものか長い間知らなかった。何でも一種の補間法であることだけはそのとき想像できたけれども。
『四元数の発見』では球面線形補間の原理については、繰り返して述べたが、そんなことをすべきではなかったのではないかという気がしている。
球面線形補間は多分3DCG(3次元コンピュータグラフィックス)を仕事にしている人にとっては馴染み深い方法なのだろうと思うが、自分では使ったことがない。
なんでもHenrikはSpherical Tensor Algebra(そんな数学があるのか?)を生医学画像の解析を使った研究でドイツのフライブルク大学で2013年に学位をとって今は京都大学で働いている。気鋭の研究者・技術者である。彼の学位論文copyの1冊をもらったのだが、なかなか読むことができない。
「四元数は宮沢りえ?」とか書いたら、宮沢りえのファンの方がこのブログを読んでくれる(?)などとよこしまなことを考えているわけではない。
私は四元数の初等的な知識について調べて、昨年の10月に『四元数の発見』として上梓したことは何度もこのブログで書いた。昨夜も自分の書いた本を読みなおしてみたのだが、そのときにちょっとした皮肉な考えに至った。
まるで四元数は女優の宮沢りえさんのように魅力的だと私は思っているのだが、その私自身の感懐とは別にして、私がこれほどまでに四元数のことを徹底的に解剖してしまったら、専門家ではない、世の中の四元数ファンの方の夢をぶち壊してしまったのではあるまいか。
そんなことに思い至ったのである。日本語で書かれたインターネットのサイトで四元数という語の入ったサイトはほんとうにたくさんある。それらは別に神秘主義に染まっているなどとは思わないけれども、なんだか魅力的なものとして言及されているように思われる。
そして、四元数が理解可能なものであり、それも高校数学+アルファくらいの知識で初等的な内容に限れば、理解可能だということを示した私の本など宮沢りえさんの写真を解剖学的な観点から写してファンの前に提示したようなものではないのか。
そういうある種の後悔の念が沸き起こって来た。ああ、自分はなんてことをしてしまったのであろうか。
そうは思うものの、だが私のしたようなことを世界の誰かがすでにしていてもよかったはずだという気持ちももう一方ではある。すくなくとも私の眼の入るところにはそういうものは存在しなかった。そのことにある種の義憤を感じて、自分でやってしまった。別に私でなくてもよかったのである。どなたか私以外の人がそういうことをしていてくれたら、何も好んで私がこんなことをするまでもなかったのに。
私は四元数の初等的な知識について調べて、昨年の10月に『四元数の発見』として上梓したことは何度もこのブログで書いた。昨夜も自分の書いた本を読みなおしてみたのだが、そのときにちょっとした皮肉な考えに至った。
まるで四元数は女優の宮沢りえさんのように魅力的だと私は思っているのだが、その私自身の感懐とは別にして、私がこれほどまでに四元数のことを徹底的に解剖してしまったら、専門家ではない、世の中の四元数ファンの方の夢をぶち壊してしまったのではあるまいか。
そんなことに思い至ったのである。日本語で書かれたインターネットのサイトで四元数という語の入ったサイトはほんとうにたくさんある。それらは別に神秘主義に染まっているなどとは思わないけれども、なんだか魅力的なものとして言及されているように思われる。
そして、四元数が理解可能なものであり、それも高校数学+アルファくらいの知識で初等的な内容に限れば、理解可能だということを示した私の本など宮沢りえさんの写真を解剖学的な観点から写してファンの前に提示したようなものではないのか。
そういうある種の後悔の念が沸き起こって来た。ああ、自分はなんてことをしてしまったのであろうか。
そうは思うものの、だが私のしたようなことを世界の誰かがすでにしていてもよかったはずだという気持ちももう一方ではある。すくなくとも私の眼の入るところにはそういうものは存在しなかった。そのことにある種の義憤を感じて、自分でやってしまった。別に私でなくてもよかったのである。どなたか私以外の人がそういうことをしていてくれたら、何も好んで私がこんなことをするまでもなかったのに。