物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

ブルターニュでは太陽はいつも雲の上にある

2019-05-30 11:20:18 | 日記

「ブルターニュでは太陽はいつも雲の上にある」という言い回しがブルターニュにはあるとか。これは朝日新聞の今日の言葉に哲学者の鷲田清一さんが書かれていた。

それで、自分で仏訳を試みたのが、

In Bretagne il y a le soleille toujours sur la nuage.

である(これはもちろん辞書などは使って訳してはいない)。

こういうことを言ったら、朝食後に妻がスマホで検索してくれたのは

En Bretagne le soleille est au dessus des nuages.

であった。

nuage雲が女性名詞なのか男性名詞なのかも知らないのだが、女性名詞と勝手に決めてフランス語として書いたのが、私の仏訳である。

ドイツ語訳もスマホですぐに検索してくれた。それは

In der Bretagne steht die Sonne ”uber die Wolken.

であった。

ノルマンディとかブルターニュとかは海岸沿いの地方だが、いつも雨が多くて、曇りの日が多い。フランスでも独特の文化が残っている地方でもある。とか言いながら、実は私は一度もそこへ行ったことがない。

そば粉(sarrasin)でつくられた、クレープとか、シードルと呼ばれるリンゴ酒とか、カルバドスというやはりリンゴからつくられた蒸留酒が名産である。名所としてはモン・サンミッシェルもあった。

もう半世紀以上も前のことになるが、NHKのテレビのフランス語の講座のドラマがブルタニュ―のあるお城で起こる出来事であった。ホラー仕立てのドラマで、そのころのフランス語講座の"Le Francais par joie"のタイトルがpar joieではなくて、par horreurだねとかいう、当時の講師の丸山圭三郎先生のつぶやきがあった。

まだEテレがモノクロの時代である。

 (付記)いま気がついたが、sur la nuageなら、雲に接触して 太陽がある感じかもしれない。それならsur la nuageとはとても言えまい。やはりau dessu des nuages としなくてはならない。そのあたりの語感が何十年もフランス語をテレビやラジオで学んでいても弱い。英語ならば、onを使うかoverを使うかということくらいはわかるはずだのに。

しかし、言われてみれば、そういう表現はわかったにしても、自分ですぐに発想できないという弱点はある。これでは到底フランス語がわかるなどとはいえないだろう。

昔のことだが、sur la tableとかいうのは口頭練習をしたことがある。sous la tableはテーブルの下に接触してではなくテーブルの下にであったが、sur la tableはテーブルの上に接触してある、だったと思う。

(2019.6.11付記)  surは「接触して上に」という意味だと書いたが、この語は「絶対に上方に」という意味には使わないというわけでもないらしい。これは大修館の古い仏和辞典を見ての情報だから、もっと新しい辞書を見てみる必要がある。

(2019.6.17付記)

In der Bretagne steht die Sonne ”uber die Wolken.

という文に出ている、動詞stehtについてである。直訳するとこのstehtは「立っている」である。これは単になにかが「ある」という場合にも使う。Steht es etwas neues in der Zeitung ? (新聞になにか新しいことが載ってる ?)というようなときにも使う。

しかし、皿が食卓の上にあるというとき、liegen(横たわっている)ではなく、このstehen(立っている)が使われると聞いた、あるアメリカ人の学生はどうしてstehenなのだとドイツ人の先生に食い下がっていた。困ったドイツ人の先生は皿の下の台というか円形の足があり、その上に皿が立っていると、黒板に絵を描いていた。もう40数年前のフライブルクのゲーテ・インスティツートでのドイツ語のクラスの一コマである。


大分入力ができた

2019-05-29 11:29:21 | 日記

大分、入力ができた。一昨日から入力している「ベルヌーイ数とベルヌーイ多項式」のエッセイの原稿である。

最後から二つ目の節のベルヌーイ多項式の例を昨日入力した。もっともこのエッセイはあまりべき乗和との関係が述べられていない。でも土台としたShadow Academyの記事が分かりやすいとの判断から、だいたいそれにしたがっている。

ベルヌーイ数とべき乗和とについては、別のエッセイで述べなくてはならない。それについてもかなり計算もしたのだが、まだ十分に納得はしていない。これはおおまかなところでは大丈夫なのだが、要するに細かい点での納得がま得られていない。

 


いつも新しい投稿よりも

2019-05-28 10:53:34 | 日記

いつも新しい投稿よりも、前のブログの推敲に時間をかけている。

過去のどういうブログが読まれたかを知って、そのブログの書いた年月日までさかのぼってその原稿を読み直し、できるだか短い簡潔な文に書き換えている。

そのための時間が今日の投稿よりも重要と考えている。ブログは自分の生活の記録でもあるが、ある場合には私が若いときにとまどったことへの回顧であり、それはとりもなおさず、若い人へのアドバイスにもなっているかもしれない。

それは、ある時にはドイツ語学習のヒントであったり、トンマな私の数学の理解についての、つまずきの石の説明だったりする。

世の中には信じられないくらい頭のいい人にも事欠かない。そういう人は放っておいても別にかまわないが、世の中の大部分の人々はそんな聡明な方々ばかりではない。

そして、そういうあまり頭脳明晰とはいえない、私みたいな人はほんとに世の中の大多数を占めている。だが、そういう人でもある種の才能が秘められていたりする。そういうある種の異能な人を掘り起こすことは大事なことである。


昨日エッセイを書き始めたが

2019-05-28 10:40:46 | 日記

昨日エッセイを書き始めたが、昨夜、コピーしてもっていたインターネットの別の資料のコピーを見ていたら、先日来、ほぼ15ページにまとめたことが、ほんの半頁くらいに書かれていた。

もっともその説明を敷衍すれば、2ページくらいにはなろうが、それでも15ページにもならない。やれやれ。

もっとも、この説明にも問題点はないわけではなかろうが、こういうことをトンマな私はいつもしている。

それでどうするかだが、もう乗りかかった船なので、はじめの計画を続行することにしよう。「もっと簡単に書けるのに」という批評は後でいくらもついてくるだろうが、万人に理解してもらうということは、なんでも並大抵ではない。

もっとも万人に理解されるよりも、まずは自分がどう理解するかが、私には重要なのだが。


80歳になった

2019-05-27 13:43:01 | 日記

「80歳になった」

正確にいえば、今日の午後11時ころの生まれだから、80年前の今頃はまだ母のおなかの中にいたことになる。

母方の祖母がもう私が生まれるかと思って、私の家につめていたらしいのだが、なかなか生まれそうにないから、夜の8時すぎに自宅に帰ったあとで、急に生まれたのだとは母から何回かくりかえして聞いた。

昔風にいえば、5月27日は海軍記念日であり、そのために海軍の工廠に勤めておられたことのある、私の上司の A 教授からも、おリにふれてそのことが話題にされたことがある。

いまとなっては、海軍記念日などという日をまだ覚えておられる人など皆無とはいわないが、ごく少数であろう。

けさ、そういうことを妻に言ったら、私の兄妹の中で比較的に健康を保っているのは残念なことだが、私くらいなので、妻が「私のつくる食事がよかったのだろう」と言った。それは多分にあろう。

そうは言っても、私も無病だというわけではなく、最近よく言われるように多病息災なのである。経過観測をしている病気は一つにはとどまらない。

人生において、ながく生きることが重要なのではなくて、重要なのは「何をなしたか」なのであろう。しかし、今しばらくは生きていけるだろうか。その間に何をするか。そういうことをしきりに考えるこの頃である。


「量子力学講義ノート第2部」完成

2019-05-25 17:38:15 | 物理学

「量子力学講義ノート第2部」がようやく完成した。これは2月くらいからとりかかっていたのだが、なかなか完成しなかった。最近になって元岐阜大学の K さんの尽力によって仕事が進み、まだ検討は十分ではないかもしれないが、投稿後にも原稿の修正は可能なので、脱稿とした。

これは小川さんのご家族が老齢になっているという事実もあるので、自分の都合だけで物事を決めてはいけないこともある。私はだいたいにおいて優柔不断であるが、こんなことで急に決断をした自分に驚いている。

この講義ノートは『素粒子論研究』電子版に投稿の予定である。半月くらいしたらインターネットで閲覧できるようになるだろう。

 

 


鼻アレルギー 

2019-05-25 12:22:29 | 日記

鼻アレルギーがそろそろ収まってもいい季節なのだが、なかなかおさまらない。

もっとも最近は真夏のようで、午後は気温があがるから、少しは鼻アレルギーも収まるが。ティシュペーパーの箱が家では手放せない。

スギ花粉のシーズンには内服薬を服用しているのだが、もう季節が過ぎたということで薬は飲まなくなっている。もうしばらく私には嫌な季節が続く。

 


第17回ユーモア路上観察展

2019-05-25 12:00:59 | 日記

松山に住んでおられる方には松山市小坂2丁目の乗松巌記念館で今日からはじまった「第17回ユーモア路上観察展」を見に行かれることをお勧めする。

入場無料だし、駐車場もあまり台数は多くはないが、ある。それにいつもながら、乗松毅、越智公行、芳野友紀さんの3人の着眼点のおもしろさを写真を見て、実感する。

これは言葉ではなかなかいい表せない。1年中そこここを歩いて見つけたちょっと面白い景色を写真にとっておられる。

今年もこの展覧会の案内のハガキを貰って、先刻見学してきたところである。上記3人の方々は趣味としてこういう写真をとっておられる。

第17回ということは少なくとも今年で17年は続けておられるということになる。普通ならば、なんてこともなく見過ごす風景を見逃さない、彼らの観察眼に感心し、感謝することしきりである。


杉谷や 有明映る梅の花

2019-05-24 13:19:21 | 日記

「杉谷や 有明映る梅の花」 子規

である。いささか季節外れだが、平和通りにある小さな句碑の一つである。もう何十年も前からこの平和通りを通るときにこの句碑の前を通る。

「映る」の読み方がわからないが、私は勝手に「はゆる」だと思っている。本当にそうなのかどうかは知る由もない。

30歳で亡くなった、子規は生前に2万句とも3万句とも詠んだというから、やはり天才であろう。私などは30歳の2倍以上生きているが、こんなことはできない。

もっとも、私の書いた数学エッセイも重複はあるが、170編以上にはなっている。だからと言って私を子規と比べることなどとてもできない。それくらい2万句とも3万句ともいう句の数は法外である。それも30歳くらいで生涯を終えた人がである。

 


ドイツ語の形容詞の付加語用法

2019-05-24 12:16:08 | 外国語

昨夜のドイツ語のクラスでドイツ語の形容詞の付加語用法が、ある人から質問された。

問題となったのは、はじめは、名詞の格変化だと思われていたものはそうではなくて、結局は形容詞の付加語用法であることがわかった。これはドイツ語で面倒なテーマであることはまちがいがない。

形容詞が文の中で「彼女の眼は青い」などというときは別に難しくはない。Ihre Augen sind blau. といえばよい。形容詞blauはまったく変化しない。

ところが「彼女は青い目をもっている」なら、ちょっと面倒になる。Sie hat blau(en) Augen.となる。これが形容詞の付加語的用法の一つである。

いまの場合はAugenが複数であったから、そのときは前に定冠詞がつこうが、不定冠詞がつこうが、なにもつかなくても形容詞に語尾(en)をつければよい。

ところが修飾される名詞が単数である場合には、その前に 定冠詞がつくか、不定冠詞がつくか、何もつかないかで変わってくる。

一番に簡単なのは定冠詞がついた場合で、この場合には語尾は(e)か(en)しかない。大多数の語尾は(en)だと思っていいが、名詞の単数1格のときは語尾は(e)となる。ただ、女性名詞の単数4格、中性名詞の単数4格はそれぞれの単数1格と語尾が同じになるという性質があるので、女性名詞も中性名詞の4格もそれに倣って語尾は(e)となる。男性名詞の単数4格は語尾は(en)である。男性名詞だけ4格の語尾は1格と同じにはならない。

つぎに簡単なのは不定冠詞が名詞につく場合である。この場合にもやはり基本はの付加語尾は(en)であると思ってよいが、男性名詞の1格と中性名詞の1格と4格の場合に例外的になる。実はこの場合だけは不定冠詞がついただけでは、その格が明瞭にはわからないから。

それで、そのことを明示する必要が出てくる。それで男性名詞の1格には定冠詞の男性名詞の1格の語尾(er)形容詞の語尾としてつく。

また、中性名詞の形容詞の付加語尾としては中性の定冠詞のdasにならって1格と4格とにつく形容詞の語尾として(es)がつく。中性の定冠詞なら(das)だが、それが少し変化して(es)となっている。後はすべて名詞についた形容詞の語尾はすべて(en)である。

女性名詞の1格と4格との形容詞の変化語尾は(e)である。あとはすべて(en)である。

一番面倒なのは定冠詞も不定冠詞もドイツ語の名詞につかない場合である。この場合には定冠詞がないので、その定冠詞の語尾を定冠詞の代わりとして、名詞につく形容詞がその定冠詞の語尾の変化を受け継ぐ。ただ例外的に、男性名詞の2格と中性名詞の2格につく形容詞の語尾が(es)ではなくて、(en)である。

言葉で説明すると複雑な感じがする。実際にはそれほど複雑なことではないのだが、昨夜説明を聞いたときにも複雑な感じがした。

極端に簡単化すれば、名詞に付加語的に使われる形容詞の語尾は(en)であるといってもよいが、その例外がいくつか名詞の1格、4格の場合に生じるとでも覚えておけばいい。複数名詞に付加語的につく場合は、その語尾はいつでも(en)であるので迷う必要はない。

実はこういうドイツ語における、形容詞の付加語的用法については、ドイツ語に多く触れて、慣れていくというのが一番いいと世の中の優れた日本人のドイツ語の先生方も思っておられる。そういう考え方ではない先生にドイツ語を学ぶ学生が、もしおられれば、それはかわいそうである。

(2019.5.25付記) 基本的な考え方は定冠詞の語尾をどこかで引き継ぐという習性があるということだ。それだけを知っておればいい。個々には多くドイツ語に触れて慣れるしかない。

昔、小塩 節(おしお たかし)先生がNHKテレビのドイツ語講座の講師をなさっていたころ、ドイツ語は素晴らしい言語だが、形容詞の付加語的用法での語尾変化は「ドイツ語の玉に瑕」だとかいう趣旨のことを言われたことがあると記憶する。

実際には、小塩先生くらいのドイツ語の達人になれば、形容詞の語尾変化くらい十分(以上)にクリアされていると思う。だから、これは視聴者へのサービスとしてのねぎらいの言葉だったと思う。

先日のドイツ語のクラスで R 氏が話していた。ドイツ語の文法書かなにかを出すときに、出版する D 社とそのことで、もめたとか言っていた。だが、 R 氏の言では、出版社の用意した60ページの変化表が、実は2行で済んでしまうという。それは誇張があると思うが、「どういう考えで形容詞の語尾変化ができているか」を教えるのは大事だと思う。

形容詞の弱変化(定冠詞類の場合)、混合変化(不定冠詞類の場合)、強変化(無冠詞の場合)の言葉は忘れてもいいけれども。

 

 


自分の理解に関心をもつ

2019-05-23 15:11:31 | 日記

「自分の理解に関心をもつ」ことを『数学ガール』(ソフトバンク・パブリシング)のシリーズの著者、結城浩さんが雑誌「数学セミナー」6月号の巻頭言で述べておられる。

「自分の理解に関心をもつ」で、結城さんは難しいことを提起されておられるのではない。単に「自分は理解しているだろうか」と考えることだけを問題にされている。

それはなんでも「すべてを理解せよ」と言っているのでもないし、「理解できなくてはだめだ」という意味でもない。また、「理解することを好きになれ」と指示することでもないという。

いまさら言われてみるとなるほどと思うが、こういうことに頓着しない人がいるという事実そのものに私は気がつかなかった。


ものごとに熱中するもので

2019-05-22 13:27:45 | 日記

ものごとに熱中するもので、今朝はブログを書くのを忘れていた。

これはサーキュラー「数学・物理通信」への投稿原稿を少し手直しをしていたからである。

ベルヌーイ数に関係した投稿であって、この投稿がきっかけとなって、インターネットのサイトにあるベルヌーイ数の文書を読むことになった。それでこのブログにもその話題が多くなった。

べき和(sum of power)を求める一般公式がベルヌーイによってつくられているのだが、それとの関係で関心があるのだ。

今までこの歳になるまでその一般論があるということは聞いてはいたが、それを学ぶということは考えたことがなかった。

これは普通のテクストにはそういうことを書いてあるのは少ないからである。もちろん、最近の書ではそれに触れてある書もあるのだが。


Snob

2019-05-21 10:16:00 | 日記

日本の高校の普通科が特色がないとかで、どこかで議論になっているらしいと妻から今朝聞いた。

昔の、旧制高校の卒業生はその時代を懐かしむということがあって、そういうことはあまり好ましく思わないという、作家の中野孝二さんの『体験的教育論』(岩波新書)を最近拾い読みした。

旧制高校のその卒業生が、その若き時代を懐かしむかどうかは私にはどうでもいいが、普通科が特色ないというのはいくらか政治色があるような気がする。専門学校に生徒を取られるとかいう議論かもしらないが、やはり教養ある日本人が育つのはやはり高校時代の過ごし方だと思う。

そういえば、昔の大学教養部の時代に英語でsnobという概念を教わった。これはサマセット・モームの小説の中に出てくる概念ではなかったかと思う。

日本語では「俗物根性」とかいうのかもしれないが、そういう単純な概念ではないとかいうのが、その英語の小説を担当された T 教授の話であった。この先生はそのころ私には私の学んでいた教養部の前身の旧制の H 高校の出身者であったと思う。

英語は第一外国語だったから、8単位をとったはずだが、英語の講義で覚えているのはそれくらいしかない。教育とはそんな役に立つかたたないか、ほとんど分からないところにある。


どうも特殊な場合で

2019-05-20 16:46:36 | 日記

どうも特殊な場合でこのところ悩むことが多い。それはインターネットのサイトにもそこのところの注意書きがほとんどないことによる。

この端のところがどんな値をとるかが、大切なのである。せっかく資料を読んでその補足または要約して、解説を書こうとしているのに、いずれもパラメータの端の値をどこまでとるかの議論のところで分からなくなってしまう。

総和をとるシグマの記号の上下につける文字の値がどこまでとるのかがあやふやになって、そこでどうもこんがらがってしまう。

頭脳の明晰な人ならば、まちがわないところだろうに、どうもそこが私は弱い。それで今日は草稿ができるはずだと思っていた草稿ができない。

それで、頭を冷やすためにこんなブログを書いていると。


ベルヌーイ数とその多項式

2019-05-20 10:46:54 | 日記

インターネットのサイトでベルヌーイ数とその多項式の説明をインターネットのShadow Academyのサイトで読んだ。

それらが、どのようにして考えられたかの説明はぬきであるが、わかりやすかったので、それの解説を書くつもりである。そして、自然数のべき乗和についても。

もっとも、この説明は簡単でいいのだが、もう一つ別の説明法もある。そちらの方を先にインターネットの別のサイトで読んだ。ほぼわかったのだが、まだ完全にわかったとはいえない。

こちらの方法での説明を二つ読んだのだが、後から読んだ方が説明が簡単そうに見えたのだが、ある特殊な場合の説明が理解できない。これについての説明はShadow Academyでの説明ではあいまいさがなかった。

Shadow Academyは英語でもあるようだが、私が読んだのは日本語のShadow Academyのほうである。