物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

昔書いたエッセイ

2018-11-30 13:32:36 | 日記

を数学・物理通信の最近号に再掲載したいために、そのエッセイの参考文献に入れようとしてファインマンの『ご冗談でしょう、ファインマンさん』(岩波書店、1986)を取り出してきた。引用しようとした箇所を探そうとして、ちょっと読んでみたらなかなか面白くて、仕事場にくるのが30分ほどおくれてしまった。

ファインマンのドラム仲間のレイトンがファインマンの語りを書き留めたかものが本になったのだが、それでもなかなかかなかの筆力で本人が書いたかのような臨場感がある。

いまから考えると、この本の翻訳が出たのは1986年のことで社会主義の崩壊が起こった1989年もその近くまで来ていた。

それだからおもしろいということではないだろうが、やはり時代の反映ということもあるだろうか。

現在では上記のファインマンの自伝も岩波書店の現代文庫版で読むことができる。子どもが高校生のころ、読んで腹を抱えて笑っていたが、私も同様であった。


規格の統一

2018-11-30 12:39:56 | 日記

製品をつくるときに同種の製品を競合各社がつくることがある。そのときに各社で規格が統一されていないために共倒れになることがある。

万年筆のカートリッジもその一つでもあった。はじめセーラーをつかっていたが、これをいつかパイロットに切り替えたが、前のカートリッジが使えない。それで嫌気がさして、結局万年筆は使わなくなった。

有名なのはビデオの方式である。ソニーのベータマックスのほうがビデオとしては優れていたが、その方式を公開しなかったとかで、ほかのメーカーのVHS方式に世界での規格競争に敗れて、いまではVHS方式がいきわたっている。

こんなことを思ったのはトイレの芳香剤であるが、これが前に使っていたものと規格がちがうのである。規格の統一をしないといつか他社との競合に負けてしまうかもしれない。

マーケットが小さいので、あまり問題が大きくないが、規格の統一は大きな問題であることはまちがいがない。


Je peux visiter ?

2018-11-29 11:55:56 | 日記

はジュ プー ヴィジテーとでも発音するのだろうか。どこかを訪問するみたいだが、これが誰かの家を訪れて、その家の中を見て回りたいときに言うフランス語である。

別にこの表現をおかしくも思わなかったのだが、よく考えるとvisiterという言葉は英語のvisitだとすると、やはりこういう時に使えるのかと疑問に思わないでもない。

これは外国人とつきあいができるとよく家の中を案内してくれたりする。私たちはそういう習慣があるということを知っておく必要がある。そういうことは外国人には自宅にお客を呼んだときには、普通のもてなしの仕方なのだが、これはあまりそいうことをどこかで書物で読んだりしたことはない。


分岐点

2018-11-28 10:55:39 | 日記

についてのエッセイを書いている。もっともこれは以前書いた同タイトルのエッセイの改訂版である。

しかし、全く異なったエッセイといってもよい。以前のエッセイの文章はほとんど使っていない。この話題について触れることが、まだ残念ながら必要なのである。

複素解析では私はいつもいうように「分岐点の定義」と「解析接続」が大事だと思っていて、それについて詳しく書きたいと思いながら、解析接続についてはまったく果たせていない。

解析接続を例を挙げて説明したいと思っているのだが、それを「解析接続の方法」とタイアップして説明をしたいと思っている。

いくつかの解析接続の方法の名前をあげた書はあるのだが、それが具体的な説明が欠けているのだ。


On n'a jamais qu'une seule grande id'ee dans sa vie.

2018-11-27 12:32:33 | 日記

これはどう読んだらいいのか。オンナ ジャメー キュンヌ スル グランディデェ ダン サ ヴィーとでも読めようか(カタカナの発音はフランス語に不案内な人へのヒントであるから、フランス語のお得意な方は読み過ごしてほしい)。意味は「人はその生涯にせいぜい一つの大きなアイディアをつかむのみである」である。

これはLouis de Broglieのobituaryとして故高林武彦が物理学会誌に書いたエッセイのはじめの引用である。

de Broglieは電子の波動性を提唱して、量子力学の一つの形式の波動力学の端緒をつくった学者であるが、波動力学の完成にはSchr"ondingerによる寄与が大きい。

量子力学史書によれば、電子の波動性をde Broglieは提唱したが、そこには波動方程式もでてこず、その論文を紹介することをSchr"odingerに頼んだ、Debyeはその論文を原始的な論文だと評した言われている。

しかし、誰もde Broglie以前にはそういう電子の波動性を考えた人はいなかったのだから、やはりその発想は独特で天才的である。

タイトルの文章はde Broglieが自分の80歳の記念の会で述べたと高林さんは書かれている。de Broglieによれば、これはBergsonの言だという。

物理学を学んだ人ならば、量子力学の形式は行列力学とか波動力学とかはたまた経路積分による定式化だとかあるのを知っているが、そのうちの波動力学はその数学的な近づきやすさのために大いにその普及に力があった。

ファイルキャビネットの一番下の引き出しを開いてそこにあるを書類を引きだしてみたら、このような高林さんの書いたL. de Broglieのobituaryのコピーが出てきた。これもなにかの縁かもしれない。

 


ratatouilleラタトゥイユ

2018-11-26 11:49:26 | 日記

今年の年末の雑談会の懇親会はラタトゥイユをつくることにほとんど決定した。

これはNHKの「旅でフランス語」でラタトゥイユをつくるのを見たからである。今朝、妻のスマホでそれをつくっている映像を見た。

つくり方はそれほど面倒ではないが、手間がかかるという感じだが、それはしかたがない。新鮮な「いろものの」野菜があり、オリーブオイルとロリエとかがあれば、できる。

肉が入っていないので、妻には不評だが、ほかに焼き肉とかといっしょに食べれば問題はない。

私の持っている古い仏和辞典だとラタトゥイユは「まずいスープ」という訳がついていた。

もっとも新しい辞書にはどういう訳がついているか、まだ調べていない。刑務所とか軍隊で出されたごった煮のスープが起源であるらしい。

いまではニース料理の定番で名物料理となっているらしい。

新しいフランス語の仏和辞典Le Dicoを引いたら、「まずいスープ」という意味は古語となっていた。訳語としてはラタトゥイユとなっている。

古い仏和辞典というのは私が学生のころには一番いい辞書だといわれた鈴木信太郎編の『仏和辞典』(大修館)である。だが、それからでも50数年を経て,「まずいスープ」という用法は過去のものとなった。

(注)rataとは「ごった煮」という意味で、touillerは「かき混ぜる」という意味だという。混ぜるということを意味する動詞としてはmelanger(メランジェ)という語が普通の言葉としてある。この語は料理などでもよくつかわれる。


古いエッセイを

2018-11-24 12:23:05 | 日記

昨日は書き換えていた。「分岐点の定義」というタイトルの数学エッセイである。はじめて書いたのは日付が残っている通りだとするれば、1996.9.12である。もう20年以上も前のものである。

もっとも2003.10.1と2004.1.12に少し書き換えたり、追加を加えたりしている。今回の改訂はこの2004.1の追加の部分を拡大した書き換えである。

何人かの批判的で、頭脳明晰な読者をもったはずだが、特に異論は貰っていない。ただ、自己流の理解だからもっと頭脳明晰な方からの批判はありうるであろうか。

そのことはいつでも自説を展開するときには覚悟をしなければならない。およそ完成したが、まだ完全にできあがっているわけではない。

今年中に発行する「数学・物理通信」に掲載できればいいと考えている。

 


『なっとくする群・環・体』

2018-11-23 11:53:06 | 日記

での章のサブタイトルがなかなかいいと昨日書いたが、今日はその本を持ってきたので、紹介しておこう。

第2章 群ーー似ているものをひっくるめる理論

第3章  環ーー整数と多項式とはおんなじだという理論

第4章 体 代数方程式論と符号論の土台

また

第1章 集合・関数と初等整数論ーーすべての基礎は整数にあり

である。

うまくサブタイトルをつけていると思いませんか。

 


図書館に本を返却した

2018-11-22 12:15:19 | 日記

今日までが借用期限であったが、今日は夜にはドイツ語のクラスがあるので、本を返しに行った。『数学ガール』ーガロア理論ー(ソフトバンク・クリエイティブ)である。最後まで一通りは読んだが、読んだと言えるとは思わない。

またいつか再度借りて読む必要がある。ようやくラグランジュの解の置換えの仕事の重要性が分かりかけてきたくらいである。

金重明さんの『ガロア理論』(岩波書店)は延長であったので、また借りて来た。それに山本直樹さんの『複素関数論の基礎』(裳華房)を再度借りてきた。これは最近の複素解析の本としては出色の成功した書であるから、もう一度読みたいと思った。

野崎昭弘『なっとくする群・環・体』(講談社)が目に留まったのでこれも借りて帰った。なかなか書きぶりは数学者らしくてちょっとなじめないな感じだが、章のはじめのサブタイトルはなかなかよかった。

これはひょっとしたら、編集者のアイディアかもしれないが、これはいいと思う。いま手元にこの本をもっていないので、それをあげることができないのは残念である。


加法定理はどのように導入するか

2018-11-21 12:45:03 | 日記

余弦定理をつかって加法定理を証明するのが最近の高校数学のテクストの定番であろうか。

だから、加法定理を導く前には余弦定理を導かないといけない。そこで高校数学という枠をはずして、ベクトルの内積を定義して、それから余弦定理を導くのが自然である。

それで加法定理が導かれれば、たいていの三角関数の公式は導ける。こういう風にすれば、いわゆる三角関数の還元公式も加法定理の範疇に入れることができる(注)。

高校数学という枠をはずすと、いろいろテーマを扱える。de Moivreの定理とかEulerの公式とかも扱える。もっともそのためには三角関数のTaylor展開をつくる必要もある。そのためにはsinとかcos関数の導関数を導いておく必要もあろう。

(注)三角関数の還元公式とはいわゆる余角公式とか補角公式とか言われているものと、それに類似の公式のことである。

昔、私が高校で三角関数を学んだところでは加法定理にはこの還元公式が必要だった気がするが、今このことはさだかではない。

 


一昨日と昨日は

2018-11-21 12:21:03 | 日記

結局、なにもしなかった。いろいろ世間的の用があると自分の仕事にはならない。

月曜日には拡大雑談会を開いて、10数人のお客を仕事場に受け入れた。その影響をうけて昨日はまったく元に戻らない。

それでしかたなく、自分のいままでに書いた数学エッセイのリストを補充した。前に書いた数学エッセイの改訂版をつくるとかの重複はとても多いのだが、2018年9月末現在で171編になる。

もっとも重複がとても多いから、独立な話題は100編を超えないであろう。私はあまり研究的ではなく、教育的であるから、学問的にはあまりオリジナリティはない。

しかし、教育は毎年全世界のいたるところで、何回も繰り返して行われることであるので、それをすこしでも効率的にすることは大いに意味があると考えている。

しかし、これだけたくさんのエッセイを発表してみてもどうもあまり体系的にはなっておらず、全体系の部分的な箇所をぽつぽつ点としての寄与しかしていない。それで、なかなか連続した帯とか線にはなっていない。


三角関数で何を学んだらいいか

2018-11-20 12:48:41 | 日記

「三角関数で何を学んだらいいか」を考えることをしたい。

前にe-Learningのコンテンツをつくったことがあるが、このときに三角関数については扱わなかった。

だれでも三角関数を扱った本ではあるきまった内容があるのだろうが、それを多くの文献から選りだすことが必要になったことはなかった。

以前につくった「数学ミニマム」では三角関数についてはあまり多くは扱わなかった。しかし、今度は「数学ミニマム」ではなく、e-Learningのコンテンツみたいなものを考えている。

すなわち、e-Learningのコンテンツに対応した1冊の書籍の準備をしたい(これは印刷したものではなく、電子書籍をイメージしている)。

このe-Learningのコンテンツは三角関数の部分がないときでもある出版社がかなり一生懸命に出版を考えてくれたのだが、そのときにはまだ三角関数の章が欠けていたのと入力がlatexでされていなかった(この点はほぼ1年後のいまではwordのままでもいいかもしれないと思う。人生は有限だということを勘案すれば。)。

それがお勧めをお断りした大きな理由であった。その数年引き延ばしてきた計画への復帰をひそかに目指している。

もっとも三角関数について書く、いいアディアはまだない。

(2019.11.21付記)  すでに1年前にはe-Learningのコンテンツの拡充を目指していたことがわかる。構想はe-Learningのコンテンツからはなれた、別の本である。だが、いまでは、それの一部の原稿はあるが、完成をしたと思うにはまだまだほど遠い。三角比の起源とか、三角関数の技術的な応用とか物理的な応用とかのテーマがまだまったく書かれていないから。

ラグランジュ・レゾルベント

2018-11-19 10:08:53 | 日記

の説明を『数学ガール ーガロア理論ー』(ソフトバンク・クリエイティブ)で昨日読んだ。ガロアの数学的天才は言われているが、それを用意したラグランジュの発見を見逃すべきではない。

代数方程式を解くとは解をその代数方程式の係数で表すことだが、それを転じて解の交換と深い関係があると発見したのはラグランジュであった。

3次方程式についてはこのことを示してあるが、4次方程式についてはあからさまに示したものを読んでいない。だから、3次方程式のみならず4次方程式についても解の交換との関係をあからさまに示したものを知りたい。

いま、図書館で借りているのは上記の『数学ガール』数日来、書いている金重明『ガロアの数学』(岩波書店)である。

解の交換をしたら、符号が変わることが本質的ということを金さんの書から知った。この金さんは作家だというのに数学にめっぽう強いという変わり種である。

 

 


ちょっとだけ理解が前進した

2018-11-17 13:01:40 | 物理学

昨夜、金重明『ガロアの数学』(岩波書店)の第3章の「ラグランジュ・群・体」の章の初めのほうを読み直してここがやっと理解できた。

書き方を省略しているわけではなかろうが、先日読んだときには理解ができなかった。わかりやすいように私なりに書き換えてみたいと思っている。

また、これを読んで4次方程式のときも同じように考えたらいいのにと思ったが、それについてこの書の後のほうに書いてあるのかどうかはわからない。あまり書いてなさそうである。

どうも肝心のところではないところでひっかかってしまっていた。

昨夕近くにこれは別のことだが、疑問が出てきてわからないなと思ったことがあった。それは散乱問題での実験室系と重心系での速度についてである。

重心系では弾性散乱の前後で粒子の速さは変わらないが、一方中性子の重水での散乱では重水の原子核に中性子があたって,減速される。そして高速中性子から熱中性子に変わっていく。これとの関係がどうなっているのかわからなくなった。

それぞれの事実はまちがいがないのだが、その関係がどうなっているのかという点に疑問が出た。計算で確かめたわけではないが、つぎのようになっているのであろうか。

すなわち、実験室系では確かに中性子の減速が起こっているのだが、これを重心系でみると、中性子の速度は散乱の前後で変わらないのであろうか。まだ半信半疑である。


ドイツ語が嫌われるわけ

2018-11-16 12:43:39 | 日記

がないなどとは思っていない。これは私自身の体験に基づいてもわかる。英語を学んでそのあとにドイツ語を第2外国語として学んだのだが、これはまったくもってわからなかった。

それでいつも言うのだが、「ドイツ語を分かる人はどんな頭のよい人なんだろう」と勝手に思っていた。

そういう時が2年ほど続いた。大学院に行こうかと思い出したのは大学3年のことであったが、そのころは英語以外に第2外国語の試験があった。それでしかたなくNHKのラジオのドイツ語放送を聞き始めた。

そのころは朝の時間帯にしか放送がなかったと思うが、だいたい朝に弱いのに朝起きて聞く羽目になった。そのころはいまよりも教え方がしっかりしていて、ドイツ語の特徴としての文章の枠構造を十分に意識して教えられていた。

それで、「ああドイツ語は英語とは動詞の位置がちがうのだな」とようやくわかった。最近ではNHKのラジオとかテレビの放送でもその点はあまりしっかり教えないのは教え方の退歩ではないかと思っている。

一時は不定詞句の中で動詞が一番最後にあるのが、ドイツ語の特色だが、その動詞の部分が主語の性、数に応じて変化して、これが定動詞して文章の2番目の要素としてくる。そしてその定動詞以外の不定詞句の部分は文末に残ると教えるようになった。しかし、最近はそういうこともあまりあからさまには教えなくなった(注)。

もちろん、きちんと毎回放送を聞いていれば、そういうことはどこかで講師の先生が話をしてはいるのだが、どうもそういう点が私がドイツ語を学び始めたころよりは、おろそかになっている。

もう英語全盛の時代だから、ドイツ語学、文学者が昔みたいに一生懸命に学生にドイツ語を教えることをやってみてもせいがないとでもいうのだろか。

実際に初歩のドイツ語を教えている先生方の率直な考えを知りたい。

(注)今晩友達と映画に行く heute abend mit einem Freund ins Kino gehen という不定詞句がある。このとき、ドイツ語では 行くという動詞が不定詞句の最後に来ている。

それがたとえば、彼女 Sie がと主語がきまれば、

Sie geht heute abend mit einem Freund ins Kino.

彼女は今晩友達と映画に行く

となる。一番最後にあった不定詞のgehenは主語が決まったので、gehtと変化して、文の2番目の要素にくる。定動詞第2位の原則である。

主語以外のものが文頭に出ることもある。

Heute abend geht sie mit einem Freund ins Kino.

となっても定動詞のgehtは文章の第2位の位置に来ている。語としてはHeute abendの次だから第3番目の位置であるが、意味上heute abendは一つの塊として文の要素としては一つと数えるので、定動詞の第2位の原則は守られている。

Mit einem Freund geht sie heute abend ins Kino.

もありである。このときもMit einem Freundは文の要素としては一塊である。

(注)ドイツ語の特徴として、二つ挙げられる。一つはこの本文で述べた文章の枠構造(der Rahmenbau)である。もう一つは冠飾句(das Linkattribute)である。

こちらはあまり初歩の段階では出てこないし、書き言葉で主に出てくるので、こちらも大きな問題ではあるが、あまりドイツ語を学ぶときの直接的な障害とはならないであろう。

もちろん、どういう格変化語尾がつくのかの原理は知っていることは前提とされるではあろうが、実際にドイツ語を話すときにはなかなか正しくは話せないのが、現状である。慣れるしか方法はない。

(注)上で書いた用語のLinkattributeは『独和辞典』(郁文堂、1990)にも載っていない。Rahmenbauのほうはもちろん載っているが。