徳島科学史雑誌への論文の投稿をようやく終えた。やれやれ。
これはまずメールでの投稿であるから、明日にでも印刷した原稿を投稿しなければならない。
あまり奥深い考察のある論文ではなく、おざなりの論文かもわからない。まあ、これは最近数年の決まったルーチンの仕事の一環である。
徳島科学史雑誌への論文の投稿をようやく終えた。やれやれ。
これはまずメールでの投稿であるから、明日にでも印刷した原稿を投稿しなければならない。
あまり奥深い考察のある論文ではなく、おざなりの論文かもわからない。まあ、これは最近数年の決まったルーチンの仕事の一環である。
文章を書くのは難しい。
大学教授だったある方の文章を見る機会があったのだが、あまりいい文章とは言えなかった。やはり、専門分野ではすでに一家をなしている人でも普通の文章を書くのは難しいのだと知った。
自分自身を顧みても文章がいいとはなかなか言えない。どこかで同じことの繰り返しの内容を書いたりするのは日常茶飯事である。
これは外国語で書いた文章のことを言っているのではない。日本語で書いた文章のことを言っている。日本人を80年以上もやってきたのにである。
やはり、文章が達意の文になるのは文章を書いて、書いて、書く以外にはないのかもしれない。
いろいろな機会に文章を書くのだが、それでもまだ十分に練習が積めていないのかもしれない。ただ文章修行あるのみ。
「数学・物理通信」9巻7号の発行の準備がようやくできた。
10日ほどまえに共同編集者の N さんに編集後記を書いてくれるようにとの、お願いに行ったのだが、その編集後記がなかなか届かなかった。昨日ようやく届いたので、普通は今日は日曜で自宅でのんびりするのだが、仕事場に出て来た。もっともそれ以外に今日は夕方から用事がある。
だいたい、用意といっても全体のプリントアウトするのははじめてなので、数日手元においておきたい。というのは私はよくポカをしたり、抜けているので、そういうミスをしないためである。
それにディスプレイ上でいくら見てもミスはなくならない。やはり一度はプリントアウトをして、紙面上で見る必要がある。
実際の発行は10月に入ってからの来週になるだろう。
武谷三男のある本を読んでいて知ったこと。
もっともこれがどの本であるのかはっきりしない。いま、それがなにであったか調べているが、まだみつけていない。
武谷は科学至上主義だと思われているが、そういう取り方はとても皮相なものだと思う。
彼は、科学はそのときどきで認識には限界があるという考えである。しかし、その後、時代が進めば、もちろん認識の程度は上がってくる。だから、そのときの認識だけで将来の議論を狭めてしまうことは反対である。
そこが単なる科学至上主義ではない。むしろ科学の斬進性を考慮した考えである。そういう意味では広い意味での科学至上主義かもしれないが、少なくとも世の中は自然科学だけでは決まらないと考えている。
こういう考えのできる人は狭い意味の科学至上主義ではない。
1976年の2月、3月の2か月間、西南ドイツの大学都市フライブルクのゲーテ・インスティテュートでドイツ語の研修を受けた。それは4月からのドイツのライン河畔の都市マインツでの研究前の予備訓練という意味もあった。
それで2か月のフライブルク滞在の機会があったわけである。
このコースでのこと。先生がわからない言葉の意味を辞書で調べている人に、わからない言葉は私に聞けと言ったことだった。私の前には日本人学生の坂口さんがいたが、彼はときどき困って辞書をひそかに引いていた。
そのころから私はその教室で辞書を引いたことはほとんどない。それはいまも週1回のドイツのクラスでもそうである。だいたいドイツ語の辞書は重たいもので、持ち運びには適さない。最近では電子辞書やはたまたスマホでちょっと調べれば、すぐに答えは出てくるので、重い辞書は持ち運びはいらなくなった。
lequel, laquelle, lesquels, lesquellesは英語でいえば、whichにあたる語である。
ところが、長い間フランス語を学んできながら、この「どれ」にあたる語がlequel, laquelle, lesquels, lesquellesであるということを認識していなかった。
いや、これらの語を知らなかったのではないと思う。だが、そういう認識がなかった。もっとも私は主にラジオやテレビでフランス語を学んできたものである。
もちろん、若いときには一時期を大学のクラスでフランス語を学んだこともあるが、それも半年でしかない。それでも初歩のフランス語なら、かなり知っているつもりであった。
だが、こういう欠陥をもっていることに気がつかなかった。
ドイツ語ではwhichにあたる語はもちろんwelch-であり、これは後ろに来る名詞の性によって、welcheだったり、welcherだったり、welchesだったりする。
そして、さらにその名詞の格によってさらに語尾は変わる。そういうことはいくら何でも知っている。だが、おなじくらい長く学んできた、フランス語ではそれにあたる語を知らなかった。
もし、武谷三男が今生きていたら、何をするだろうか。
やはり地球温暖化のことをいろいろ調べて、警告を発するだろうか。スウェーデンの16歳だかの子どもである、グレタさんがいま地球温暖化防止の運動の先頭に立っている。
若い世代にこういう意識をもった世代が誕生しているのを見ると、世界もまんざら捨てたものではないという気がする。
いかにアメリカ大統領のトランプ氏が自分勝手でも。もちろん、そのトランプの再選を阻止できるほどのタレントのある、大統領候補は今の民主党にはまだいないような感じがするけれども。
だから、現在のところ、アメリカの良識(そういうものがあるとしても)などに期待することはできないという、状況である。
今日は祝日だが、いつものように仕事場に出てきた。これは祝日は日曜でなければ、仕事場に来るといのが私の日常になっているからである。
だが、日曜日だけは仕事をしないことに決めている。まったくしないわけではないが、だいたい椅子に座って庭の緑を所在なく眺めている。
そういうことをしないと仕事の区切りというか、生活の区切りがつかないと思う。勤めがあったときには連休ならその連休は休むことにしていたが、そういう意味では今のほうが忙しいかもしれない。
昨日も朝食後だったか、町内の人が来られて、妻と長く話をして帰った。そのMさんは話が長いと妻がこぼしていたが、要するに夫のことをこぼしていたらしい。
世の中の老人は年をとると、することがなくなって、暇を持て余すらしい。私も老人の一人だが、そういうことは感じたことがない。
たぶん、自分の健康が大丈夫なかぎり、退屈をすることはないだろう。することはいくらでもある。別に人に相手をしてもらって時間つぶしをする必要などまったくない。もっとも自分が健康を損ねたあとはどうなるかはわからない。
友人の元大学教授がいるが、彼は最近はハーモニカで音楽の演奏を老人の集まりとかでしてあげるというふうにして時をすごしているらしい。いっとき、オカリナ演奏をしたりしていたが、若いときに親しんだハーモニカ演奏にかえったという。
なにはともあれ、元気にかつ有意義に老年を過ごしていると聞けば、しあわせなことである。
今月の雑談会のために、Eさんが「アメリカ出張の記憶」という小文を書いてくれた。ところがなかなかそれを読んで意見を述べる時間がなかったのだが、ようやく今日時間をとって、文章の修正箇所をメールで届けた。
たぶん、アメリカの事情を私が知らないためにEさんのまとめてくれた文章を理解できないんだろうと思った。
特に、車線変更という箇所がなんだか反対のことを言っているようでわからない。もっともEさんがアメリカ滞在をしていたのはもう25年前のことである。
しかし、私たちの経験しないことを話を聞いて、知るのはやはりいつでも興味がわく。
イスラエルのハラリという学者のインタビュー記事が今日の朝日新聞に出ていた。
ハラリによると、20世紀は「ファシズム、共産主義、自由主義」の3つの物語があって、物語としてのファシズムがまず滅び、つぎに共産主義が滅び、そして21世紀の前半のいま物語としての自由主義が滅びようとしているという。
ところが、AIの普及とともに私たちの気づかない間に独裁政治になる可能性が高くなっているという。これはGAFAの隆盛を見れば、ある程度予想できるのではないか。
要するに、私などがAmazon.comで本を探すと、すぐに次の日には検索された本がお勧めの書として私のもとに提示されるといったように、密かに個人のデータを蓄積した企業なり、政治団体なり政治権力が私たちをビッグ・データとかによって知った情報をもとに支配するということができるようになっている。
このことのちょっとした想像の延長上に今の社会があるということを示している。
長周新聞とは聞いたことのない新聞だが、知られた新聞なのかもしれない。その記事を岡本さんという記者が9月16日の「今こそ武谷三男」という講演会の報道と川嶋みどりさんの講演内容を報道した記事を長周新聞のウエブサイトに載せている。
優れた記事であるので、多くの人に読んでもらいたいと思っている。
https://www.chosyu-journal.jp/shakai/13179
である。
ただ、別にケチをつけるつもりでは毛頭ないが、3箇所まちがい、または、誤解を招きそうな箇所をみつけたので、直接、岡本さんにメールしておいた。簡単にウエブの記事が修正できるのかどうかはしらない。
それにしても優れた報道記事であることはまちがいがない。
昨日から徳島科学史雑誌の論文の執筆に帰った。
そのためにメール上で議論されたことを読み返そうとしている。この議論の発端を開いたのは館野淳さんである。
昨日は岩波新書『原水爆実験』を部分的に読み返していた。
私はこの書がなかなか優れた書であると思い始めた。許容量という概念の分析もそうだが、それだけではなく科学的な詳細もなかなか立派だと思い始めた。
「頭を使うとくたびれる?」のだろうか。昨日は「数学・物理通信」9巻6号の発行で忙しかったから、夕食後にテレビを見ていたら、そのうちに知らずと眠ってしまった。
気が付いたのは夜中の1時ころでそれで歯を磨いて寝たのだが、朝まで気がつかないくらいぐっすりと寝てしまった。
「いま武谷三男?」とかいう講演会のyoutubeを3時間ほどかけてみたからであろうか。その後で「数学・物理通信」9巻6号の発行をした。
以下は武谷史料研究会会員の八巻さんのメールである。youtubeのアドレスが出ている。関心のある方はyoutubeの画像をぜひ見てください。
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昨9月16日に,武谷三男史料研究会主催の初めての講演会「今なぜ武谷三男なのか-その思想と現代の諸問題-」
の実施状況がUPLANのご協力でyoutubeに公開されましたので,お知らせします.
第1・2部 https://youtu.be/q5oMsxsb6uo
第3部 https://youtu.be/9J88-0Pj6R8
なお当日は,150名近くの参加者があり,席が足りなくなる盛況でした.
ご参加いただいた方には心より感謝申し上げます.
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