物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

ようやく論文を投稿した

2017-09-30 16:46:51 | 日記

先日来、このブログでも話題にしている「他人から見た武谷三男3」である。これは「徳島科学史雑誌」という雑誌に投稿した。この雑誌はもう30年以上の歴史をもった雑誌である。

数人の熱心なオーガナイザー(世話人)がいるので、つづいている。私が投稿したのは36号へである。ということはこの雑誌はすでに創刊以来35年を経ているということである。

なんでも数人でも熱心な方がいるとできるといういい例でもあろう。地方で科学史の雑誌を出しているのは私が知っているのは、あと愛知県を中心として「東海の科学史」が出されている。これも地方で科学史の雑誌を出しているいい例であろう。もっともこれは名古屋大学に科学史の専門家がいたので、そのことを考えると不思議ではない。

だが、「徳島科学史雑誌」はそういう基盤がほとんどないところからできているので、本当に珍しい例であろう。中心人物は西條敏美先生である。彼は多くの科学史的な著書もお持ちである。


今年もノーベル賞

2017-09-30 16:24:57 | 日記

の発表のシーズンが近づいたが、近年の日本の科学の発信力が衰えているとは、日本のノーベル賞受賞者が口を酸っぱくして警告していることである。

だが、これはおそらくは是正されないであろう。安倍首相が10年でノーベル賞を30人増やすとか数年前に言っていたが、現状は日本人の発表する論文数は減って来ており、これは自由に使える研究費が少なくなってきていることに起因しているのであろう。

いまは、20年前くらい遺産でなんとかノーベル賞の受賞者が出ているが、あと20年くらいしたら、ノーベル賞は日本人からは受賞者が出ないということになってしまうであろう。

高齢化の影響ともいえようが、国家財政の逼迫がその原因であるだろう。国立大学の法人化によって個人へ配布される研究費が私が大学に勤務していた頃に比べて約1/3くらいになっていると聞く。

結局、ノーベル賞も学問のすそ野が広がっていてこそノーベル賞の受賞者も増加できるのである。近年日本人のノーベル賞の受賞者が多いからと言って、慢心すべきではない。結果は残念ながら私の生きているうちにはまだ分からないだろうが、20年後は惨憺たる情況が待っている。

昨年、このブログで韓国人の受賞者が少ないことに韓国が悔しがっているそうだと書いたが、そのことは20年後の日本を見ているようである。ああ、私たちの無力なことだ。


数学を勉強しているのか

2017-09-30 11:32:58 | 日記

と思ったが、そうではなくて、書店に私の本が並んでいるのを子どもが見かけて写真を送ってくれた。神田の書泉という書店にある、四元数の本がずらっと写真に並んでいた。

一番左は堀源一郎先生の『ハミルトンと四元数』(海鳴社)、その右は今野紀雄さんの『四元数』(森北出版)、その右が私の『四元数の発見』(海鳴社)、一番右が森田克貞さんの『四元数・八元数とディラック理論』(日本評論社)であった。この4冊が日本人が書いた四元数の本としていま市販されている。翻訳書がもう一冊出版されているが、この書店の書棚にはなかった。

一番新しい本で一番ボリュームのないのは今野さんの本であり、ハンドブック的に使うこともできる。もっとも安価な本は私の本である。私が四元数について分からなかったことをどのように納得したかを追及した本で、多分世界的にも珍しいタイプの本であろうと自負している。森田さんの本は専門書なので他の3冊と比べて格段に格調がたかい。それだけ難しい本でもある。堀さんの本は四元数のことなら、何でも書いてある本である。そういう意味では一番広い範囲のことをとりあつかっている。


convivial

2017-09-29 11:27:25 | 日記

最近知ったフランス語にconvivial(コンヴィヴィアル)がある。いま辞書で引いてみると「打ち解けた」とか「和気あいあいの」とかいう意味が出ている。もともとconvivisというのは「食事を一緒にする人」という意味らしい。「食事を一緒にする人」はもちろん打ち解けた雰囲気で和気あいあいであるのでなければ、楽しくはないだろう。

ちなみにconとは「一緒に」とか、「ともに」とかいう意味をもともともっている。

vivisで思い出すのはvivre(生きる)である。Vive  la France !(ヴィヴ ラ フランス)であれば「フランス万歳」である。


確かに

2017-09-29 10:54:40 | 日記

というときに英語ならどういうのだろう。sure(シュア)とかcertainly(サーティンリー)とかいうのだろうか。フランス語ならsans doute(サン ドゥット)とでもいうのだろうか。sans douteは直訳すれば「疑いもなく」という意味だ。

ドイツ語なら、sicher(ジヒャー)とかohne Zweifel(オーネ ツヴァイフェル)とでもいうのだろう。

昨夜、久しぶりにドイツ語のクラスがあった。疑うという意味の言葉をどういうか聞かれてVerdacht(フェアダハット)とかちょっと見当はずれの答えをした後にだが、Zweifel(ツヴァイフェル)と答えたら当たりだったらしかった。

Verdachtは「犯罪者等の容疑とか嫌疑」とかいう意味に使うので、健康問題の疑いがあって、病院に行ったというときの「疑い」には使えない。それでもなんとか答えなければならないので、思いつく語を言ったのだが、さすがに的確な用語に到達するにはどうしてもすこし時間がかかった。


ようやく論文

2017-09-28 11:56:45 | 日記

の本文を書いたが、参考文献や脚注等をどう入れるかでまた悩んでいる。

昨日ようやく「他人から見た武谷三男3」の本文を書き終えた。ただ、参考文献や脚注をどこにどう入れるかがまだ作業として残っている。

昨夜、自宅で文献を探して参考文献をつけるつもりであったが、ほとんど作業をしなかった。今朝になって一つ、二つ参考文献をつけてみたが、これが論文にちゃんと適合しているだろうか。心もとない。

もっとも論文そのものはかなり自由に金山さんの論文とは違う見解を書いたので、そういう見方があったかと目を見開いてくれればと思っている。科学史の論文でもある方のものの見方とは違うものがないと発展が期待できない。

これは私が長年にわたって、武谷の著作を読んできて、ぼんやりと感じてきたことを主に文章にした。だからなかなか参考文献がつけにくい。


数学よりもフランス語を

2017-09-27 12:27:48 | 日記

書いた方が一般の人には喜ばれるだろう。

J'aime me laisser bercer par le bruit de la pluie. (ジェム ム レッセ ベルセー パル ル ブルィ ド ラ プルィ) 雨音に心地よく揺らされるのが好きだ。

bercer(ベルセー)という語は知らなかった。いま辞書を引いてみたら、「揺らす」という意味があるとわかった。

On dit que l'amour rend aveugle. (オン ディ ク ラムール ラン アブグル)恋は人を盲目にする、と言われる。

ちなみにフランス語の後のカタカナはフランス語を知らない人のために発音を書いたものであり、これは不十分なものであることをお断りしておく。フランス語に堪能な人は読み飛ばしてください。

時々、息抜きにフランス語の文章で気に入ったものを書くつもりです。

 


「鏡は孤独?」2

2017-09-27 11:49:14 | 日記

2015.6.2に「鏡は孤独?」と題するブログを書いた。そういうブログを書いていたことを書いた本人である、私が忘れていたのだが、これが誰かに検索されて読まれていた。

そこでどういう文章を書いたのかなと思ってそのブログを読んで見たのだが、私は別に詩人たるような素質は皆無のはずだが、けっこうこのブログ自身が詩的でもあるように感じられた。

世の中には暇な人がいて、私の書いたブログから、表題のブログを実際に検索して読んだ人がいたのである。そして、このブログは「ビジネス実用」というほんとうにそれでいいのかと思われる分類がされていた。

ちなみに、「鏡は孤独」という文句はオーデンという詩人の「ミランダ」という詩の冒頭の句である。これを知ったのは岩波書店のPR誌『図書』の池澤夏樹さんの連載を読んで知った。もし気になったこのブログの読者の方は「鏡は孤独」で検索して読んで見て下さい。


数学を趣味とする人

2017-09-27 11:23:02 | 日記

定年で退職してから、数学を趣味とするという人がいる。これはその範疇に私も入るのかもしれないが、私のことではない。

つい先日私にメールをくれた S さんは退職前の11年間をタイの職場で過ごしたという。そして仕事が終わってから、はじめ数独をして過ごしていたが、それに飽きて四元数について調べるようになったという。

そして、これは「数学・物理通信」への投稿ではないのですが、そのメモを送ってくれた。なかなかわかりずらいメモであるが、それを読み解いて読者からの声として「数学・物理通信」に掲載できないかと考えている。

この S さんは電気工事関係の技術者であったらしい。それだと数学などお手のものであろうか。


「Latex美文書作成入門」

2017-09-26 14:17:39 | 日記

(技術評論社)の第7版からかなりこの書が改訂された。第5版までは半が改訂されるごとに購入していたのだが、第6版を購入しないうちに第7版が出ていることを知ったので、ようやく購入した。

第6版ではしらないが、第5版まではTikzのことがあまり書かれていなかったが、この版ではTikzのことも書かれている。Tikzで図を描くのが大分楽になったのだが、しばらくTikzを使っていないので、忘れてしまった。

また思い出さないといけない。どれくらいこの本が出ているかは知らないが隠れたベストセラーであろう。数式の入った論文やエッセイを書く人は多かれ少なかれこの本のお世話になっているはずである。


他人から見た武谷三男3

2017-09-26 11:55:35 | 日記

というタイトルの論文を書いているのだが、難渋している。

今回は東海大学の金山さんの書いた論文をもとにして書いているのだが、いまつまっているのは彼の論文の第9節「現存社会主義国に対して」というところである。金山さんは加藤哲郎さんの著書の箇所を引用しながら、その箇所をさらに細かく読んでいる。この箇所に特に注文はないのだが、それを要約するのが難しいと感じている。

全部を引用してそれにコメントをつけるのはとても大変である。だからどうしようかと考えているのだが、あまりい考えが思い浮かばない。また、今日一日考えこむことになるだろう。


n次元の極座標でのラプラシアン2

2017-09-25 12:20:42 | 数学

昨年の10月に「n次元の極座標でのラプラシアン」についてはエッセイを8月に書き始めたのだが、それを書き終える前に9月になってしまい、徳島科学史雑誌の原稿をいま書いている。それで時間がとれないので、標題の数学エッセイは完成していないのだが、N 先生に教わった証明法ですでに証明ができてはいる。

ただ、表現法を少し変えたいという気持ちで8月にはこのエッセイに取り組んでいた。 N 先生の示唆は円柱座標を仲立ちとして n 次元の極座標でのラプラシアンを求めたらよいという示唆である。

(n-1)次元での極座標のラプラシアンが与えられると確かに数学的帰納法で n 次元の極座標のラプラシアンが証明できる。もっとも私自身はこのような n 次元の極座標のラプラシアンが必要になったことはないので、単なるアカデミックな問題であるのか、それとも実際にこの表示が有用な場面が出てくるのかは私自身は知らない。

もっともアカデミックな問題と思っていたものが、現実世界で必要になるなどということは人類にとってそういう経験は何回もしたことがある。

(2019.11.5付記) 「数学・物理通信」7巻9号(2017.12)10-20にこのエッセイは載っている。インターネットで検索してほしい。もっとも一般のn次元の極座標のラプラシアン表示が必要になることがあるのだろうか。3次元で十分すむのが普通であろう。

もっともn次元の極座標のラプラシアン表示が与えられれば、3次元の場合にはその一般の式で単にn=3とすればよい。

3次元の場合にこだわった、3次元のラプラシアンの計算もこれについても上記の「数学・物理通信」8巻5号(2018.6)16-27に載せている。インターネット検索すれば、名古屋大学の谷村先生のサイトにリンクされている。

すべての「数学・物理通信」のバックナンバーは、谷村先生のサイトにある。

谷村先生いつもご尽力ありがとうございます。

大学生のころに1週間ほどかかって計算して、それでも正しい3次元極座標でのラプラシアンが得られなかった記憶があるが、今回は2日ほどで正しい結果を求めることができた。参照されれば役に立つだろう。

これは『物理数学散歩』(国土社、2011)に掲載した「ラプラス演算子の極座標表示」の改訂版である。

閲覧数が200を越す

2017-09-23 12:20:18 | 日記

ことがときどき起こるようになった。私のブログはマイナーものであるから、200を越す閲覧があるのはほんのときどきである。(週に一度でもそういうことがあれば、すばらしいことである。たまたま今週は週2回閲覧数が200を超えた)。

だが、そういうことが起こるようになった。はじめは閲覧数が100を越せば、すごく閲覧数があったとかんじたものだが、最近は100くらいでは驚かなくなった。もっとも200を越すとちょっと驚く。

私は物理の研究者だったが、このブログはあまり物理のことを書いていない。もう少し書けるはずだとは思うが、なかなかそうはいかない。

ただ、「波源の速さが波の速さより速い現象」はときどき閲覧がされる。もちろん、これはマニアックな方だと思うので、今回も10位にランクされていた。

これは数年前にロシアで隕石が落下してきてそのときに強い衝撃波が生じて、多くの負傷者が出たということもあって、関心をもつ人がいるからかもしれない。

私はそういう現象の例を3つ挙げたのだが、それらについて詳しいことを知っているわけでもない。だが、こういう現象について言及するインターネットのソースはあまりないだろうと思われるので、これからもしばしば検索されるかもしれない。


なかなか難しい

2017-09-22 11:25:26 | 日記

何が「なかなか難しいか」というと数学を発見法的に学ぶということである。これは私が高校生くらいのころから気にしてきたことであるが、いまに至っても難しい。

数学の本でそういう本は少ないということでもある。わたしの『物理数学散歩』(国土社)をある方に送ってあげたら、発見法的に数学を学ぶという観点で書いてある数学の本にはじめてであったとメールをもらった。

数学でも物理でもなかなか発見法的に記述してある本はあまり見かけない。数学史などの本でも発見法的に書かれた数学史の本にはお目にかかったことがない。それでもいろいろ本を読んでいるとその片鱗がわかることがある。

たとえば、オイラーは生涯にわたって階乗関数n!を整数でない値に補間することに関心をもっていたという。これがガンマ関数である。


微分と積分

2017-09-21 12:11:05 | 数学

普通の人にとって微分と積分とのどちらが難しいと聞かれれば、積分の方が難しいというだろう。数学の初心者とあまり変わらない私などはそういう印象を持っている。

ところが、ところがである。少し数学に熟達した人たちは微分は扱い難いが、積分は扱いやすいとか言われる。たとえば、微分方程式は扱いにくいが、積分方程式は扱いやすいとか言われる。これは数学者で、「数学・物理通信」の共同編集者でもある、N さんなどはそういうご意見である。私などはそこまでのレベルに到達していない。

いつもアドバイスを下さる N 先生などもそういうことをおっしゃる。いつだったか微分演算子で議論をすることがあったが、N 先生はそれを積分表示で書けば、扱いやすいとのご意見であった。

要するに、そういうところまで私の数学の理解とか力が到達していないのだが、そのことが分かるくらいの数学のレベルにまだ私が達していないということであろう。

普通の人にとって、微分に対して積分が難しいと思われているのは、微分して導関数を求められる場合は多いのだが、逆に積分を求めることが必ずしもできないということに起因している。そのために数値積分とかモンテカルロ積分とかが存在したりする。

ところがそれはそうなのだが、微分方程式と積分方程式と比べれば微分方程式のままで議論すると議論が難しいが、積分方程式だと議論がしやすいのだと言われるような側面があるということだけは知ったが、それを具体的な問題でなるほどと納得するレベルまではいっていない。いつか、そういうことをきちんと知りたいと思っている。)

(2023.6.27付記)上に書いたことはいまでも同じ状態だが、ファインマンのよく使っていたという積分下でのパラメータによる微分で定積分を求める方法がある。だから、微分で定積分ができたりということも微分と積分の話題に入れるべきであった。