物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

インテリゲンス

2013-01-31 12:02:35 | 日記・エッセイ・コラム

作家の高橋源一郎さんが今日の朝日新聞に書いていた。「インテリゲンスとは対話できるということではないか」と。

これは最近の高校とかなどの体育のクラブの活動での暴力が問題になっているからである。暴力も問題かもしれないが、インテリゲンス、すなわち、対話がないということではないか。もしそうなら対話のなさは教育的な指導である得るはずがないと。もちろん、高橋さんはそれだけではなく、最近の政治家の質の低下も書いている。

しかし、これは政治家にそのような緊迫感もたせるような質問や要請をしてこなかった、私たちの現状の結果ではないかと高橋さんはいう。

そうだとすれば、政治家の質の低下の問題は単に政治家の問題ではなく、そういうふうに政治を扱ってきた、私たち自身の問題である。

高橋さんのいうことは道理である。政治家の質を低下していると単にいうことはやさしいが、その結果は私たちの責任だと思うと気を引き締めなくてはならないと自覚をする。

ときどきの広い意味の文壇時評で作家の高橋さんの考察に教えられることが多い。


私の願望

2013-01-30 15:50:04 | 外国語

以下に書くことは前にもこのブログで書いたことがあるかもしれないが、全くの願望であって、そういう状態に至っているということではない。

長年ドイツ語をテレビとかラジオで学んできており、また少ない機会ながらドイツ語を母語とする人とも話す機会がときどきはある。そのときに自分で何も意識をしないでドイツ語が口をついて出るという風になれないものかといつも思っている。

だが、現実は厳しく自分の思ったことがなかなか表現できない。それでも私のドイツ語を聞く人たちがなかなか頭のいい人たちなので、意志の疎通にはなんとか困らないくらいである。

もちろんときどきは間違って理解をされることはあるのだけれど、そのときは私が補足して説明をすると大抵は理解してもらえる。

昔は(1980年代の初めころだが)、もっとドイツ語を話すときに意識して話をしていたように思う。だから文法的にも正しかったのだと思うが、このころはどうもブロークンもいいところであろう。

結構、ドイツ語の文法も繰り返して学んでいるのだが、それでもなかなか身についたというわけにはいかない。そして一番のギャップがあるのは結局私の発想がやはり日本人でしかないということである。

もちろん、それが悪いとは一概には言えないが、そこらあたりが私の限界であろう。

でも、いつかはドイツ語を外国語として意識しないで話せるようになりたい。これが現在の私の見果てぬ夢である。


記憶が飛ぶ

2013-01-30 15:20:00 | 健康・病気

毎日ラジオ体操をしている。体操の後でその体操のうちの一部をしたのかどうか記憶がないことがある。一定の順序に従って体操をしているのだから、その過程を抜かすはずはないのだが、記憶に残らないことがあるのだ。

もっともそれは毎日ではない。ときどきなのである。第2ラジオ体操の、体を前屈させた後に後ろに反る動作なので、印象に残らないはずがないのだが、残っていないことがあるのだ。

もっとも毎日のルーチンになっているので、この動作が印象に残らないこともあるかもしれない。

しかし、印象に残らないことが不思議なのである。こういう風にして脳が老化していくのかも知れいない。

私はアルコールの愛好者ではないので、深酒をして記憶が飛ぶという経験はいままでのところない。だが、日常の生活ではこういうことがある。


ドイツ語の難しい語彙

2013-01-29 12:53:39 | 外国語

私たちのドイツ語のクラスのリーダーである、Oさんは4,5年間ドイツのマールブルク大学で神学を学んだので、さすがに難しい語彙をご存じである。これはもう何年も前のことだが、B"orseという語を使って話をR氏とされていた。

その話の内容からして株式取引のことと推察したが、ドイツ語にとっての外国人である私たちには縁の遠い言葉である。ちなみに株式のことはAktien (pl)という。また、株式会社のことをAktiengesellschaftという。略してAGとか表す。

これよりもあまり聞いたことも、もちろん使ったこともない言葉に、Renditeという語がある。これは経済用語であり、「利回り」という意味であるが、この語はいままでに私が出会った、ドイツ人からは一回も聞いたことがない語である。

これはいつだったかラジオかテレビのドイツ語講座のドイツ語を母語とする、講師がそういう語があるが、そういう語を難しい語を知っているよりは云々・・・と書いていたから知った。

日本人のドイツ語を専攻している人たちが、R氏の会話のコースに参加していた30年ほど前に覚えた語にはVerfassung憲法とかverteidigen防衛するとか、Abr"ustung軍備縮小とかNachr"ustungがあるが、この最後の語は私の独和辞典には載っていない。

ちなみに-e R"ustungは軍備という意味である。さすがに、専門家は使う語彙が違う。

それと何回か聞くが、すぐに忘れてしまう語に羊皮紙-s Pergamentがある。先日もこの語を教室でK夫人が使っているのを聞いた。何か古文書のことが話題になったときである。

(2013.2.2付記) nachr"ustenは最近手に入れた、新しい独和辞典を引いてみたら、「軍備を増強する」とあった。だからNachr"ustungは軍備増強を意味することがわかった。

またこれはいつだったかドイツ語のクラスでK夫人がパワステ(アリング)をドイツ語でどういうかと言われたことがあった。これはServolenkung(ゼルヴォレンクング)だったと思う。

こういう用語も新しい辞書には載っている。Fusspilz(水虫)もまた載っている。独和辞典は日夜進歩している。

ただし、「和独辞典の方はまだ一歩だ」とこれはR氏の評である。今ドイツと日本との独文学・ドイツ語学者の共同編集で数巻からなる、和独大辞典が編纂されていると聞く。それができると和独辞典も格段に進歩するだろう。もっとも私などがその和独大辞典を手に入れることはないのだろうが。


モンキーハンティング

2013-01-29 12:01:35 | 数学

モンキーハンティングとは文字通りには「お猿さん狩り」ということである。

先日、たまたまテレビのリモコンで面白そうな放送を探していたときに、放送大学の微分方程式の講義に行きあたった。

しばらく見ていたら、このモンキーハンティングの話が出てきた。あるハンターが木の上にいる、サルを鉄砲で打ったらその銃撃音におどろいて木から落ちた。そのとき鉄砲の弾はサルに当るだろうかという話である。

普通に一般の人が考えたら、木からサルが落ちたのだから、鉄砲の弾はサルには当たらないと思えるが、はたしてどうであろうか。そういう話である。

このような話は大学の受験問題にまで出たりしたこともあったと思うが、結論はサルに鉄砲の弾が当るという。

なぜなら、サルは自然落下するわけだが、鉄砲の弾の方も重力によって落ちて行くので、ちょうど当ってしまうのである。もし銃の音に驚いて落ちなければ、命が助かったものを皮肉な話である。

もっともこの話には銃を打つ人が100%打ち損じをしないということが前提になっている。それと本当は銃とかアチェリーを射る人は的よりも上を狙っていると思うのだが、そういう実際の射手の心得はこの考察に入ってはいない。

昨年の8月のロンドンオリンピックでのアーチェリの実況中継か何かではアーチェリーの矢は不思議な航跡を描いて飛んでいた。途中で風が吹いたりするからなのか、ふらふらとしながら飛んでいくように見えたが、ほんとうのところはどうなのだろうか。アーチェリとか日本の弓道とかに詳しい人に話を聞いてみたい。


当惑中

2013-01-28 12:50:31 | デジタル・インターネット

昨日、新しいパソコンが入ったが、機器が新しくなったので今までできたことができなくなっている。対応した機能はあるはずだが、どうやったらいいのかが明らかではない。

このブログでも前にはなんてなかったことが、いまこの新規作成の画面に到達するのに大分時間がかかった。今回はなんとか到達したが、時間にうまく到達できるかもわからないような状態である。

まさに当惑中という表題が誇張ではない。ブログ2000回をクリアしておいてよかった。一応今回入力できるようだが、続けてルーチンワークにできるかどうかはわからない。

latexの方もいつになったら、使えるようになるか見当がつかない。だから、仕事にはならないのだが、どうもパソコンを持ってきて設置をしてくれた業者は私の今までのファイルの移植には全く関わわってくれないし、私はまったく途方にくれている。


アメリカ独立宣言

2013-01-27 10:09:34 | 学問

昨日、ベンジャミン・フランクリンを巡る話を聞いた。これは私的な小さい集まりにおいてである。

その中で話者のTさんは1776年7月4日はアメリカ独立宣言の日だということを単に知っていたが、その独立宣言の後で4年にも及ぶ独立のためのイギリスとの戦争があったことを知らなかった、と言われた。そして自分の詳しいことを知らなかったことの不明を恥じるという意味の気持ちを表明された。

それは私たち、その話を聞いていた者みんなの気持ちでもあったろう。

人はなんでも詳しく知らないためにこのような誤解があろうか。独立宣言したときにアメリカが完全に独立していたかというとそうではなく、その後に長い数年にわたる、独立戦争があったということを知った。主な戦闘でも4回くらいの戦闘があったらしい。

そしてその4回の戦闘にことごとくアメリカが勝利してようやく独立を勝ち得たのである。それはTさんによれば、薄氷を踏むようなものであったともいう。それとともにいかに宗主国が植民地が独立することに抵抗して植民地を抑圧してきたことの僅かな一端を知ることができた。

これは明治維新のときの戊辰戦争にしても、今では圧倒的な勝利にしか見えないが、歴史を詳しく調べた人によれば、結構危うい勝利であったとかどこかで読んだことがある。

私たちは表面的な知識で生きていることはどうしても避けられない。しかし、その分野に少しでも詳しい人の話を虚心坦懐に聞く必要があるということであろうか。


2000回突破

2013-01-26 17:33:10 | 日記・エッセイ・コラム

このブログも先回のブログで2000回を記録した。ただ、長く書いているだけで有益なものを書いているとは思えないが、それでも自分では自己満足をしている。

はじめはすぐに書くことがなくなるという感じをもっていたけれどもなかなか人間生きていれば、書くことが尽きるということはないと悟った。これは一種の悟りでもある。

大体、一日一回のブログである。今日はたまたまこれが3回目のブログであるが、これは例外中の例外である。

2000回というと足かけ8年目になるので、これは元気であれば誰でもできそうである。多分誰でも達成できる。

別に気負って天下国家を論ずる訳ではない。もちろん、天下国家を論じてもいいのだが、残念ながらそれをする力量がない。

自分の好きな領域の話を取りとめもなくなく、書き綴りという形態はこれからも続くであろう。誰かが読んで下さってもいいし、読んでもらえなくてもいい。エッセイとはそのようなものであろう。

マンネリでおもしろくないと思えば、このブログには近づかなければいい話であるし、そのことは誰でも行おうとすれば実際にできることである。

それでも一人でも読者があるとすれば、その期待に背かないようにと少しは思うだろうから、励みにはなろう。少なくとも自分には何事か新しい観点を与えるようなものでありたいと願っている。


パソコンも変る

2013-01-26 17:11:54 | 科学・技術

金曜日に、パソコンを買いに行った。デスクトップのパソコンをと思って行ったのだが、ディスプレイの裏側にパソコン本体が収納されたようになっていることをはじめて知った。

それと以前はキーボードとディスプレイとかパソコン本体とをケーブルでつないでいたのだが、現在は無線でつながっており、ケーブルで繋ぐわけではない。

日本の電気器具は壊滅みたいな印象をもっていたのだが、それは実状を知らないものの印象であった。日本ではメーカーの製造業がしっかりしているので、ハイパーインフレはあり得ないとも聞く。

それが真実であると信じきってしまうにはまだ一抹の不安を感じるけれども、幾分かはその主張に同意をしてもいいと思うようになった。しかし、物価だけが上がり、給料は上がらないという状況は続きそうだし、それと雇用の情勢もあまりいい方向に向かうという気がしない。

そんなことをいうとお前までもそういうことでは駄目だ。もっと楽天的にならないとと叱られそうだが、あまり楽天的にはなれないのが、偽らざる現状認識である。

日本を取り巻く、経済状況は厳しけれども、日本の家電とかパソコンとか携帯電話とかスマートフォンとかの技術がまったく駄目になってしまったわけではない。そこは見誤らないようにしなければならないだろう。

ただ、防衛産業とか軍事産業とかに財政出動するようではこの国の将来は危ない。やはり民需にしか頼るものはないはずである。


世の中は変る

2013-01-26 13:11:54 | 日記・エッセイ・コラム

先日の木曜日の午後無料塾のPRのために事務局長を務める、Tさんと一緒に2校ほど小学校を訪問した。

二つ目の小学校で、校長先生から私たちと同じような趣旨で、無料塾を開いている試みが松山でも松山市教育委員会の試みと大学生のボランティアによる試みと私たちの試みとの3つがあることがわかった。

親の収入格差は私たちの努力では如何ともし難いところがあるが、それでもそれを子どもの教育格差から収入格差へと引き継がせないために、いろいろ努力をしている方々が居られるらしいとわかって、社会はゆっくりとではあるが、変わって生きつつあるとの印象をもった。

政治的な状況は自民党の政権返り咲きで、またもとの木阿弥になりそうだが、そして政治的な状況はもっと悪くなるかもしれない。だが、社会の底流では確かに変りつつあるということであろう。

若い人の生活がなかなか成り立たないことがそれでいいとは思わないが、それでもむしろ年長の人たちは意外と健全な思考をもって、社会の底流を生きている。

この二つ目の学校では夏休みに延べ70にも及ぶ教室を開くことを一昨年、昨年と2年続けて行っているという。それで夏休みに学習塾の無料塾を開いてはどうかの提案を受けた。出前塾という考えが出された直後であったので、検討に値するという感じがした。

さて、どうなるだろうか。


数学公式ハンドブック

2013-01-25 14:14:28 | 数学

「数学公式ハンドブック」(共立出版、2011)という本を購入した。定価が5、000円なので前から購入したいと考えてはいたが、なかなか購入に踏み切れなかった。

それが先日思い切って購入したのだ。まだよく読んではいないのだが、序文によると使う公式の違った形でも重複を恐れずに別の形として収録をしてあるという。

最近でも2項展開の公式を使おうと公式集などを探したときに、思う形の式が出ていなくて、いくつかの書籍を当たったりした、経験をもっているので痛いほどこの気持ちはわかる。

それで、その宣伝文句に引かれて、この公式集の購入に踏み切った。出版社と編者とか訳者がセールスポイントの売り込みに成功した一つの例となった。

ところが、まったく相反する考えなのだが、私が「電気電子工学科ミニマム」(以後ミニマムと略記)という小冊子を編集したときには、その目的は反公式集を作るという意識であった。これはまったく目的意識が反対で考えてみるとおかしいことであった。

そのときのはしがきの一部をここで再録しておくと

このミニマムは主として基礎的な数学の公式や物理定数等をまとめました。編集の方針はできるだけ少ない量の公式や定理を収録することです。普通の意味の公式集ではなく、いわば‘アンチ’公式集を意図しています。したがって、何から何までというわけには参りません。

私などはなんでも億劫がる方なのか、公式集を手元において参照することもあるけれども、それをしないで知っている知識から紙の上で必要な公式などを導いて計算に使うということも多い。

特に冬に夜中に一人でコタツに入ったままに取りとめもなく計算をしていたりするときに、書棚の公式集をとりだして参照することなど億劫でする気がしない。

そういうときに役立つような最小限の知識をまとめておこう。そして、それを電気電子工学科の学生の勉学の便に供したいなどと、たいそれたことを考えたのであろう。そしてそれを自分の研究費で数百部印刷して数年にわたって一年生とか二年生の学生に無料で配った。

もっとも学部の一年生とか二年生からは余りいい評判を聞いたことがない。

それどころか、私が書いた量子力学講義ノートは有料で売っていたので、こちらと混同して高い値段で買わせたりしてと悪評までもらった。だが、事実はこちらの電気電子工学科ミニマムは無料で配布したのであり、有料で売ったことはない。

一方で配布の対象とならなかった、卒業研究をしている4年生や大学院生の評判は上々で、密かにこのミニマムをほしいという学生が多数出てきたのである。

結局、私のつくったミニマムは1年生や2年生にはそれがまったく価値がわからず、評価されなかったが、かなり高度な研究に入っている高学年の学生には結構評判がよかったという結果であった。

学科の中には最近は数学の先生も居られるので、そういう先生方は自分の教えておられる講義を学生があまり熱心に聞いてくれないのではないかという恐れもあったのだろうか、こういう反公式集まがいのミニマムには冷淡ないしは批判的な方も居られたのではないかと思う。

それぞれの立場が変れば、それぞれ観点や気持ちが異なるのはだから、しかたがなかった。

それに対する私の言い訳は学生もいつまでも学生であるわけではなく、いつかは学生でなくなる。学生は技術者や教師になったりする。そのときにはこのミニマムは役立つのではないか。教育を学校での教育に限る必要はない。むしろ人生の大部分は学生ではないのである。

このミニマムはインターネットからアクセスできるので、関心のある方は「電気電子工学科ミニマム」で検索をしてほしい。いまなら、書き換えたいところもあるが、それを改訂する機会と時間はいまのところないのでこのままの形でしばらくご辛抱をお願いしたい。

(2016.7.8付記) このブログを書いていたときはまだインターネット上で「電気電子工学科ミニマム」を私のホームぺージ上で見ることができたのだが、現在はそのホームページがなくなってしまってから数年が経つ。だから私のブログの読者がどこを探してもそれは見つけることができないのは残念である。 再び、自分のホームページを持ちたいとは思っているがいろいろな理由でもつことができない。それにいまこういう数学公式集まがいのものをつくるなら、またちがったものを志向するだろう。なかなか難しい。


パソコンの寿命

2013-01-24 12:57:41 | デジタル・インターネット

人間に寿命があるように、パソコンにも寿命がある。年末から新年に帰って来た子どもから、8年目のパソコンがいつ壊れても不思議ではないと言われたので、明日は新しいパソコンを買いに行くことに決めた。

まだ、動かなくなってはいないが、寿命が来るのもそんなに先のことではないだろう。それで明日にでもedionに出かけて新しいパソコンの購入をしたい。

昨夜は12時を過ぎて1時間ほどコタツの中で寝た後で、布団に入って眠ろうとしたが、眠れない。それでまた階下のコタツで本を読んだ。夜が明けてきたのでまた2階に上がって眠ろうとしたが、寝たという感覚がない。それでも10時半過ぎまで寝床にいて、休んだが、起きて遅い朝食を取った。

そのときに妻に明日はパソコンを買いに行こうと言っておいた。というのはカードをもっているのは彼女で私ではないからである。

それでもまだこのパソコンの寿命がいくらか続くようなら、これを妻に譲ってしばらく使ってもらうつもりである。というのは彼女の使っていた、アップルコンピュータは半年ほど前に壊れてしまった。それぞれが自分のコンピュータを購入できるほど収入があればいいのだが、どうも年金生活ではそれもままならない。

1カ月ほど前に少しだが、以前に翻訳した本の印税が入ったので、それを原資にしてそれに自分の家計から、補足してパソコンを購入するつもりである。

印税などというものの音沙汰なしなので、もう払ってくれないのかと思っていたら、はからずも少々払ってくれた。定評のある、名著の翻訳なのだが、まだ1、400部くらいしか売れていないという。

定価が4,500円位するからあまり売れないのだろう。それも上、下巻では1万円近くもする。程度が高い本なので、大学で教科書として使ってくれている大学は1大学だけだという。


少し先が見えた

2013-01-23 12:01:01 | 数学

これは最近の私の進境のことである。四元数のことを調べているのだが、いくつかのことが自分で腑に落ちなかった。

それが本当に腑に落ちたのかどうかは、これは他の方の意見を聞いてみないとわからないが、自分自身では少し前進したかなと思うようになった。

もっとも、さらに闇が深まっているというところもある。そこをなんとか解明して、クリアーな文章を書きたいと思うのだが。

問題の一つは3次元ベクトルのSO(3)の表示からSU(2)の表示に移るときにx^{1}, x^[2}, x^[3}の2行2列の行列表示にこだわっていたのである。

どうしてこういう表示が出たのか。普通の本とかインタネットのサイトでの説明でもこう取ると書いてあるだけでその説明がない。これはSU(2)の表示についても詳しい説明があるゴールドスタインの「古典力学」でもそうである(注)。

ここ数日そのことが気になって、考えていたが、自分なりの解決をみたと思う。

(注) ちなみにSU(2)の表示についてはゴールドスタインの書の第2版までで第3版では詳しいことを省かれてしまっている。だから、新しい3版しかもっていない人は図書館等でゴールドスタインの『古典力学』の第2版以前の版を参照されることをお勧めしたい。

また、カルタンの本The Theory of Spinors (Dover)(この本はフランス語の講義録の英訳本)にはこのことの説明があるようだが、まだ私にはこの本のこの箇所を解読でてきていない。


テレビのスイッチを切る

2013-01-22 11:34:11 | 日記・エッセイ・コラム

このごろは「テレビのスイッチを切る」ことを意識している。これはテレビは麻薬みたいなもので、なかなか見ることを止めることができないから。

私より若い、ある数学者は結婚する前にはテレビをもっていなかった。テレビを見だすとなかなか数学などという面倒なことを研究する気になどなれないことを警戒していたのかもしれない。

私も日曜日などにはできるだけテレビをつけないように努力している。ただ、この例外にしているのは駅伝とかマラソンの中継放送である。

先日も広島の宮島沿線を走る、都道府県別対抗駅伝の放送を見た。この結果はすでに新聞やテレビで皆さんがご存知のように兵庫県の辛勝であった。第7区のアンカーにリレーしたときには2位東京との差は1分30秒ほどであったが、ゴールでは5秒差であった。

これは東京のアンカーがこの大差を5秒ほどにつめたのであるが、それでもとうとう届かなかった。兵庫県としては勝てばよいのであるが、それにしても辛勝であった。

妻などは夕方になるとテレビを見るわけではなくてもテレビをつける。それをどうかと思うところもあるが、しかたがない。


大鵬の死

2013-01-21 12:03:42 | ニュース

1月19日に大相撲で一世を風靡した大横綱だった、大鵬さんが亡くなったという。72歳だったという。そうすると大鵬さんは私よりも1歳だけ若いことになる(以下敬称を略する)。

どうも私よりもはるかに年上のような気がしていたが、ほぼ同年齢であることは頭になかった。私が学生のころが彼らの活躍の時期と一致している。

柏戸と大鵬の結びの一番をそのころ在学していた大学の食堂のテレビで見たことを覚えている。そのときはまだ大鵬が売り出したはじめのころで、そのときは柏戸がよりきりで勝ったのでそのときの印象ではなかなか大鵬が柏戸を越えるのは難しいのではないかという感じを強くもった。

だが、それは私の感覚がもちろん間違っていた。その後の対戦ではほとんど柏戸が大鵬に勝ったという相撲を見なくなった。それくらい、大鵬の強さは際立っていたのである。

一般にお相撲さんはあまり長寿ではないように思う。それで大鵬の72歳という年齢は結構長寿なのかもしれない。

「巨人、大鵬、卵焼き」という言葉は大鵬と卵焼きについてはOKだが、私は巨人嫌いなので、この言葉が好きではない。金に物を言わせて、他のチームの主力選手を引き抜いてきて、勝つというそのやり方が嫌いである。このごろは生え抜きの選手にいい選手が出てきているようだが、この金権体質はあまり変わっていないと思う。

もちろん、選手個人についていうならば、他のチームから巨人に行ったことはその人の野球人生としては自分の価値が一番あるときに自分を最大限に売り込んだということだけなので、野球選手の短い野球人生であるから、それをそれほど非難するつもりはない。

これは私だけではないと思うが、巨人が嫌いでも長嶋や王選手が嫌いだったことはない。そこら辺が微妙でもあるが、長嶋、王は別格の国民的なアイドルであった。