原発のある鹿児島県に原発に批判的な知事が誕生して、九州電力にその稼働の検討を申し入れたが、なかなか九電は知事のいうことを聞きそうにはない。
だが、今回の新潟県の知事選挙でも原発に批判的な知事が当選したことは時代がわずかではあるが、変わって来ていることを示しているのではないか。福島第一原発の反省をきちんとしないで、原発を再稼働するという姿勢には住民はすでに疑問を感じている。それが今回の選挙に現れたという感じがした。
原発にはもう未来がないのにそれを直視できない政府や自民党には内心では国民はうんざりしている。だが、少しは景気がよくなるかとのわずかの期待で現政権を支持している。一般の人々の気持ちはこういう構図ではなかろうか。
福島ではもう故郷にはもどれないと覚悟をした若い人たちもいる。そしていかに放射性物質の除去を進めてみてもそれがゼロになるわけではない。だから、ある程度の放射線の汚染は覚悟しなくてはならない。そういう覚悟は年老いて行く先がもうあまり長くないとできるけれどもまだこれからの若い人にはそういう覚悟をせよというのは酷である。
昨夜にはNHKでも資本主義の限界が来たのではないのかという3回の放映の最初の回があった。私は途中でフロに入ったためにその全部を見ることができなかったが、「資本主義の限界か」という風な予感が前からしている。
若いときに聞いた、経済学者の予想ではいまは国がある程度の経済をコントロールできるようになっているのではないかという話であった。だが、それからでも40年近い年月が経った。2008年以降は資本主義の限界が現れているのではないかとの悲観的な見解がささやかれているとのことだ。これは金融政策とかのいろいろの施策にもかかわらず、経済成長が頓挫していることによっている。
若い人にかなりの割合で非正規雇用者がおられて、その人たちに社会のしわ寄せが行っている。その人たちが3割とか4割になるとそれが65歳以上の年金生活者とあわせて消費が進むはずがない。そこのところを非正規の雇用者で安く人を使えば、企業は儲かるという企業の論理でだけではもう行かなくなってしまった。外国人労働者とか外国人の研修生とかで、給料を安く使うという話ではもういけないはずだ。
だって、そうだと購買力も大して期待はできない。いくらお金が低金利でも借りることのできる人はある程度以上の収入が期待できるひとだけであろう。所得が小さい人には経済の成長への期待はできない。経済的な合理主義は結構だが、それは自分自身を縮小させるしか効果がない。
学習会ではないが、雑談会という70回を越えた会で経済に関係した人は生協のような組合活動か里山資本主義かと思われるような話しか展望を持っている人がいない。これは資本主義に批判的な経済学者の意見かも知れないが、あまりさえない話であるが、もうそれしかないのかもしれない。
生協活動だって地方都市では、いくばくかの人を雇用しているのが現状だからである。私も組合社会主義くらいにしか道を見出せないのではないかと気が暗くなっている。