物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

マルクス-エンゲルス全集(MEGA)

2011-07-31 09:41:18 | 学問

昨日の愛媛日独協会の講演会で日本人として新MEGA編集に加わっておられる、赤間さんの話を聞いた。

1989年のソ連の崩壊やベルリンの壁の崩落の後で、日本人研究者も入った新MEGAマルクス-エンゲルス全集の編集が加速されているとのことである。これはそれまでのイデオロギーから外れてようやく独立したマルクスとエンゲルスの全集の編纂である。

ドイツと日本それからロシアの三箇国から資金が出ており、特にドイツは資金の大部分を出しているらしいが、2015年をもってその資金の拠出が終わるらしい。

日本でもこの編集の作業のための資金を1億円にはまだ満たないが、それでも多額の資金を科研費から拠出しているという。なんでもこのMEGAの既出版物の大半は日本で購入されているらしい。

日本人がこのMEGA編集に加わったことはもちろん日本の経済力を期待する面も見逃せないだろうが、やはり研究の層の厚さとその実力をも示しているものらしい。

MEGA編集には優先順位があり、学術的に価値の高いものから、編集に集中して出版していく方針だが、最終的にはこのMEGAは完成しないうちに資金切れになりそうである。

ただ、思想的にMarx-Engelsの残したものは大きいだけにイデオロギーから解放された、今こそその全集の完成を願わずにはおられない。


愛媛日独協会公開講演会

2011-07-30 12:00:50 | アート・文化

今日の15時から愛媛大学法文学部の本館2階の中会議室で表題の講演会がある。

一つは今治看護専門学校で哲学を教えておられる、高安伸子さんが子どもさんをシュタイナー学校に入れた経験を「ハイデルベルクのシュタイナー学校」という演題で話される。

日本でもシュタイナー教育は子安美知子(?)さんの著書{ミュンヘンの小学生」(中公新書)等で知られるようになって久しいが、具体的にどういうものかは私もよくは知っていない。

もう一つは法文学部教授の赤間道夫さんが「新MEGA編集と日本人研究者」という題で話をされる。MEGAとはMarx / Engels Gesamtsusgabeの略でマルクス・エンゲルス全集の編集に関係することらしい。

マルクスとエンゲルスの全集は全体で114巻と予定されているというから、とても大部なものである。この新MEGA編集は現在ドイツを中心にして行われているらしい。もちろん日本でもこれに関係している研究者がかなりいるということであろう。

一時旧ソ連の崩壊とともに社会主義の敗北と資本主義の勝利などといわれたが、やはりそういう単純なことではなく、資本主義のほころびは現在では多くの人から指摘されている。

そのせいかどうかマルクスやエンゲルスの思想も見直されているということもあろう。しかし、そういうコンテクストでなくても思想としては研究する人がいるのは当然であろう。

このところ、安孫子さんという科学史家の方のある論文を検討しているのだが、その中に「スターリン言語学」への言及がある。

それで、思いついて田中克彦氏の「『スターリン言語学』精読」を肝心のスターリン言語学の論文の翻訳の部分を除いて読んだ。それによるとこの論文は旧ソ連の民族の自主性とその民族の言語の重要性を認めた論文であるとのことだ。

それで、この論文はスターリンの独裁等の弊害がもちろんスターリンに関しては後世言われているが、民族の独立性とその言語の重要性を認めたという点で正統的なマルクス主義の言語政策とは異なっているという。

そういうことも踏まえると岩波書店の「『スターリン言語学』精読」の発行は貴重なものである。


第3回無料塾

2011-07-29 12:34:44 | 受験・学校

第3回の無料塾を8月1日から5日まで松山市小坂の医療生協法人「あったが拓南」の組合員ルームで開こうとしている。これは昨年の夏に急遽開いたり、昨年12月に一日だけ「書き初め」塾を開いて以降である。

無料塾とかタダゼミは全国で開かれているようであるが、私たちの塾はまだ小規模であり、数人の参加者しかない。

本当は全国的に展開されている、タダ・ゼミは中学生の子どもを高校受験勉強のための塾に行かせる経済的な余裕のない家庭のために社会の格差をできるだけ狭めるという趣旨のために開かれているのが、普通だがそこまで私たちの無料塾が徹底している訳ではない。

もちろん、無料で開講しているのは変らないのだが、こういう中学生を主な対象としているとまでははっきりいえない。

昨年、朝日新聞で高知県と滋賀県だったかで無料塾が開かれているという新聞記事を読んで、即座に反応して開いたといういきさつがあった。だから、日にちも夏休みが終わりかけの頃で小学生や中学生にはもうあまり必要を感じられない頃であった。それで今年は親御さんの要望もあって8月はじめの1週間となった。

先生は私も含めて元大学の先生だった友人や知人の数人に頼んでいる。中学2年生までという制約がいまのところあるが、要望があれば中3生も受け入れることを考えねばならないだろう。しかし、それは今後の展開次第である。

フリースクールに関してはそういう学校を開いている学校法人もあるようだし、私たちが開かなくてもいいだろうとの判断を現在しているが、そういう要望はないのだろうか。


数学ブーム

2011-07-28 13:08:40 | 数学

密かな数学ブームだという。昨夜NHKの「クローズアップ現代」でこの話題が取り上げられていた。

高橋一雄著「語りかける中学数学」、吉田武著「オイラーの贈り物」等が売れているという。それぞれ通算で10万部を越えたらしい。これは数学書としてはすごいベストセラーであろう。

特に吉田武さんの本の主題であるe^{i pi}+1=0という結果が現代の人々に強い印象を与えるらしい。この式は小川洋子さんの小説「博士の愛した数式」(新潮社)で有名になった式だが、これは思ったほど不思議な式ではないというのが、私の意見である。

e^{i pi}=cos pi+isin pi=-1

として、昨夜のテレビに出てきた人のノートにも cos pi=-1, sin pi=0 と書かれていた。これは間違いではないが、

原点Oから1に向うベクトル(矢線)を原点Oの周りに180度回転すれば、このベクトル1は-1をさすベクトルになることは誰でも理解できると思う(注1)。

ところで、このブログでもPolyaのことを書いたことがあるが、彼の「いかにして問題をとくか」(丸善)はいまでもベストセラーらしい。これは私が高校生の頃に訳本が出たと思うので、もう半世紀以上も出版がされている。

他方、彼の他の本は多分続けては出版されてはいないと思う。

昨日の放送では「逆転の発想」と「似たより簡単な問題を知らないか」というヒントだけが時間の都合もあってとり上げられていた。

いずれにしても大いに望ましいことである。付録ながら、この放送でサイエンスライターの竹内薫さんの顔をはじめて知った。

(注1) 原点Oから1に向うベクトル(矢線)を原点Oの周りに180度回転する。このことを数式ではe^{i pi}1と表す。1はあってもなくても同じであるが、書かなくてもあると意識しなくてはならない。

原点Oから1に向かうベクトルをe^{i pi}で180度回転をすれば、その操作の結果として、原点Oから-1に向かうベクトルになっている。これを式で書けば、e^{i pi}1=-1となる。

この操作をもう一度繰り返せば(注2)、-1は+1に戻るので、(-1)*(-1)=1となり、-1に-1を掛けると+1になるという、数学でよく話題になる疑問の説明ができる。同様に(-a)*(-b)=abとなることもわかると思う。

(注2) すなわち、e^{i pi}(-1)である。e^{i pi}(-1)=1であることは言うまでもない。これを普通には(-1)(-1)=1と表している。


パソコンのトラブル

2011-07-27 13:11:15 | デジタル・インターネット

自分で引き起こしたトラブルだが、古いパワーポイントのソフトをインストールしようとして、e-mailがトラブルを引き起こすようになってしまった。自分で引き起こしたトラブルなので誰にも文句のいいようがない。

密かに自分で修復する以外にしようがない。大体忙しいときに限ってそういうことを引き起こす。

メールが読めないだけでなく、折角ためていたメールの連絡先が全部消えてしまった。さあ、どうしたらいいのだろう。ちょっと思案中である。

それに同級生の方からは面倒なことを同窓会の件で言って来ている。やれやれ。


soul kitchen

2011-07-26 12:38:09 | 映画

soul kitchenはドイツ映画である。ハンブルクが舞台で、あるレストランのレストランオーナーの愛と彼の経営するレストランに関するできごとを巡る映画でどうってこともないのだが、ドイツ語のクラスで勧められたのとしばらくぶりに生のドイツ語を聞いて見たくなったので、日曜の夕方、妻と二人で見に出かけた。

映画を日曜の夜に見に来る暇人は少ないと見えて、私たち夫婦以外では若い女性の二人連れしかいなかった。映画が斜陽産業であることは変わりないようである。

ドイツ語もあまり聞きとれず、音楽だけが大きな音響であった。あまりドイツ語が聞き取れなかったと後で言うと、妻が時々単語が聞き取れたというから、もちろんドイツ語学習のキャリアが違うので、もちろんそういうことではないと答えて大笑いとなった。

レストランオーナーは昔の学校の友人にそのレストランを売れと迫られるのだが、この不動産業の友人の名がノイマンといい、有名な数学者のフォン・ノイマンと同じ姓だったのを、後で気がついておかしかった。

前科者の兄がばくちのカタで、このレストランの建物と土地をこの不動産業者に奪われてしまうのだが、不動産業者が脱税か何かでつかまり物件は競売になる。それを元恋人から借りた20万ユーロの資金で競売のときに買い戻すという話である。1ユーロがおよそ100円とすれば、2000万円くらいの価値だろうか。

それだけの話であるが、そのいきさつはもちろん面白おかしくなっているし、元恋人との話もある。税金を滞納したことによる差し押さえにも遭うし、いろいろのできごとがある。もっとも私は理解力がないので話の筋がよくわからない。

レストランオーナーは重い冷蔵庫を持ち上げようとしてぎっくり腰になるということが挿話的に挟まれている。先日のドイツ語のクラスの後での医師の I 先生のHexenschuss云々はこの映画を見ての話だったらしい。

先日私もぎっくり腰になり、体の動きが数日不自由になった。


助け合い

2011-07-25 13:35:48 | 日記・エッセイ・コラム

けさ食事をしながら、妻がつくづく感じていう。食卓にあるラッキョウのピクルスはK1さんにもらったものだし、海草の佃煮はS1さんのもらったものだという。また、ならづけはK2さんからもらった。また、梅の実の煮物はS2さんから頂いたという。

食卓に並ぶものにしてそうである。また、今年は野菜をいろいろな人からもらうことも多い。ほうれん草やきゅうり、なす、また、かぼちゃといろいろである。

これはK3さんからゆりをもらったりして、それを妻が他の人にあげたらそのお返しに何かを頂くというようなことらしい。

「わらしべ長者」だといつも妻は言う。これは古い昔話らしいが、わらを一束もって歩いていた若者が途中で出会った方から言われてそれを交換してまたその交換したものをまた他のものに交換していくうちに金持ちになった。そんな話が本当に起こり得るのかどうかはわからないが。

いずれにしても世の中の多くの人に支えられて私たちは生きている。

私にしても数学・物理通信というサーキュラーを3ヶ月に一度発行しているが、それに投稿してくださる方があり、このサーキュラーを出していることが徐々に評価されてくる。これはひとえに原稿を投稿してくださる方々のお陰である。

人を支えているつもりがいつの間にか本当は人に支えられて、生きているのだと気づかされる。


解析接続の例

2011-07-23 20:14:55 | 数学

解析接続の例を書いた本を前から探している。

最近といっても数年前(2008)に出版された本にその例が載っていることをアマゾンコムの書評で知った。それでその本を購入した。

これはいつかこのブログでも書いた話題なので、新しい話題ではないが、解析接続の仕方は普通どの複素解析の本にでも載っている級数展開によるものだけではない。

それを具体例で示したというか、解析接続の方法を意識して書かれた本としては私の知っているものでは松田哲著『複素関数』(岩波書店)が今のところ一番いいように思うと前にも述べた。

いろいろな解析接続の手法があると書いていたのは今村勤著『物理と関数論』(岩波書店)であるが、これにはその例はあまりあげられていない。もちろん定理の証明とかは上がっていたと思うけれど。

それでその辺のことをこのブログでも述べたことがあるが、新しく購入した本は飽本一裕著『今日から使える複素関数』(講談社)である。

この本には例が出ているし、その解析接続の手法もやり方の項目もあげられており、例もいくつか載っている。だが、鏡像の原理による解析接続の例はあげられていない。

いや、あげられているのかもしれないが、まだよくは読んでいない。ともかく私の知りたい気持ちの幾分かは満たされたが、まだ全部が満たされたわけではない。

飽本さんはプラズマ物理が専門らしく、ひょっとすると私の友人の Y さんが大学で教えた人かもしれないが、まだ Y さんにはそのことを聞いていない。

(2011.7.25付記) 今村勤著『物理と関数論』に解析接続の例が出ていないと書いたが、昨日この本を見ていたら、そんなことはなくてちゃんと例が出ている。

実はこの書が長い間どこかに紛失してしまっていたので、どうもそういう風に思い込んでいた節があるが、この機会に訂正をさせて頂く。

ただ、もっと例が欲しいと私が思っていたことは間違いがなく、この書の例だけでは十分とは感じられない。だが、例はいくつか出ているので、私の基本的な誤りを謝りたい。

ただ、上の文は記録なのでそのままにさせて頂く。

(2022.7.21付記) 金子晃『関数論講義』(サイエンス社)の第6章の6.1節が「解析接続の方法」となっていて、その方法と例が出ている。この書をいまはお勧めしたい。微分積分学のテクストでもこの金子さん書いた本がある。それがお勧めであるとアマゾンコムの書評で見た。

金子さんと笠原晧司さんの微分積分や線形代数のテキストとかがお勧めであるとはやはりアマゾンの書評より知ったことである。

私のブログの他のところでも紹介したかもしれないが、「解析接続の例」と題するこのブログを見てくださる方は今後も出ると思うので、ここにも付記した。

平和展

2011-07-23 18:01:27 | 日記・エッセイ・コラム

松山市のコミュニティーセンターで、いま平和展が行われている。この平和展は今年で第9回というからほぼ十年前から行われていることになる。期間は7月23日(土)~27日(水)である。時刻は9時から19時である。しかし、最後の日は17時で終わる。

第9回松山空襲犠牲者追悼の平和展である、今回は平和詩の朗読も例年通りある。毎日午後1時に詩の朗読は行われる。もっとも7月27日だけ午後2時である。

この展覧会に行ってみたところで何かが変る訳ではないが、子どものときを思い出す。食物がなかった時代である。今の子どもにはわかるまい。食物があふれている、このごろだと子どもたちに理解しろと言ってもこれは無理な相談である。

また、私の幼稚園時代の空襲を思い出す。私は I  市で空襲にあったが、そのために通っていた幼稚園は焼けてなくなり、それ以後は幼稚園には行かなかったから、私の幼稚園生活は2ヶ月ちょっとである。

今朝の語り部の女性も私よりは7歳くらい年上の方であったが、松山空襲の話とその頃の様子を話された。この方はもし居られるとすれば、お孫さんか、曽孫さんくらいの世代が小学生だったりするであろう。それで食物も最近でこそ原発の事故で牛肉が放射能汚染をしていたりということになって、何でもいつでも食べられる訳ではないという、事態になってきた。

だが、その経験もとても限られたものであり、食文化としては飽食の時代であることは間違いがない。

私みたいに土用の丑の日にうなぎを食べたいとは思わなかったり、またすしのマグロを特にそれほど食べたいとは思わないなどという日本人は変人の部類であろうか。

だから、私には刺身もあまりいらないし、マグロもいらない。さらに、うなぎもどうでもいい。ましてや、鯨肉を食べるのが日本の食文化だといわれると「本当にそうかなあ」と思ってしまう。

この最後の点については確かにそう思うというような新聞記事を最近見かけた。これは調査捕鯨を正当化するためではないかとの論であった。真偽の程は知らないがそういう可能性は捨てきれない。


「かけ算には順序があるのか」の感想

2011-07-22 11:23:18 | インポート

「かけ算には順序があるのか」(岩波書店)を昨日手に入れて、第1章と第3章だけ読んだ。とはいっても走り読みであるから、十分な感想にはなりえない。このことをあらかじめお断りしておく。

第1章が本の表題にもなっている、かけ算の順序に関した考察である。結論をいってしまうと「かけ算」の順序を変えたときにそれを間違いとするのには賛成できないが、かけ算の指導のしかたをいまの形にもってくるまでの歴史的ないきさつを考えるとあまり順序はないのだといきりたつのは大人気がないような気がする。

それで妥協かもしれないが、私は現在の教え方を一つの標準化(この語の例を下に1つあげた)ととらえたい。評価としては6*4も4*6も正しいとする。

「みかんを6人に4個づつ配る」ときに普通は

4個/人*6人=24個

とするが、

6人*4個/人=24個

も正しいとする。だが、標準化された教え方としては 4個/人*6人=24個をとるのがよかろう。これは標準化であるから、正しい正しくないの判断には入れない。すなわち、正しいのはどちらも正しいとする。

数の交換則は成り立つが、量には交換則が成り立たないという主張にもつらいところがあると思う。というのは助数詞をつけたときにその助数詞も交換可能であり、交換できないと主張するのはどうかと思うのである。具体的な状況に合わないという反論はもちろんありうるが。

ただ、歴史的とか心理的な意味での 6人*4個/人=24個 の有利性はあっても、小学校で量にもとづいて算数を教えるという今のやり方からは、できるだけ後退しないほうがいいと思う。今のやり方が小学生にも理解がしやすいことは確かであろうから。

内包量(または1当たり量)*外延量=外延量

という仕組を保つためにハンドルネーム「積分定数さん」のように時速4kmで3時間歩いて求める式が3*4であったときに

3時*4km/時

3km/(km/時)*4km/時

として、(1当たり量)*(いくつ分)

を保てるから、これでいいではないかというのは確かに数学や物理を学んだ大人はいいかもしれないけれど、1当たり量をはじめて学んでへどもどしている小学生にもそれでいいではないかとは私には言えない。

しかし、両者は理屈にはあっていて正しいのだから、これを間違いとはしない。ただし、3km/(km/時) (注 参照) が量としてわかりやすいとは言えないと思うので、かけ算を教えるときに標準化とはしない。

そういう考えをもっている。

標準化という語で類推して欲しいのは代数式の計算でたくさん、かっこのある計算がよく練習問題にある。このとき数学としてはかっこは外側からはずしてもいいし、内側からはずしてもいい。

私自身は内側からはずすように標準化して指導した方が間違いが少なくてすむのではないかと思っている。これはあくまで標準化であるから、外からかっこをはずしても間違いだとは誰も言えない。

そういうところが教育にはあるのではないかと思う。

著者の高橋誠さんはあとがきで数学教育協議会の「量の考え方」に学恩と敬愛を感じていると書かれている。私がこの本を読む前に心配したのは数学教育協議会のいままでの成果や努力を無視するような風潮を助長せぬかというところにあった。もしそうであれば、それは社会的な意味での後退であろう。

一般の方(理系の方々を含む)も数学教育協議会の成果を知ってその運動に賛同されることを望んでいる。これはもちろん数学教育協議会を盲信することとはちがう。

それと数学教育協議会の「量の考え方」の有効性は小学校または高々中学校に限定されるということは数学教育協議会の内部でも心ある人々には知られている。

いまほど、いわゆる「落ちこぼれ」と思われている人からも、科学や技術においてその独創性を発揮してもらうことが大切なときはないのだから。

(注) 量3km/(km/時)は(距離である分布量)3kmと(内包量の速さ)がわかっていて、(土台量の時間)を求める演算と関係している。いわゆる、わり算の第2用法と関係していると思う。


同窓会の案内

2011-07-21 12:49:06 | 日記・エッセイ・コラム

私が幹事になっている高校の同窓会の案内がようやく届いた。これは案内書の草案はもちろん私が書いているのだが、案内は旅行会社から送ってもらっている。同窓生のO君からはこの送付が遅れたために電話で問い合わせまであった。

また、相談相手になってもらっている、W君からも心配したメールをもらった。ひょっとしてトラブッているのではないかとの心遣いであった。トラブッたのかもしれないけれど、私としてはそうトラブッたという意識はない。

ただ、思ったほどスムースには進まなかったことは事実である。これはなぜだかわからない。私の仕事があまり遅かったという気はしていない。もっとも仕事に気が進まなかったことは事実かもしれない。それは気であって、実際にはそれほど遅くなってはいないはずだ。

先週中に案内を出してもらえると思っていたのに、それがうまくいかなかった。

このところ、同窓会の世話はもっぱら旅行代理店に頼むというスタイルが少なくとも私の関係している同窓会では一般化している。だから2年前の幹事から旅行代理店の紹介まで受けている。その旅行代理店が申し込みにしたがって必要金額を計算して請求書をつくってくれた。

もっともお金の出入は私の責任である。そこの責任が重いのだが、それを引き受け手が他にいなかったので、仕方がない。


なでしこジャパンの勝利

2011-07-20 12:43:13 | スポーツ

「なでしこジャパン」の女子サッカーのワールドカップの優勝がもう遠い昔のことに思えてくる。妻がこの日少し早く起きてテレビをつけたら、まだゲームをやっていた。それで私を起こしに来たので、最後の30分の延長とPK戦を見た。

これは奇跡であろう。「強運の監督についたのがよかった」とキャプテン沢選手が帰国しての記者会見で言えば、監督は「強運の選手をもったのが幸せだった」と言う。どちらも本当だろう。

だが、誰かが勝ち、誰かが負けるとはいうものの、こんなに絵に描いたようなことが起きるとは思ってみなかった。

東京オリンピックのときの女子バレーなどは東洋の魔女と言われたものだが、このときのトレーニングは過酷のものであり、優勝しても当然というくらいのトレーニングであったらしい。だが、その過酷なトレーニングに耐えた選手はすごいものだったと思う。

こんどもそうであったのかどうか。だが、そういう過酷さよりも今回はリラックスとチームワークが顕著だったとは選手たちの言である。

また、東日本震災を受けた方々を励ましたいという意図も密かにもっていた優勝である。「おめでとう」と申し上げたい。また、現に被災地の出身の選手もいた。

なんでも密かに努力をしている人がいるものである。選手たちはどこかでパートで、または正社員としてフルに働きながらのトレーニングを積んできたのだという。

それでも泣き言も言わずに、明るかった。日本とは不思議な国である。政治はよくないけれども、それでも現場力で耐えて生き抜くとか、地震の後の被災者の冷静さを賞賛したのは外国メディアであったが、それだけではない。

今回の優勝も日本の底力の一つの現れであろうか。だが、もっと地道に誰にも注目されずにそれでもデカンダンスにもならず、こつこつと励んでいるのはもちろん日本人には限らないであろう。


ぎっくり腰

2011-07-19 12:29:42 | 健康・病気

昨日からぎっくり腰である。パソコンの前に座っていてその姿勢から立ち上がろうとしてぎっくり腰の再発となった。

家にようやく帰って夕食後に新聞とか雑誌とかの紙類を仕事場の資源ごみに出すと妻が言うので、仕方なく家の裏の方に積み重ねていた新聞や雑誌を車に積み込んでもって行った。

ベッドで寝返りをうとうとしてまた腰を痛めた。ということで今日のお昼のラジオ体操は真似事をしたが、まったく体に力が入らない。腕も弱々しくしか振れない。ましてや自分では密かに得意としている前屈などまったくできない。前屈の真似事もできないという体たらくである。

ときどきひざを痛めたり、腰を痛めたりする。肩を痛めたことは30代半ばから40代のときにあって、これは黒板の前でチョークで板書するのが、仕事の身としては困った。特に冬には手が肩の高さまでしか上がらないことがあった。

このごろは肩の故障はあまり起こさない。もっともテニス仲間の I さんなどは肩がおかしいとかと言ってはいるが、彼はストロークでは結構強いボールを返してくる。だが、サーブのときだけは肩が痛いらしくてそれほど威力のあるサーブができないようである。

もっとも I さんはそれをカバーすると称して、なかなかコート・カバーリングがよくて感心する。

(2011.7.22付記)

昨夜ドイツ語のクラスがあって、その終了後に医師の I  さんがHexenschussとか何とかR氏にいわれていたのを小耳に挿んだ。どういう前後関係で言われたのかはわからないが、そのときにHexenschussとは「ぎっくり腰」のことではなかったかなとそのときに漠然と思ったが、果たしてどうだったかそのときはわからなかった。

さっき独和辞典を引いてみたら、「魔女の一撃」と直訳される、このHexenschussはやはり「ぎっくり腰」のことだった。前に辞書を引いたときの印である赤字のアンダーラインがつけてあった。


curmudgeon

2011-07-18 13:30:11 | 外国語

curmudgeonなどという英語は一昨日まで知らなかった。いま辞書で引いてみると「意地悪な人」と岩波の英和辞典にはあった。昨日か一昨日自宅で引いた学習英和辞典には「気難しい(老)人」とあったように思う。語感としてはこの方があっているのではないかと思う、

これはWorld Scientificというシンガポールにある、出版社がほんとに稀に本のPRのパンフを送ってくるのだが、その中にノーベル賞物理学の受賞者のAndersonの本があり、その題はMore and Differetであるが、副題にNotes from a thoughtful curmudgeonとあった。

大体英語の言葉で知らない言葉があっても、辞書を引いてみるなどの面倒なことは一般にしない。そんなことをしないのが私にとっては普通である。

だけど本当にこんな単語が辞書にあるのだろうかと興味を引いた。それで、テレビの前にある座卓の上に普通はおいてある学習英語辞典(子どもたちが受験勉強中に使っていた)がちょっと手の届かないところにあったのをわざわざとるために少し動いて引いてみたら、確かに載っていた。

もっともこんな語を知っていたからどうってことはないので、知らないのが普通であろう。そういえば、F. J. Dysonの本を読んだときにephemeral という語が出てきてそんな言葉はもちろん知らなかったので、仕方なく辞書を引いて「短命の」という意味を知った。

これはDysonが数学の論文はその意義はともかくとして、真であることは永久に続くが、物理の論文は大抵は短命であるという風に使われていたのではないかと思う。

その後に数学者の論文集は全論文が収録されるのが普通であるのに対し、物理学者の場合にはその論文選集になることが多いという説明が続いていたと思う。


愛媛合唱団のコンサート

2011-07-18 12:54:37 | 音楽

先週に引き続いて今週も合唱のコンサートを聞いた。それが昨日の愛媛合唱団定期のコンサートである。なかなか演出がうまくて、退屈をしなかった。

第1部 平和への希求 は愛媛合唱団の合唱であり、もちろん知らない歌もあったが、知っている歌もあった。私などオールドな人間には知っている歌はそれほど多くはない。それでも歌の言葉もよく聞こえてよかった。

第2部 みんなで楽しく歌いましょう は会場に来ている人と一緒に歌うという趣向である。このごろはこういう趣向の合唱団のコンサートが増えているのだという。そのときに舞台にはもちろん会場の座席の方のそこかしこに団員が散らばって会場に来た聴衆と一緒にこれは大抵はよく知られた曲を歌った。

そのときには団員がくだけたカラーのTシャツをきて、リラックスした雰囲気を出していた。6曲を歌ったが、オールドなわたしは3曲くらいしか知らなかった。ただ、リフレーンのところなどは聞いているうちにメロディーを覚えて2節か3節ではついて歌ってみた。

第3部 池辺晋一郎作品を歌う は昨年だったかに妻も参加した「悪魔の飽食」の抜粋もあった。これも言葉がかなりよく聞き取れてよかった。

それで、家に帰ってから、いっしょにコンサートを聞きに行った、妻に感想を聞かれたが、はじめの真紅のドレスが印象的だったといったら、早速そのコンサートで歌った人たちにそのことを電話で話をしていた。