物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

WeingutとWeinberg

2020-02-29 16:49:31 | 日記
WeingutとWeinbergとはどちらも似たようなものだが、少し古い辞書にはWeingutの方はブドウ園と訳語がついており、Weinbergはブドウ畑と訳がついている。

Weingutはワイナリーと訳語をつけているかもしれない。英語ならvineyardだろうか。それを辞書で引いてみたら、ブドウ園という訳語もあったが、ワイン工場との訳もついていた。

ワイナリーを念のために広辞苑で引いてみたら、葡萄酒醸造所とあった。およその意味は分かるが、なかなかきちんとわからないのが私の困ったところであった。

ワイナリーはwineryとあった。これは英語らしい。



売れない作家

2020-02-29 12:54:27 | 日記
売れない作家がいるということは聞いているが、そういう人の生き甲斐を聞いてみたい。

いや、私は小説を書くわけではないが、売れない作家のようなものだ。文章はかなり書くのだが、それが誰かのためになっているという実感はまったくない。

だから、売れない作家さんがどういう気持ちで作品をかいているのか好奇心で知りたいという気がしている。

佐伯泰英さんはいまでは有名作家だが、写真家として出発したとか聞く。そしてはじめはあまり売れなかったとの述懐をどこかで読んだ。それでもかれは結局文庫本の書下ろしで当てたから、今では有名作家のひとりであろう。

「居眠り磐音」シリーズでも有名であり、NHKの時代劇にもなった。

「加法定理の導出いろいろ」を具体化する

2020-02-28 11:24:19 | 数学
「加法定理の導出いろいろ」を具体化することを当面の仕事にしたい。

これは先日書いた池内仁史さんの10個ほどの導出法に加えてあと2、3つに導出法を文献中に見つけているから。

私の書いた昔のエッセイをはじめとして、つぎに池内さんの文献に追加とか再編していきたいと思っている。

図をたくさん描かなければならないので、容易な仕事ではない。しかし、いつかはやるべき仕事だと思っていた。

タレントの林先生の十八番のセリフではないが、それがいまなのだろう。





『ピタゴラスからオイラーまで』を半分くらい

2020-02-27 12:32:43 | 数学
『ピタゴラスからオイラーまで』を半分くらい読んだ。

もっとも夜のテレビなどを見る時間を割いての読書だから、あまり進まない。

日曜日は一日読み時間があるが、それでもある程度読むとその日は読み気がおきなくなる。

読み方はてんで順序通りではない。後ろから読んだり前に行ったりのジグザグに読んでいる。どこから読んでもわかるからであるが、一番最後の章のオイラーを部分的に読んだのがたぶん最初ではないかと思うが、この章はまだ読み切っていないから、読んだことにはしていない。

それで、一番初めは弧度法という章からはじめたことになる。全体で12章の本だから、6章くらいを読んだことになる。いまは第2章の三角比のところを読んでいる。

卑劣なやり方

2020-02-26 15:52:20 | 日記
「ウイルスをしかけるぞ」「後悔しない前に960ドルを払え」というような脅しのメールが英文で来る。

それも私の知り合いをもまきこんで脅すようなやりかたで。私が困るかもしれないが、どうしてもそういう脅しに屈するわけにはいかない。

第一、そういうことでいくらか所得を得たとしてもそれで楽しいであろうか。まっとうに働いて収入を得るほうが楽しいに決まっている。すくなくとも健全である。

私がその人に何かを言う機会は多分ないだろう。自分で一人で反省してもらうしかない。人に言われて反省するのでは十分ではなかろう。

自分の知的な大きな才能を悪いことに使わないでほしい。いくら一時的にお金をもうけるとことができたとしても。







加法定理の導出いろいろ

2020-02-25 10:19:20 | 数学
「加法定理の導出いろいろ」といタイトルではないが、それに相当した論文が書かれていることを知った。

これは池内仁史(ひとし)さんという埼玉の高校の先生が書かれたものである。たぶん数研出版の雑誌「数研通信」に導出法が紹介されている(注1)。

ただ、まだくわしくよんでいないが、それにまだ私の知った導出法を2つか、3つ付け加えることができるだろう。

私が小著『数学散歩』(国土社)に「加法定理の証明いろいろ」書いたときには4つくらいしか紹介できなかったが、いろいろ導出法はたくさんあるものだ(注2)。

たとえば、Eulerの公式による加法定理の導出はそれを導くときに加法定理を使っているから、循環論法であるという議論もある。もっともこれは加法定理を使わないでもEulerの公式を導出できるという議論もある。

私はEulerの公式による導出も、ある種の記憶法ということでこれも意味があるという立場である。

(注1) この池内さんの論文は決定版的であるので、まだ何かすることは残っていないという見方はあるだろう。

(注2) 「加法定理の証明いろいろ」は『数学散歩』(国土社、2005)に掲載されたが、これを愛数協の機関誌「研究と実践」に掲載したのは『数学散歩』の出版をさかのぼること10年の1995年9月であった。愛数協は数学教育協議会の下部団体である。

3月が近づいてきた

2020-02-24 11:47:27 | 日記
3月が近づいてきた。

ということは、また「数学・物理通信」の発行が近づいて来たということである。10巻から編集者になってもらう S さんからはすでに原稿は用意してあるとは連絡をかない前にもらっている。

私も一つは原稿を用意できたが、3月のためにはもう一つまたは二つの原稿を用意しなくてはいけないだろう。

つい最近になって以前に書きかけの数学エッセイを一つ見つけた。これはまだ図の入力が必要だが、文章はかなりできていた。こういう文章を書いていたということも自分では忘れていた。

以前には図の入力はとても身構えてしなければならかったが、最近ではかなり容易に入力できるようになった。そのことは文章をかくことにおいて気を軽くするのに大きく貢献している。



予定調和で思い出したが、

2020-02-22 13:31:38 | 日記
予定調和で思い出したが、大学院のセミナーで場の量子論を学んだとき、あまりにも理論がうまくいきすぎているように感じた。

だから、予定調和という感じをもったことがあるのは、今回がはじめてではない。

もっとも量子電磁気学はともかく、そのころはまだ、量子色力学も電弱理論もまだできてはいないころのことである。

だから、私の学んだ先生方はそのころ悪戦苦闘されておられたので、予定調和との考えはあまりにも単純と思われたであろう。



加法公式の謎

2020-02-22 12:36:46 | 数学
加法公式の謎というほどでもないが、三角関数のcos 関数の加法公式はよく知られているように、

  \cos (A+B)= \cos A \cos Bー\sin A \sin B

である。 一方、sin関数の加法公式は

  \sin (A+B)=\sin A \cos B+\cos A \sin B

であるから、sin関数の加法公式は\sin A \cos Bと \cos A \sin Bとが足し合わさっており、+の記号でつながれている。ところが、、cos 関数の方は

\cos A \cos Bー\sin A \sin B

となっており、\cos A \cos B+\sin A \sin Bとはなっていない。それで私などはどうも対称性を欠くという気がする。

ところが、複素数の極表示では

         e^{iA}e^{iB}=e^{i(A+B)}    (Eulerの公式)

から

  \cos (A+B)+i \sin (A+B)
  =(\cos A+i \sin A)(\cos B+i \sin B)
       =(\cos A  \cos Bー\sin A \sin B)+i (\sin A \cos B+\cos A \sin B)

となるので、この複素数の極形式から、加法公式を導くことができるのだが、それだけではなく、後世になって考案された、複素数の虚数単位 i^{2}=ー1を平面幾何ではすでに予期していたかのように思われるのはとても不思議である。

なんというのか表現を知らないが、予定調和とでもいうのだろうか(注)。

(注) 予定調和という語の意味をあまり詳しく知らなかったので、辞書を引いてみたら、「世界の秩序は、神があらかじめ定めた結果だとする説。ライブニッツが唱えた」とあった。

いや、単純に神様が世界の秩序を定めたなんて考えをとらない私だが、それでも虚数単位 i の基本的性質を加法公式のところで反映するようになっていたと知ったときには、不思議な感じをもった。



ハレルヤ

2020-02-21 10:57:07 | 日記
「ハレルヤ」とはどう意味だったろうか。

これは最近私も関心をもった米津玄信さんのパプリカの曲の中に

パプリカ 花が咲いたら
晴れた空に種を蒔こう
ハレルヤ 夢を描いたなら
心遊ばせあなたにとどけ

とある。それでハレルヤの意味が気になった。

妻にその意味を尋ねたところ、彼女も忘れていたが、スマホで検索してくれた。

ハレルヤは「神を賛美せよ」とかいう意味であり、神への賛美
や感謝の言葉であるとあった。

しかし、ここでは日本語の音との類似性を指摘しておくべきだろう。
一行上に

晴れた空に種を蒔こう

とある。音をはっきりさせるために、ここをローマ字で表すと

hareta sorani tanewo makou

である。その一行下のハレルヤをこちらもローマ字で表せば、

hareruya

となる。これは音の類似性をかけたある種の掛詞(かけことば)
であろう。

意味は続いているようでもあり、続いていないようでもある。

 


余弦定理と正弦定理

2020-02-20 11:50:44 | 数学
『ピタゴラスからオイラーまで』の「余弦定理と正弦定理」の章を昨夜寝る前に読んだ。ほぼ読んだが、全部この章を読み終わっているわけではない。

三角形のある角が鋭角のとき、鈍角のとき、直角のときを分けて余弦定理を丁寧に説明をしている。図が豊富なので、理解に困ることはほとんどない。

その後で正弦定理のところも読んだ。正弦定理がある円に内接する三角形と関係がある定理であり、その比がそれらの三角形の内接する円の直径に等しいことが直観的にわかった。

私はあまり平面幾何学の知識がないので、前にもこのことは他の学習参考書で読んでいたと思うが、今回よくわかった。

平面幾何をあまり高校のときには学ばない学年で私はあった。私の一学年下からは平面幾何も高校の数学の時間に学ぶようになったが、その境目の学年である。

初等的な物理学にも平面幾何の知識が必要になるので、その後最小限のことは自分で自学自習した。



パプリカ

2020-02-19 12:26:19 | 日記
「パプリカ」は米津玄信さんの歌で、曲でもある。

その歌詞をこのブログでも紹介したいと思っていたが、著作権の問題もあるだろうから、部分的な紹介にここではとどめておく。

これは妻がこのパプリカの曲をキーボードで弾いてみようと思って楽譜を買ったのだが、難しくてあきらめたといういわくつきである。曲自身はいい曲だと思う。
孫がこの曲にしたがって踊っていたので、この曲を知った。

パプリカ 花が咲いたら
晴れた空に種を蒔こう
ハレルヤ 夢を描いたなら
心遊ばせあなたにとどけ

喜びを数えたら あなたでいっぱい
帰り道を照らしたのは
思いでのかげぼうし 

会いに行くよ 並木を抜けて
歌を歌って
手にはいっぱいの 花を抱えて
らるらりら
(作詞 米津玄師)

これを読むと若者の恋の歌とも思われる。だから、心に響くのかもしれない。

もっとも詩であるから、論理的にいうと変だということになる。何がどういう風に論理的につながっているのかあまりよくはわからない。

そういう屁理屈を言うようでは、詩の鑑賞にはたえられないのであろう。

加法公式(定理)の導き方いろいろ

2020-02-19 11:49:56 | 数学
先日、加法公式の導出法がいろいろあると、このブログで書いたと思う。あれから他の本を見たら、また別の導出法が2つほどあった。

一つはちくま学芸文庫に収められている、『高等学校における基礎解析』にあった。
もう一つは『大道を行く高校数学』(現代数学社)にあった。いずれもまったく導いているところに目を見張った。

これで、最低6つの方法での加法公式の導出があることになる。それで、現在すぐにする仕事として、昨日のブログで書いた「三角関数」のコンテンツを先に書くか、それともこちらの加法公式の導出についてのエッセイを優先するかの問題がある。

昨日は「三角関数」のコンテンツを先に書くつもりでそれにとりかかっていたが、ちょっと考えてみる必要がある。




三角関数

2020-02-18 15:56:07 | 数学
三角関数のe-Learningのコンテンツをつくるというのが当面私のしたい仕事であるが、これについて試験的に18ページほどのwordの文書を自分で書いていたことを発見した。

そして、それをlatexの文書として書き換えようとしていたこともわかった。もっともこちらは未完成である。

wordの文書も図の挿入はされていなかったので、自分で手書きの図が一部入っていたりした。そしてそれにごく一部ではあるが、演習問題もつけていた。

だから、三角関数のe-Learningとして1からはじめるということではないらしい。だが、ほとんど1から始めるということに等しいであろう。

数と量との分離

2020-02-18 11:22:57 | 数学
現在、数学では量と数とは同じものではないという認識は一般的である。

数と量とをごちゃにする人はいない。ところが古代ギリシャの幾何学では数は線分の長さと切り離されたものとはみなされなかったという。

数自身はすなわち線分の長さだと思われていたという。a+abなどという数式があれば、これはa*1であるとしか考えられなかったという。

a+abはすなわちa*1+abとしか考えられなかったという。この呪縛からはじめて逃れることのできた人がデカルトであるという。

そういう意味ではデカルトはさすがに偉い人だと思う。同時代人のフェルマーは古代ギリシャの見解から離れることができなかったというから、どれくらいデカルトが賢い人だったのかわかるような気がする。

これは『ピタゴラスからオイラーへ』(海鳴社)を読んで知ったことだが、その説明がどうもよくわからない。

そこには三角形の相似比のことが書かれてあるのだが、それがなぜ数と量とが分離できた理由なのかということがわからない。

それで数学史の本を取り出してきて、そのことの説明があるかどうかを探してみた。
これに関係がありそうな話は武隈良一『数学史』(培風館)にちょっと出ていて、古代ギリシャ時代には同次式以外には代数式は意味をなさないという風な記述がある。

デカルトはa^{3}でもb^{2}でも足し算ができるとしたらしい。もっともa^{3}はaの立方、b^{2}はbの平方といった言葉遣いはそのまま残したらしい。

それらはいずれも線分の長さとしたという。だから、線分の長さを止めたという『ピタゴラスからオイラーへ』の説明はちょっと十分ではないと思われる。

a^{3}でもb^{2}でも線分の長さだが、a^{3}が立方体を表すとか、b^{2}は正方形の面積を表すといった考えを止めたということらしい。

しかし、現在の数学教育ではa^{3}は一辺がaの立方体と考えたり、b^{2}を一辺がaの正方形と考えたりして、式をイメージするという方法も補助的には使われている。

そこらへんは適宜、融通無碍に用いて、文字代数の演算にイメージを持たせることは有効であると思う。

デカルトの大英断から一部ではあるが、あともどりしているところはないでもない。
これはしかしあくまで教育的な配慮からされていることである。