物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

Die Wahrheit macht uns freiは聖書の言葉?

2016-01-30 12:58:55 | 日記
ディ ヴァルハイト マハト ウンス フライ Die Wahrhiet macht uns freiは国会図書館のカウンターの上に書かれた文句である。もっともこのドイツ語ではなく、日本語で「真理はわれらを自由にする」書かれている。

これは多分国会図書館が開設されたころ参議院議員であった羽仁五郎が勧めて国会図書館に書かれるようになった言葉だと思っていた。その由来はもちろん知らない。

ところが、先にも書いた佐藤優さんの「宇野弘蔵『経済原論』を読む」(岩波の『図書』2016年2月号)の終りの方に新約聖書の言葉として

「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」

(「ヨハネによる福音書」八章三十二節)

とあった。

さすがに歴史家だった羽仁五郎はこのことも知っていて国会図書館にこの文を掲げたであろう。一つ賢くなった。

ちなみに佐藤優さんは『経済原論』を数十回読みなおしているとあった。このことだけでも佐藤さんが優れた人であることが窺える。残念ながら、私に数十回読みなおした本などない。

たとえば、湯川秀樹が若いころ、HeisenbergとPauliの長大な場の量子論の論文をくり返し読んだとか、誰かアメリカかかヨーロッパの物理学者だったかが、FeynmanかDysonの量子電気力学の論文を数十回くり返し読んだとかどこかで読んだことはあるけれども。

朝永振一郎の『量子力学』I(みすず書房)は学生時代から数回読み返したことはあるけれども、多分その読んだ回数はどんなにひいき目に見ても片手の指の数を越えないであろう。

論理学としての『資本論』

2016-01-30 12:14:19 | 日記
マルクス経済学の原典としての『資本論』は知られているが、論理学としての『資本論』という観点から書かれた書はあるのだろうか。

こんなことに関心が生じて来たのは岩波のPR雑誌『図書』2月号で佐藤優さんの「宇野弘蔵『経済原論』を読む」というエッセイを読んだからである。

『資本論』をイデオロギーの書としてではなく、科学の分析のための論理学の書として読むという話はひょっとして多くのところで論じられているのかもしれない。しかし、経済学とか金融財政とかに暗い私にはそういう書があるとしてもまず知る機会がなかった。

物理学者の武谷三男がそういう読み方で『資本論』の論理に感銘を受けたとかいうことはひょっとしたらどこかで読んだことがあるかもしれないが、難解で知られた『資本論』を読むという気持ちなど起こったことは一度もない。

だが、そういう論理の解説書があるのならば、面倒な『資本論』を読まないでその『資本論』を書いた論理を知ることができるのではないかという気がしている。

別に『資本論』に限らない。私の比較的よく知っている物理学などでも力学を学ぶときに質量だけあって大きさのない質点を考えるとか力を受けても歪むことのない剛体を考えて理論立てをされている。それはなぜかとか、他に考えることは実はあるのだが、それらを一応捨象して論理を進めているのだとかは長年物理をやっていれば、うすうすわかってはくるけれどもそれを一種の論理学として表から論じた書物など私は知らない。

そんなことはもう前提条件になっているからであろうか。摩擦のない世界とか空気抵抗のない世界など私たちの住んでいる地球上の世界には存在しないのだが、それをはじめ無視した形で力学ができている。

そして、そのうちに小さな影響としてこれらの摩擦とか空気や水の抵抗といった条件を考慮して物体の運動を求めることができるようになる。

大きさのある物体にしても力を受けて歪まない剛体から離れて現実の弾性体の受ける力やひずみを求めることも弾性体力学や材料力学ですることができる。それらは現代では工学の分野の学問として大学の工学部等で学ぶことができる。またその分野の専門家にも日本をはじめとして現代では事欠かない。

しかし、どういうところを捨象してはじめの力学をつくったかとかいう話はあまり聞く機会はない。第一そういう話から力学の書がはじまるとしたらそういう書を購入して力学を学びはじめる人などいるだろうか。

だが、そういう書も現代では必要になってきているのではなかろうか。科学史書としてはこんな書があり得るとは思えないにしても。

経済学の分野での『資本論』を論理学の書として読むのに佐藤さんが書かれている、宇野弘蔵『経済原論』が役立つのであろうか。それともすでにそんな書は他に出版されているのだろうか。そんなことを知りたい。

A quitter, c' est un peu mourire

2016-01-29 12:17:38 | 日記
何年もブログを書いていると多分同じことを書くということも多いと思う。書いた本人が書いたことを忘れてしまうことが多いからである。

この標題のフランス語の文もそうだろう。だからこのブログの熱心な読者ならまた同じことを書いていると思うのだろう。

しかし、人の書いたブログの内容を逐一覚えているわけではないだろうからまあいいか。

「別れ、それはちょっとした死である」 

これが表題の意味である。フランス語に疎い人のために拙い発音をカタカナで記しておく。ア キテー セ アン プー ムリ―ルである。もしかしたら、ア キテー セ タン プー ムリ―ルと C'est unをセ― タンとリエゾンして読むのかもしれない。

言葉は音である。だから言葉をできるだけ音としてとらえるということが大切になってくる。字として言葉を見るのではなく音として言葉を聞く。そのことを外国語を学ぶ場合にも大切にしなければならない。


少し早いのかも知らないけれど

2016-01-29 12:07:28 | 日記
鼻アレルギーに悩まされている。例年だと2月10日前後に鼻の穴が腫れて来て鼻汁が止まらなくなる。もちろん薬は病院に行ってもらうのだが、今年は異常に症状が出るのが早い。

昨夜は前年の処方された薬を飲んで少し症状が楽であったので十分眠れたが、一昨日はよく眠れず体がだるくて困った。

これから花粉症の季節なると思うと心が暗い。悩ましいことである。

男性、男、女性、女

2016-01-28 11:49:20 | 日記

男も男性も同じ意味です。女性も女もまた同じ意味です。

ところがマスコミとかの使い方だと男と男性とは違うようです。若い男性がとか言われれたときには別に尊敬の意味が含まれているとも思えないのに、やはりある種の敬称として使われているようです。

ところが「男が」とテレビのニュースとかで言われるときには何かの犯罪を犯した男性というようなときには男性とは言われないで「男」と使われているようです。このことを意識して使い分けしているのだと思います。

そういえば、最近だれか男性に恋人とかの女性ができたときにも下世話な使い方では「あいつに女ができたらしい」というような使い方をするようです。この場合の「女」はべつに犯罪を犯した女性ではないのですが、ちょっとからかいの意味が含まれているような感じがします。

こういうことはひょっとしたら前にもこのブログで書いたことがあるかもしれません。愛人というとちょっと日本語では不倫関係を連想しますが、中国語では妻や夫のことをいうのだったと思います。発音はアイレンと言ったと思いますが、この発音が正しいとは保証できません。


三角関数の還元公式1

2016-01-27 17:24:11 | 日記
の草稿がようやく最後まで書けた。タイトルに数字を入れたということはこれがつづくエッセイだということを示している。

先に「三角関数の還元公式2」と題するエッセイを書いていたのだが、すこし時間ができたので「三角関数の還元公式1」のほうに努力を集中していた。それがまがりなりにも最後まで書けたのであとは推敲である。

もっとも大変なのはこれからなのであるが、おおよその図が描けたので、仕事が少し進んだことになる。いまのところ13ページほどのエッセイである。本文はそれほど長くないのだが、付録に数ページを費やした。

いろいろ考えることがあったが、そのことについてはあまり考えがまとまってはいない。還元公式などといっても難しいものではない。どの高校数学のテキストにも学習参考書にも軽く扱われているだけの教材である。

しかし、いろいろな書籍を見てみるとそれぞれ少しづつ表現がちがっていたりとかして、興味深かった。

サッカーU23

2016-01-27 11:21:28 | 日記
昨夜のサッカーのリオでのオリンピックへの出場権を獲得できるかどうかのカタールでの試合だが、見ごたえがあった。

今回のカタールでの試合は日替わりで得点した人が代わりあっており、日本のチームが試合に強くなっていることを示している。ゲームでボールをキープできることはほとんどできないのだが、それでもわずかなチャンスをとらえてシュートできるのとそれが得点につながるという点である。

相手もやりにくいだろう。だれかをマークしてもその人が得点に絡まなくても他の人がシュートして得点できるからである。昨夜も時間切れとなりそうであり、15分ハーフの延長がちらついたときの得点であり、価値ある追加点であった。

こんなに日替わりのヒーローが出るのはやはり地力をつけている証拠だろう。イラクには2度対戦して一度も勝ったことがないという。

まずはよかった。

かっこの使い方

2016-01-26 13:20:16 | 日記

数式を書くときにかっこを複数使う必要がある場合がある。日本の本を見ると数式を表すときに( )を一番中側に使い、{ }をつぎの外側に使い、いちばん外側には[ ]というカッコを使うのふつうである。

ところが欧米で発行された書籍では一番内側のカッコは  ( )であるが、次の外側には[ ]を使うことが多く、いちばん外側には{ }を使うのが普通である。これの記法になれてくるとどうも{ }のカッコがあまり好きになれなくなる。だからというわけでもないだろうが、できるだけ欧米風のカッコの使い方をするようにしている。

このことを知ったとは言えないであろうが、出会ったのはもう何十年も前のことである。Goldberger and Watsonの著書”Collision Theory"を読んでいて出会ったのが最初である。それは1967年のことであったが、ガンマ線を陽子にあてて、pionという粒子の創成の断面積を計算してそれをもとに学位論文を書くための研究をしていたのだが、そのための計算のフォマリズムとしてCGLNという略号で知られている論文の運動学の部分を理解するために"Collision Theory"を読んでいたのである(注)。

そこでカッコの使い方が私たちの慣用とは違う使い方に出会ったのであった。だが、そのときには奇妙に感じただけであった。大学に勤めるようになって何年かしたときに放送大学の講義の応用数学の講義のテキストを借り出して読んだことがあった。これは多分カセットテープをも貸し出してくれてそれを聞くというスタイルの講義であった。

そのテキストでカッコの使い方が欧米と日本との慣用が違っていることをやっと知った次第である。だが、そのときにはだからといって欧米風に計算のカッコを使うということろまで行かなかった。

そのうちにどうも{ }のカッコがあまりきれいでないと思うようになり、それをできるだけ避けるために一番外側のカッコの記号として使うようになった。アメリカやヨーロッパ等に留学した物理学者や数学者はいまの日本では多くなっているとは思うのだが、それでもやはり小さい時からの習慣でもあるのだろうか、カッコ{ }の使い方の慣用は変わっていないようである。

これは美的感覚がどうかということだけなので、どちらがいいとか悪いとかいうことではない。ではあるが、私はカッコの使い方を変えてきている。

(注)CGLNは著者たちの頭文字をとったものであり、Gは"Collison Theory"の著者の一人である、Goldbergerである。

またNは日本人の物理学者で2008年度のノーベル物理学賞を受賞した南部陽一郎さんのことである。もっともこのCGLNの論文には南部さんはあまり関与をしなかったと南部さんがどこかに書いていた。分散公式の重要性を南部さんがGoldbergerに吹き込んでいたために南部さんがCGLN論文に名を連ねることになったらしい。だが、この論文のお蔭で南部さんの名声も高まったという。

もっとも南部さんが物理学の予言者と呼ばれるようになった、彼のすばらしい業績「自発的対称性の破れ」はこのCGLN論文に載っているわけではない。


100人を越える人が

2016-01-26 10:57:52 | 日記
このブログを見て下さっている。これは凡人の私としたら大変なことである。

話は突然のかわるが、SMAPの謝罪会見はNHKでも流れたので、私も見たがなんだか歯切れが悪いものであった。どうも言いたいことがあるのに何とも言えない。そんな感じの雰囲気があった。

形の上では謝罪して元のさやにおさまったが、どうも歯切れが悪い。どうもすっきりしないという思いをもったのは私一人ではあるまい。別にまた解散話があるとは思えないが、どうもすっきりしない。

多くの人々の思い入れがSMAPに別の重い拘束をしたのでなければいいのだが、さてどうだろうか。

書評される本、されない本

2016-01-25 17:26:41 | 日記
日本では出版界は不況と言いながらもたくさんの本が出版されている。そしてそれらのあるものは多くの新聞とかにその書評が載ることになる。ところがこれは出版社の編集者の方が言っていることだが、理系の本はほとんど新聞の書評の対象にならない。

だから、ベストセラーとして売れることもない。吉田 武さんの『オイラーの贈物』(海鳴社、東海大学出版会、ちくま学芸文庫)は総計として3万部が売れたというが、これなど特例中の特例であろう。

大体において初版の数千部が売れたら、大いに売れたと威張ってもいいかもしれない。それぐらい理系の書は売れないのである。もちろん新聞の書評に載ることもない。だが、それだからあまり意味がないのかと言うとそうでもないのである。

と私も思っているのだが、それにしても小著『四元数の発見』は数学関係の雑誌にも書評としてとりあげられないというていたらくである。もっともマイナーな分野であることは百も承知なので、別に採り上げてもらえないとしてもそれほどがっかりすることではないのだろう。

厳しい寒さということだったが

2016-01-25 11:18:18 | 日記
天気予報では西日本はその予報であったが、今朝は晴れて日が当たってそれほど寒くはない。

よかったが、明日とか明後日に寒くなるようだとまたテニスができないかもしれない。先週の火曜日はテニスに行こうと思ったが寒いので躊躇していたら、今日はお休みにしましょうとの連絡が世話人から入った。

だが、今週はどうだろうか。寒さは厳しいがそれに負けない気力と体力も必要である。もちろん十分に食べることが必要でもあろう。

昨日は日曜日で何もしないで過ごした。新聞を読んだり、テレビはもちろん見たけれども。こういう息抜きがやはり必要である。土曜日には恒例の雑談会でKさんから現在の世界情勢の話を聞いた。

その後にワインとつまみで簡単な新年会をした。

昨日はなにをしたか

2016-01-23 13:26:16 | 日記
思い出そうとしてもなかなか思い出せない。夜に市民コンサートに行ってトロンボーンの演奏を聞いたのは確かだが、昼の間に何をしたか覚えていない。とはいってもどうせ三角関数の還元公式のエッセイの入力をしていたのであろう。

このところ一日に一つづつ図を描くというペースで図を描いていた。その続きだったかそれともそれは終わってのそれに対応した文章の入力だったか。ということであまり変わらない日常である。

昨日また「数学・物理通信」に投稿があった。最近投稿をして下さるようになった方であるが、このような方々のおかげで「数学・物理通信」が成り立っている。

技術を辞書で引くと

2016-01-22 11:46:36 | 日記
「科学を実際に応用し、人間生活に役立てる技」と岩波の国語語辞典にはある。

では広辞苑ではどうなっているのだろうか。「科学を実地に応用して自然事物を改変・加工して、人間生活に役立てるわざ」とある。はじめて技術を辞書で意味を調べてみた。なるほど,なるほど。二つの辞書ともあまり意味の違いはない。

日本で言われているいわゆる「技術論論争」のどちらにも加担しないような説明であり、これで曖昧さはない。

ドーピングは文化?

2016-01-22 11:18:24 | 日記
ロシアの陸上競技界はドーピング一色であったらしい。

これをNHkクローズアップ現代でもとりあげていたが、このドーピングがロシアでは文化(?)だったといわれると文化とはそのような悪習も指すのだったかなと頭をかしげた。

文化とはなにかということを高校の社会科の授業で聞いた覚えがあるが、結局文化とはなにかということははっきりとは頭に残らなかった。いま改めて辞書を引いてみれば、「人類の理想を実現して行く精神の活動。技術を通して自然を人間の生活目的に役立てていく過程で形作られた、生活様式およびそれに関する古い文化財」とある。もっとも最初の意味では「世の中が開けて生活水準が高まっている状態」とある。

文化住宅という語が私がまだ子どもの頃にあった。

実践的立場から見れば

2016-01-21 15:10:51 | 日記
星野技術論が破たんしたと述べている中村静治さんの『新版・技術論論争史』を夜寝る前に少しづつ読んでいる。その主張がどう星野技術論の主張と違っているのかということを読み解きたいのだが、それだけではなく技術論だけではなく、それの社会への働きかけというか社会実践が中村さんには乏しいのではないかという点に気がついた。

だから、理論上の問題もあろうが、それだけではことが収まらないのではないかということである。看護技術のことに関係していた川島みどりさんだったかは中村さんの勤めていた横国大に関係していたと思うが、彼女は武谷技術論の研究会を開いていた。そして中村さんの主張を知っていたとは思うが、あまりそれにはしたがわなかったと思う。

実践的な立場から理論を見るというのは一つのものの見方ではないかと思う。それを武谷なども実践をやはり心掛けていたと思うので、そこらあたりが議論を分ける分水嶺となるのではないかと思う。

広重の武谷三段階説批判でもそれが論理的に正しいのかどうかということもあるが、どうも実践的には弱いとうのがやはり見られるであろう。