物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

新しい経済学の出現

2019-10-31 15:49:41 | 日記

昨日(2019.10.30)の朝日新聞に斎藤幸平さんという若い経済学者のインタビューが出ていた。

この人はアメリカやドイツで学んだ経済学者らしい。その人が新しい経済のありようを見出すカギはマルクスの『資本論』だという。

斎藤さんはスェ―デンの少女グレタさんの政治的主張を紹介している。

グレタさんの主張は『大人は無限の経済成長というおとぎ話を繰り返すな』『今のシステムでは解決できないならシステム自体を変えるべきだ』というのだそうだ。

日本では環境破壊を憂る少女の勇気ある発言として報道されている側面が強い。がそればかりではなく、「資本主義システムが深刻な異常気象を引き起こしており、経済成長が必須の資本主義のもとでは気候変動に対処できない」ということなのだそうです。

斎藤さんは続けて言う。「国連の報告書でさえ、経済成長だけを求めるモデルは持続可能性がない、として脱成長モデルを検討するようになっている」

だが、まだ日本では政治はそういう風には進んでいっていない。政治家はここ30年時間の空費をしたと。

「問題は富が『足りない』のではなく、十分に生み出されているのに一部の人が独占している。世界全体の富を独占する一部の金持ちにもっと課税して分配すればいい」

「マルクスの資本論の本質は、人間と自然環境の強い結びつきにあることがわかってきた」とのことです。

『ポスト資本主義』の構想が必要であり、その具体化は『グリーン・ニューディール』であり、公共事業で各産業分野での再生可能エネルギーへの転換を後押しし、新しい雇用を生み出し、生活に欠かせないものは『公有化』していく。

一口に言ってしまうとこういう構想らしい。

いまのままでは、地球の持続可能性が危うい。前からわかっていたことだが、そういわれるとなるほどと思える。ここには人類の生存のための確かな戦略が見えてくる。


コンピュータとAIの問題点

2019-10-31 11:50:21 | 科学・技術
けさ、ちょっと昔の雑誌を開いてみたら、「コンピュータの問題点」という武谷三男の論説があった。

それによるとコンピュータの問題点の一つはブラックボックスであるということであった。それだとAIなどはコンピュータよりもブラックボックスである可能性はもっと大きい。

コンピュータの問題点として指摘されたことは現在のAIの問題点であるといってもいいすぎではない。

これは囲碁等で人間がAIに勝てないときに、AIがさした手を人間がその意味をわかるときばかりではない。

それの人間の解釈をできるためにも、武谷の三段階論がつかえるところがあるのではないかというのが、私の意見である。

しかし、それでもまったく解釈ができないことがあるかもしれない。その場合には、
新しい定跡として定着するのだろうが、やはり人間が解釈できることが必要であろう。



AIが転職を勧めるとき

2019-10-30 12:17:54 | 科学・技術

AIが転職を勧めるとき、その申し出に沿ったほうがいいのかどうか。

昨日のNHKの「クローズアップ現代」でAIが個人情報をインターネットで集めており、それによって転職を勧められ、成功した人のことを報道していた。

もっとも、影のサイトで誰かを「どついた」とか、「暴言を吐いた」とかもAIが集めており、各個人が攻撃性があるとかの性質の予測もしており、転職を勧めるかどうかの参考にしているとか。恐ろしい世の中になったものである。

なんでも表の面と裏の面がある。それで表のいいところだけ見ていればいいが、裏の面まで見られるというのはおそろしい。

スポーツのコーチなどは選手の欠点は見逃して、長所を伸ばすように指導すると聞いている。長所に合わせて、その短所もあっての、その人だと思っている。

そうは言うものの、若いときにはその短所には目をつむって、全くつき合うことに苦労を感じることがなかった友人とある時からあまりつき合わなくなったのは、その短所のためである。

それも私自身はその友人にそれほど狭量ではなかったものの、妻があまりそれを許さなかったからである。

なかなか難しいものである。

 

 


直角三角形の辺の名称と三角比の定義

2019-10-29 15:14:23 | 数学

直角三角形の辺の名称が昔と今ではちがっているのだろうか。

昔は現在「底辺」と呼んでいる辺を「隣辺」と呼んでいた。そしていま「高さ」と呼んでいる辺を「対辺」と呼んでいた。ちなみに隣辺とは角の隣の辺(もちろん斜辺でない方の辺)という意味であろう。また対辺は角に対した辺という意味である。

もう亡くなったY先生から教わった、三角比の定義の覚え方はこの古い辺の名称での記憶法であった。

隣/斜の対/斜は対/隣(輪車の大車は大輪:りんしゃのたいしゃはたいりん)

というのである。

ここで、隣/斜, 対/斜, 対/隣のところで / があるのは、たとえば、隣/斜が隣辺の長さを斜辺の長さでわったことを示す。以下同様である。

これは「隣辺の長さを斜辺の長さでわったものが、cosで」あり、「対辺の長さを斜辺で割ったものが、sinで」あり、「対辺の長さを隣辺の長さで割ったものがtanで」あるということを示している。

隣辺を英語ではadjacent side, 対辺をopposite side, 斜辺をhypotenuseという。ところが数学者、銀林浩氏とそのご子息の編纂されたた、『数・数式と図形の英語』(日興企画)によると直角三角形ではやはりadjacent side, opposite side, hypotenuseが使われているらしい。英語でも日本で呼ばれているように、斜辺hypotenuse, 高さaltitude, 底辺baseが使われていると思っていたのだが。

もっとも武藤徹先生と三浦さんが編集した『算数・数学用語辞典』(東京堂出版)では隣辺のことをadjoing sideと呼んでいて、私の知っていたadjacent sideではなかった。

英英辞典のWebsterを引いてみたが、どちらかがまちがいであるという決着はつけられなかった。両方とも使うのかもしれない。

いずれにしても、数学用語の英語がすぐにわかる、この武藤、三浦編『算数・数学用語辞典』(東京堂出版)は便利である。ときどき、本当かどうか疑問になることもあるけれども。

(2020.12.4付記)隣斜の定義と対斜の定義とが入れ違っていた。今日気がついて修正した。隣斜がcos関数で、対斜がsin関数であるのは当然であるが、校正がうまくいっていなかった。これは三角比ということで分子が分母よりも先に来ていることに注意をしてほしい。

昔は正弦の方が先で余弦の方が後ということで

対/斜の隣/斜は対/隣(大車の輪車は大輪:たいしゃのりんしゃはたいりん)

と順序を正弦から余弦の順にしていた。私は現代風に

隣/斜の対/斜は対/隣(輪車の大車は大輪:りんしゃのたいしゃはたいりん)

としている。

ここでどういう順番になるかが問題となるが、
 隣/斜はcosで、対/斜はsin
であるから、アルファベット順と覚えたらよい。cはsよりもアルファベットでは順番が早いので。

(2024.5.13付記)
上に「アルファベット順と覚えたらよい」と書いたが、「どこかでそんな記述を読んだことがあるぞ」と思われた方もおありであろうか。その方は鋭い。

岩波の理工系の数学シリーズだったかで、広田良吾さんがコメント欄にそういうことを書かれていた。この本はまったく広田さんが書かれた本ではなかったが、確か『フ―リエ解析』だったと思う。

ブログの投稿と修正

2019-10-29 10:19:41 | 日記
ブロガーはブログの投稿に時間を十分使うだろう。私はブロガーとして異例かもしれないが、自分のブログを読むことが好きだ。

だから、自分のブログを見たときにはもう何年も前のブログでも間違いを見つけたときには書き直しというか修正をしている。

これは簡単に書き直せるのだから、放っておくことはできない。自分の文章に手を入れる人として有名なのは政治家だった、毛沢東であろう。

彼は自分の書いた、もう歴史的文書になっているものでも書き換えたとか聞いている。その真偽のほどは知らない。しかし、たぶんにそうであったのだろう。

私にはその気持はわからないでもない。

旧聞に属するが、

2019-10-28 21:31:53 | 日記
旧聞に属するが、台風15号での大雨と大風で東日本が大きな被害を受けたあとで、
朝日新聞の川柳に

 イージスよりブルーシートのいる日本

というのがあった。
これを読んで「本当にそうだねと」夫婦で笑って再確認をした。

安倍首相なら「両方ともいるよ」とでもいうのだろうが、イージスがいるという必要性ははまったく感じないのに、ブルーシートの必要性はもう誰がどういっても感じる。

いや、ブルーシートだけではどうにもならない。台風で飛んでしまった屋根をつくりかえなくてはならない。いやもう屋根も何も飛んでしまって、もうそこには住めない人もいよう。

ブルーシートとはそういう自然災害への経済援助のシンボルとしての用語であろう。そこにこの川柳を読んだ人の真の意図があるだろう。

川柳は世の中を如実に反映している。



 

『基礎から発展まで 三角関数』

2019-10-28 12:20:46 | 数学

小林道正著『基礎から発展まで 三角関数』(ベレ出版)という本が来年2020.1に出るらしい。本の概要しか書かれていないのだが、ちょうど私が考えている内容にとても近い。もっとも私のほうはまだまだ形になっていないのだが。

小林さんは民間教育団体の数学教育協議会会長もされた方であるが、数式処理に私が凝りだしたころに数理解析研究所の研究会で数回会ったことがある。小林さんは私のことをまったく覚えておられないだろうが。

そのころには小林さんが数学教育協議会とも近しい関係にあるとは全く知らなかった。彼は数学者であったし、私は物理学の研究者であったから、直接に話をしたことはない。

研究会の後で、京都の百万遍近くの駸々堂でグループでコーヒーを飲んだその中の一員であったにすぎない。

小林さんの新しく出る本が私の書こうとしている内容と近いようだというのは今日知ったばかりである。しかし、私の方は別に三角関数をトピックとして、1冊の本を書こうとしているわけではない。

前に私がつくったe-learningの一部として欠けていた、三角関数の章を書こうとしている。このe-learningは大学の理工系学部には入ったが、その後の進路に迷いが生じたような人を対象にしていた。

e-learningとしてE大学で提供されたほかには、私自身がその原稿を幾人かの人に配布したことがあるが、例題がちょっとおもろしいとの評価を得ている。これは私が物理を専門とするということと関係がある。

もっともこの三角関数の部分が書ければ、前に書いた部分とあわせて一書にまとめることができるようになる可能性はある。そういうちょっとした動機のちがいがある。

他の分野の例題が興味深いものとして受け取られたように、三角関数の分野でも同じような興味深い内容にしたいと私は考えている。


untersagenとnicht erlaubt

2019-10-26 13:30:45 | 外国語

ドイツ語で「禁止された」というとverbotenという形容詞を私などは思い浮かべる。

Park Verboten ! 

などとあると、駐車禁止であることがわかる。

Rauchen Verboten !

とあれば、喫煙禁止だな、などともわかる。

だが、もっとしゃれた言い方として, unntersagt sein とか nicht erlaubt とかといういい方があると、 NHKのラジオのドイツ語中級講座で中山 純先生から教えられた。

ドイツ語とのかなり長いつきあいだが、untersagenという語は知らなかった。これは私のドイツ語は単なる趣味であり、仕事に使っているわけでもないし、ドイツ語圏に住んでいるわけでもないからしかたがない。

erlauben という語はもちろん知っていたが、それを否定形で使うことなど考えたこともなかった。

確かに上品な言い方というか、すこし上級な言い方のような気がする。

Erlauben Sie mir, dass ・・・. などと言われたら、わかるだろうが、そういう言い方を聞く機会などほとんどないのだから、びっくりするかもしれない。

 

 


Worin besteht Ihrer Meinung nach der Sinn des Lebens ?

2019-10-26 12:14:41 | 外国語

Worin besteht Ihrer Meinung nach der Sinn des Lebens ? (ヴォリン ベシュテート イーラー マイヌング ナハ デア ジン デス レーベンス ?)

意味: あなたの考えでは人生の意義はどこにありますか

などと言われたことはない。これはいまドイツ語のクラスで使っているテクストに載っていた疑問文であり、これについての各自の答えを1週間かけて考えてきなさいというのが、先々週にR氏が私たちに課した宿題であった。

der Sinnという語は、ここでは意義とか意味とかいう意味だろう。それはすぐに推察できたが、実は辞書を引いてみると、この意味が一番目にはきていない。

Unsinn !(ばかな!、ナンセンス)とかいう語が、すぐにこのSinnでは思い出されるが、Sinnの元の意味を知っていなかった。

そういう元々の意味を知っていなくても、おおよその意味が分かるのが、長年ドイツ語を学んでいる「おかげ」なのであろう。

それにしてもドイツ語を母語にしている人なら、別の感じをもつのではなかろうか。

Sinnの一番初めに来る意味は、「感覚」とか「知覚」とかである。例として五感 die f"unf Sinne がある(注)。 二番目には「(美に対する)感覚、センス」であり、そういういくつかの意味が来た後で、ようやく5番目に「意味」とか「意義」とかが来ている。

だから、ドイツ語を母語にする人にはそういったすべての意味の後での「意味」とか「意義」なのであるが、私などは一番最後の意味しか知らない。

それはそうと、有名なHeineのローレライの歌の中にこのSinnという語がつかわれていたのをご存知でしたか。「忘れられない」という意味に使われていたのですが。

辞書にも

jm. aus dem Sinn kommen  人に忘れられる

という例が出ている。もっともローレライの歌では否定形で使われていたはずです。

あとで調べてみよう。

(注) der f"unf Sinneとさっきまで書いていた。今読みなおしたら、der SinnとSinnは男性名詞ではあるが、f"unf Sinneは複数であるから、die f"unf Sinneとしなくてはならないことに気づいた。辞書を調べてみたら、やはりちゃんとdie f"unf Sinneとあった。私のドイツ語力といってもそれくらいの力しかない。その前にはder f"unfe Sinneと書いていた。こちらはこのブログを書いた次の日だったかに修正したが。

どうしてこういう間違いをするのか。五感は5つの感覚であるので、Sinneと複数であるので、辞書には複数語尾-eがついていた。それを読み間違えてf"unfのほうに-eをつけたのであった。

五感の5を5番目の、と読み違えていた。ああ、はずかしいまちがいばかりする。それに5番目なら der f"unfte とでもしなければいけないのだろう。

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(付録)

調べてみました。
第1節の終わりに(後掲の詩の第1節を参照)
Das kommt mir nicht aus dem Sinn.
(遠い昔の物語が心から離れない)
とあります。
「遠い昔の物語」は前文からの意味をとった訳で、dasの意味を説明したものです。
辞書にある、不定詞句
jm aus dem Sinn kommen
からどうやって、上の文がつくられたかを説明しましょう。

主語がDas(そのこと)と決まれば、不定詞 kommen は kommt と3人称の単数の定動詞になり、主語Dasの次に来ます(定動詞第2位の原則)。あとは不定詞句のkommen以外の部分を続ければ、よいのですが、aus dem Sinnの前に否定の語nichtを入れて、結局

Das kommt mir nicht aus dem  Sinn.

という文ができます。

ちなみに冒頭の
Ich weiß nicht, was soll es bedeuten,
ですが、 学校で学ぶ「ドイツ語文法」なら、
Ich weiß nicht, was es bedeuten soll ,
と「定動詞後置」となると思うのですが、
詩では語順が少し融通無碍なところがあります。
これは韻を踏む都合でしょうか。

私はヨーロッパ語はすべて英語と同じ語順をとると思っていたので、
ドイツ語は私には「ちんぷんかんぷん」であった。こういう状態が2,3年
続いた。

ドイツ語は英語に似てはいるが、語順は同じではないということを知った
のは2,3年後のことであった。そういう苦い経験からいろいろ書いてしま
った。ドイツ語の得意な人には「釈迦に説法」であったろう。

フランス語は英語を学んだ人にはドイツ語ほど難しく感じないで学べる
のではないかと思う。

フランス語も英語とちがうところがないわけではないが、すくなくとも私は
ドイツ語の場合のような衝撃を受けることはなかった。

しかし、昔の私のような人も少なくないと思うので、詳しく書いた。

以下に、ローレライのハイネの原詩と訳をどこかの
インターネットから無断引用します。

1. Ich weiß nicht, was soll es bedeuten,
Daß ich so traurig bin;
Ein Mährchen aus alten Zeiten,
Das kommt mir nicht aus dem Sinn.
私には分からない
どうしてこんなに悲しいのか
遠い昔の物語が
心から離れない
Die Luft ist kühl und es dunkelt,
Und ruhig fließt der Rhein;
Der Gipfel des Berges funkelt
Im Abendsonnenschein.
風は冷たく 辺りは暗い
静かに流れるライン川
山の頂は夕日に輝く
2. Die schönste Jungfrau sitzet
Dort oben wunderbar
Ihr gold’nes Geschmeide blitzet,
Sie kämmt ihr gold’nes Haar.
美しい乙女が座っている
金の飾りは輝き 金色の髪を梳いている
Sie kämmt es mit gold’nem Kamme,
Und singt ein Lied dabei;
Das hat eine wundersame,
Gewaltige Melodei.
金色の櫛で髪を梳かし
乙女は歌を口ずさむ
その歌は不思議で
力強いメロディ
3. Den Schiffer im kleinen Schiffe
Ergreift es mit wildem Weh;
Er schaut nicht die Felsenriffe,
Er schaut nur hinauf in die Höh’.
小舟に乗った舟人は
その歌に心を奪われて
岩礁は目に入らず
上を仰ぎみるばかり
Ich glaube, die Wellen verschlingen
Am Ende Schiffer und Kahn;
Und das hat mit ihrem Singen
Die Lore-Ley gethan.
舟人は波に飲まれるだろう
彼女の歌声によって
それはローレライの仕業

訳詩:近藤 朔風
なじかは知らねど心わびて
昔のつたえはそぞろ身にしむ
さびしく暮れゆくラインのながれ
いりひに山々あかくはゆる
うるわしおとめのいわおに立ちて
こがねの櫛とり髪のみだれを
梳きつつくちずさぶ歌の声の
くすしき魔力(ちから)に魂(たま)もまよう
こぎゆく舟びと歌に憧れ
岩根もみやらず仰げばやがて
浪間に沈むるひとも舟も
くすしき魔歌(まがうた)うたうローレライ

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県展前期を見て

2019-10-25 12:11:44 | 日記

午前中に妻に誘われて、堀之内の県展で日本画と書道の一部を見た。

一つだけ印象に残る日本画があった。タイトルは「憩う」で、図書館の蔵書の前に男子高校生が立っている構図である。

その後ろの書棚に『数学入門辞典』が描かれていたので笑ってしまった。そのタイトルがはっきりと読み取れるように描かれていたからである。これはもちろん私ももっている、岩波書店の書である。その近くにどなたの書籍かは知らないが、『物理数学』とタイトルの読める本もあった。これは、少なくとも私の著書ではなかった。

この絵を描いたのは「段の上翔太」とあった。どんな人かは知らない。高校生かもしれない。これは美術会大賞という特別な賞を受賞した作品であった。


参考文献の表示の仕方?

2019-10-24 16:32:45 | 科学・技術
論文の中の雑誌の引用のしかたをどうするか。

これは単に表示の仕方だけの問題であるが、標準的なやり方を知らない。

たとえば、私は『数学・物理通信』というサーキュラーをメールで発行している。これを論文の本文中で引用するときには私は「数学・物理通信」としてきたが、論文の校正を受け取ったら、これには『数学・物理通信』となっていた。

それで、迷ってしまった。私は論文の中で本を引用するときには、『物理数学散歩』というように『 と 』を使ってきたが、論文中では本と雑誌とを区別するために「数学・物理通信」のように表示するほうがよいと思い込んでいた。

それで、こういう参考文献はどうか書いたらよいと勧めているのかと、その種の本で調べてみたのだが、あまりはっきりしない。

自分の著書『四元数の発見』では編集者の指示だと思うが、『数学・物理通信』のように 『 と 』 とが使われていた。

結城浩さんの『数学文章作法』基礎編(ちくま学芸文庫)にも参考文献の書き方は載っていない。推敲編には出ているのかもしれないが、こちらはまだ持っていない。

木下是雄『理科系の作文技術』(中公新書)にも明確には参考文献の書き方については出ていない。板倉聖宣『模倣と創造』(仮説社)には雑誌も論文中では『数学・物理通信』のように、 『 と 』 を用いると書いてあった。

ただ、実際の参考文献の箇所では日本語の雑誌を 『 と 』 で囲んだものはあまり見たことがない。

幾何的な倍角公式と半角公式

2019-10-24 12:57:50 | 数学

幾何的な倍角公式と半角公式についてのエッセイを昨日書き始めた。これの種本は宇沢弘文『好きになる数学入門3(岩波書店)である。

要するにここ数日そういうことを書いてきたのだが、加法定理なしの倍角公式と半角公式ということである。

これは盾の一面にしかすぎないが、私の知らなかったことであった。もっとも宇沢さんの本な内容をもっとわかりやすく書き換えようとしている。

同じような内容かどうかはわからないが、秋山武太郎『わかりやすい三角法』(日新出版)にもでている。

もう一方で、「加法公式の導出」の過去の内容を入力しはじめた。

しかし、しばらく『徳島科学史雑誌』への投稿論文の校正刷りが来たので、その校正をしなくてはならない。はじめた仕事はいずれも一休みである。


無駄は無駄ではない

2019-10-23 12:27:31 | 科学・技術
ノーベル賞の受賞者が最近毎年出るので、政治家はまったく危機感がないが、大学の研究は窮地に陥っている。

それは大学への運営交付金がもう私が大学に勤務していたころと比べて1/3以下になっており、その傾向はまだずっと続きそうである。

歴代のノーベル賞受賞者などがこの件を憂いてしかるべき筋に訴えているが、首相をはじめとしてまったくそのことに耳を傾ける気がない。

学問とか研究とかはだいたい無駄になることがほとんどである。そういう無駄の中から有用な研究や成果がでてくるのである。

こういう風に資金を投入したら、こういう風に成果が出てくるなどというようなことに雄大な構想も法外な価値もないものである。

そういう無駄をおおぴらにできるだけの余裕がまったく日本の大学になくなっているのが、危惧を感じる理由である。

日本語の先生は

2019-10-23 11:52:37 | 日記

「日本語の先生は落ちこぼれのお笑い芸人だった」。これが今週のNHKの「逆転人生」の放送だった。

こういう人もいるのだと知らされた。落ちこぼれだからといって、卑屈になることはない。という見本のようだ。この方ははじめ中国で日本語の教師をされていたが、いまではヨーロッパや世界を駆け巡るカリスマ日本語教師だという。

本人の努力もさることながら、婚約解消になった中国人の婚約者の母が日本語教師の職を紹介してくれたというから、人生何が幸いするかわからない。

そのうちに精華大学の日本語教師に採用されて、北京大学との発表に精華大学の学生が打ち勝って優勝したという。その後、北京大学の方からも日本語教師として来てほしいと言われるようになった。

そして、現在では世界中を走り回る多忙で人気と実力を兼ね備えた日本語教師となったという。

 

 


Familyの語源

2019-10-22 10:49:47 | 日記

朝食がすんで、くつろいでいるときに、羽仁五郎によると「Familyの語源」は奴隷から来ていると妻に言ったら、すぐにスマホで調べてくれた。

私も仕事場に来て、すぐインターネットで検索したら、あるブログから、つぎのような記述を見つけた。以下は無断引用です。ちなみにこのブログの書き手は女性です。

家族とはいわば「奴隷」の親戚かもしれない。

(引用はじめ)

不思議ですね、家族って。ふと気になって、英語の family の語源を調べてみました。すると……。

その歴史は 15 世紀に遡り、ローマ人が使っていたラテン語の famulus(奴隷、召し使い)が語源とのこと。famulus が familia(召し使い、および親族と召し使いを含む世帯メンバー)に変わり、そして family となったそう。family が「血縁がある」「一緒に住んでいる」 の意味で使われるのは、17 世紀からのようです(詳しく知りたい方は、こちらの解説をご覧ください。Family | Define Family at Dictionary.com)。

ど、奴隷ですか……。意外なような、実家の家族のことを思うと妙に納得したような……。

(引用おわり)

別のブログにはつぎのように書いてあった。重複もあるが、そのまま引用しておこう。こちらも無断引用です。こちらは男性のブログです。

(引用はじめ)
「family(ファミリー)って言葉は、語源がFAがFather(ふぁーざー)で次のMがMother(まざー)で、残りのilyはI LOVE YOUの頭文字って知ってました?」といわれた。 (引用者注:これは俗説ではないか。それにしてももっともらしいこじつけ?)

え?そんな(笑)

こういうのは、自己啓発セミナーとか、新興宗教のうたい文句じゃないの?

と思い、調べたら、やはり、

ローマ人が使っていたラテン語の famulus(奴隷、召し使い)が語源とのこと。famulus が familia(召し使い、および親族と召し使いを含む世帯メンバー)に変わり、そして family となったそう。family が「血縁がある」「一緒に住んでいる」 の意味で使われるのは、17 世紀からのようです。

元々は奴隷の意味か。

結婚して、夫や妻の奴隷になった・・・ってのが正解らしい。 

(引用おわり)

羽仁五郎はだから「家族」というものに懐疑的だったらしい。束縛をするものだという意味で。