物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

世界の常識、日本の非常識

2012-04-30 12:55:59 | 日記・エッセイ・コラム

この間、作家の高橋源一郎さんが世界の常識と日本での常識の違いを朝日新聞の論壇時評で書いていた。それがおもしろかったのでこのブログでも取り上げようと思っていたが、パソコンの前にすわったら、どうしてもこのテーマを思い出すことができなかった。今日は覚えているので書くことにしよう。

高橋さんの書いていた一番目は世界では大学入試がないということであった。これはちょっと注釈がいる。アメリカの制度はあまり知らないが、ヨーロッパでは大学入学資格試験がある。これは高校の卒業試験のようなものである。これに合格すると志望の大学に入れるかどうかは別にして大学へは入れる。フランスの制度はバカロレアといい、これに合格すると大学に入れる。

もっともフランスの大学でもグラン・ゼコールといわれるエーリト学校へは試験を受けなければならないが、それらはエコール・ポリテクニークとかエーコル・スペリュールとかのいくつかのエリート校のみである。

ドイツでは、この大学入学資格試験はアビテューアといわれるが、同じような制度である。ドイツでは大学の授業料は長年無料であったが、年間数万円の授業料を州によっては支払う必要ができたが、それでも日本の授業料と比べたらまだ、格段に安い。また、フランスでは大学の授業料はまだ無料だそうである。

だから、子どもの教育にかかる費用は日本ではかなり多い。高橋さんがどう書いてあったかはよく覚えていないが、日本では教育費はヨーロッパの2,3倍かかると書いてあったように思う。

それにこれは高橋さんの関心事とは違ったが、日本では人々が自分で家を持つという傾向が強いので、特に自宅を持つために生涯の所得の大部分をその自宅の収得に費やしている。

この教育と土地取得と自宅の取得にかかる額が大きく異なっているのだと、昔経済学者の方との勉強会で知らされたことであった。この両方とも国民性とかいろいろな考え方の違いから出ているので、すぐにヨーロッパのようになればいいとは単純にはいえないが、私たちの反省の材料にはなろうか。

高橋さんは学校に入学式が必ずしもないのだとも書いていた。アメリカの小学校では新入生のためにどこかの大きな部屋にチョコレートとかジュースとかの飲み物が用意されていて、日本式の入学式はないとか。日本では大学でも入学式や卒業式をするが、ドイツではそういう式はまったくないと聞いている。

日本では大学でも大学入学後にガイダンスとかオリエンテーションがあり、どういう風に講義を受けて単位をとるかの説明が詳しく行われる。それでももちろんまごまごする人もいるのだが、ドイツではVerzeichnisといわれる講義の名前と講義をする講師とか講義室の場所が書いてある本を買い込んで全部自分でどういう勉強を大学でするのかをすべて自分で組み立てると聞いている。

それで、はじめはなにもわからない、まったくのカオスであるが、そのうちにどのような仕組みなっているのか自然にわかるようになるのだとはドイツ人のR氏の言である。

そこらあたりが自分の自発性を最大限に生かす、西欧の習慣とどちらかというとある程度は型にはめる教育に終始する日本との違いであろうか。

日本でも、京都大学はかなり自由で講義に出るかどうかも単位のとり方も自由性があるのかもしれないが、他の大学ではそうも行かないであろう。

もっとも東京大学でも優れた学生は講義には出ないで、独学の方が多いのかもしれない。しかし、一部の優秀な学生を除く大部分の学生はある程度講義を聞いて勉強するのであろう。またそのほうが社会に出て使える学生を出すためにはそういう教育をした方が歩留まりがいいとの見解もあるらしい。

大学における卒業式はアメリカ映画等でみたことがあるような気がするので、アメリカでは卒業式をするのかもしれない。だが、ドイツでは卒業という概念がないらしい。もちろん何らかの分野の学問で学位をとって「いわゆる」卒業する学生もいるが、大部分はその前に国家資格等をとって大学から離れていく。

日本の大学の特に理工系学科では会社の求人担当の方の訪問を受けて、担当教授が学生の就職の斡旋をするのは普通であるが、そういうこともヨーロッパの大学ではまったくしないという。もちろん個人的に推薦状を書いたりいうことを指導教授がしないわけではないと思うが、基本的に職探しは自分でする。そこらあたりもまったく違っている。

私などもそう多い回数ではないが、2回ほど就職担当として働いたことがあった。


回転

2012-04-28 17:39:38 | インポート

回転とはなにか。x^{2}+y^{2}+z^{2}を不変とする変換と言ってもいい。四元数で空間の回転を表すときに、四元数のベクトル部を一般の単位四元数とその逆四元数ではさんで変換する。このときに、変換された四元数のベクトル部のxi+yj+zkから得られる、x^{2}+y^{2}+z^{2}は変換前と変換後で不変である。

このことは形式的に四元数の絶対値の2乗をつくってみると確かにそうなっていることは分かるのだが、実際に変換させてみてもそうなっているか。「馬鹿な、そんなことはやってみなくとも当然成り立っているよ」と、世の秀才の方々にいわれそうだが、それを逐一計算してみた。

ところが、計算するとx^{2}の前の係数が1にならない。先日の夜その計算をやってみたら、どうも1になりそうにもないということでどこか計算間違いをしたなと思いつつ、その夜はしかたなく寝た。

つぎの日に計算を見返しても間違っているところに気がつかない。それでつぎのy^{2}の前の係数をちょっと計算法を変えて計算してみるとちゃんと1になったし、z^[2}の係数も同様に1になった。

それで、同じ方法で再度x^{2}の前の係数を計算してみたら、やはりちゃんと1になっていた。それで一つの課題はクリアできた。

ではということで、xyの前の係数を計算してみるとまた計算結果が0にならない。また計算間違えである。私はよく計算間違いをする。

それで今度もxyの係数の計算の見直しはせずに、yz, zxの係数を計算してみると計算方法をちょっと変えただけだが、ちゃんと0となっている。それで、もう一度xyの係数の計算に挑戦してみるとようやく0となった。やれやれ。

x^{2}+y^{2}+z^{2}を不変とする変換とはx^{2}+y^{2}+z^{2}=c^{2}, c: 定数のときには半径が一定の球上の変換である。これは回転である。

というような論旨で数学者の銀林浩さんは「数学教育事典」(明治書房)で四元数が回転と結びつくという話をされている。もちろん、この具体的な計算は私がした計算で銀林さんの記述にはない。計算はしたものの、まだその計算のノートをつくっていないので、これから計算をまとめるつもりである。


閉所恐怖症

2012-04-27 12:01:14 | 健康・病気

今朝新聞を見たら、三谷幸喜さんが閉所恐怖症であることをカミングアウトされていた。かく申す私も同病である。

先日の夜もMRIの検査を受けたことがないのに、そのことを考えただけで閉所恐怖症に襲われた。これではたまらんと思って隣で寝ていた妻を起こして気を紛らわす話をしようかと思ったが、そのうちにその恐怖はおさまっていつか眠りについた。

この閉所恐怖症は私に小さいときからあったようだが、それが顕著に現れたのはMRIではないが、やはり脳のCTスキャンで5分ぐらい動けないという検査を受けたときである。

このときは仕方がないから、5分間ほど眼をつぶってひたすら300ほど数を数えて5分が過ぎるのを待った。検査のために顔の上の5センチくらいのところにシンチレーションカウンターのボードが置かれたときであった。

この経験をかかりつけの医師に話したら、彼はMRIならお棺にはいるようですよと言われた。この医師は兄の中学校、高校時代の友人であるので、私を脅かすつもりでいったわけではない。だが、それ以来どうしてもMRIの検査を受けるのならば、鎮静剤が必要だと思っている。

飛行機の座席でも以前は窓際に座って窓の外を眺めるのを楽しみにしていたのが、これにこのごろは耐えられなくなりいまでは通路側に座ることにしている。閉所恐怖症もここまでくると笑えない。

閉所恐怖症ではないが、高所恐怖症というのもあり、こちらはヒッチコックの映画の「めまい」の大きなテーマがこの高所恐怖症であった。高所恐怖症の男、ジェームス・スチュアート扮する主人公をキム・ノバック扮する女性がそれをタネにして、たくらみに誘い込むという筋であったと思う。

教会の高い塔の上に駆け上がり、キム・ノバック扮する女性がそこから身を投げて自殺をする。しかし、実は塔から身を投げた(むしろ突き落とされたというべきか)のは別の女性であった。筋はもう忘れてしまったが、そこの部分だけは覚えているから不思議である。もちろん、そのたくらみはジェームス・スチュアートによって暴かれて行くのだが。

めまいをvertigeとかすかに覚えていたので、いま英和辞典を引いてみたら、vertigoとあった。vertiginesはこのvertigoの複数であった。ちなみによく似ている語でまったく違った語にVirgo(おとめ座)がある。こちらは友人の物理学者Y君が私に教えてくれた語である。


肩痛2

2012-04-25 12:11:47 | 日記・エッセイ・コラム

昨夜、ボールをもってテニスコートに行き、仲間と準備運動的なボールのやり取りをしているときに少し下のほうに来たボールをラケットをわずかに下から持ち上げてボールを返さなければならないのだが、ラケットを持ち上げることができないことに気がついて仲間の方にその旨を告げて途中で帰った。こういうことはまことに珍しいのだが、仕方がなかった。

今朝起きてみると肩が治ったとまではいかないが、昨日よりは痛みが減っている。数日したら肩の痛みがとれるといいのだが。

箸よりも重いものを持ったことがないというのは少し大げさだが、私の日常生活ではそれに近い。だがラケットをちょっと下から上に持ち上げれないことはショックだった。これは肩の問題なのかそれとも腕の力とか握力の問題なのかわからない。それぞれの総合したものだという気がする。

本格的な乱打の練習に移る前に準備運動を兼ねてネットをはさんでボールを軽く打ち合うというか交換する。そういうプロセスを経て、グランドストロークとかボレーの練習をしている。その後がゲームである。2時間のうちで練習が約30分間、後の1時間半がゲームである。

もともとこのテニスクラブは妻の主宰するものであったが、あるとき妻が完全にテニスから身を引いたので仕方なく私がその後の世話役となっている。とはいっても人集めも他人任せだし、クラブの世話役としての自覚がまったくない。

そういう風だからだんだん来る人が少なくなるが、数少ない女性メンバーのSさんがコートの予約もしてくれるし、陰の世話役として君臨している。彼女はメンバーに積極的に声をかけてテニスに誘って来るように人を組織している。有難いことである。


肩痛

2012-04-24 12:51:34 | 健康・病気

右ひざの痛みと違和感から少し解放されたと思ったら、今度は肩痛で困っている。人間どこか痛くても困る。ラジオ体操で右腕を上げるときにとても疲れたような感じがする。だから、左右に体を曲げるのがとてもでき難い。

これがどうしてこういうことになったのか分からないのだが、右ひざをかばっているうちにしらずしらずに肩を痛めることになってしまったのかもしれない。妻に昨日肩痛のことを言ったら、肩をあまり使わないからではないかと言われた。しかし、テニスでラケットを振るのは右腕・右肩である。

どうも寝ているときに右横を下にして寝ることが多いので、どうも右肩を痛めたというのがありそうな理由であろう。これでは今晩のテニスでラケットが振れるかどうかもあやしい。

70歳を越えて、今年はもう73歳の誕生日もほぼ1ヶ月後になった。あまり大病はしない方だと思っているが、それでもこまかなトラブルをときどき起こす。膝痛でテニスのときにほとんど走ることがこの4週間ほどできなかった。先週ぐらいから少し走ることができるようになってきたかと思っているが、さてどうだろうか。

だが、この肩痛である。最近肩痛はしばらくなかったので、戸惑っている。

今週の土曜日は雑談会で伊方原発訴訟の話をK弁護士がしてくれることになっている。


『測り方の科学史II』を読む

2012-04-23 12:58:37 | 本と雑誌

西條敏美さんの『測り方の科学史II』原子から素粒子へ(恒星社厚生閣)をようやく読み終えた。

専門に近い分野なので読み終えるのに1ケ月はかからないと思っていたのだが、原子核の質量公式のところでなぜか頓挫して2週間ほどこの書から遠ざかった。思い直してここのところを読み終えて1章づつ前の章へともどる方法でようやく第1章を昨夜読み終えた。

ところが読んでいるときにはいろいろなことを思ったのに、感想を書こうと思ったら、なにも思い浮かばない。それで読み終わったのは確かだが、感想を書くには少し時間がかかりそうである。どうもこういうことは珍しいのだが、しかたがない。

原子核の質量公式はフェルミの『原子核物理学』のテキストで私が一番感銘を受けたところであったのに、今回の読みでは読むのがつっかえたところになった。そこらへんもどうしてだかわからない。

実は素粒子から中間子、中性子とこの原子核のところに到るまでは一気に読めたので残りは簡単と思っていた節がある。

ところがそうではなかった。後のところも全部をチェックをした訳ではない。読んだことは事実だが、計算を飛ばしたところも何箇所かできた。

私は専門家を名乗るにはちょっとおこがましく、セミプロくらいの位置づけだろうか。物理の各分野の研究者にはこの書はいたるところ欲求不満が残るかもしれないが、この本は別に専門家のための書物ではない。

しかし、専門家にもなにがしかの得るところがあるだろう。少なくともこういう分野の物理量の測り方を通読できるような書はいままでなかったのだから。

広い分野の原子から素粒子までの質量とか電荷、大きさ等の物理量の測り方を述べるということは労の多い仕事にちがいない。しかし、そこかしこに著者の好んだテーマが潜んでいるように思われる。

原子では近代原子論の提唱者である、ドルトンの哲学的背景だとか、光の速さの具体的な値を測った、レーマーとかは著者の好きなテーマであろうか。

原子が日常生活のどこに現れているかとか、光の波長をどうやって測るかという視点などに著者の考えが出ているようである。

原子内の電子の数については原子番号の物理的意味をはっきりさせた、モーズリーの研究は私もすばらしいと昔思った覚えがあるが、西條さんも同様らしい。

原子核の質量でのワイツゼッカーの質量公式も同様であろう。

中性子と中間子の章があるのもそれらの科学史における重要性を鑑みて当然であろう。また、素粒子の章ではクォークとニュトリーノが取り上げられており、それらの話題もup-to-dateである。これらの章を私は興味をもって読んだ。

全体的にみると、いくつかの細かなミスは見かけられるが、それらはもし版を改めることがあれば、そのときに訂正されることを望みたい。

 


魚は痛みを感じるか

2012-04-22 18:37:36 | 本と雑誌

今日の朝日新聞の書評に「魚は痛みを感じるか」という題の本のことを福岡伸一さんが書評で取り上げていた。そういう発想をする研究者がいるということがおもしろいと思う。なんでも研究対象にできるのならば、したらいいと思う。

それでその答えを知りたいのが一般の人の人情というものであろう。研究結果は「魚は痛みを感じている」というのである。それが本当かどうかはその研究者のいうところを私には信じるしかないが。

そういえば、武谷三男の書いたものに、人間よりも知性とかの優れた能力をもった地球外生物等が地球にやって来て人間を家畜として食用するということになるとどうするかというような話がある。

これは本当は地球外生命の問題というよりは人間と人間以外の動物とを峻別してあるものを家畜として飼い、あるいは食用にしている人間のある種のエゴイズムをすごく抉った論理である。また人間自身はそういった動物をもたんぱく質として摂取することによってしか生きられないという現実を直視させる話である。

そういう動物や植物に食べることによってしか人間は生きられないから、仏教ではそのことに感謝をこめて食事をするという。

こういう私たちが生きて行くための現実を変えることはできないが、その現実をときどきは疑ってみて、反省をして見るのは悪いことではない。いや、それが一種の悟りなのであろうか。なんでも徹底した思考がほしい。


天気予報

2012-04-21 16:14:13 | 学問

天気予報はこのごろ良くあたる。これはまだ地震予知があまりできないのとは対照的である。私が学生の頃の50年前にはまだあまり天気予報はあたらなかった。多分50%くらいの確率でしかあたらなかったのではないか。

そのころコンピュータでの天気予報がはじまったばかりで、日本全国を碁盤の目のように区切ってその碁盤の中に1箇所は雨量とかの観測地点を置くとかいうようなことだった。それで予報が当たる確率を上げようとしたと思う。

しかし、空気の流れを立体的に追いかけるにはまだその当時のコンピュ―タは十分な性能がなかった。それから50年後では気象衛星で空の雨雲を観測しているので、「天気予報と女(または男)心はあてにならない」などという人はいなくなった。むしろ天気予報がよくあたれば、人間などは勝手なもので、ときどきは天気予報が外れてほしいとか勝手なことを思っていたりする。

私の仕事場からも、松山気象台が見えるが、何十年か前にそこの台長さんとして大学の一級下の男が赴任してきた。私は知らなかったのだが、大学の同僚のTさんがテレビに出ていたS君をすばやく見つけたのであった。このTさんは台長として赴任してきたS君の同級生であった。

しかし、このS君は1年か2年したら、他の県の気象台の台長として転出をしてしまった。彼が松山にいたころに私は一度も一緒に食事等をしたことがなかったので、その苦労話を聞くことがなかった。

だが、いまのように天気予報がよく当たる時代になっていても、それなりの苦労はないはずがない。だが、それにしても地震予知のような苦労はしていないだろう。地震予知も気象庁の管轄ではあるが、その研究の中心は気象庁にはないだろうから。

地震予知をテーマに研究費を稼ぐ地震学の研究者もまったく居られないでもないかもしれないが、大多数の地震学者は地道に研究を積んで居られると思う。大体において研究者は地道な方がほとんどだからである。そういう地道なことが好きではない人は一般に研究者にはなっていない。


UBとは

2012-04-20 12:50:45 | 外国語

連日、外国語ネタですみません。

ドイツ語のクラスでいつもR氏が出してくれる宿題に、よくbadische Zeitungの記事がある。これは松山市が姉妹都市協定を結んでいる、Freiburg地方の新聞であるが、先々回のクラスのときにこのコピーをもらって、その内のどれかを読んできなさいと言われた。

もっともつぎの週にはほとんど誰も読んで来ていなかったので、今週は一つくらい読んでいったほうがいいのではというので、選んだのがUmegefahrener Hydrant: Wasser fliesst in UB-Untergeschoss(消火栓に衝突:水が地下の大学図書館に流れる)というものであった。

このUBだがはじめ地下鉄を意味するU-Bahnのことだと思って読んでいたら、どうもおかしい。Freiburgには市電は通っているが、地下鉄はなかったはずだ。

現在、地下鉄を設置するための工事現場にダンプがやってきて近くの消火栓にぶつかり、壊してしまって、そこから水道水があふれ出して、地下3階と4階にある書物とか雑誌を水浸しにするような事態になったのかとはじめ思った。

地下鉄工事現場と大量の蔵書との関係が奇妙だと思ったので、元のインターネットを検索して全文を見てみた。すべてがわかったわけではないが、このUB(ウべェ)はUnibibliotekウニビブリオテーク(大学図書館)の略だなとわかったのは全文を読んだ後であった。

それなら、大量の蔵書や雑誌があることは理解できる。それでクラスに行ってR氏にUBはUnibiliotekのことを一義的に指すのかと聞いたら、そうだという。やれやれ。

普通そういえば地下鉄は、UBとは略さない。地下鉄の入り口にUと書かれた標識があったり、そうでなければU-Bahnとあるはずだ。

だが、Baustelle工事現場とあったので、東京とかの地下鉄工事を思い浮かべて地下鉄の工事現場に消火栓が近くにあったと勘違いをしてしまったのは早とちりが過ぎている。しかし、その近くの地下に大量の蔵書があるというので興味をそそられて全文を読んでみてよかった。

R氏によれば、Uni-Freiburgのこの図書館はなんどかマスコミダネになるような事件を起こしているらしい。R氏によれば消火栓は普通地中にあるべきもので地上に飛び出しているというのはおかしいという。また、インターネットの記事によれば幸いなことに三百五十万の蔵書には被害はなかったとのことである。

ちなみに私は辞書が重いので、ドイツ語のクラスには辞書をもって行かない。大多数の方々は辞書ではなくて、電子辞書をもってきている。

書籍体の辞書をもってきているのはクラスの世話人のOさんだけである。もっともOさんにはドイツ語の辞書は必要がないと思うけれど。医師の I さんもはじめは辞書をもって来られていたが、いまでは電子辞書を愛用されている。

(2022.6.13付記) ここに書いた医師の I さんは昨年だったかい一昨年だったかに92歳で亡くなった。私自身がこのときの I さんとほぼ同じ年齢に達した。
多分、このころの I さんと比べても1歳くらい年上になっているのだろう。人生の終焉に近づいてきている。

ドイツ語の名詞の性

2012-04-19 12:52:42 | 日記・エッセイ・コラム

今日はあまりいいテーマを思いつかないので、いつだったかNHKのドイツ語講座で聞いた話を書いてお茶を濁そう。その話はドイツ語の名詞の性についてである。

接頭辞geのついたドイツ語の名詞の性は中性が多いという。これが本当かどうかは辞書を逐一調べて見ればいいだけの話である。それで先日から一日に少しづつ調べてみようと思い出したが、これがなかなか気が進まない仕事である。

そのときにいくつかの注意がいる。

第一にドイツ語はいくつかの語が複合して新しい語が作られることが多いが、このときに複合名詞の性は一番後ろの名詞の性となる。だから、複合された名詞はとらないことにしなくてはいけない。

第二の注意としてはGesellschaftとかGemeinschaftのように語尾-schaftとか-ungとかがつく語はこれは女性名詞だということがはじめからその語尾で決まっている。そういう決まった語尾の名詞は除外しなければならない。

第三の注意として動詞を名詞化したものは全部中性名詞である。こういったもののも、もしあればはじめから除外しなければならない。

そういった除外をした名詞の内でどれくらいのパーセントのgeのついた名詞が中性名詞かということを調べる必要がある。辞書の2ページをから書き出したくらいであまりまだextensiveではないが、80%またはそれ以上のgeがつく名詞が中性であるようだ。

愛媛日独協会の会誌が1年に1回発行されるが、それにその調査結果を載せたいと思っているが、今年中にそれができるかどうか。

geがつく名詞で中性でない名詞としてder Geschmack(味、好み)がある。また、いま辞書を見るとdie Geburt(出生、誕生)もある。だから、上に述べた除外を入れてもgeがつく名詞がすべて中性である訳ではない。例外がいくつかあるのだが、それでもかなりgeではじまる名詞は中世であるのは確からしい。

das Geb"aude(建物)とかdas Gewitter(雷雨)とか確かにgeのつく名詞は中性である。


ある出来事

2012-04-18 12:26:26 | 日記・エッセイ・コラム

昨夜、6時半ころ家を出てテニスに出かけた。そのときにめずらしく妻の友人が訪ねて来ており、玄関から外へ出たところで話をしていた。それを横目に見ながら出かけたのだが、少し練習をしてゲームをしようというときになって妻がテニスコートにやってきた。

なぜやって来たのか私にはまったく分からなかったが、彼女は玄関が閉められてあり、家に入れないからタクシーで私の鍵をとりにやって来たのだという。

私は自分が玄関のドアの鍵を閉めたことも覚えていない。妻が家にいようといまいと鍵をもって外出するときには玄関の鍵を閉めるのが普通であり、条件反射的に玄関の鍵を閉めたのだとわかった。テニスから帰って事の次第を聞いた。

歩いて近くの電車の駅まで行ったら、そこにタクシーがいたので、それに乗ってテニスコートまでやってきたという。如何に私が決まりきった生活を送っているかが如実に現れた経験であった。

そのタクシーでの行き帰りはほとんど同じ行程であるが、行きは上りであり、2000円かかったが、帰りは下りであるので1500円で済んだという。道のりが同じならば、おなじタクシー運賃かと思っていたが、そうではないことがわかった。

もちろん上りは常にアクセルを踏み込み必要があるが、帰りは下りであるのでアクセルをそれほど踏み込み必要はない。むしろ軽く踏んでいるだけで制限速度くらいは出る。ガソリンの消費量という観点からは合理的な運賃の設定になっているのであろう。

盲目的、条件反射的な私の行為で妻は迷惑を蒙ったわけだが、それでも以上二つのことを期せずして知る機会にもなった。

私はいつも自分が修行僧みたいな、外から他人が見たら、およそおもしろくないと思われそうな生活をおくっている。私本人の心の中では結構エキサイティングなことがあり、平々凡々たる生活とは思っていないが、、ともかくそういう生活である。

だが、ときどきこんな事件で自分の生活を見直す機会が与えられる。


想像力の貧弱さ

2012-04-17 11:30:35 | 日記・エッセイ・コラム

「ブログ1700を越す」にコメントを頂いた、くろねこさんはテニスをどこかのテニス教室でならっている、小学生か中学生のお嬢さんをもつお母さんと想像した。

しかし、これは私の想像力が貧弱なせいであって、くろねこさんが「娘がテニスをする」というときにひょっとしたら、あの世界的テニスプレヤーの杉山愛さんとかクルム伊達さんのお母さんかもしれないなどと思い出した。

その場合でも「娘がテニスをするので」としかお母さんは書かないであろうと思うと日本人の謙虚さが思われる。

別にこういうことをカミングアウトしてほしいということではないので、単に私の想像力の貧弱さを話題にしているだけである。

ともかく、人の想像力には限界があり、その限界の範囲内でしか考えることができない。

先日ips細胞の研究で有名な山中先生のインタビューが朝日新聞に出ていたが、彼は研究は意外なことが起こり、それで研究者となったと述べていた。

自然の実際のあり様はしばしば人間の想像を超えているから、おもしろいのだと言われればそうかもしれないが、予想がはずれたときにそれにどう対応できるか。

私などならイライラしてしまうのがオチだろう。そして自然は自分の思うままなどにはならないにもかかわらず、それを棚に上げて「けしからん」などと思ってしまう。

だから、自然は自分の思うようでは必ずしもないという事実を認めることができるようになるには、やはりそれ相応の持間がかかる。そういう風に人間は知らぬ間に先入観をもっているものである。


自由を生きる

2012-04-16 13:04:36 | 本と雑誌

「自由を生きる」(東京新聞出版局、1999)は先年亡くなった数学者の森毅さんの自伝である。

森さんが亡くなった後で雑誌「数学教室」で銀林さんたちが回想を書いていた中でこの自伝の話は出てきたが、この本をもっていなかった。

(2014.8.26 付記:自分の本の中にこの書を見つけたが、それは新しくこの書を買い求めた後であった)

ところが、アマゾンコムの古本で価格1円とその他の経費250円とかで買ったので、本が届いた先週の木曜日の夜には金曜日の早朝の4時半まで眠い眼をこすりながら、おおよそを拾い読みした。その後土曜日に詳しく読んだ。

書いてある内容は目新しい内容はあまりなかったが、学校時代の同級生とか2,3年先輩または後輩とか人をたくさん知っており、彼らとのかかわりに触れているのはなかなか圧巻である。

それと数学の研究についての彼の考えたところとかが載っている。これは彼が研究論文をあまり書かなかったことの言い訳になっているのかもしれないが、興味深い。

しかし、巻の大半に若いときの気分が横溢していて、その後のところが駆け足のような気がした。

これは誰が自伝を書いてもそうなのだろうと思う。若いときの気分が大抵の人の自伝を支配している。

これはHeisenbergの自伝『部分と全体』(みすず書房)にしても、Dysonの自伝『宇宙をかき乱すべきか』(Disturbing the universe)(ダイアモンド社)にしてもそうなのではないか。

もちろん、老齢になっての話もこの本「自由を生きる」には出てくるのだが、やはり若いときの感覚を老年まで結局残しているという特徴がある。

それと本のタイトルが「自由に生きる」ではなく、「自由を生きる」とあるのが目を引く。森毅さんのときどきの写真が多くついているのが、やはりもう一つの特徴であり、文からだけではなく森さんの人柄を偲ばせてくれる。

私も一度だけ20年以上も以前に高知での数学教育協議会総会の夜に森さんと話をしたことがあるが、有名人の森さんには私などは得体の知れないone of themであったろうから、彼の記憶にも留まらなかったであろう。

(追記) 森さんの自伝を読んだからかどうかはわなからないが、四元数から線形代数が出てくる歴史的な経過に関心がいま出てきている。

四元数はHamiltonの発見であり、Hamiltonはこの発見が自分の人生最大の発見と捉えて、彼の人生の最後の20年をこの四元数関係の研究に費やしたという。

しかし、森さんだけでなく、四元数の価値は結局四元環から、ベクトル解析や線形代数へと導いた端緒を与えたことにあると考えられている。

あまり代数に詳しくない私には「環」はどうも居心地を悪くさせる概念だった。

昨夜Stillwellの「数学とあゆみ」下巻(朝倉書店)のコピーを読んでみたら、「体」の条件の中の乗法の逆元がないものを環というのだと知り、ようやく「体」から「環」という概念になじみがでてきた。


ブログ1700を越す

2012-04-13 13:15:09 | 日記・エッセイ・コラム

いま、私のブログの回数を見たら、「武谷の書籍・文献の入手」が1701回目であることを知った。1700を365で割ると4.65くらいであるので、少なくともブログをはじめて4年半を経過したことがわかる。

実際には2005年4月の終わりにこのブログを始めたと思うので、今年の4月末で7年が経つと思う。もちろん健康でブログを書くことができたことに感謝をすべきであろうし、読者がいるとすれば、その読者にも感謝をすべきことであろう。

特に最近は一日にどれくらいの方が見てくれたかを知ることができるので、特定の方々のお名前等はまったくわからないないが、それでもその読んでいただいたことを励みにして書いてきた。

私のブログの回数が1000回くらいのときに2000回を越しておられる方がおられた。ああ、すごい人がおられるなあと思ったものだ。その2000回に到達するのはまだ一年以上かかるが、それでも2000回も夢ではなくなってきた。