物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

校正刷

2016-10-29 14:04:19 | 日記

が「徳島科学史雑誌」の編集人の方から昨日届いた。早速見ようと思ったが、昨夜はあまり見る時間がなかった。それで今日は一日校正に時間を費やすつもりである。

今回の論文は加藤哲郎『日本の社会主義』(岩波書店)にある、加藤さんの武谷三男批判への反論である。大体、言いたいことはすでに述べてあるのだが、今回の校正時に少しだけ追加をした方がいいかと思っている。

これはやはり証拠をあげて主張を展開しないといけないという気が前からしていて、主張の論拠がまだ少ないのではないかという恐れを抱いたからである。

しかし、あまり校正時に多量の文章を追加するのははばかられるであろうから、言いたかったことを最小限に抑えることとした。それとLatexの原稿がそのまま印刷所で取入られているようであまり校正の必要がないようである。1カ所だけ自分の入力ミスがあったのに気がついたが。

もっとも、印刷の都合で校正時の追加ができないとすれば、それはそれで我慢することにしたい。


The Elements of Quarternions

2016-10-28 12:33:43 | 日記

というHardyの著書が大学生協の書籍部に届いたというので、とりに出かけた。ペーパーバンドで3000円を少し切った値段である。

この本の32-34頁にベクトルの商としての四元数の定義が書いてあるらしい。それでわざわざ購入したのである。実はインターネットでそのページを見ることができたのだが、プリントをしようと思うとプリントできない。英語が十分堪能ならばディスプレイ上で読むこともできたのであろうが、残念ながら私はあまり英語が堪能ではない。

それでしかたなく、本を購入することにしたのである。インターネットで見ていたのは多分google booksのサイトであり、お金をいくらか払えば、プリントもできたのかもしれないが、無料ではプリントできなかった。

他のサイトを探せば、無料でプリントできるサイトもあったかもしれない。そういうサイトを探す根気もないし、それにあまりいま私のパソコンが機敏に動かないということもあって原著の購入となった。本来ならHamiltonの四元数の本に書いてあるはずのことだが、Hardyに少し整理してもらった形のものを読んだ方がわかりやすいかと考えた。

もっとも堀源一郎先生の『ハミルトンと四元数』(海鳴社)にも説明がでているのだが、堀先生はベクトルという語をあまり厳密には定義されないでつかっているので、現代の私たちから見ると疑念がわく。ということで標記の書の購入となった。

1887年に出版された書であり、ベクトルは「向きのある線分」として定義されている。これは私たちが物理学でベクトルをはじめて学ぶときに学ぶベクトルの定義と同じだが、私たちはベクトルの商などは定義しない。

ベクトルを四元数の虚部の部分だとすれば、その商はもちろん定義できて、その商から普通の四元数が得られる。それで文句はまったくないのだが、はてさてどういう風に議論を展開しているものやら(注)。

(注)虚部だけしかない四元数の積は実部ももった普通の四元数になる。虚部しかない四元数の積は(ia+jb+kc)(ix+jy+kz)=X+iY+jZ+kWとなるからである。このXは四元数の実部である。

このことはハミルトンが四元数を見つけたプロセスそのものではないが、ちょっと状況が似ている。

すなわち、a+ib+cjとx+iy+jzとの積の因子には3つ目の虚数単位kがないが、その積(a+ib+cj)(x+iy+jz)=A+iB+jC+kDと一般にkの項を含むようになる。 


物理の公式集

2016-10-27 12:11:26 | 日記

ケンブリッジ『物理公式ハンドブック』(共立出版)を最近になって購入したのだが、どうも数学公式集と違ってあまり使う機会がないような気がする。

数学公式集はやはり計算をするときにときどきは参照することがあるが、私自身はあまり物理公式集などは無用とおもっているのかどうか自分でもわからない。

それと思ったことだが、公式だけを抜き出して書かれても味気ない。その導出法だとか説明がないと無味乾燥な感じがする。そうだとすると物理公式集を編纂する人はこれからも出るだろうが、大いに注意をした方がよいのではないか。

そんなことを感じている今日このごろである。


「四元数」の本が新しく出版

2016-10-26 12:13:50 | 日記

されるらしい。これはもちろん私の著書ではない。12月の初頭に発行されるらしいので、まだ出版されてはいないが、アマゾンコムで予約を募っているのをみた。

ページ数の予定は152頁とかで私の書よりもさらに短いらしいが、定価は3000円を超えるらしい。さてどんな特色のある本なのか。わくわくする。第1部は四元数の性質を述べ、第2部は四元数の広がりという関連の話題らしい。

著者は横浜国立大学の先生で多分数学者の方なのであろうか。本のタイトルは『四元数』(森北出版)である。著者は今野紀雄さんである。まったく存じ上げない方だが、多くの著書があり、研究も大いにされている方らしい。まだ四元数の本は少ないので、意味があろうか。もっとも妻にこのことを話したら、その本も売れるのは1000部くらいだろうねと皮肉なことをいう。実は私の本も1000部どまりで出版社はなかなか売れないので困っているらしい。

私は四元数の初等的な知識としてはもう他の本を読まなくてもいいくらいに詳細に書いたと思っていたのだが、それでもあまり売れないのは残念である。

それはともかくとして今野先生の新しい本の成功を祈っている。


兄が病気

2016-10-26 11:31:51 | 日記

である。昨日 I 市にお見舞いに帰った。心臓の病気で処置を誤れば、命が危なかった。だが、昨日は少しリハビリに入っていたりしたので、安心した。

人間は無限に生きることはできないので、どこかでこの世とおさらばするときが誰にでも来る。だが、いましばし命をもらったと感じた。

また数日後に見舞いに行くつもりである。


ファン・デア・ヴェルデン

2016-10-24 11:23:47 | 日記

の『代数学の歴史』(現代数学社)に四元数の発見のプロセスが書かれている。私も『四元数の発見』(海鳴社)に詳しく四元数の発見のプロセスを書いたので、ヴェルデンの説明をたどってみるというエッセイを昨日書いた。

大部分はヴェルデンの記述の引用ではあるが、私の見解をそこかしこに入れないとヴェルデンの説明だけではなかなか分かり難いと考えている。まだ草稿の段階なので、完成したら、12月発行の「数学・物理通信」に発表したいと考えている。

ヴェルデンには申し訳がないが、実は私の記述の方が優れていると思う。ただ、ヴェルデンはたくさんの文献を参考にしており、記述を読んで面白いが、それでも四元数の発見の追求という点ではなお掘り下げがもう一歩という気がしないでもない。


ausgerechnet(アウスゲレヒネット)

2016-10-21 12:30:54 | 日記

というドイツ語が昨晩のドイツ語のクラスで出てきた。そしてその語を使った例文を一つ二つ作って来なさいという、宿題が出された。これはドイツ人同士の会話の休暇の話で、その中で使われていた語である。

この語は日本語で言うとどういうかと聞かれたので、「よりによって」と答えたが、はたしてそれでよかったろうか。いま辞書を引いてみると「こともあろうに」だとか「よくもまあ」とかの訳語がついている。ちなみに、「より(選り)によって」は辞書の最初に出ている訳語であった。

ausgerechnetの基礎となる、動詞ausrechnenはrechnen(計算する)に前綴りausがついている。意味は「計算して割り出す」だとか「算定する」とかと訳が出ている。この場合の前綴りのausには「完全に」とか「すっかり」とかのニューアンスを私は感じる。

そんなに初心者向きの言葉ではないが、ドイツ語を母語とする人は普通によく使うという。


あれこれ考えてはいるが、

2016-10-21 12:10:38 | 日記

どれも具体的な形にならない。こういうことも時期としてはある。

先日ファン・デア・ヴェルデンの『代数学の歴史』(現代数学社)を借りて来て、ハミルトンの四元数の発見の記述を読んだ。私の知らない新しいことがあるかと思ったのだが、特に新しいことはなかった。しかし、私はこの書の存在を知らなかったのだが、発見の詳細を述べている。

ファン・デア・ヴェルデンの四元数発見の記述は私がいままで読んだ数学史の書の中では一番詳しく、私が『四元数の発見』(海鳴社)に書いた第2章「四元数の発見」のところはほとんど同じだった。これは私とヴェルデンとが同じ文献をもとに書いているので重複するのはしかたがない。

この本を今頃になって読むのではなくて数年前に読んでいたら、あまりウロウロしないで済んだかもしれない。もっとも私の書の第3章にあたる、「ハミルトンのノートの解読」ところはさすがにヴェルデンも書いていないので、これは私のオリジナリティを誇ってもいいだろう。

いや、そうはいってもどこかに誰かが私の書いたこととほとんど同じことを書いているのだろうが、私が知らないだけなのであろう。

ちなみに私がデアと書いたderはこの書ではデルと書かれている。van der Waerdenはオランダ出身の数学者である。彼の有名な著書に「代数学」(Moderne Algebra)がある。もっとも現在ではModerneの語がなくなって、単にAlgebraとなっている。もっともこの書を読んだことは私はない。日本語訳も銀林 浩訳で出ているが、古本で高値がついていると思う。


手紙の文句

2016-10-20 11:19:35 | 日記

「前略」と「草々」または「怱々」というが怱々の方が妻も私もわからなかった。じつは妻が作品の添削をしてもらっている、自由書道の雑誌に前略と怱々の字があり、この後の方の「怱々」をどう読むかが問題になって私に聞かれたのであたったが、わたしも知らなかった。

それで妻はスマホでいろいろ検索してみたが、まさか匆々(そうそう)だとは思わなかったので、検索は難渋をきわめた。それで仕方なく昨朝であったが「自由書道」の事務所に電話をかけて聞いた。事務員の人にはわからずその字をお手本に書いた先生が電話に出て来て「そうそう」と読むと教えてもらった。

後で、角川「明解国語辞典」を引いて「そうそう」を引いてみたら出ていたから、読み方を知らない字の一つということであろうか。また勉強になった。

人によっては手紙の終りに「不一」と書く人もおられる。


本を書く人の責任

2016-10-19 12:45:35 | 日記

などと書くと仰々しいが、四元数に関して一つ疑問に思っていることがある。たとえば、『ハミルトンと四元数』(海鳴社)のpp.60-63に

「四元数のベクトル商表示」という節がある。その節の冒頭に

α, β をベクトルとして βα^{-1} を考える。β も α^{-1} もベクトルであるから、βα^{-1} はベクトルの積で四元数となる。

とある。その前のところを読まないで、ここだけをとり出して読んでいるのでそれ以前にちゃんとした説明があるのかもしれないが、普通に逆ベクトルなどベクトルでは定義しない。だからベクトル α に対してα^{-1} をどのように定義しているのか。およそナンセンスではなかろうかなどと疑問に思ってしまう(注)。

これに対応したハミルトンの説明が彼の著書とかイギリスの数学者G. H. Hardyの著書にあるそうなので、それを読んでみたいと思ってHardyの著書を取り寄せて読もうと思っている。

『ハミルトンと四元数』の著者である、堀源一郎さんは東京大学名誉教授のとても偉い先生である。だが、ベクトル α に対してα^{-1} が定義できるとお考えになったのだろうか。それとも私の理解が及んでいないだけなのだろうか。

2次元のベクトルの場合にはこれを複素数と考えれば、商を定義できるが、それだってベクトルの商が定義できたわけではなかろう。商表示についてはWikipediaの英語版にも説明のはじめの方に堀さんの説明と同じようなことが簡単に書かれているが、詳しい説明はない。日本語の四元数のWikipediaにも英語の版の日本語訳のせいか同じような説明があったような気がする。

ところが合理的な説明は与えられていない。

(注:2016.10.21付記)その後、前のところから読んでみると、堀さんはどうも四元数の虚数部分をベクトルと呼んでいるらしいことがわかった。しかし、これは現在のベクトルという用語が一般となっている時代には誤解を招く、言葉遣いである。 なお、結晶学には逆格子ベクトル(reciprocal lattice vector)があるが、これとは別であろう。

 


ブログが書けない

2016-10-19 12:31:55 | 日記

ことが多くなった。どうしてかわからない。入力してもローマ字から漢字変換のところでハングアップして動かないことがたびたびある。それでしかたなく再起動してみたら、入力できることが多いのだが、かならず入力できるとも限らないのである。困ったことだ。

ブログは書かなければいいのだが、メールの返信ができなくなるのは困る。返信をおしても返信のメールに入力ができない。これでは返信ができない。

このパソコンは2013年の3月に購入したので、4年目である。だから普通にパソコンの寿命が6年とするとそこまでもいっていない。dディスクのメモリが半分くらい前には使われていたので、それが悪さをしていると考えてその大部分を消去したのだが、それでも状態はよくならない。

今朝も何回かの試行のあとで、ようやく今の状態になり、なんとか入力できる状態になっている。だが、これもいつまで続くか心もとない。


パソコンの不調

2016-10-18 10:53:38 | 日記

が続く。これは文字の変換ができなくなるのだ。どうしてかはわからない。メモリが足らなくなるのではないかと思っていたが、どうもそうではないらしい。

いつも再起動をしている。いまのところは再起動すれば、なんとか文字変換ができるようになるので。うっとおしいことである。


時代が変わりつつあるのか

2016-10-17 12:12:15 | 日記

原発のある鹿児島県に原発に批判的な知事が誕生して、九州電力にその稼働の検討を申し入れたが、なかなか九電は知事のいうことを聞きそうにはない。

だが、今回の新潟県の知事選挙でも原発に批判的な知事が当選したことは時代がわずかではあるが、変わって来ていることを示しているのではないか。福島第一原発の反省をきちんとしないで、原発を再稼働するという姿勢には住民はすでに疑問を感じている。それが今回の選挙に現れたという感じがした。

原発にはもう未来がないのにそれを直視できない政府や自民党には内心では国民はうんざりしている。だが、少しは景気がよくなるかとのわずかの期待で現政権を支持している。一般の人々の気持ちはこういう構図ではなかろうか。

福島ではもう故郷にはもどれないと覚悟をした若い人たちもいる。そしていかに放射性物質の除去を進めてみてもそれがゼロになるわけではない。だから、ある程度の放射線の汚染は覚悟しなくてはならない。そういう覚悟は年老いて行く先がもうあまり長くないとできるけれどもまだこれからの若い人にはそういう覚悟をせよというのは酷である。

昨夜にはNHKでも資本主義の限界が来たのではないのかという3回の放映の最初の回があった。私は途中でフロに入ったためにその全部を見ることができなかったが、「資本主義の限界か」という風な予感が前からしている。

若いときに聞いた、経済学者の予想ではいまは国がある程度の経済をコントロールできるようになっているのではないかという話であった。だが、それからでも40年近い年月が経った。2008年以降は資本主義の限界が現れているのではないかとの悲観的な見解がささやかれているとのことだ。これは金融政策とかのいろいろの施策にもかかわらず、経済成長が頓挫していることによっている。

若い人にかなりの割合で非正規雇用者がおられて、その人たちに社会のしわ寄せが行っている。その人たちが3割とか4割になるとそれが65歳以上の年金生活者とあわせて消費が進むはずがない。そこのところを非正規の雇用者で安く人を使えば、企業は儲かるという企業の論理でだけではもう行かなくなってしまった。外国人労働者とか外国人の研修生とかで、給料を安く使うという話ではもういけないはずだ。

だって、そうだと購買力も大して期待はできない。いくらお金が低金利でも借りることのできる人はある程度以上の収入が期待できるひとだけであろう。所得が小さい人には経済の成長への期待はできない。経済的な合理主義は結構だが、それは自分自身を縮小させるしか効果がない。

学習会ではないが、雑談会という70回を越えた会で経済に関係した人は生協のような組合活動か里山資本主義かと思われるような話しか展望を持っている人がいない。これは資本主義に批判的な経済学者の意見かも知れないが、あまりさえない話であるが、もうそれしかないのかもしれない。

生協活動だって地方都市では、いくばくかの人を雇用しているのが現状だからである。私も組合社会主義くらいにしか道を見出せないのではないかと気が暗くなっている。

 

 


数日前の

2016-10-17 11:46:21 | 日記

計算ができないという愚痴は実はその次の日には解決した。これはn次元の球の体積を計算に関係していたが、5次元の球の体積の計算であった。ところがあのブログを書いた次の日に行列式をやみくもに展開しないで、共通因数をくくりだす方法で計算したら、解決してしまった。

これが不思議な気がするのだが、共通因数をくくりだした残りの行列式はすべて値が1となるのだ。もっとも角度を表す添字は1づつ増えてはいるが、ひとつ前の4次の球の体積の行列式と本質的に同じとなる。

文章で書くとわかりづらいが、式を見れば誰でもわかる話である。そのことをどれくらいの人が認識しているだろうか。私にしても以前に4次の球の体積を計算したときに5次の球の体積を計算する元気が出ないとそのエッセイに書いた。ところがヤコビアンの計算に現れる行列式を共通因数をくくりだすとすべて残りの行列式は値が1となる。

そのすべてではないが、一部の行列式の値が1となることはうまくいかない計算のときにも分かっていた。だが、それがすべて同じとなることはわからなかった。詳しいことはこれから改訂をするエッセイにおいて示すつもりである。


Bob Dylan

2016-10-15 12:10:39 | 日記

のノーベル賞文学賞の受賞でDylanの音楽のことを新聞で読んだが、どういう曲が彼の歌った曲なのか聞いたことはあるのだとは思うが、思いつかない。

後で、インターネットで検索してみよう。ノーベル賞委員会はまだDylanと直接の連絡がとれていないらしいと新聞にはあった。授賞の発表後のコンサートでもなにも賞については言及しなかったとのことで、彼らしいという日本人のシンガーの感想があった。

ほとんどの人がBob Dylanを知らない人がないというのに私などはその有名な人も知らないという体たらくである。世の中にいかに疎いことか。

(注)このブログを書いた後で、インターネットで「風に吹かれて」を聞いた。メロディは確かに聞いたことがあった。The answer, my friend, is blowing in the wind.を2回目のところを日本語では「答えは誰もわからない」と意訳している方があった。これは本当にDylanの意味しているところであろうか。心にしみる歌である。